休日の夜。
角子の部屋には、いつもより少し大きな照明が立っていた。三脚に固定されたスマートフォン、その横には外付けマイク。テーブルの上には数本の酒瓶と氷、炭酸水、それから皿いっぱいのつまみまで並んでいる。
前回の「今度ちゃんと飲もう」という話を、ハメねこが勝手に配信企画へ昇格させた結果だった。
ハメねこは画面の明るさを確認し、酒瓶と二人の顔がきれいに収まるよう三脚を少しだけ動かす。
「よし。これで入る」
「何が始まるん?」
部屋の隅から、カンサイねこが嫌そうに聞いた。
「コーポ大谷酒豪決定戦」
「やらん言うてたやろ」
「タイトルだけ」
「一番あかんとこや」
テーブルの前では、角子とアルねこが並んで座っていた。二人とも勝負をするつもりはないと言っている。ただ酒を飲んで、つまみを食べるだけ。その説明だけなら昨日から何も変わっていない。
問題は、その割に用意された酒が多いことだった。
「これ、そんなに多くないよ」
アルねこが一本持ち上げる。
「一本だけ見たらな」
「これはボクの」
角子も別の瓶へ手を置いた。
「こっちは私のです」
「分けても合計は減らへんねん」
カンサイねこの指摘をよそに、ハメねこはすでに配信を始めていた。
「はい、こんばんは。今日は急遽、酒飲み二人に集まってもらいました」
《わこつ》
《酒豪決定戦きた》
《カラカラねこ負けるな》
《アルねこいるじゃん》
《死人出すなよ》
「勝負じゃないです」
角子が画面へ向かって訂正し、アルねこも「普通に飲むだけだよ」と頷く。
《はいはい》
《その台詞がもう怖い》
《普通って何》
流れていくコメントを見ながら、カンサイねこは小さく頷いた。
「視聴者の方が分かっとるわ」
◇
最初の一杯は、本当に普通だった。
角子はいつもの濃いめのハイボール。アルねこは持参した酒を、自分の好きな濃さまで少し割って飲んでいる。テーブルの中央には角子が作った豚肉の炒め物と塩気の強い枝豆、それに適当に切ったチーズが並び、どれも酒を飲みながらつまめるよう、普段の食事より少し味を濃くしてあった。
アルねこが豚肉を一切れ食べ、もう少し塩があってもいいと言う。角子も「酒に合わせるなら、少し濃くしてもいいかもー」と素直に塩を足した。
味を確認して、酒を飲む。
もう一口つまんで、また飲む。
二人とも静かで、今のところ妙な張り合いもない。カンサイねこも、ここまでは警戒するほどではないと思った。
「……今んとこ普通やな」
「だから言ったじゃん」
アルねこが笑う。
ただ、その平穏をハメねこが長く放っておくはずもなかった。
「『どっちの酒の方が濃い?』って来てる」
角子とアルねこが、ほとんど同時に自分のグラスを見る。
「私の方が濃いと思います」
「ボクのも結構あるよ」
自然な流れでグラスを交換し、一口ずつ飲み比べる。
角子はアルねこの酒を口へ含み、少し考えてから「飲みやすいですね」と返した。アルねこも角子のハイボールを飲み、「そっちはやっぱ濃い」と感想を返す。
そこまではよかった。
「濃い方がおいしいですよ」
「ずっと飲むなら、こっちの方が楽じゃない?」
「濃くても飲めます」
「そう?」
「はい」
ハメねこの口元が上がった。
「これ、勝負じゃない?」
「違います」
「違うよ」
二人とも否定した。
《始まった》
《もう張り合ってる》
《普通に飲むとは》
カンサイねこは画面を指す。
「ほら」
「コメントが勝手に言ってるだけです」
角子は自分のグラスを取り戻し、そのまま一口飲んだ。アルねこも、ほとんど同じタイミングで自分のグラスへ口をつける。
カンサイねこは何も言わず、その減り方だけを見ていた。
さっきより、少し早い。
◇
二杯目、三杯目と進む頃には、本人たちの意思とは関係なく、配信の空気はすっかり勝負寄りになっていた。
ハメねこはいつの間にか飲んだ量とペースを実況し始め、視聴者もそれに乗っている。誰も正確に計量していないので数字としてはかなり雑だが、場が盛り上がるには十分だった。
「今、アルねこの方がちょっと早いね」
それまで気にしていなかったアルねこが自分のグラスを見る。角子も反応した。
「角子さん、少し負けてる」
「負けてませんよ」
「勝負じゃないんやろ?」
カンサイねこがすぐに入る。
「勝負ではないです」
そう答えながら、角子は残っていたハイボールを飲み干した。
氷がジョッキの底へ落ちる。
カラカラ。
「おかわり作ります」
「早ない?」
「ちょうどなくなったので」
すると隣のアルねこも自分のグラスを空にした。
「じゃあボクも」
「ほらもう勝負やん」
「違うって」
口では否定しているのに、相手が次を作れば自分も作る。飲み終える時間まで少しずつ揃ってきていた。
《アルねこ優勢》
《カラカラ追い上げ》
《実況すな》
《つまみうまそう》
ハメねこは完全に楽しんでいる。「現在アルねこがややリード」とまで言い始め、角子もとうとうコメント欄を気にし始めた。
「アルねこさん多いですね」
「人気じゃん」
アルねこが楽しそうに笑う。
角子は画面を数秒見た。
「私の配信なんですけどね」
「そこ気にするん?」
「少し」
そのまま炭酸水とウイスキーを手に取る。
とく、とく、とく。
いつもより少し長い。
カンサイねこの視線が止まった。
「それ、さっきより濃ない?」
「そうですか?」
「そうやろ」
「氷多めなので」
「またその理屈か」
角子の中では、氷が多いなら最初の酒も少し増やしていい。それだけの話らしい。
アルねこが横から覗き込み、一口もらう。
「……濃」
「おいしいですよ」
「うん。でも濃い」
「飲めますよね?」
「飲めるけど」
角子は満足そうに頷いた。
たぶん、「飲める」の部分しか聞いていない。
カンサイねこは両手で顔を覆った。
「もう完全に始まってるやん」
◇
酒が進むにつれて、つまみの味まで少しずつ濃くなっていった。
アルねこが「もう少し辛くてもいい」と言えば、角子はすぐ調味料棚へ向かう。一味、七味、胡椒。その奥には例のアル中パウダーまであったが、今日は普通にするらしく、珍しく一味だけを選んだ。
「えらい」
カンサイねこが思わず褒める。
少量を振った枝豆をアルねこが食べ、すぐ酒を飲む。角子も同じものをつまみ、そのままジョッキへ手を伸ばした。
酒を飲み、つまみを食べ、また酒を飲む。その流れが自然すぎて、もう何杯目なのかテーブルを見ても分からない。
そして、その頃にはヤニねこまで部屋へ増えていた。
誰も入ってきた瞬間を覚えていない。気づいた時には畳へ座り、酒ではなく、つまみの皿だけをじっと見ていた。
「……お前いつ来たん?」
「さっきにゃ」
「声かけろや」
「邪魔しないようにしたにゃ」
珍しく気を遣ったように聞こえた。
「飯見てたにゃ」
「やっぱりそれか」
ヤニねこの視線は、最初から料理しか追っていない。
「これ余る?」
「まだ食べます」
角子が答える。
「アルねこは?」
「食べるよ」
「じゃあ待つにゃ」
「待ったら自分のになると思うな」
カンサイねこの指摘は、きれいに聞こえないことにされた。
◇
さらに時間が経つ頃には、アルねこの頬に少しずつ赤みが出ていた。それでもグラスへ伸びる手は止まらず、本人は普段とあまり変わらないつもりらしい。
一方の角子は、見た目だけならもっと落ち着いていた。声の調子も変わらず、喋る速度もほとんど同じ。
ただ、手元だけが少しずつ怪しくなっている。
炭酸水の蓋を開けようとして、一度指が滑った。
角子は何も言わず、もう一度持ち直す。今度は開いたので、そのまま何事もなかったようにグラスへ注いだ。
ハメねこは見逃さなかった。
「角子さん、今ちょっと来てない?」
「大丈夫です」
「ほんと?」
「はい」
返事だけは妙にしっかりしている。
角子はグラスを持ち上げて一口飲み、テーブルへ戻した。
カン。
いつもより少し大きな音がした。
カンサイねこが眉を寄せる。
「そろそろやめといた方がええんちゃう?」
「まだ料理ありますから」
「酒の話や」
「料理もあります」
「話通じてる?」
会話は通じている。
結論だけが違う。
角子は残り少なくなった皿を見て、追加を作ると言い出した。簡単なものなら大丈夫らしい。
立ち上がって一歩進み、そこでほんの少し止まる。
本人はそのまま歩き出したが、カンサイねこは見ていた。
冷蔵庫にはきゅうりと、少し残った肉があるらしい。
「火ぃ使うん?」
「焼くだけです」
「やめとき」
カンサイねこも立ち上がったが、その前に角子はまな板を出していた。
きゅうりを置き、包丁へ手を伸ばす。
「もう切らない方がいいにゃ」
部屋の空気が止まった。
角子の手も止まり、カンサイねこ、ハメねこ、アルねこの視線が、ゆっくりヤニねこへ集まる。
「……何にゃ?」
ヤニねこが少し居心地悪そうにする。
「いや」
カンサイねこは目を細めた。
「お前が一番まともなこと言うと思わんかった」
ヤニねこは不思議そうに耳を動かす。
「指切ったら飯減るにゃ」
「理由はいつも通りやったわ」
安心したような、していないような。
角子は包丁ときゅうりを見比べたあと、珍しく素直に手を引いた。
「……そうですね」
ヤニねこが少し胸を張る。
「ニャーが守ったにゃ」
「飯をな」
「大事にゃ」
危険なところは一つ回避できた。
少なくとも、カンサイねこはそう思った。
だが、角子は「じゃあ切らないものにします」と調味料棚へ向かい、一味、胡椒、塩、うま味調味料、最後にアル中パウダーまで両手に抱えて戻ってきた。
「待て待て待て」
カンサイねこが即座に止める。
ハメねこも画面から顔を上げた。
「それ全部入れる気?」
「混ぜます」
「何に?」
「きゅうりに」
「切ってへんやろ」
「叩けばいけます」
「包丁やめた意味どこ行った?」
「包丁は使いません」
「そういう話ちゃう」
酔っていても、角子の理屈だけは妙に整っていた。
そこが余計に面倒だった。
アル中パウダーの蓋へ手を掛けたところで、今度はハメねこまで止める。
「それは今日はやめよう」
「少しだけ」
「今の『少し』信用できない」
角子は少し考えた。
「じゃあ半分」
「何の半分?」
「いっぱい入れる予定の」
「余計あかん」
カンサイねことハメねこに左右から止められ、角子はようやく手元の調味料を見る。
数秒考えた。
「……塩だけにします」
「それでええ」
「最初からそうして」
ヤニねこが小さく拍手した。
「今日みんなまともにゃ」
三人の視線が、同時にヤニねこへ向いた。
「何にゃ?」
◇
配信自体はそのまま続いたが、角子の酒だけは止められた。
正確には、もう一杯作ろうとしたところで、カンサイねこにウイスキーを遠ざけられ、代わりに炭酸水だけ渡された。
「これ飲んどき」
「酒入ってませんよ」
「知ってる」
「ハイボールじゃないです」
「水分や」
「炭酸水です」
「ええから飲み」
角子は少し不満そうだったが、一応飲んだ。
アルねこはまだ自分のグラスを持っている。
「ボクの勝ち?」
何気なく口にした一言へ、ハメねこがすぐ反応した。
《アルねこ勝ち》
《カラカラ脱落》
《勝負じゃないとは》
《ヤニねこが一番まともだったの草》
《包丁止めたのえらい》
コメント欄はすでに勝敗を決めている。
ハメねこもその流れへ乗ろうとしたが、角子が「まだ終わってないです」と戻ってきた。
声だけは、まだ普段通りだった。
自分の席へ座り、さっきまであったグラスへ手を伸ばす。
ない。
カンサイねこが、いつの間にか遠くへ移していた。
角子は右を見て、左を見て、テーブルの端まで確認し、もう一度右を見た。
「私の、どこです?」
「終わり」
「まだ飲めます」
「もう炭酸飲んどき」
角子は少しだけ口を尖らせた。
「勝負じゃないのに」
「そこは覚えとるんや」
そのままテーブルへ肘をつく。
少し休むだけのつもりだったのだろう。
頬が腕に触れ、そのまま数秒。
「…………」
カンサイねこが見る。
「角子さん?」
返事がない。
ハメねこも少し近づき、ヤニねこまで横から覗き込む。
「寝たにゃ」
「早っ」
さっきまで普通の顔で酒を要求していたのに、落ちる時だけは一瞬だった。
《落ちた》
《カラカラKO》
《アルねこ勝ち》
《机で寝るな》
ハメねこが画面へ向き直る。
「勝者、アルねこ!」
アルねこは少し嬉しそうにグラスを持ち上げた。
「やった」
そのまま残っていた酒を飲み、空になったグラスを置く。
少し後ろへもたれた。
カンサイねこが嫌そうな顔をする。
「お前もやばそうやん」
「大丈夫」
「ほんま?」
「うん」
アルねこは目を閉じた。
少しだけ休むつもりだったらしい。
ほんの少し。
数秒後。
「アルねこ?」
返事がない。
ヤニねこが確認する。
「寝たにゃ」
ハメねこも顔を覗き込んだ。
「……寝てる」
《勝者とは》
《優勝者も落ちた》
《全滅》
《飲んでない奴しか起きてない》
カンサイねこは深いため息をついた。
「何が酒豪決定戦やねん」
その横で、ヤニねこは残ったつまみの皿を自分の前へ引き寄せていた。
「これもう食べていい?」
「今そこ気にする?」
「二人とも寝たにゃ」
「だからって全部お前のちゃうで」
「起きてる人優先にゃ」
「そんなルールない」
ヤニねこは構わず一枚食べる。
「うまいにゃ」
カンサイねこには、もう止める気力があまり残っていなかった。
◇
しばらくして、廊下から足音が近づいてきた。
「まだ配信してるのか?」
大家が開いた扉から顔を出し、そのまま室内を見た。
テーブルへ伏せた角子。
少し離れた場所で眠るアルねこ。
二人の間でスマートフォンを持っているハメねこ。
残ったつまみを食べ続けるヤニねこ。
壁際では、カンサイねこが疲れ切った顔で座っている。
大家は数秒黙った。
「……何の勝負だったんだ?」
ハメねこが配信画面を見たまま答える。
「最後まで起きてる人が勝ちです」
大家はもう一度、部屋の中を見る。
角子は寝ている。アルねこも寝ている。
カンサイねこは起きていて、ハメねこも起きている。ヤニねこに至っては、今も普通につまみを食べていた。
「酒飲んでないやつが勝ってるじゃないか」
ハメねこの動きが止まる。
ヤニねこも箸を止めた。
「……ニャー優勝?」
「違う」
大家が即答する。
ヤニねこは少し残念そうに、もう一枚つまみを食べた。