遂にアニメも最終回ですね、寂しいです…
休日の夕方。
アルねこは、コーポ大谷の二階廊下をのんびり歩いていた。誰かへ会いに来たわけではない。少し外をぶらつき、そのまま自室へ戻る途中で、手にはコンビニ袋すら持っていなかった。飲み物なら部屋にまだあるし、今日は特に買い足すつもりもない。
そのまま自室まで戻るはずだった。
「……ん?」
途中で足を止め、アルねこは少し鼻を動かした。
酒の匂いがする。
それだけなら、このアパートでは珍しくない。自分の部屋から漂っている可能性すらあるし、最近は少し離れた部屋にも酒をよく飲む住人が増えたと聞いている。ただ、今日の匂いはそれだけではなかった。
焼いた肉に醤油、少し焦げた脂。その中へウイスキーの甘く尖った香りが混じっている。酒だけではなく、ちゃんと酒に合いそうな食べ物まで一緒にある匂いだった。
「……いい匂い」
気づけば、アルねこはそちらを向いていた。
数部屋先にあるのは、最近、新しい猫獣人が住み始めた部屋だ。名前だけならすでに何度か耳へ入っている。
カラカラねこ。本名は氷川角子。会社員で、料理をして、配信もして、かなり酒を飲む。
聞いた話の中には、酒瓶を溜めた、ハイボールが異様に濃い、料理へ酒を足そうとした、古い電子レンジから火花が出たなど、妙に偏った情報も混じっていた。それでもアルねこの中で一番印象に残ったのは、やはり酒を飲む人という部分だった。
かなり興味がある。
部屋の前まで来たところで、中から小さな音が聞こえた。
カラカラ。
氷が容器へ当たる音に、アルねこの耳がぴくりと動く。少しして、もう一度。同じ音の後には、炭酸が弾けるような小さな音まで続いた。
間違いない。
少なくとも、アルねこには酒の音に聞こえた。
迷う理由はほとんどなく、そのまま扉を叩く。
こん、こん。
「はい」
少しして扉を開けたのは、聞いていたより落ち着いた雰囲気の猫獣人だった。服装も髪も比較的整っていて、普通に見れば仕事のできそうな大人の女性に見える。
ただし、手には氷の入ったステンレスジョッキ。
アルねこの視線は、挨拶より先にそこへ吸い寄せられた。
「お酒飲んでる?」
「飲んでます」
「入っていい?」
「どうぞ」
会話はそれだけで足りた。
◇
部屋へ入れば、さっき廊下で嗅いだ匂いの正体はすぐに分かった。
テーブルには角瓶、炭酸水、氷。その横には甘辛く焼いた豚肉と玉ねぎが盛られていて、酒のために用意したのか、たまたま夕食が酒に合ったのかは分からない。アルねこにとっては、どちらでもよかった。
かなり居心地がよさそうだった。
角子が持っているのは、やはりハイボールらしい。ただし色はかなり濃く、炭酸で割ったというより、ウイスキーへ炭酸水を少し足したように見える。
「少し濃いめです」
本人はそう言った。
アルねこはジョッキの中を覗き込む。少しではない気もしたが、角子によれば、氷が溶ければちょうどよくなるらしい。
「ああ」
普通に納得すると、角子の耳がわずかに動いた。
同じ説明をした時、今までは大抵誰かに止められていた。薄くなったら薄いまま飲め、最初からそんなに濃くするな。そんな反応ばかりで、「氷が溶ける分を見越している」と説明しても、あまり理解は得られていない。
目の前の相手は、一回で通じた。
それだけで角子にとってはかなり話しやすかった。
改めて名乗り合う。
アルねこは酒井アル子。角子は氷川角子。カラカラねことも呼ばれている。
アルねこは、これまで聞いた噂を思い出しながら一つずつ確認していった。酒を飲む。料理をする。電子レンジから火が出た。
「火ではないです。火花です」
角子はそこだけ訂正した。
火花は出たが、火は出ていない。本人の中では重要な違いらしい。
アルねこは特に気にしなかった。それより、目の前の酒の方が気になる。
角子は普段、ハイボールをよく飲む。氷が溶けて少しずつ味が変わっていくのが好きで、炭酸は強め。ただし、入れすぎると薄くなるので量は少なめにする。
普通なら逆に考える気もする。
ただ、意味は分かる。
冷えすぎれば味が分かりにくくなる。大きい氷なら溶けにくい。最初から少し濃くしておけば、最後まで酒の味が残る。
角子も、自分の話がそのまま通じる相手が珍しいらしく、普段より少し口数が増えていた。初対面なのに、酒の話だけは前から知り合いだったように自然につながっていく。
「飲みます?」
「いいの?」
「はい」
それも、ほとんど迷わず決まった。
◇
角子は棚から新しいグラスを取り出し、氷を入れた。
カラカラ。
そこへウイスキーを注いでいく。とく、とく、とく、と一定の音が続き、アルねこは黙ってそれを見ていた。
まだ入る。
思っていたより長い。
「結構いくね」
「このくらいです」
角子にとっては、本当に普通らしい。問題は、その普通が他人の普通と一致しているかどうかだった。
最後に炭酸水を注ぐ。しゅわ、と泡が立ったものの量はかなり少なく、出来上がったグラスは角子のジョッキとほとんど同じ色をしていた。
アルねこが一口飲む。
「…………」
濃い。
炭酸の刺激が来たあと、間を置かずにはっきりとウイスキーが追いかけてくる。薄さで飲みやすくする酒ではなく、最初から最後まで酒の存在感を残す作り方だった。
「思ったより濃いね」
角子は少し不思議そうな顔をした。本人的には、やはりこれが普通の濃さなのだろう。
アルねこはもう一口飲む。濃いのは間違いないが、嫌いではない。むしろ、ちゃんと酒を飲んでいる感じがして悪くなかった。
そう伝えると、角子は少し満足そうにした。
濃いと言われることには慣れている。その後に「薄めろ」が続かなかっただけで、かなり評価が高い。
続けて、角子は肉料理も取り分けた。甘辛い豚肉に玉ねぎ。生姜は少し強く、味付けも濃い。普段より酒へ寄せたのか、たまたまそうなったのかは分からないが、アルねこにはちょうどよかった。
一口食べれば、すぐに酒が欲しくなる。
「これ、酒に合う」
「ですよね」
角子の耳がまた少し上がった。
酒が飲めて、つまみもある。しかも作っている本人も酒好きで、濃さについていちいち止めてこない。
かなり居心地がいい。
アルねこも、自分が普段飲んでいる酒について話し始めた。高い物ばかりではなく、手軽な物も多い。そのまま飲む日もあれば割る日もあり、割合はその時の気分で決める。
角子に何対何で割るのか聞かれても、そんなものは覚えていない。
「美味しければいいじゃん」
その結論には、角子もすぐ頷いた。
細かな基準は違っても、最後のところはかなり似ていた。
◇
アルねこは一度自分の部屋へ戻り、数分後には酒瓶を一本抱えて帰ってきた。同じアパートなので大した距離ではなく、角子も特に驚かない。
テーブルへ置かれた瓶を手に取ると、角子はまず種類を見て、次に度数、そのあとに値段を確認した。
見る順番が、妙に酒飲みだった。
今度はアルねこがグラスを作る。
角子ほど何かを考えているわけではない。酒を入れ、氷を入れ、少し水。その日の気分によっては炭酸も足す。分量は毎回適当で、美味しければそれでいい。
角子が一口飲む。
「飲みやすいですね」
するっと入る。
味も軽く、自分が普段作るハイボールとはだいぶ違っていた。
アルねこは、こういう酒が好きらしい。酒そのものの味も嫌いではないが、それ以上に飲んでいる時間が好きだった。
身体の中がふわっと緩み、細かなことが少しどうでもよくなって、まあ何とかなるかなと思えてくる。酒を飲んでいる間だけは、その曖昧な安心感に浸っていられる。
角子はグラスを眺めながら、その話を聞いていた。
自分とは少し違う。
角子は酒そのものの味もかなり好きだった。氷を入れた瞬間の音、炭酸を注いだ時に立つ香り、時間が経つにつれて水が混ざり、少しずつ変わっていく味。料理をしながら味見をして、それに合う酒を考える時間も好きだ。
それでも、仕事を終えて家へ戻り、氷を入れて酒を注ぐ時間そのものが好きなのは同じだった。
違うところもあるが、似ているところの方が会話には使いやすい。
だから話が続く。
角子は珍しく、自分から次々と話題を出していた。
酒について話しても変な顔をされない。濃すぎると止められない。飲み方を説明しても説教されない。
その環境が、かなり新鮮だった。
ヤニねこも酒は飲むが、あちらは無料かどうか、量が多いかどうかが先に来る。カンサイねこは飲む量を気にするし、大家は火事を気にする。妹ねこはそもそも酒を飲まない。
アルねこだけは、酒の話をそのまま酒の話として返してくれる。
かなり貴重な相手だった。
◇
しばらくして、また扉が叩かれた。
こん、こん。
「角子さん、いる?」
カンサイねこの声だった。
角子が扉を開けると、何か話しかけようとしていたカンサイねこの目が、そのまま室内へ向いて止まった。
テーブルには酒瓶が二本。角子とアルねこはそれぞれグラスを持ち、料理の皿と追加の氷、炭酸水、使い終わったグラスまで並んでいる。
酒宴と呼ぶほど大げさではない。
ただし、今日初めてまともに話した二人の部屋としては、かなり出来上がっていた。
「もう会うたん?」
「うん」
アルねこは普通に頷き、角子も同じような顔をしている。
二人とも、本当にただ普通に飲んでいるつもりらしい。
だからこそ、カンサイねこには余計に不安だった。
アルねこは何杯飲んだか覚えていないが、酔っていないから大丈夫だと思っている。角子はまだ二杯目だと言うが、その二杯は大きなステンレスジョッキで、しかもかなり濃い。
「氷も入っていますよ」
角子が補足する。
それで酒の量が減るわけではない。
カンサイねこはため息をついた。
角子が酒を飲むのは知っているし、アルねこが酒を飲むのも知っている。別々なら、それぞれ勝手に飲んで終わるだけだった。
問題は、その二人が同じテーブルへ座っていることだ。
片方が止め役へ回る未来がまったく見えないどころか、互いの変な基準を「分かる」で補強し始めている。
そこが一番危ない。
「これ、止めた方がええやつかな……」
小声で呟いたつもりだった。
「何をですか?」
角子には普通に聞こえていた。
妙なところで耳がいい。
「猫なので」
そう言われると、それ以上は何も言えなかった。
その時、玄関の向こうから足音が近づいてくる。
「何かいい匂いするにゃ」
嫌なほど聞き慣れた声だった。
ヤニねこが顔を出すと、視線は人ではなく、真っ先に料理へ向かった。
「やっぱり飯あるにゃ」
カンサイねこは呆れたが、角子はもう慣れたもので特に驚かない。
ヤニねこは次にカンサイねこを見て、最後にアルねこへ気づいた。人間関係より飯が先に来るあたり、優先順位がかなり分かりやすい。
アルねこも特に気にしなかった。
そのままテーブルへ近づき、少し残った料理を見つける。
当然のように欲しがり、角子は当然のように三百円を請求した。
百円。
三百円。
タバコ一本。
いりません。
いつもの交渉が始まり、いつものように成立しなかった。
ヤニねこの耳がしょんぼり戻る。
「厳しいにゃ」
「普通や」
カンサイねこが即座に切った。
アルねこは酒を飲みながら、そのやり取りを眺めていた。話には聞いていたが、本当に匂いだけで来るらしい。
「便利だね」
呼ばなくても来る、という意味だった。
ヤニねこは野良猫みたいに言うなと不満そうにした。家はあるらしい。
問題はそこではない。
結局、三百円を払わなかったヤニねこは料理を諦めた。ただし、帰りはしなかった。
畳へ座り込み、食べている様子をじっと見ている。
かなり嫌な見方だった。
角子が皿から肉を一枚取ると、ヤニねこの視線まで一緒に動く。
「見てるだけですよ」
「まだ何も言ってないにゃ」
顔が全部言っていた。
◇
その後も、角子とアルねこの酒談義は続いた。
氷は大きい方がいいのか、小さい方がいいのか。炭酸は強ければいいのか。塩気のあるつまみと甘い酒は合うのか。濃い酒と軽い酒では、どちらが長く楽しめるのか。
普段なら一つ話して終わるような内容が、今日は次から次へとつながっていく。
角子も普段よりよく喋っていた。酒の話になると多少口数は増える方だが、今日は相手が全部拾って返してくるので、話題が途切れない。
大きい氷は溶けにくいが、小さい氷はすぐ冷える。最初から酒を冷やしておけば氷を減らせるし、氷を減らせば薄まりにくい。
なら最初からボトルを冷やしておけばいい。
その程度の話なのに、二人とも妙に楽しそうだった。
カンサイねこは横から聞きながら、だんだん確信してきた。
相性が良すぎる。
角子一人なら、止めれば一応止まる。アルねこ一人なら、自分のペースで飲んで勝手に満足する。
ところが二人一緒になると、互いの変な部分を肯定し始める。本人たちに悪気はないし、無理に飲ませ合っているわけでもない。
それでも、止める人間がいない。
そこが一番危ない。
そんな中、アルねこが自分のグラスを角子へ差し出した。
角子が一口飲む。
「飲みやすいですね」
ここまではよかった。
「でも、少し軽いかもー」
アルねこの耳が動いた。
角子は気づいていない。
カンサイねこだけが、そこに生まれた微妙な間を拾った。
妙なところへ火がついた。
アルねこは笑っている。角子も普通に笑っている。まだ喧嘩ではないし、競争でもない。
ただ、酒に関する自分の基準を、ほんの少しだけ譲りたくない空気が生まれていた。
アルねこは、飲みやすい方が長く飲めると思っている。角子は、濃くても普通に飲めるし、むしろ味がしっかり残る方が好きだった。
どちらも自分が間違っているとは思っていない。
それ自体は別にいい。
問題は、そこを競う必要がまったくないことだった。
「……嫌な予感するなあ」
カンサイねこが呟く。
ヤニねこには何のことか分かっていない。
むしろ、そのまま分からずにいてほしかった。
◇
日が少し落ちた頃、アルねこが立ち上がった。
持ってきた酒瓶は、来た時よりはっきり軽くなっている。角子の角瓶も目に見えて減っていて、二人とも「そんなに飲んでいない」という顔をしているわりに、酒瓶だけはかなり正直だった。
「また持ってくるよ」
「お願いします」
次はもう少し色々な酒を持ってくるらしい。
角子も、それなら自分で何か用意しておくと答える。
初対面とは思えない速度で、次の約束まで決まった。
「今度、ちゃんと飲もう」
アルねこがそう言うと、角子は少し首を傾げた。
今日も十分ちゃんと飲んでいたように見える。
しかし、アルねこにとって今日はまだ挨拶程度らしい。
カンサイねこの不安が一段増えた。
「それ、ほんまに普通に飲むだけやんな?」
二人とも普通だと答えた。
声までほとんど揃っている。
余計に信用できない。
その時、開いていた扉からハメねこが顔を出した。
「何の話?」
カンサイねこは即座に止めた。
聞かなくていい。
聞けば絶対に企画にする。
そこまで言ったところで、ハメねこの目が変わった。
「企画?」
食いついた。
遅かった。
酒なのか、何を飲むのか、種類はいくつあるのか、飲み比べにするのか。質問が急に具体的になり、さっきまでただの野次馬だった配信者が、企画を見つけた時の顔へ切り替わっていく。
アルねこも興味を示し、角子まで少し考え始めた。
飲み比べなら、つまみを何種類か用意した方がいい。食べ物があれば画面も映える。照明を少し変えて、手元を撮るならカメラも増やしたい。
ほんの少し前まで、ただ酒を飲んでいただけだった。
それが数十秒で、配信企画らしい形へ変わり始めている。
カンサイねこは額を押さえた。
「もう遅かったわ」
ハメねこはすでにスマートフォンを取り出していた。
「ちょっと詳しく聞かせて」
「聞かんでええ言うたやろ!」
その日の初対面は、ただ酒を飲んで終わるはずだった。
少なくとも、カンサイねこだけは、そう終わってほしかった。