これがヤニねこパワーですか?
翌日の昼過ぎ、獣人アパートの前へ配送車が停まった。
荷台の扉が開き、制服姿の配送業者が大きな段ボール箱を抱えて建物へ入ってくる。最初の箱には、見覚えのある酒の銘柄が大きく印刷されていた。
『業務用角瓶』
配送業者は角子の部屋の前へ箱を置くと、すぐに車へ戻っていった。
それで終わりではない。
角瓶。
炭酸水。
ロックアイス。
詰め替え用の調味料。
配送業者は何度も車と角子の部屋を往復し、壁際へ置かれた荷物は、少しずつ共用廊下へ広がっていった。
その物音を聞きつけ、隣の扉が開く。
ヤニねこが腹を押さえながら、廊下へ顔を出した。前日の激辛料理はまだ完全には抜けておらず、腹の奥には鈍い痛みが残っている。朝から何度かトイレへ行っていた。
それでも、酒の箱は見逃さなかった。
「昨日もいっぱいあったにゃ」
角子は配送業者から伝票を受け取り、内容を確認している。
「昨日の分は、引っ越す前から持っていたものです」
ヤニねこは廊下へ出て、積まれた段ボールを指した。
「これはなんにゃ?」
「追加です」
「追加……」
ヤニねこは角瓶の箱を見上げた。
言葉の意味はよく分からない。
ただ、無料で飲める可能性が増えたことだけは分かった。
「じゃあ問題ないにゃ」
何の問題かは、角子にも分からなかった。
配送業者が、今度は小さめの箱を持ってくる。側面には商品名が細かく書かれていたが、ヤニねこは読まなかった。
箱である。
酒かもしれない。
それだけで十分だった。
「そちらは壁際へお願いします」
「もう壁際がいっぱいなんですが」
配送業者は玄関の中を覗いた。室内の壁際には、昨日までの酒瓶と段ボールがすでに積み上がっている。寝具や衣類の箱は奥へ押し込まれ、畳の空いている部分も少ない。
角子は少し考える。
「では、廊下へ一度置いてください。あとで中へ入れます」
「分かりました」
配送業者は箱を置き、再び車へ戻った。
ヤニねこはその様子を眺めている。
手伝う気はなかった。
「カラカラねこ、いっぱい買ったにゃー」
「まとめて注文したほうが楽なので」
「安いのかにゃ?」
「少しは」
ヤニねこの目は、角子ではなく業務用角瓶の箱へ向いていた。
「ニャーの分も入ってる?」
「入っていません」
「でも飲める?」
「一杯くらいなら」
「やったにゃ」
ヤニねこはそこで初めて、角子の部屋へ入った。
配送作業が続く中、角子は届いた箱の封を確認し、畳の上へ順番に並べていく。最初は中身ごとに分けようとしていたが、三箱目を開けたところで手が止まった。
酒。
炭酸水。
調味料。
どれも近いうちに使う。
細かく分ける必要はなかった。
角子は片づけを諦め、開けた箱ごと壁際へ押し寄せた。
「少し休憩しましょう」
ヤニねこはすでに畳へ座っていた。
「そうするにゃ」
働いてはいなかった。
角子は新しく届いたロックアイスの袋を開け、ステンレス製のジョッキへ氷を入れる。続いて開封済みの業務用角瓶を持ち上げ、琥珀色の液体をジョッキの七割ほどまで注いだ。
「一杯だけですよ」
「分かってるにゃ」
残った隙間へ、炭酸水が少しだけ足される。
角子はジョッキをヤニねこへ渡した。
「どうぞ」
「カラカラねこは話が分かるにゃ」
ヤニねこは両手で受け取り、一口飲む。
「濃いにゃ」
「今日は少し薄めです」
「そうは思えないにゃ」
それでも、もう一口飲んだ。
無料だった。
濃さは大した問題ではない。
角子も自分のジョッキを作り、畳へ座る。配送業者が廊下を往復する音を聞きながら、二人で酒を飲んだ。
ヤニねこは半分ほど飲んだところで、ジョッキの中を見る。
酒は飲めばなくなる。
タバコなら、今すぐ吸える。
「この酒いらないから、代わりにタバコ買ってくれにゃ」
「嫌です」
角子は即答した。
「なんでにゃ?」
「お酒なら出しますけど、タバコは自分で買ってください」
「酒より安いにゃ」
「値段は関係ありません」
「じゃあ、カラカラねこの一本くれにゃ」
要求が変わった。
角子は畳の端に置かれた、自分のタバコを見る。
「これは私の分です」
「いっぱいあるにゃ」
「次に買う日までの分しかありません」
「一本くらい平気にゃ」
「駄目です」
「今日だけにゃ」
「駄目です」
「半分」
「どうやって吸うんですか」
何度頼んでも、角子の声と表情は変わらなかった。
追い返しはしない。
酒も出す。
ただし、自分のタバコは渡さない。
ヤニねこには、その線引きがよく分からなかった。
「カラカラねこ、ケチにゃ」
「お酒は出していますよ」
「タバコのほうが大事にゃ」
「それなら、お酒は戻しますか?」
角子がジョッキへ手を伸ばす。
ヤニねこはすぐに胸元へ抱え込んだ。
「これはもうニャーのにゃ」
酒まで失うのは困る。
ヤニねこは不満そうに頬を膨らませたまま、残りを飲んだ。
その頃、共用廊下では配送作業が終わりかけていた。配送業者が最後の箱を置き、伝票へ受領印をもらって帰っていく。
残された段ボールは玄関前から壁際まで続き、人が通れる幅は半分ほどしか残っていなかった。
しばらくして、廊下を歩く足音が聞こえる。
足音は角子の部屋の前で止まった。
「氷川さん」
大家だった。
角子はジョッキを置き、すぐに立ち上がる。
「はい」
玄関を開けると、大家は廊下に積まれた箱を見下ろしていた。
「これは何だ?」
「追加で注文した荷物です」
「中身じゃなくて、廊下の話をしてるんだ」
「すみません。すぐ部屋へ入れます」
角子は丁寧に頭を下げた。
受け答えだけを見れば、やはりまともな社会人だった。
大家は箱の側面を見る。
『業務用角瓶』
『炭酸水』
『ロックアイス』
『詰め替え用調味料』
生活用品らしい箱はなかった。
「これ、全部一人で使うのか?」
「しばらくは持つと思います」
「しばらくって、どれくらいだ?」
角子は積まれた酒を眺める。
「角瓶は少し早くなくなるかもー」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
大家の眉間に皺が寄った。
「とにかく、共用部分へ荷物を置いたままにしないでくれ。ほかの住人も通るんだからな」
「分かりました」
角子はすぐに箱を一つ持ち上げ、室内へ運び始めた。大家も通路を空けるため、仕方なく近くの箱へ手をかける。
その背後で、ヤニねこが廊下へ出た。
手伝うためではない。
積まれた箱の中から、一番小さなものを選ぶ。片手でも持てるほど軽い。
中身が酒なら、隠して持ち帰れる。
ヤニねこは大家と角子の背中を確認し、箱を抱えたまま自分の後ろへ隠した。角子は大きな箱を部屋へ運び、大家はその隣の箱を押している。
誰も見ていない。
ヤニねこは小さな箱を、自分の部屋側へ少しずつ移動させた。
「お前も手伝え」
大家が振り返る。
ヤニねこは箱の前へ立ち、尻尾で隠した。
「腹が痛いにゃ」
「さっき酒を飲んでただろ」
「酒は腹に優しいにゃ」
「そんなわけあるか」
角子は箱を置き、ヤニねこの顔を見る。
「まだ昨日の辛さが残っているんですか?」
「少しにゃ」
「お水、飲みます?」
「今はいらないにゃ」
都合の悪いときだけ思い出した。
大家はため息をつき、残った箱を運び始める。
「氷川さん。本当に、この生活で大丈夫なんだろうな」
「通路には置かないようにします」
「部屋の中も心配なんだが……」
角子は室内を振り返った。
酒と炭酸水の箱が、寝具より高く積まれている。
「倒れたら、積み直します」
「倒れる前にどうにかしてくれ」
「分かりました。次から気をつけます」
返事だけは素直だった。
大家が何へ気をつけてほしいのか、どこまで理解したかは分からない。
最後の箱を室内へ入れ、通路が空いたことを確認すると、大家はもう一度注意してから帰っていった。
角子は玄関先で丁寧に頭を下げ、大家の背中が見えなくなるまで見送る。
その後ろで、ヤニねこは隠していた小箱を抱え、自分の部屋へ戻ろうとしていた。
「ヤニねこ先輩」
呼び止められる。
ヤニねこの動きが止まった。
「何にゃ?」
「その箱は?」
「ニャーが運んでやるにゃ」
「先輩の部屋へですか?」
「一回置くだけにゃ」
角子は箱の側面を見る。
商品名が小さく印刷されていた。
「それ、炭酸水ですよ」
「…………」
ヤニねこは箱を畳へ置き、その場で封を開けた。中には、小さなペットボトルの炭酸水が何本も並んでいる。
酒ではなかった。
ヤニねこは一本を持ち上げ、しばらく眺める。
「これはいらないにゃ」
箱を閉じると、何事もなかったように立ち上がり、自分の部屋へ帰ろうとした。
「運ぶのを手伝ってください」
角子が呼び止める。
「腹が痛いから無理にゃ」
「先ほどより元気そうですけど」
「箱を開けたら痛くなったにゃ」
「炭酸水を見てからですか?」
「そういう日もあるにゃ」
ヤニねこは腹を押さえ、苦しそうな顔を作った。
数秒前まで、箱を抱えて普通に歩いていた。
角子はしばらくヤニねこを見たあと、炭酸水の箱を持ち上げる。
「では、ジョッキだけ片づけてください」
「それぐらいならできるにゃ」
ヤニねこは部屋へ戻り、畳の上に置かれていた自分のジョッキを持ち上げた。中には酒が少し残っている。
片づける前に、すべて飲み干した。
カラカラ。
残った氷だけが鳴る。
「片づけたにゃ」
ジョッキは元の場所へ戻された。
移動した距離は、ほとんどなかった。
角子は何も言わず、新しく届いた酒の箱を壁際へ積み始める。ヤニねこは、その横で空のジョッキを眺めていた。
「カラカラねこ」
「はい」
「もう一杯だけなら飲めるにゃ」
「一杯だけと言いました」
「さっきのは配送待ちの分にゃ」
「同じ一杯です」
「ケチにゃ」
「タバコも渡しませんよ」
「それはもう分かったにゃ」
分かっていても、次も聞くつもりだった。
ヤニねこは腹を押さえたまま、自分の部屋へ戻っていく。扉を閉める直前、酒の箱へもう一度だけ目を向けた。
角子の部屋には酒がある。
ただし、タバコはもらえない。
ヤニねこは少しだけ学習した。
翌日には、もう一度頼むつもりだった。