【追記】
2026年7月19日21時時点…
・ルーキー総合日間(加点)12位
・二次創作ルーキー日間(加点)9位
に入っていました!
まだ3話ですが、読んでくださった皆さま、評価・お気に入り・感想をくださった皆さま、本当にありがとうございます。
引っ越してから、まだ数日しか経っていない夜だった。
角子の部屋には未開封の段ボールが残り、寝具や衣類より先に酒と調味料だけが取り出されている。畳も今のところは比較的きれいだったが、端に置かれた一味唐辛子の空袋の下には、小さな油染みが隠れていた。
見えなければ、たぶん問題ない。
氷川角子は段ボール箱を背もたれにし、畳の上へスマートフォン用の三脚を置いた。
画面を確認する。
少し傾いている。
三脚の脚を一本だけ動かすと、今度は先ほどより大きく傾いた。部屋の奥に積まれた酒の箱まで、きれいに斜めへ映り込んでいる。
角子は一度だけ首をかしげた。
まあ、映っているので大丈夫だろう。
そのまま配信を開始する。
てっててれー。
古く、安っぽく、妙に耳へ残る電子音が流れ、画面下にはいつもの白い字幕が表示された。
『nyanyanya 生放送を開始しました』
角子はカメラの前へ座り、声を出さずに字幕で挨拶する。
『どうも、nyanyanyaです』
続けて、畳の上に並べた道具を指した。
『今日はスペシャルなハイボールを作ります』
《酒だけ?》
《料理なし》
《スペシャル要素どこ》
角子はコメントへ反応せず、用意した物を一つずつ画面へ入れていく。
ステンレス製の大きなジョッキ。市販のロックアイス。業務用サイズの角瓶。炭酸水。小さな容器に入ったレモン汁。
その横にはガラスの灰皿とタバコも置かれ、食べ物は魚肉ソーセージが一本だけだった。
今日は料理をする配信ではない。
一応、魚肉ソーセージがあるので食事もある。
角子の中では。
『まずは氷を入れます』
ロックアイスの袋を開け、最初の二つだけを手でジョッキへ入れる。
からん。
からん。
三つ目から面倒になった。
袋の口をジョッキへ向け、そのまま傾ける。
がらがらがら。
大きな氷が一度に流れ込み、ステンレスの内側で甲高い音を立てた。そのうち一つが縁に弾かれ、畳の上へ落ちる。
角子は落ちた氷を拾った。
少し見る。
そのままジョッキへ戻す。
《洗った?》
《畳味》
《まだ畳がきれい》
《今なら間に合う》
コメント欄は見ていなかった。
角子はジョッキを軽く揺らし、氷の入り具合だけを確認する。
量はちょうどいい。
今度は業務用の角瓶を両手で持ち上げた。
『次にウイスキーを少し入れます』
角瓶の口がジョッキの上へ傾き、琥珀色の液体が流れ始める。
底が満たされ、氷の隙間が埋まり、液面が半分を越える。
まだ注ぐ。
《少し》
《まだ薄い》
《健康的》
《炭酸入る場所ある?》
ジョッキの八割を越えたところで、ようやく角瓶が持ち上がった。氷の隙間までウイスキーで満たされ、液面は縁のすぐ下まで迫っている。
角子としては、まだ炭酸水を入れる場所が残っていた。
問題ない。
瓶を戻す際に数滴がこぼれ、畳へ落ちる。
角子は近くにあったティッシュを取り、軽く押さえた。酒が広がらなくなったところで、使用済みのティッシュを灰皿の横へ置く。
片づけも終わった。
『最後に炭酸水をたっぷり入れます』
ペットボトルの蓋を開け、ジョッキに残されたわずかな空間へ炭酸水を注ぐ。
ちょろっ。
ウイスキーの表面が少しだけ泡立ち、すぐにペットボトルが戻された。
《うっす》
《炭酸が濃い》
《ほぼ水》
《薄すぎて見えない》
角子はそこで初めてコメント欄を見る。
画面を見る。
ジョッキを見る。
少し考える。
炭酸水をもう一度持ち上げた。
ほんの一滴だけ足す。
《調整》
《入れすぎ》
《台無し》
『これでちょうどいいかもー』
満足そうに頷き、最後にレモン汁の容器を取った。
『レモン汁はお好みで入れます』
今度は容器を慎重に傾け、数滴だけ落とす。
酒を注いだときより、はるかに丁寧だった。
《そこだけ慎重》
《酒も計れ》
《健康に配慮》
角子はレモン汁の蓋をきちんと閉め、ジョッキを両手で持ち上げた。
『できました』
完成したハイボールをカメラへ近づける。
近すぎた。
画面の大半がステンレス製のジョッキで埋まり、端には角子の耳だけが映っている。
《近い》
《何も見えない》
《ジョッキ配信》
角子は数秒そのまま見せたあと、ジョッキを自分の前へ戻した。
見せた。
たぶん十分だった。
鼻先を近づけて匂いを確認すると、猫耳がわずかに動く。そのまま両手で持ち、ジョッキを大きく傾けた。
ごく、ごく、ごく。
一口では止まらない。
喉が何度も動き、氷がジョッキの奥から角子の鼻先へ近づいていく。ようやく畳へ戻した頃には、中身が半分近く減っていた。
角子は何も言わない。
耳が少し伏せ、頬にはわずかな赤みが差している。
《もう半分ない》
《濃いから》
《水飲め》
《無理するな》
角子は口元を袖で拭き、しばらくカメラを見つめた。
「……おいしいかもー」
この配信で初めて、字幕へ説明を任せず、はっきりと声に出した。
《しゃべった》
《生声》
《かも?》
《自信ないの?》
角子はコメントを眺めたあと、畳の端に置いていた魚肉ソーセージを手に取る。
包装の端を指で引いた。
開かない。
もう一度。
やはり開かない。
角子は横に置かれていた包丁を取り、袋の先だけを切った。
《包丁の出番そこ?》
《つまみきた》
《料理しないの?》
魚肉ソーセージを半分ほど押し出し、そのままかじる。
調味料も加熱もなかった。
この部屋で一番まともな食べ物だった。
《そのまま》
《一番健康的》
《洗い物が出ない》
洗い物が出ない。
それはかなり重要だった。
角子は魚肉ソーセージを数口で食べ、残りのハイボールへ戻る。
ごく、ごく。
酒が減るにつれ、氷の音だけが大きくなっていった。最後の一口を飲み干すと、角子はジョッキの中を覗き込む。
残っているのは氷だけ。
何となく手首を回す。
カラカラ。
もう一度。
カラカラ。
乾いた氷の音に角子の耳が反応し、尻尾の先も同じ速さで小さく左右へ揺れた。
《カラカラ》
《いい音》
《酒が消えた》
《またカラカラしてる》
《カラカラねこ》
角子の手が止まった。
「カラカラねこ……」
以前の配信でも、ジョッキを鳴らすたびに何度かそう呼ばれていた。
本人は深く考えていなかったが、改めて画面へ並んだ文字を眺めてみる。
悪くない。
もう一度、ジョッキを軽く振った。
カラカラ。
尻尾の先も、同じリズムで揺れる。
「今後は、カラカラねこでいいかもー」
《採用》
《カラカラねこ》
《分かりやすい》
《次も鳴らして》
正式に決まった。
かなり酔った状態で。
角子は空になったジョッキを畳へ置き、配信終了のボタンへ指を伸ばした。
そのとき。
玄関の扉が叩かれる。
こん、こん。
少し間を空けて、もう二度。
こん、こん。
角子は手を止めた。
続いて呼び鈴が鳴る。
ぴんぽん。
ぴんぽん、ぴんぽん。
ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。
この押し方には、もう心当たりがあった。
角子はカメラの前から少し外れ、玄関へ顔を向ける。
「カラカラねこー。なんか酒の匂いするにゃー」
《誰?》
《外に猫いる》
《声でかい》
《知り合い?》
ヤニねこだった。
先日は食べ物の匂い。
今日は酒の匂い。
鼻だけは妙に優秀らしい。
角子は玄関へ行かず、カメラへ顔を戻した。
「このアパートの先輩です」
《先輩?》
《カラカラねこより偉いの?》
《酒の匂いで来る先輩》
《入れてあげて》
角子は座ったまま、扉の向こうへ答える。
「もう飲み終わりました」
扉の向こうが静かになった。
諦めて帰った。
ようには聞こえない。
数秒後。
「じゃあ次の作ればいいにゃ」
《第二ラウンド》
《正論》
《先輩つよい》
《酒を狙われてる》
角子はスマートフォンへ戻り、配信終了ボタンの上へ指を置いた。
玄関を見る。
空になったジョッキを見る。
さらに業務用の角瓶を見る。
その隣には、ほとんど中身の減っていない炭酸水が置かれていた。部屋の端には未開封の炭酸水も何本か並んでいる。
角子は少し考えた。
「炭酸水だけ余るかもー」
《酒の量を減らせ》
《炭酸を増やせ》
《追加購入》
解決方法は簡単だった。
角子は業務用の角瓶を持ち上げる。
最後に、もう一つだけ字幕が表示された。
『もう一杯だけ作るかもー』
配信はそこで終了した。
扉の向こうでは、ヤニねこがまだ呼び鈴を押していた。
ちなみに作者はタバコも吸ってなく、お酒も下戸でして…
描写、間違っていたらすみません m(_ _)m