ヤニねことカラカラねこ   作:きのこ大三元

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第17話 アルねこと酒量勝負

 休日の夜。

 

 角子の部屋には、いつもより少し大きな照明が立っていた。三脚に固定されたスマートフォン、その横には外付けマイク。テーブルの上には数本の酒瓶と氷、炭酸水、それから皿いっぱいのつまみまで並んでいる。

 

 前回の「今度ちゃんと飲もう」という話を、ハメねこが勝手に配信企画へ昇格させた結果だった。

 

 ハメねこは画面の明るさを確認し、酒瓶と二人の顔がきれいに収まるよう三脚を少しだけ動かす。

 

「よし。これで入る」

「何が始まるん?」

 

 部屋の隅から、カンサイねこが嫌そうに聞いた。

 

「コーポ大谷酒豪決定戦」

「やらん言うてたやろ」

「タイトルだけ」

「一番あかんとこや」

 

 テーブルの前では、角子とアルねこが並んで座っていた。二人とも勝負をするつもりはないと言っている。ただ酒を飲んで、つまみを食べるだけ。その説明だけなら昨日から何も変わっていない。

 

 問題は、その割に用意された酒が多いことだった。

 

「これ、そんなに多くないよ」

 

 アルねこが一本持ち上げる。

 

「一本だけ見たらな」

「これはボクの」

 

 角子も別の瓶へ手を置いた。

 

「こっちは私のです」

「分けても合計は減らへんねん」

 

 カンサイねこの指摘をよそに、ハメねこはすでに配信を始めていた。

 

「はい、こんばんは。今日は急遽、酒飲み二人に集まってもらいました」

 

《わこつ》

《酒豪決定戦きた》

《カラカラねこ負けるな》

《アルねこいるじゃん》

《死人出すなよ》

 

「勝負じゃないです」

 

 角子が画面へ向かって訂正し、アルねこも「普通に飲むだけだよ」と頷く。

 

《はいはい》

《その台詞がもう怖い》

《普通って何》

 

 流れていくコメントを見ながら、カンサイねこは小さく頷いた。

 

「視聴者の方が分かっとるわ」

 

◇

 

 最初の一杯は、本当に普通だった。

 

 角子はいつもの濃いめのハイボール。アルねこは持参した酒を、自分の好きな濃さまで少し割って飲んでいる。テーブルの中央には角子が作った豚肉の炒め物と塩気の強い枝豆、それに適当に切ったチーズが並び、どれも酒を飲みながらつまめるよう、普段の食事より少し味を濃くしてあった。

 

 アルねこが豚肉を一切れ食べ、もう少し塩があってもいいと言う。角子も「酒に合わせるなら、少し濃くしてもいいかもー」と素直に塩を足した。

 

 味を確認して、酒を飲む。

 

 もう一口つまんで、また飲む。

 

 二人とも静かで、今のところ妙な張り合いもない。カンサイねこも、ここまでは警戒するほどではないと思った。

 

「……今んとこ普通やな」

「だから言ったじゃん」

 

 アルねこが笑う。

 

 ただ、その平穏をハメねこが長く放っておくはずもなかった。

 

「『どっちの酒の方が濃い?』って来てる」

 

 角子とアルねこが、ほとんど同時に自分のグラスを見る。

 

「私の方が濃いと思います」

「ボクのも結構あるよ」

 

 自然な流れでグラスを交換し、一口ずつ飲み比べる。

 

 角子はアルねこの酒を口へ含み、少し考えてから「飲みやすいですね」と返した。アルねこも角子のハイボールを飲み、「そっちはやっぱ濃い」と感想を返す。

 

 そこまではよかった。

 

「濃い方がおいしいですよ」

「ずっと飲むなら、こっちの方が楽じゃない?」

「濃くても飲めます」

「そう?」

「はい」

 

 ハメねこの口元が上がった。

 

「これ、勝負じゃない?」

「違います」

「違うよ」

 

 二人とも否定した。

 

《始まった》

《もう張り合ってる》

《普通に飲むとは》

 

 カンサイねこは画面を指す。

 

「ほら」

「コメントが勝手に言ってるだけです」

 

 角子は自分のグラスを取り戻し、そのまま一口飲んだ。アルねこも、ほとんど同じタイミングで自分のグラスへ口をつける。

 

 カンサイねこは何も言わず、その減り方だけを見ていた。

 

 さっきより、少し早い。

 

◇

 

 二杯目、三杯目と進む頃には、本人たちの意思とは関係なく、配信の空気はすっかり勝負寄りになっていた。

 

 ハメねこはいつの間にか飲んだ量とペースを実況し始め、視聴者もそれに乗っている。誰も正確に計量していないので数字としてはかなり雑だが、場が盛り上がるには十分だった。

 

「今、アルねこの方がちょっと早いね」

 

 それまで気にしていなかったアルねこが自分のグラスを見る。角子も反応した。

 

「角子さん、少し負けてる」

「負けてませんよ」

「勝負じゃないんやろ?」

 

 カンサイねこがすぐに入る。

 

「勝負ではないです」

 

 そう答えながら、角子は残っていたハイボールを飲み干した。

 

 氷がジョッキの底へ落ちる。

 

 カラカラ。

 

「おかわり作ります」

「早ない?」

「ちょうどなくなったので」

 

 すると隣のアルねこも自分のグラスを空にした。

 

「じゃあボクも」

「ほらもう勝負やん」

「違うって」

 

 口では否定しているのに、相手が次を作れば自分も作る。飲み終える時間まで少しずつ揃ってきていた。

 

《アルねこ優勢》

《カラカラ追い上げ》

《実況すな》

《つまみうまそう》

 

 ハメねこは完全に楽しんでいる。「現在アルねこがややリード」とまで言い始め、角子もとうとうコメント欄を気にし始めた。

 

「アルねこさん多いですね」

「人気じゃん」

 

 アルねこが楽しそうに笑う。

 

 角子は画面を数秒見た。

 

「私の配信なんですけどね」

「そこ気にするん?」

「少し」

 

 そのまま炭酸水とウイスキーを手に取る。

 

 とく、とく、とく。

 

 いつもより少し長い。

 

 カンサイねこの視線が止まった。

 

「それ、さっきより濃ない?」

「そうですか?」

「そうやろ」

「氷多めなので」

「またその理屈か」

 

 角子の中では、氷が多いなら最初の酒も少し増やしていい。それだけの話らしい。

 

 アルねこが横から覗き込み、一口もらう。

 

「……濃」

「おいしいですよ」

「うん。でも濃い」

「飲めますよね?」

「飲めるけど」

 

 角子は満足そうに頷いた。

 

 たぶん、「飲める」の部分しか聞いていない。

 

 カンサイねこは両手で顔を覆った。

 

「もう完全に始まってるやん」

 

◇

 

 酒が進むにつれて、つまみの味まで少しずつ濃くなっていった。

 

 アルねこが「もう少し辛くてもいい」と言えば、角子はすぐ調味料棚へ向かう。一味、七味、胡椒。その奥には例のアル中パウダーまであったが、今日は普通にするらしく、珍しく一味だけを選んだ。

 

「えらい」

 

 カンサイねこが思わず褒める。

 

 少量を振った枝豆をアルねこが食べ、すぐ酒を飲む。角子も同じものをつまみ、そのままジョッキへ手を伸ばした。

 

 酒を飲み、つまみを食べ、また酒を飲む。その流れが自然すぎて、もう何杯目なのかテーブルを見ても分からない。

 

 そして、その頃にはヤニねこまで部屋へ増えていた。

 

 誰も入ってきた瞬間を覚えていない。気づいた時には畳へ座り、酒ではなく、つまみの皿だけをじっと見ていた。

 

「……お前いつ来たん?」

「さっきにゃ」

「声かけろや」

「邪魔しないようにしたにゃ」

 

 珍しく気を遣ったように聞こえた。

 

「飯見てたにゃ」

「やっぱりそれか」

 

 ヤニねこの視線は、最初から料理しか追っていない。

 

「これ余る?」

「まだ食べます」

 

 角子が答える。

 

「アルねこは?」

「食べるよ」

「じゃあ待つにゃ」

「待ったら自分のになると思うな」

 

 カンサイねこの指摘は、きれいに聞こえないことにされた。

 

◇

 

 さらに時間が経つ頃には、アルねこの頬に少しずつ赤みが出ていた。それでもグラスへ伸びる手は止まらず、本人は普段とあまり変わらないつもりらしい。

 

 一方の角子は、見た目だけならもっと落ち着いていた。声の調子も変わらず、喋る速度もほとんど同じ。

 

 ただ、手元だけが少しずつ怪しくなっている。

 

 炭酸水の蓋を開けようとして、一度指が滑った。

 

 角子は何も言わず、もう一度持ち直す。今度は開いたので、そのまま何事もなかったようにグラスへ注いだ。

 

 ハメねこは見逃さなかった。

 

「角子さん、今ちょっと来てない?」

「大丈夫です」

「ほんと?」

「はい」

 

 返事だけは妙にしっかりしている。

 

 角子はグラスを持ち上げて一口飲み、テーブルへ戻した。

 

 カン。

 

 いつもより少し大きな音がした。

 

 カンサイねこが眉を寄せる。

 

「そろそろやめといた方がええんちゃう?」

「まだ料理ありますから」

「酒の話や」

「料理もあります」

「話通じてる?」

 

 会話は通じている。

 

 結論だけが違う。

 

 角子は残り少なくなった皿を見て、追加を作ると言い出した。簡単なものなら大丈夫らしい。

 

 立ち上がって一歩進み、そこでほんの少し止まる。

 

 本人はそのまま歩き出したが、カンサイねこは見ていた。

 

 冷蔵庫にはきゅうりと、少し残った肉があるらしい。

 

「火ぃ使うん?」

「焼くだけです」

「やめとき」

 

 カンサイねこも立ち上がったが、その前に角子はまな板を出していた。

 

 きゅうりを置き、包丁へ手を伸ばす。

 

「もう切らない方がいいにゃ」

 

 部屋の空気が止まった。

 

 角子の手も止まり、カンサイねこ、ハメねこ、アルねこの視線が、ゆっくりヤニねこへ集まる。

 

「……何にゃ?」

 

 ヤニねこが少し居心地悪そうにする。

 

「いや」

 

 カンサイねこは目を細めた。

 

「お前が一番まともなこと言うと思わんかった」

 

 ヤニねこは不思議そうに耳を動かす。

 

「指切ったら飯減るにゃ」

「理由はいつも通りやったわ」

 

 安心したような、していないような。

 

 角子は包丁ときゅうりを見比べたあと、珍しく素直に手を引いた。

 

「……そうですね」

 

 ヤニねこが少し胸を張る。

 

「ニャーが守ったにゃ」

「飯をな」

「大事にゃ」

 

 危険なところは一つ回避できた。

 

 少なくとも、カンサイねこはそう思った。

 

 だが、角子は「じゃあ切らないものにします」と調味料棚へ向かい、一味、胡椒、塩、うま味調味料、最後にアル中パウダーまで両手に抱えて戻ってきた。

 

「待て待て待て」

 

 カンサイねこが即座に止める。

 

 ハメねこも画面から顔を上げた。

 

「それ全部入れる気?」

「混ぜます」

「何に?」

「きゅうりに」

「切ってへんやろ」

「叩けばいけます」

「包丁やめた意味どこ行った?」

「包丁は使いません」

「そういう話ちゃう」

 

 酔っていても、角子の理屈だけは妙に整っていた。

 

 そこが余計に面倒だった。

 

 アル中パウダーの蓋へ手を掛けたところで、今度はハメねこまで止める。

 

「それは今日はやめよう」

「少しだけ」

「今の『少し』信用できない」

 

 角子は少し考えた。

 

「じゃあ半分」

「何の半分?」

「いっぱい入れる予定の」

「余計あかん」

 

 カンサイねことハメねこに左右から止められ、角子はようやく手元の調味料を見る。

 

 数秒考えた。

 

「……塩だけにします」

「それでええ」

「最初からそうして」

 

 ヤニねこが小さく拍手した。

 

「今日みんなまともにゃ」

 

 三人の視線が、同時にヤニねこへ向いた。

 

「何にゃ?」

 

◇

 

 配信自体はそのまま続いたが、角子の酒だけは止められた。

 

 正確には、もう一杯作ろうとしたところで、カンサイねこにウイスキーを遠ざけられ、代わりに炭酸水だけ渡された。

 

「これ飲んどき」

「酒入ってませんよ」

「知ってる」

「ハイボールじゃないです」

「水分や」

「炭酸水です」

「ええから飲み」

 

 角子は少し不満そうだったが、一応飲んだ。

 

 アルねこはまだ自分のグラスを持っている。

 

「ボクの勝ち?」

 

 何気なく口にした一言へ、ハメねこがすぐ反応した。

 

《アルねこ勝ち》

《カラカラ脱落》

《勝負じゃないとは》

《ヤニねこが一番まともだったの草》

《包丁止めたのえらい》

 

 コメント欄はすでに勝敗を決めている。

 

 ハメねこもその流れへ乗ろうとしたが、角子が「まだ終わってないです」と戻ってきた。

 

 声だけは、まだ普段通りだった。

 

 自分の席へ座り、さっきまであったグラスへ手を伸ばす。

 

 ない。

 

 カンサイねこが、いつの間にか遠くへ移していた。

 

 角子は右を見て、左を見て、テーブルの端まで確認し、もう一度右を見た。

 

「私の、どこです?」

「終わり」

「まだ飲めます」

「もう炭酸飲んどき」

 

 角子は少しだけ口を尖らせた。

 

「勝負じゃないのに」

「そこは覚えとるんや」

 

 そのままテーブルへ肘をつく。

 

 少し休むだけのつもりだったのだろう。

 

 頬が腕に触れ、そのまま数秒。

 

「…………」

 

 カンサイねこが見る。

 

「角子さん?」

 

 返事がない。

 

 ハメねこも少し近づき、ヤニねこまで横から覗き込む。

 

「寝たにゃ」

「早っ」

 

 さっきまで普通の顔で酒を要求していたのに、落ちる時だけは一瞬だった。

 

《落ちた》

《カラカラKO》

《アルねこ勝ち》

《机で寝るな》

 

 ハメねこが画面へ向き直る。

 

「勝者、アルねこ!」

 

 アルねこは少し嬉しそうにグラスを持ち上げた。

 

「やった」

 

 そのまま残っていた酒を飲み、空になったグラスを置く。

 

 少し後ろへもたれた。

 

 カンサイねこが嫌そうな顔をする。

 

「お前もやばそうやん」

「大丈夫」

「ほんま?」

「うん」

 

 アルねこは目を閉じた。

 

 少しだけ休むつもりだったらしい。

 

 ほんの少し。

 

 数秒後。

 

「アルねこ?」

 

 返事がない。

 

 ヤニねこが確認する。

 

「寝たにゃ」

 

 ハメねこも顔を覗き込んだ。

 

「……寝てる」

 

《勝者とは》

《優勝者も落ちた》

《全滅》

《飲んでない奴しか起きてない》

 

 カンサイねこは深いため息をついた。

 

「何が酒豪決定戦やねん」

 

 その横で、ヤニねこは残ったつまみの皿を自分の前へ引き寄せていた。

 

「これもう食べていい?」

「今そこ気にする?」

「二人とも寝たにゃ」

「だからって全部お前のちゃうで」

「起きてる人優先にゃ」

「そんなルールない」

 

 ヤニねこは構わず一枚食べる。

 

「うまいにゃ」

 

 カンサイねこには、もう止める気力があまり残っていなかった。

 

◇

 

 しばらくして、廊下から足音が近づいてきた。

 

「まだ配信してるのか?」

 

 大家が開いた扉から顔を出し、そのまま室内を見た。

 

 テーブルへ伏せた角子。

 

 少し離れた場所で眠るアルねこ。

 

 二人の間でスマートフォンを持っているハメねこ。

 

 残ったつまみを食べ続けるヤニねこ。

 

 壁際では、カンサイねこが疲れ切った顔で座っている。

 

 大家は数秒黙った。

 

「……何の勝負だったんだ?」

 

 ハメねこが配信画面を見たまま答える。

 

「最後まで起きてる人が勝ちです」

 

 大家はもう一度、部屋の中を見る。

 

 角子は寝ている。アルねこも寝ている。

 

 カンサイねこは起きていて、ハメねこも起きている。ヤニねこに至っては、今も普通につまみを食べていた。

 

「酒飲んでないやつが勝ってるじゃないか」

 

 ハメねこの動きが止まる。

 

 ヤニねこも箸を止めた。

 

「……ニャー優勝?」

「違う」

 

 大家が即答する。

 

 ヤニねこは少し残念そうに、もう一枚つまみを食べた。

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