新しい住人の部屋から、食べ物の匂いがしていた。肉とニンニク、それから唐辛子。酒とタバコの匂いまで混じっていたが、空腹のヤニねこには大した問題ではない。
食べ物の匂いがする。
それだけで十分だった。
ヤニねこは隣の扉の前に立ち、軽く拳を当てる。
こん、こん。
「…………」
返事はない。
待つ気もなかったので、ドアノブへ手をかけた。
回らない。
「珍しい……鍵かかってるにゃ」
このアパートでは、かなり珍しかった。
本当に珍しい。
ヤニねこはしばらくドアノブを握り、隙間から開かないか何度か押してみる。当然、開かなかった。
今度は扉へ鼻を近づける。唐辛子とニンニクの刺激が鼻へ入り、その奥から煮えた肉の匂いがした。
腹が鳴る。
「用心深いやつだにゃ……!」
自分の部屋へ戻ろうとしたものの、三歩で止まり、また扉の前へ戻ってきた。
こん、こん。
「おーい」
返事はない。
こんこんこんこん。
「いるにゃー?」
まだ開かない。
ヤニねこは扉の横にある呼び鈴へ目をつけ、指を伸ばした。
ぴんぽん。
ぴんぽん、ぴんぽん。
ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。
「少々お待ちください」
扉の向こうから、落ち着いた声が返ってくる。
「いたにゃ」
さらに呼び鈴を押そうとしたところで、中から何かを引きずる音がした。
「今、手が離せないので、少しだけお待ちください」
「食い物あるかにゃ?」
「あります」
ヤニねこは呼び鈴から指を離し、その場へ座り込んだ。
待つことにしたらしい。
数十秒後、鍵の開く音がする。
「お待たせしました」
扉の向こうに立っていたのは、昨日引っ越してきた猫の獣人だった。長い髪は下ろされ、上半身には「酒命」と書かれたゆるいTシャツ。昨日の落ち着いた服装とは違ったが、声と表情は変わらず穏やかで、片手には菜箸を持っている。
扉が開いた途端、室内にこもっていた刺激臭が廊下へ流れ出した。
ヤニねこは目を細める。
角子も、目の前の猫を見た。
めちゃくちゃヤニ臭い。
風呂も洗濯も、しばらくしていないのだろう。服にも髪にも毛にも、タバコの匂いが染み込んでいる。
もはや半分くらいヤニでできていた。
煙に変身できる、ロギア系のヤニヤニの実の能力者かもしれない。
「目にくるにゃ」
「換気扇は回しています」
「そうじゃなくて、あれ食えるかにゃー?」
ヤニねこは角子の顔ではなく、肩越しに部屋の奥を見ていた。
畳の中央には炊飯器。その隣には、真っ赤な煮込みが入った内釜が置かれている。表面には油が浮かび、汁の中から肉と白菜が顔を出していた。
見た目はかなり怪しい。
匂いはうまそうだった。
「食べられますよ。引っ越し祝いに作ったものですが、少し余っています」
「ちょうだいにゃ」
「どうぞ」
自己紹介はなかった。
角子も聞かなかった。
ヤニねこは開いた扉の横を抜け、そのまま部屋へ入る。「お邪魔します」は言わない。
昨日まで何もなかった部屋には、まだ段ボールが積み上がっていた。衣類や寝具の箱は閉じられたままで、代わりに酒瓶と調味料だけが外へ出されている。
畳の中央には調理器具、灰皿、空になった一味唐辛子の袋、スマートフォン用の三脚。油の染みの上には、空袋が一枚置かれていた。
ヤニねこは見なかった。
見ても、たぶん気にしなかった。
「器を用意しますね」
「これでいいにゃ」
ヤニねこは内釜を指した。
「直接ですか?」
「洗い物が増えるにゃ」
もちろん、自分が洗うわけではなかった。
角子から箸を受け取ると、ヤニねこは畳へ座り、内釜から赤い汁の絡んだ肉を拾った。
「熱いので気をつけてください」
「もう冷めてるにゃ」
そのまま口へ入れる。
「あつっ」
肉を落とさず、口の中で何度か転がして飲み込んだ。
「うまいにゃぁ……」
「よかったです」
もう一口。
今度は白菜とニラをまとめて口へ運ぶ。
「辛いけど、普通にうまいにゃ。久しぶりのごちそうだにゃぁ」
角子は少しだけ黙った。
普段、何を食べているのだろう。
聞くのはやめた。
昨日、大量の唐辛子と調味料を入れて作られた料理だったが、食べられない味にはなっていない。肉は柔らかく、野菜にも味が染みている。辛さの奥には味噌と醤油の濃い旨みがあり、酒の匂いも大半は飛んでいた。
角子は料理ができた。
途中でやめていれば、もっとよかった。
「少し味が薄くなっていますね」
角子が内釜を覗き込む。
「これでいいにゃ」
「昨日より野菜の水分が出ています。せっかくですから、少し味を整えましょう」
「ニャーは今食ってるにゃ」
「すぐ終わります」
角子は聞いていなかった。
醤油のボトルを持ってきて、ヤニねこの箸の横から内釜へ傾ける。
どぼどぼ。
「…………」
ヤニねこの箸が止まった。
「少し濃くします」
続いて、味噌を大さじですくう。
一杯。
二杯。
三杯。
「もう濃いにゃ」
「野菜から水が出ていますから」
角子が味噌を溶かしている間に、ヤニねこは沈められかけた肉を一本だけ救出し、口へ入れた。
「まだ食べられますよ」
「そうかにゃ」
「もう少しだけ待ってください」
今度は料理酒の瓶が出てきた。
「酒も入れるのかにゃ?」
「風味づけです」
どぼどぼどぼ。
「多くないにゃ?」
「煮れば減ります」
卓上コンロへ内釜が置かれる。本来、そのまま火へかけるための物ではなかったが、角子は気にしなかった。
点火。
赤い汁がぐつぐつと煮立ち、先ほどより強い匂いが部屋へ広がっていく。
ヤニねこは内釜を見つめた。
「食えるまで長いにゃ」
「すぐですよ」
「そういえば、おみゃー見ない顔だにゃー」
料理を待って、ようやく相手の顔を見た。
角子は火加減を確認しながら、軽く頭を下げる。
「今日から隣に越してきた、氷川角子です。一応、会社員をしています」
「会社員」
「はい」
「何歳にゃ?」
「二十九です」
「じゃあ、ニャーより人生の先輩にゃ」
「年齢だけなら、そうなりますね」
「よろしくにゃー。ええと……」
ヤニねこは角子の顔を見たまま止まった。
「名前、何だったにゃ?」
「氷川角子です」
「難しいにゃー」
名字も名前も、聞いた直後だった。
角子は少し考え、煮立つ内釜を菜箸で混ぜる。
「それでしたら、カラカラねことでも呼んでください。動画では、たまにそう呼ばれています」
「カラカラねこかにゃ?」
「はい」
「おおー。分かりやすいにゃ。カラカラねこ、よろしくにゃー」
「こちらこそ、よろしくお願いします。ええっと……」
今度は角子がヤニねこを見る。
「ニャーのことは、ヤニねことでも呼べばいいにゃ」
「分かりました。ヤニねこ先輩」
「…………先輩?」
ヤニねこの耳が立った。
「私より先に、このアパートへ住んでいますから」
「そうにゃ。ニャーは先輩にゃ」
背筋まで少し伸びた。
「この辺りのことは、ニャーに任せるにゃー!」
「頼りにしています」
「タバコが安い店と、金なくても何とかなる店なら知ってるにゃ。あと、あの大家は雑に扱ってもいいにゃ」
「そうなんですね。参考にします」
角子は火加減を見ながら、穏やかに頷いた。どこまで参考にするつもりなのかは分からない。
ヤニねこ先輩は満足そうに胸を張る。
役に立つ情報は、まだ一つもなかった。
内釜の中身が再び強く煮立つ。
角子は火を止め、菜箸で肉を一つ取り出した。
「味見をします」
小皿へ移し、少し冷ましてから口へ入れる。
「…………」
「どうにゃ?」
「まだ少し薄いですね」
「さっきより濃いにゃ」
「もう少しだけ、旨みを足します」
白い粉の入った詰め替え袋が出てきた。
ヤニねこは袋を見て、内釜を見て、角子を見る。
「それは何にゃー?」
「旨み調味料です」
「食える?」
「祖父も使っていました」
「じゃあ食えるにゃ」
判断が早かった。
角子が袋を傾けると、中で固まっていた粉が一度に落ちる。
ざあっ。
「多いにゃ」
「少し固まっていました」
「戻せる?」
「難しいですね」
「じゃあいいにゃ」
ヤニねこは諦めた。
角子は内釜をよくかき混ぜ、もう一度だけ火へかける。汁は煮立つにつれて赤黒くなり、表面へ油が浮いた。
換気扇だけが働いている。
「できました」
「食うにゃ」
ヤニねこは待ちきれずに箸を入れ、肉を一つ持ち上げた。
息も吹かずに口へ入れる。
「あつっ」
また熱かった。
それでも落とさず、そのまま飲み込む。
「どうですか?」
「うまいにゃ。さっきより濃い」
「よかったです」
「あと辛いにゃー」
「身体が温まりますよ」
「酒もあるかにゃ?」
「あります」
角子は段ボールの上へグラスを置き、ロックアイスを入れた。続いて業務用の角瓶を持ち上げ、八割ほどまで酒を注ぐ。
「濃くないかにゃ?」
「普通です」
残った隙間へ、炭酸水が少しだけ足された。
ヤニねこはグラスを受け取り、一口飲む。
「喉も熱いにゃー」
「身体が温まっていますね」
「そうかもしれないにゃー」
ヤニねこは納得した。
濃い酒で辛さを流し込みながら、再び箸を動かす。肉、白菜、ニラ、玉ねぎ。赤黒い汁まで残さず食べ続けた。
角子は隣でタバコを吸いながら、その様子を眺める。
「よく食べますね」
「朝から何も食ってないにゃ」
「もう夕方ですが」
「金ないにゃ」
「そうですか」
角子は灰皿へ灰を落とし、少しだけ考えた。
「次からは、お腹が空いたらもう少し早く来てください。食べられるものが残っていれば出しますので」
「毎日来てもいいのかにゃ?」
「残っていれば、です」
「だいたい残しといてくれにゃ」
「それは約束できません」
無料の食事処にはならなかった。
ヤニねこは最後の肉を口へ運び、内釜に残った赤い汁まで直接飲み干す。
「ごちそうさまにゃ」
「お粗末さまでした」
満足そうに腹を撫でたヤニねこは、すぐに空の内釜を覗き込んだ。
「もうない?」
「今ので全部です」
「残ってないにゃ?」
「作り置きなら、別の物が少しありますよ」
角子は立ち上がり、部屋の隅に置かれた小型冷蔵庫を開ける。
中には、肉や野菜より先に酒瓶が並んでいた。缶のハイボール、炭酸水、ロックアイス。調味料の横にも小さな酒瓶が横たわり、食材は奥の狭い場所へ押し込まれている。
ヤニねこの目が動く。
「酒いっぱいあるにゃ」
「ありますね」
「料理、持って帰っていい?」
「もう食べ切りましたよ」
「じゃあ、酒でもいいにゃ」
「食べ物を探していたんじゃないんですか?」
「酒も飲めるのにゃー」
角子は冷蔵庫の中を見て、それからヤニねこを見る。
「一本だけですよ」
「やったにゃ」
ヤニねこが立ち上がろうとしたところで、腹の奥が大きく動いた。
「…………」
笑顔が消える。
「どうしました?」
「腹が熱いにゃ」
「辛い物を食べましたから」
「なんか、さっきより痛いにゃ」
角子は冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した。
「お水、飲みます?」
「酒がいいにゃ」
「では、少し薄めますか?」
「さっきのも薄くなかったにゃ」
角子は水と冷蔵庫の酒を見比べる。
「炭酸水を多めにすれば大丈夫かもー」
「たぶん今は酒じゃないにゃ」
ヤニねこにも、それくらいは分かった。
もう一度、腹が鳴る。
今度は空腹の音ではなかった。
「…………ニャー、帰るにゃ」
「お酒は?」
「あとでもらうにゃ」
ヤニねこは酒を受け取るより先に立ち上がり、腹を押さえて部屋を飛び出した。
数秒後、隣の部屋から扉の閉まる大きな音が響く。
角子は開いたままの冷蔵庫の前で、しばらく隣の壁を見ていた。やがて物音も止まり、部屋には換気扇の音だけが残る。
それから、しばらくして。
アパート中へ悲鳴が響き渡った。
「また下痢が止まらないのにゃー!」
角子は隣の壁を見る。
「……また?」
壁の向こうから、ヤニねこの声が続いた。
「もう激辛は懲り懲りにゃー!」
角子は内釜の底へ残った赤い油を見る。
「もう少し味を濃くしてもよかったかもー」
反省する場所は、そこではなかった。
カラカラねこは元ネタさん同様に、獣人では珍しい正社員での会社員をやっています。なのでこのアパートでは収入は安定している方ですね。
しかし、全部、業務用の角瓶や高級な食材、タバコ、謎の料理動画に使い切ってしまっています…