ヤニねことカラカラねこ   作:きのこ大三元

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原作を読んでいたらタバコが吸いたくなってきました…
これがヤニねこパワーですか?


第2話 引っ越し祝いは業務用角瓶にゃ

翌日の昼過ぎ、コーポ大谷の前へ配送車が停まった。

 

 荷台の扉が開き、制服姿の配送業者が大きな段ボール箱を抱えて建物へ入ってくる。最初の箱には、見覚えのある酒の銘柄が大きく印刷されていた。

 

『業務用角瓶』

 

 配送業者は角子の部屋の前へ箱を置くと、すぐに車へ戻っていく。

 

 それで終わりではなかった。

 

 角瓶。

 炭酸水。

 ロックアイス。

 詰め替え用の調味料。

 

 配送業者は何度も車と角子の部屋を往復し、玄関前の荷物は少しずつ共用廊下へ広がっていった。

 

 その物音を聞きつけ、隣の扉が開く。

 

 ヤニねこが腹を押さえながら顔を出した。

 

 前日の激辛料理はまだ完全には抜けていない。腹の奥には鈍い痛みが残り、朝から何度かトイレへ行っていた。

 

 それでも、酒の箱は見逃さなかった。

 

「昨日もいっぱいあったにゃ」

 

 角子は配送業者から伝票を受け取り、内容を確認していた。

 

「昨日の分は、引っ越す前から持っていたものです」

 

 ヤニねこは廊下へ出て、積まれた段ボールを指す。

 

「これはなんにゃ?」

「追加です」

「追加……」

 

 ヤニねこは業務用角瓶の箱を見上げた。

 

 追加。

 

 言葉の意味は分かる。

 

 無料で飲める酒が増えた、ということだろう。

 

「じゃあ問題ないにゃ」

 

 何の問題なのか、角子には分からなかった。

 

 配送業者が、今度は少し小さな箱を持ってくる。側面には商品名が細かく書かれていたが、ヤニねこは読まなかった。

 

 箱である。

 

 酒かもしれない。

 

 それだけで十分だった。

 

「そちらは壁際へお願いします」

「もう壁際がいっぱいなんですが」

 

 配送業者が玄関の中を覗く。

 

 室内の壁際には、昨日までの酒瓶と段ボールがすでに積み上がっていた。寝具や衣類の箱は奥へ押し込まれ、代わりに角瓶と炭酸水がよく見える場所を占領している。

 

 角子は少し考えた。

 

「では、廊下へ一度置いてください。あとで中へ入れます」

「分かりました」

 

 あとでやれば大丈夫。

 

 たぶん。

 

 配送業者は箱を置き、再び車へ戻っていく。

 

 ヤニねこはその様子を眺めていた。

 

 手伝う気はなかった。

 

「カラカラねこ、いっぱい買ったにゃー」

「まとめて注文したほうが楽なので」

「安いのかにゃ?」

「少しは」

 

 ヤニねこの視線は角子ではなく、業務用角瓶の箱へ向いている。

 

「ニャーの分も入ってる?」

「入っていません」

「でも飲める?」

「一杯くらいなら」

「やったにゃ」

 

 そこで初めて、ヤニねこは角子の部屋へ入った。

 

 配送作業が続く中、角子は届いた箱の封を確認し、畳の上へ順番に並べていく。最初は中身ごとに分けようとしていたが、三箱目を開けたところで手が止まった。

 

 酒。

 炭酸水。

 調味料。

 

 どれも近いうちに使う。

 

 細かく分けなくても、たぶん困らない。

 

 角子は開けた箱ごと壁際へ押し寄せた。

 

「少し休憩しましょう」

「そうするにゃ」

 

 ヤニねこは、すでに畳へ座っていた。

 

 働いてはいなかった。

 

 角子は新しく届いたロックアイスの袋を開け、ステンレス製のジョッキへ氷を入れる。続いて開封済みの業務用角瓶を持ち上げ、琥珀色の液体をジョッキの七割ほどまで注いだ。

 

「一杯だけですよ」

「分かってるにゃ」

 

 残った隙間へ、炭酸水を少しだけ足す。

 

 角子はジョッキをヤニねこへ渡した。

 

「どうぞ」

「カラカラねこは話が分かるにゃ」

 

 ヤニねこは両手で受け取り、一口飲む。

 

「濃いにゃ」

「今日は少し薄めです」

「そうは思えないにゃ」

 

 それでも、もう一口。

 

 無料だった。

 

 濃さは大した問題ではない。

 

 角子も自分のジョッキを作り、畳へ座る。配送業者が廊下を往復する音を聞きながら、二人で酒を飲んだ。

 

 ヤニねこは半分ほど飲んだところで、ジョッキの中を覗く。

 

 酒は飲めばなくなる。

 

 タバコなら、今すぐ吸える。

 

「この酒いらないから、代わりにタバコ買ってくれにゃ」

「嫌です」

 

 角子は即答した。

 

「なんでにゃ?」

「お酒なら出しますけど、タバコは自分で買ってください」

「酒より安いにゃ」

「値段は関係ありません」

「じゃあ、カラカラねこの一本くれにゃ」

 

 要求が変わった。

 

 角子は畳の端に置かれた、自分のタバコへ目を向ける。

 

「これは私の分です」

「いっぱいあるにゃ」

「次に買う日までの分しかありません」

「一本くらい平気にゃ」

「駄目です」

「今日だけにゃ」

「駄目です」

「半分」

「どうやって吸うんですか」

 

 何度頼んでも、角子の声と表情はほとんど変わらなかった。

 

 追い返しはしない。

 酒も出す。

 

 でも、自分のタバコは渡さない。

 

 ヤニねこには、その線引きがよく分からなかった。

 

「カラカラねこ、ケチにゃ」

「お酒は出していますよ」

「タバコのほうが大事にゃ」

「それなら、お酒は戻しますか?」

 

 角子がジョッキへ手を伸ばす。

 

 ヤニねこはすぐに胸元へ抱え込んだ。

 

「これはもうニャーのにゃ」

 

 酒まで失うのは困る。

 

 ヤニねこは不満そうに頬を膨らませたまま、残りを飲んだ。

 

 その頃、共用廊下では配送作業が終わりかけていた。配送業者が最後の箱を置き、伝票へ受領印をもらって帰っていく。

 

 残された段ボールは玄関前から壁際まで続き、人が通れる幅は半分ほどしか残っていなかった。

 

 しばらくして、廊下を歩く足音が聞こえる。

 

 足音は角子の部屋の前で止まった。

 

「氷川さん」

 

 大家だった。

 

 角子はジョッキを置き、すぐに立ち上がる。

 

「はい」

 

 玄関を開けると、大家は廊下に積まれた箱を見下ろしていた。

 

「これは何だ?」

「追加で注文した荷物です」

「中身じゃなくて、廊下の話をしてるんだ」

「ああ、そっちですか。すみません。すぐ部屋へ入れます」

 

 角子は丁寧に頭を下げた。

 

 受け答えだけを見れば、やはりまともな社会人だった。

 

 大家は箱の側面を見る。

 

『業務用角瓶』

『炭酸水』

『ロックアイス』

『詰め替え用調味料』

 

 生活用品らしい箱はなかった。

 

「これ、全部一人で使うのか?」

「しばらくは持つと思います」

「しばらくって、どれくらいだ?」

 

 角子は積まれた酒を眺める。

 

「角瓶は少し早くなくなるかもー」

「そういうことを聞いてるんじゃない」

 

 大家の眉間に皺が寄った。

 

「とにかく、共用部分へ荷物を置いたままにしないでくれ。ほかの住人も通るんだからな」

「分かりました」

 

 角子はすぐに箱を一つ持ち上げ、室内へ運び始める。

 

 返事は早い。

 

 行動もする。

 

 最初から廊下へ置かない、という発想だけがなかった。

 

 大家も通路を空けるため、仕方なく近くの箱へ手をかけた。

 

 その背後で、ヤニねこが廊下へ出る。

 

 手伝うためではない。

 

 積まれた箱の中から、一番小さなものを選んだ。片手でも持てるほど軽い。

 

 中身が酒なら、持って帰れる。

 

 ヤニねこは大家と角子の背中を確認し、箱を自分の後ろへ隠す。

 

 角子は大きな箱を部屋へ運び、大家はその隣の箱を押している。

 

 誰も見ていない。

 

 いける。

 

 ヤニねこは小さな箱を、自分の部屋側へ少しずつ移動させた。

 

「お前も手伝え」

 

 大家が振り返る。

 

 ヤニねこは箱の前へ立ち、尻尾で隠した。

 

「腹が痛いにゃ」

「さっき酒を飲んでただろ」

「酒は腹に優しいにゃ」

「そんなわけあるか」

 

 角子は箱を置き、ヤニねこの顔を見る。

 

「まだ昨日の辛さが残っているんですか?」

「少しにゃ」

「お水、飲みます?」

「今はいらないにゃ」

 

 昨日の腹痛を、都合の悪い時だけ思い出した。

 

 大家はため息をつき、残った箱を運び始める。

 

「氷川さん。本当に、この生活で大丈夫なんだろうな」

「通路には置かないようにします」

「部屋の中も心配なんだが……」

 

 角子は室内を振り返る。

 

 酒と炭酸水の箱が、寝具より高く積まれていた。

 

「倒れたら、積み直します」

「倒れる前にどうにかしてくれ」

「分かりました。次から気をつけます」

 

 返事だけは素直だった。

 

 何に気をつけるのか、少し不安が残った。

 

 最後の箱を室内へ入れ、通路が空いたことを確認すると、大家はもう一度だけ注意して帰っていった。

 

 角子は玄関先で丁寧に頭を下げ、大家の背中が見えなくなるまで見送る。

 

 その後ろで、ヤニねこが隠していた小箱を抱え、自分の部屋へ戻ろうとしていた。

 

「ヤニねこ先輩」

 

 呼び止められる。

 

 ヤニねこは動きを止めた。

 

「何にゃ?」

「その箱は?」

「ニャーが運んでやるにゃ」

「先輩の部屋へですか?」

「一回置くだけにゃ」

 

 角子は箱の側面へ目を向けた。

 

「それ、炭酸水ですよ」

 

「…………」

 

 ヤニねこも箱を見る。

 

 商品名が小さく印刷されていた。

 

 その場で封を開けると、中には小さなペットボトルの炭酸水が何本も並んでいる。

 

 酒ではなかった。

 

 ヤニねこは一本を持ち上げ、しばらく眺めた。

 

「これはいらないにゃ」

 

 箱を閉じる。

 

 何事もなかったように立ち上がり、自分の部屋へ帰ろうとした。

 

「運ぶのを手伝ってください」

 

 角子が呼び止める。

 

「腹が痛いから無理にゃ」

「先ほどより元気そうですけど」

「箱を開けたら痛くなったにゃ」

「炭酸水を見てからですか?」

「そういう日もあるにゃ」

 

 ヤニねこは腹を押さえ、苦しそうな顔を作った。

 

 数秒前まで箱を抱えて普通に歩いていたが、本人の中ではもう腹痛だった。

 

 角子はしばらくその顔を見たあと、自分で炭酸水の箱を持ち上げる。

 

「では、ジョッキだけ片づけてください」

「それぐらいならできるにゃ」

 

 ヤニねこは部屋へ戻り、畳の上に置かれていた自分のジョッキを持ち上げた。

 

 中には酒が少し残っている。

 

 片づける前に、すべて飲み干した。

 

 カラカラ。

 

 残った氷だけが鳴る。

 

「片づけたにゃ」

 

 ジョッキは元の場所へ置かれた。

 

 移動した距離は、ほとんどなかった。

 

 角子は何も言わず、新しく届いた酒の箱を壁際へ積み始める。

 

 ヤニねこは、その横で空のジョッキを眺めた。

 

「カラカラねこ」

「はい」

「もう一杯だけなら飲めるにゃ」

「一杯だけと言いました」

「さっきのは配送待ちの分にゃ」

「同じ一杯です」

「ケチにゃ」

「タバコも渡しませんよ」

「それはもう分かったにゃ」

 

 分かった。

 

 納得したとは言っていない。

 

 ヤニねこは腹を押さえたまま、自分の部屋へ戻っていく。

 

 扉を閉める直前、酒の箱へもう一度だけ目を向けた。

 

 カラカラねこの部屋には、酒がある。

 

 頼めば一杯くらいは出る。

 

 でも、タバコはもらえない。

 

 ヤニねこは少しだけ学習した。

 

 翌日には、もう一度頼むつもりだった。

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