ヤニねことカラカラねこ   作:きのこ大三元

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一応、カラカラねこはヤニねこの隣の部屋に住んでいる設定です。



第1話 隣から食べ物の匂いがするにゃ

 新しい住人の部屋から、食べ物の匂いがしていた。肉とニンニク、それから唐辛子。酒とタバコの匂いまで混じっていたが、空腹のヤニねこには大した問題ではない。

 

 食べ物の匂いがする。

 

 それだけで十分だった。

 

 ヤニねこは隣の扉の前に立ち、軽く拳を当てる。

 

 こん、こん。

 

「…………」

 

 返事はない。

 

 待つ気もなかったので、ドアノブへ手をかけた。

 

 回らない。

 

「珍しい……鍵かかってるにゃ」

 

 このアパートでは、かなり珍しかった。

 

 本当に珍しい。

 

 ヤニねこはしばらくドアノブを握り、隙間から開かないか何度か押してみる。当然、開かなかった。

 

 今度は扉へ鼻を近づける。唐辛子とニンニクの刺激が鼻へ入り、その奥から煮えた肉の匂いがした。

 

 腹が鳴る。

 

「用心深いやつだにゃ……!」

 

 自分の部屋へ戻ろうとしたものの、三歩で止まり、また扉の前へ戻ってきた。

 

 こん、こん。

 

「おーい」

 

 返事はない。

 

 こんこんこんこん。

 

「いるにゃー?」

 

 まだ開かない。

 

 ヤニねこは扉の横にある呼び鈴へ目をつけ、指を伸ばした。

 

 ぴんぽん。

 ぴんぽん、ぴんぽん。

 ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。

 

「少々お待ちください」

 

 扉の向こうから、落ち着いた声が返ってくる。

 

「いたにゃ」

 

 さらに呼び鈴を押そうとしたところで、中から何かを引きずる音がした。

 

「今、手が離せないので、少しだけお待ちください」

「食い物あるかにゃ?」

「あります」

 

 ヤニねこは呼び鈴から指を離し、その場へ座り込んだ。

 

 待つことにしたらしい。

 

 数十秒後、鍵の開く音がする。

 

「お待たせしました」

 

 扉の向こうに立っていたのは、昨日引っ越してきた猫の獣人だった。長い髪は下ろされ、上半身には「酒命」と書かれたゆるいTシャツ。昨日の落ち着いた服装とは違ったが、声と表情は変わらず穏やかで、片手には菜箸を持っている。

 

 扉が開いた途端、室内にこもっていた刺激臭が廊下へ流れ出した。

 

 ヤニねこは目を細める。

 

 角子も、目の前の猫を見た。

 

 めちゃくちゃヤニ臭い。

 

 風呂も洗濯も、しばらくしていないのだろう。服にも髪にも毛にも、タバコの匂いが染み込んでいる。

 

 もはや半分くらいヤニでできていた。

 

 煙に変身できる、ロギア系のヤニヤニの実の能力者かもしれない。

 

「目にくるにゃ」

「換気扇は回しています」

「そうじゃなくて、あれ食えるかにゃー?」

 

 ヤニねこは角子の顔ではなく、肩越しに部屋の奥を見ていた。

 

 畳の中央には炊飯器。その隣には、真っ赤な煮込みが入った内釜が置かれている。表面には油が浮かび、汁の中から肉と白菜が顔を出していた。

 

 見た目はかなり怪しい。

 

 匂いはうまそうだった。

 

「食べられますよ。引っ越し祝いに作ったものですが、少し余っています」

「ちょうだいにゃ」

「どうぞ」

 

 自己紹介はなかった。

 

 角子も聞かなかった。

 

 ヤニねこは開いた扉の横を抜け、そのまま部屋へ入る。「お邪魔します」は言わない。

 

 昨日まで何もなかった部屋には、まだ段ボールが積み上がっていた。衣類や寝具の箱は閉じられたままで、代わりに酒瓶と調味料だけが外へ出されている。

 

 畳の中央には調理器具、灰皿、空になった一味唐辛子の袋、スマートフォン用の三脚。油の染みの上には、空袋が一枚置かれていた。

 

 ヤニねこは見なかった。

 

 見ても、たぶん気にしなかった。

 

「器を用意しますね」

「これでいいにゃ」

 

 ヤニねこは内釜を指した。

 

「直接ですか?」

「洗い物が増えるにゃ」

 

 もちろん、自分が洗うわけではなかった。

 

 角子から箸を受け取ると、ヤニねこは畳へ座り、内釜から赤い汁の絡んだ肉を拾った。

 

「熱いので気をつけてください」

「もう冷めてるにゃ」

 

 そのまま口へ入れる。

 

「あつっ」

 

 肉を落とさず、口の中で何度か転がして飲み込んだ。

 

「うまいにゃぁ……」

「よかったです」

 

 もう一口。

 

 今度は白菜とニラをまとめて口へ運ぶ。

 

「辛いけど、普通にうまいにゃ。久しぶりのごちそうだにゃぁ」

 

 角子は少しだけ黙った。

 

 普段、何を食べているのだろう。

 

 聞くのはやめた。

 

 昨日、大量の唐辛子と調味料を入れて作られた料理だったが、食べられない味にはなっていない。肉は柔らかく、野菜にも味が染みている。辛さの奥には味噌と醤油の濃い旨みがあり、酒の匂いも大半は飛んでいた。

 

 角子は料理ができた。

 

 途中でやめていれば、もっとよかった。

 

「少し味が薄くなっていますね」

 

 角子が内釜を覗き込む。

 

「これでいいにゃ」

「昨日より野菜の水分が出ています。せっかくですから、少し味を整えましょう」

「ニャーは今食ってるにゃ」

「すぐ終わります」

 

 角子は聞いていなかった。

 

 醤油のボトルを持ってきて、ヤニねこの箸の横から内釜へ傾ける。

 

 どぼどぼ。

 

「…………」

 

 ヤニねこの箸が止まった。

 

「少し濃くします」

 

 続いて、味噌を大さじですくう。

 

 一杯。

 二杯。

 三杯。

 

「もう濃いにゃ」

「野菜から水が出ていますから」

 

 角子が味噌を溶かしている間に、ヤニねこは沈められかけた肉を一本だけ救出し、口へ入れた。

 

「まだ食べられますよ」

「そうかにゃ」

「もう少しだけ待ってください」

 

 今度は料理酒の瓶が出てきた。

 

「酒も入れるのかにゃ?」

「風味づけです」

 

 どぼどぼどぼ。

 

「多くないにゃ?」

「煮れば減ります」

 

 卓上コンロへ内釜が置かれる。本来、そのまま火へかけるための物ではなかったが、角子は気にしなかった。

 

 点火。

 

 赤い汁がぐつぐつと煮立ち、先ほどより強い匂いが部屋へ広がっていく。

 

 ヤニねこは内釜を見つめた。

 

「食えるまで長いにゃ」

「すぐですよ」

「そういえば、おみゃー見ない顔だにゃー」

 

 料理を待って、ようやく相手の顔を見た。

 

 角子は火加減を確認しながら、軽く頭を下げる。

 

「今日から隣に越してきた、氷川角子です。一応、会社員をしています」

「会社員」

「はい」

「何歳にゃ?」

「二十九です」

「じゃあ、ニャーより人生の先輩にゃ」

「年齢だけなら、そうなりますね」

 

「よろしくにゃー。ええと……」

 

 ヤニねこは角子の顔を見たまま止まった。

 

「名前、何だったにゃ?」

「氷川角子です」

「難しいにゃー」

 

 名字も名前も、聞いた直後だった。

 

 角子は少し考え、煮立つ内釜を菜箸で混ぜる。

 

「それでしたら、カラカラねことでも呼んでください。動画では、たまにそう呼ばれています」

「カラカラねこかにゃ?」

「はい」

「おおー。分かりやすいにゃ。カラカラねこ、よろしくにゃー」

「こちらこそ、よろしくお願いします。ええっと……」

 

 今度は角子がヤニねこを見る。

 

「ニャーのことは、ヤニねことでも呼べばいいにゃ」

「分かりました。ヤニねこ先輩」

 

「…………先輩?」

 

 ヤニねこの耳が立った。

 

「私より先に、このアパートへ住んでいますから」

「そうにゃ。ニャーは先輩にゃ」

 

 背筋まで少し伸びた。

 

「この辺りのことは、ニャーに任せるにゃー!」

「頼りにしています」

「タバコが安い店と、金なくても何とかなる店なら知ってるにゃ。あと、あの大家は雑に扱ってもいいにゃ」

「そうなんですね。参考にします」

 

 角子は火加減を見ながら、穏やかに頷いた。どこまで参考にするつもりなのかは分からない。

 

 ヤニねこ先輩は満足そうに胸を張る。

 

 役に立つ情報は、まだ一つもなかった。

 

 内釜の中身が再び強く煮立つ。

 

 角子は火を止め、菜箸で肉を一つ取り出した。

 

「味見をします」

 

 小皿へ移し、少し冷ましてから口へ入れる。

 

「…………」

「どうにゃ?」

「まだ少し薄いですね」

「さっきより濃いにゃ」

「もう少しだけ、旨みを足します」

 

 白い粉の入った詰め替え袋が出てきた。

 

 ヤニねこは袋を見て、内釜を見て、角子を見る。

 

「それは何にゃー?」

「旨み調味料です」

「食える?」

「祖父も使っていました」

「じゃあ食えるにゃ」

 

 判断が早かった。

 

 角子が袋を傾けると、中で固まっていた粉が一度に落ちる。

 

 ざあっ。

 

「多いにゃ」

「少し固まっていました」

「戻せる?」

「難しいですね」

「じゃあいいにゃ」

 

 ヤニねこは諦めた。

 

 角子は内釜をよくかき混ぜ、もう一度だけ火へかける。汁は煮立つにつれて赤黒くなり、表面へ油が浮いた。

 

 換気扇だけが働いている。

 

「できました」

「食うにゃ」

 

 ヤニねこは待ちきれずに箸を入れ、肉を一つ持ち上げた。

 

 息も吹かずに口へ入れる。

 

「あつっ」

 

 また熱かった。

 

 それでも落とさず、そのまま飲み込む。

 

「どうですか?」

「うまいにゃ。さっきより濃い」

「よかったです」

「あと辛いにゃー」

「身体が温まりますよ」

「酒もあるかにゃ?」

「あります」

 

 角子は段ボールの上へグラスを置き、ロックアイスを入れた。続いて業務用の角瓶を持ち上げ、八割ほどまで酒を注ぐ。

 

「濃くないかにゃ?」

「普通です」

 

 残った隙間へ、炭酸水が少しだけ足された。

 

 ヤニねこはグラスを受け取り、一口飲む。

 

「喉も熱いにゃー」

「身体が温まっていますね」

「そうかもしれないにゃー」

 

 ヤニねこは納得した。

 

 濃い酒で辛さを流し込みながら、再び箸を動かす。肉、白菜、ニラ、玉ねぎ。赤黒い汁まで残さず食べ続けた。

 

 角子は隣でタバコを吸いながら、その様子を眺める。

 

「よく食べますね」

「朝から何も食ってないにゃ」

「もう夕方ですが」

「金ないにゃ」

「そうですか」

 

 角子は灰皿へ灰を落とし、少しだけ考えた。

 

「次からは、お腹が空いたらもう少し早く来てください。食べられるものが残っていれば出しますので」

「毎日来てもいいのかにゃ?」

「残っていれば、です」

「だいたい残しといてくれにゃ」

「それは約束できません」

 

 無料の食事処にはならなかった。

 

 ヤニねこは最後の肉を口へ運び、内釜に残った赤い汁まで直接飲み干す。

 

「ごちそうさまにゃ」

「お粗末さまでした」

 

 満足そうに腹を撫でたヤニねこは、すぐに空の内釜を覗き込んだ。

 

「もうない?」

「今ので全部です」

「残ってないにゃ?」

「作り置きなら、別の物が少しありますよ」

 

 角子は立ち上がり、部屋の隅に置かれた小型冷蔵庫を開ける。

 

 中には、肉や野菜より先に酒瓶が並んでいた。缶のハイボール、炭酸水、ロックアイス。調味料の横にも小さな酒瓶が横たわり、食材は奥の狭い場所へ押し込まれている。

 

 ヤニねこの目が動く。

 

「酒いっぱいあるにゃ」

「ありますね」

「料理、持って帰っていい?」

「もう食べ切りましたよ」

「じゃあ、酒でもいいにゃ」

「食べ物を探していたんじゃないんですか?」

「酒も飲めるのにゃー」

 

 角子は冷蔵庫の中を見て、それからヤニねこを見る。

 

「一本だけですよ」

「やったにゃ」

 

 ヤニねこが立ち上がろうとしたところで、腹の奥が大きく動いた。

 

「…………」

 

 笑顔が消える。

 

「どうしました?」

「腹が熱いにゃ」

「辛い物を食べましたから」

「なんか、さっきより痛いにゃ」

 

 角子は冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した。

 

「お水、飲みます?」

「酒がいいにゃ」

「では、少し薄めますか?」

「さっきのも薄くなかったにゃ」

 

 角子は水と冷蔵庫の酒を見比べる。

 

「炭酸水を多めにすれば大丈夫かもー」

「たぶん今は酒じゃないにゃ」

 

 ヤニねこにも、それくらいは分かった。

 

 もう一度、腹が鳴る。

 

 今度は空腹の音ではなかった。

 

「…………ニャー、帰るにゃ」

「お酒は?」

「あとでもらうにゃ」

 

 ヤニねこは酒を受け取るより先に立ち上がり、腹を押さえて部屋を飛び出した。

 

 数秒後、隣の部屋から扉の閉まる大きな音が響く。

 

 角子は開いたままの冷蔵庫の前で、しばらく隣の壁を見ていた。やがて物音も止まり、部屋には換気扇の音だけが残る。

 

 それから、しばらくして。

 

 アパート中へ悲鳴が響き渡った。

 

「また下痢が止まらないのにゃー!」

 

 角子は隣の壁を見る。

 

「……また?」

 

 壁の向こうから、ヤニねこの声が続いた。

 

「もう激辛は懲り懲りにゃー!」

 

 角子は内釜の底へ残った赤い油を見る。

 

「もう少し味を濃くしてもよかったかもー」

 

 反省する場所は、そこではなかった。




カラカラねこは元ネタさん同様に、獣人では珍しい正社員での会社員をやっています。なのでこのアパートでは収入は安定している方ですね。
しかし、全部、業務用の角瓶や高級な食材、タバコ、謎の料理動画に使い切ってしまっています…
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