数日前。
深夜のハメねこの部屋では、ゲームの耐久配信が続いていた。開始からすでに六時間。画面の中では次のボス戦が始まろうとしており、コメント欄も普段より流れが速い。
《ここから本番》
《あと何時間やるんだ》
《朝までコース?》
「朝まではやらないって。たぶん」
ハメねこは笑いながらコントローラーを握り直した。
配信としては悪くない。むしろ、かなりいい。視聴者数もまだ落ちておらず、ここで席を立つのは少し惜しかった。
ただ、一つだけ問題がある。
さっきから、かなりトイレへ行きたい。
一時間ほど前から気づいてはいた。その時はまだ余裕があり、次の区切りで行けばいいと思っていたのだが、イベントが始まり、それが終わった頃には今度はボス戦が来た。
《急に静か》
《どうした》
《集中してる?》
「いや、普通普通」
普通ではなかった。
かなり行きたい。
ハメねこは画面端の視聴者数を見る。まだ多い。ここで数分抜けるのは、やっぱり惜しい。
「……あと一戦」
《フラグ》
《それ三十分前にも言ってた》
《耐久配信者のあと一戦は信用するな》
「今回はほんとだから」
足を組み直した。
良くならなかった。
むしろ悪化した。
それでもボス戦が始まれば、途中では抜けられない。敵の攻撃を避けながら、頭の片隅ではずっと別のことを考えていた。
倒したら行く。
絶対行く。
今は離れたくない。
そんな時、机の横に転がっていた空のペットボトルが目に入った。
「…………」
いや。
さすがにそれはない。
モニターへ視線を戻す。
十秒後。
また見る。
空だった。
口も広めだった。
「…………」
《また黙ってる》
《眠い?》
《一回休憩したら?》
「ちょっと待って」
ボスを倒したハメねこは、すぐに配信画面を切り替えた。
《少々お待ちください》
《休憩きた》
《トイレか》
《いってら》
マイクをミュート。カメラも切る。
しかし、ハメねこは椅子から立ち上がらなかった。
代わりに、机の横の空ペットボトルを手に取る。
誰も見ていない。
音も入らない。
配信も止まらない。
トイレまで行く必要もない。
効率だけで考えれば、かなり合理的だった。
その判断基準が正しいかどうかは、別の話である。
◇
数分後、配信画面がゲームへ戻った。
「お待たせ」
《おかえり》
《トイレ長かったな》
《ちゃんと水飲め》
ハメねこは何事もなかった顔でコントローラーを持つ。
「トイレは行ってない」
《?》
《??》
《じゃあ何してた》
《怖い》
「ちょっとね」
机の下には、さっきまで空だったペットボトルが置かれていた。
中身は黄色い。
視聴者には見えない。
なら、とりあえず問題はない。
そういうことにした。
◇
問題は、一度成功してしまったことだった。
次の長時間配信でも、途中でトイレへ行きたくなった。机の横には、ちょうど空のペットボトルがある。
一回やった。
今さら二回目だけ駄目という理由もない。
そう思ってしまった。
二回目。
三回目。
そのうち、配信前に飲み終えたペットボトルを捨てず、机の横へ置いておくようになった。
用途が変わっている。
《今日も長いな》
《トイレ休憩しないの?》
「大丈夫」
最近は本当に席を立たなくなった。
配信者としては便利だった。
生活としては、かなり終わっていた。
もちろん、最初から溜めるつもりはない。
終わったら捨てる。
あとで捨てる。
今日は疲れたから明日。
どうせならゴミの日にまとめて。
そして忘れた。
気づけば部屋の隅には、黄色い液体の入ったペットボトルが何本も並んでいた。薄いもの、濃いもの、ほとんど透明に近いもの。
長時間配信の記録だけなら、ずいぶん充実している。
見返したい記録ではなかった。
「……今度捨てよ」
ハメねこはそう呟き、視線を逸らした。
その「今度」が来る前に。
氷川角子が、配信機材を見に来ることになった。
◇
休日の午後。
角子は約束通り、ハメねこの部屋を訪れていた。
「適当に入って」
「お邪魔します」
ハメねこは軽く手を振り、自分は先に部屋の奥へ戻っていく。角子も靴を脱いで中へ入ると、まず目に入ったのはマイクや照明、モニター、キャプチャーボード、それに何本ものケーブルだった。
スマートフォンと小さな三脚が中心の自分の撮影環境とはかなり違う。機材の配置もきれいで、配線もそれなりにまとめられていた。
「やっぱり本格的ですね」
「まあ、配信するならこれくらいはね」
ハメねこは少し得意そうだった。
「マイクもいいですね」
「それ、結構高いやつ」
「お酒一本より高いですか?」
「比較対象そこなの?」
角子は値段を想像して少し考える。酒に換算すると分かりやすい。だいたい何本分だろう。
「今度、私もマイク買おうかと思ってるんです」
「先に電子レンジ買い替えた方がいいと思うけど」
「まだ動きますよ」
「火花出るやつを『動く』に入れないで」
角子は聞こえなかったことにして、モニター周辺へ視線を戻した。
ハメねこは私生活こそ怪しいところがあるが、配信関係だけなら自分よりずっとしっかりしている。
少し参考にしよう。
そう思って部屋の端へ目を向けたところで、視線が止まった。
「…………」
壁際に、ペットボトルが何本も並んでいる。大きさも銘柄もばらばらで、その中にはどれも黄色っぽい液体が入っていた。
麦茶にしては色が薄い。スポーツドリンクにしては容器が統一されていないし、酒にしては置き方が雑すぎる。
「……これ、何ですか?」
ハメねこの動きが止まった。
「何が?」
「そこのペットボトルです」
「…………」
返事がないので、角子は近くの一本へ手を伸ばした。
「触らないで!」
思った以上の声量だった。
角子はすぐに手を引っ込める。
「はい」
触れてはいけないものらしい。
ただ、それだけでは正体が分からない。
「保存してる飲み物ですか?」
「違う」
「お茶?」
「違う」
「お酒?」
「もっと違う」
候補がどんどん減っていく。
角子はもう一度、黄色いペットボトルを見る。飲み物ではない。しかし液体で、それが大量に保存されている。
「掃除用の水とか?」
「違う」
「何かの配信用?」
「違う」
「じゃあ――」
その時、玄関の扉が開いた。
「何してるにゃ?」
ヤニねこだった。
「ヤニねこ、人の部屋勝手に入らないでよ」
「開いてたにゃ」
「閉めてたけど」
「開いたにゃ」
「開けたんでしょ」
ヤニねこは返事をせず、そのまま部屋へ入ってくる。角子の隣まで来たところで壁際のペットボトルに気づき、ぴんと耳を立てた。
「ジュースいっぱいあるにゃ」
「あっ」
ハメねこの顔色が変わる。
ヤニねこは一番近くにあった一本へ手を伸ばした。
「一本もらうにゃ」
「飲むな!!」
ハメねこが飛びつく勢いで止める。
「なんでにゃ」
「駄目だから!」
「いっぱいあるにゃ」
「量の問題じゃない!」
角子は二人を見る。飲ませたくない。触らせたくない。飲み物でもない。
ここまで来ると、だいぶ候補は絞られていた。
「……もしかして」
ハメねこが角子を見る。
「言わないで」
「まだ何も言ってませんよ」
「顔が言ってる」
「そうですか?」
「分かった顔してる」
角子はペットボトルへ視線を戻した。黄色い液体。元飲料容器。異常なほど触らせたがらない。
「これ、尿ですか?」
「言った!」
ヤニねこがペットボトルを見て、次にハメねこを見る。
「ションベン?」
「その言い方やめて!」
ハメねこはしばらく黙っていた。逃げ道を探している顔だったが、壁際には逃げ道以上の本数が並んでいる。
「……ゲーム配信してた時、途中でトイレ行きたくなって」
「行けばいいにゃ」
「配信中だったの!」
「トイレ行けばいいにゃ」
「だから途中で抜けたくなかったの!」
「漏らす方が嫌にゃ」
「漏らしてない!」
そこは重要らしい。
「その時、たまたま空のペットボトルが近くにあって」
「使ったんですか?」
「……一回だけ」
角子は壁際を見る。
一回では説明できない量だった。
「全部?」
「…………全部」
少し沈黙。
ヤニねこが一歩下がった。
「汚いにゃ」
ハメねこの顔が引きつる。
「お前にだけは言われたくない!」
「部屋にションベン溜めたことないにゃ」
「比較対象が低すぎる!」
角子も、そこはヤニねこ側だった。
ヤニねこが衛生面で他人へ引いている。それだけで、かなりの異常事態である。
「最初は一回だけだったんだけど、やってみたら配信止めなくて済むし」
「便利だったんですね」
「そう。便利だったの」
角子は少し頷きかけた。確かに席を立つ必要はなく、配信も止まらない。理屈だけなら効率的ではある。
ただ、その効率化の結果が壁際に並んでいる。
「で、一回やったら次もやって、捨てるの面倒で……気づいたらこうなった」
「そうですか」
角子には少しだけ分かるところもあった。
後で片づけよう。後で捨てよう。後で整理しよう。
そう思って置いた物が、そのまま一週間残ることなら自分の部屋でもよくある。
ただし、中身が尿ではない。
そこはかなり大きな違いだった。
ヤニねこがしゃがみ込み、ペットボトルを観察し始める。
「これ、濃さ違うにゃ」
「見るな!」
確かに違う。角子もつい見てしまった。
薄い黄色から濃い黄色まで差があり、ほとんど透明に近いものもあれば、かなり色の強いものもある。
「結構違いますね」
「角子さんまで!?」
「水分量でしょうか」
「分析しないで!」
「酒を飲んだ日とか色違うのかにゃ?」
「知らない!」
「でもこれ薄いにゃ」
「指差すな!」
ヤニねこは完全に面白がっていた。
「これは?」
「見るなって言ってるでしょ!」
「ハメねこの体調日記にゃ」
「最悪な名前つけるな!」
角子は一通り眺めたところで結論を出した。
「捨てた方がいいと思います」
「……今日?」
「今日の方がいいですね」
「明日じゃ駄目?」
「明日になると、たぶんまた捨てないので」
ハメねこが黙った。
角子も人のことはあまり言えない。
だからこそ分かる。
明日やる、という言葉が本当に明日を指していることは、あまりない。
「今やりましょう」
「角子さん手伝ってよ」
「換気はしますよ」
「処分は?」
「本人がやった方がいいと思います」
「急に正論」
「私がやると、また溜めそうなので」
「……それは否定できない」
処分作業が始まった。ハメねこが大きなゴミ袋を用意し、角子は窓を開ける。
ヤニねこは何もしない。
「ヤニねこも手伝ってよ」
「ニャーのションベンじゃないにゃ」
「さっきまで面白がってたじゃん」
「見るのと片づけるのは別にゃ」
それはヤニねこらしい理屈だった。
ハメねこが一本ずつペットボトルを持ち上げる。
「……重い」
「結構入っていますね」
「言わないで」
角子は少し離れた場所から見守った。全部やってあげるつもりはない。自分で溜めたものは、自分で処分した方がいい。
主に、今後また同じことをさせないために。
数本片づけたところで、ヤニねこが一本持ち上げた。
「これも捨てる?」
「全部!」
「もったいないにゃ」
「何が!?」
ヤニねこはペットボトルを眺める。
「まだいっぱい入ってるにゃ」
「中身に価値ないから!」
「水分ではあるにゃ」
「何考えてるの?」
ヤニねこは答えず、そのまま一本を持って立ち上がった。
「それ、どこに持っていくんです?」
「大家にあげるにゃ」
ハメねこが止まる。
「は!?」
「暑そうだったにゃ」
「それ飲み物じゃないって聞いたよね!?」
「水分ではあるにゃ」
「さっきも言った!」
角子も止めた。
「飲ませるのは駄目だと思いますよ」
「大丈夫にゃ」
「何が大丈夫なんです?」
「大家、丈夫にゃ」
「身体の強さの問題じゃないです」
ヤニねこはペットボトルを抱えたまま離さない。
嫌な予感しかしなかった。
「置いてください」
「一本だけにゃ」
「一本でも駄目です」
「じゃあ行ってくるにゃ」
「話聞いてた!?」
ヤニねこが逃げた。
速かった。
普段は飯を取りに行く三歩すら面倒くさがるのに、こういう時だけ妙に速い。
「追いますよ」
「当然!」
角子とハメねこも部屋を飛び出した。
◇
一階では、大家が外の共用部分で作業をしていた。気温は高く、額には少し汗を浮かべている。
ちょうど手を止めたところへ、ヤニねこが駆け寄った。
「大家」
「何?」
「これやるにゃ」
黄色い液体の入ったペットボトルを差し出す。
大家が少し驚いた。
「珍しいな。気が利くじゃないか」
ヤニねこから何かを無償でもらえる。それだけで十分珍しい。
大家は何の疑いもなくペットボトルを受け取った。
少し遅れて、角子たちが階段を下りてくる。
「大家さん、それ――」
角子の声が届いた時には、もう大家の手がキャップへかかっていた。
あ。
少し遅かった。
きゅっ、とキャップが開く。
大家はそのまま口へ運んだ。
一口。
「…………」
ヤニねこが言った。
「それ、ハメねこのションベンにゃ」
「――ぶっ!!」
大家が盛大に吹き出し、黄色い液体が地面へ散った。
「飲んだ!?」
ハメねこが叫ぶ。
角子も足を止めた。
ヤニねこだけが楽しそうだった。
「飲んだにゃ」
大家は手にペットボトルを持ったまま、しばらく固まっていた。口元から液体が垂れている。
やがて本当にゆっくりと顔を上げ、ヤニねこを見る。
「…………お前」
「何にゃ?」
「なんでそんなもん渡した!」
怒鳴り声が響いた。
「水分補給にゃ」
「尿で水分補給する奴がいるか!」
「飲んだにゃ」
「お前が飲ませたんだろ!」
「ニャーは飲めって言ってないにゃ」
「飲み物みたいに渡しただろ!」
「ペットボトルに入ってたにゃ」
「お前が入れたわけじゃないだろ!」
大家の怒りは次にハメねこへ向いた。
「そもそも、なんでこんな物があるんだ?」
「それは……配信中に、トイレ行くの面倒で……」
「トイレ行け!」
「一回だけのつもりだったんだけど」
「何本あるの?」
ハメねこが黙る。
「何本?」
「……いっぱい」
「捨てろ!」
「今捨ててたところ!」
「全部!」
「分かってる!」
大家は今度は角子を見る。
「氷川さんもいたんだよね?」
「いました」
「止めなかったの?」
「止めました」
ヤニねこが横から口を挟む。
「大丈夫って言ったにゃ」
「私は言ってません」
角子はすぐに訂正した。
「『飲ませるのは駄目』と言いました」
「じゃあ、なんでここまで来た?」
「ヤニねこが思ったより速くて」
大家は一瞬だけ黙った。
「……足だけは速いんだよな」
「ニャー、運動できるにゃ」
「今自慢するな!」
大家はペットボトルを地面へ置き、口元を袖で拭った。顔色はかなり悪い。
「とにかく……水……」
口を押さえたまま外の水道へ向かい、蛇口をひねる。
じゃー。
水を口へ含む。
ぶくぶく。
ぺっ。
もう一度。
じゃー。
ぶくぶく。
ぺっ。
さらにもう一度。
かなり念入りだった。
角子は少し離れた場所から見ていた。隣には死んだような顔をしたハメねこ、そのさらに隣にはヤニねこが立っている。
大家はまだ口をすすいでいた。
じゃぶじゃぶ。
ぶくぶく。
ぺっ。
「…………」
ヤニねこが首を傾げる。
「大家、まだ飲んでるにゃ」
大家が勢いよく振り返った。
「すすいでるんだよ!」
休日のコーポ大谷へ、今日一番の怒鳴り声が響いた。
2026年9月7日 0時41分 呼称を修正しました。