朝から、ヤニねこは禁煙していた。
理由は単純だ。
タバコを買う金がなかった。
吸いたくても買えない状態を、本人は禁煙と呼んでいる。大家からは「それは禁煙ではなく金欠だ」と言われたが、吸っていないという結果が同じなら、大した違いではないらしい。
「このまま禁煙できれば、タバコ代が全部浮くにゃ」
金が浮いたところで、どうせ酒か食べ物か、本人も覚えていない何かへ消える。それでも今のヤニねこには、かなり立派な考えに思えた。
そこで手に入れたのが、獣人専用の禁煙補助薬だった。
『ニャコチンパッチ』
箱の表には、猫獣人が腕へ丸いパッチを貼っている絵が描かれている。周囲には使用方法や注意事項らしい文字も並んでいたが、説明書を読むのは面倒だった。
絵は見た。
もう分かった。
「貼れば貼るほど効くやつにゃ」
ヤニねこは箱を開け、パッチを一枚取り出して腕へ貼った。もう一枚は反対側の腕。そのまま首、腹、背中、頬、額と、貼れそうな場所へ次々と追加していく。
毛が邪魔をして、いくつかはすぐに剥がれた。床へ落ちたパッチを拾い、今度は毛の少なそうな場所へ貼り直す。
試しに尻尾へも貼ってみた。
すぐ剥がれた。
「尻尾は相性悪いにゃ」
尻尾との相性ではなかった。
箱の中身がほとんどなくなる頃には、ヤニねこの身体中へ白い丸が貼りついていた。毛の上へ無理に貼ったものは端が浮き、動くたびにぱたぱたと揺れている。
鏡を見る。
「効いてる感じするにゃ」
見た目だけは、かなり効いていた。
しかし、タバコを吸いたい気持ちはすぐには消えなかった。畳へ寝転がっても、冷蔵庫を開けても、灰皿の中を意味もなく覗いても、吸いたいものは吸いたい。
五分。
十分。
ヤニねこの耳が落ち着きなく動き始める。
「遅いにゃ……」
十五分後。
我慢できなくなった。
ヤニねこは灰皿の横へ置いていた最後の一本を手に取る。少し曲がっていたが、吸えないほどではない。
口へくわえ、ライターへ手を伸ばす。
一度だけ、身体中のパッチを見た。
「パッチも貼って、タバコも吸えば完璧にゃ」
完璧ではなかった。
火をつけ、深く吸い込む。
「ぷはー……」
久しぶりでもないのに、妙にうまかった。煙が肺へ入った瞬間、さっきまでの落ち着かなさが少しだけ遠ざかる。
ヤニねこは満足そうに煙を吐き、もう一口吸った。
しばらくすると、胸のあたりが騒がしくなった。
「……?」
鼓動が速い。耳の奥で音が鳴り、部屋の壁が少し傾いて見える。胃の中まで急に落ち着かなくなり、ヤニねこは口元を押さえた。
「なんか変にゃ」
立ち上がろうとしたところで、足元が揺れる。
身体へ力を入れるより先に、その場で畳へ倒れ込んだ。衝撃で身体中のパッチがいくつか一斉に剥がれ、毛へ絡まりながら周囲へ散る。
玄関の外を通りかかった大家が、大きな物音に足を止めた。
「また何かやったのか?」
返事はなかった。
少しして、部屋の中から弱々しい声が聞こえる。
「ニャーはなにも悪いことしてないのに……」
説明書を読まなかった。
パッチを大量に貼った。
そのままタバコも吸った。
かなり悪かった。
夕方。
どうにか歩ける程度まで回復したヤニねこは、残ったニャコチンパッチの箱を持ち、隣の部屋の前へ立っていた。
額には剥がした跡が残り、頬や首の毛には粘着剤が絡んでいる。背中に貼った一枚だけは自分で剥がせず、端が浮いたまま残っていた。
歩くたびに、ぱたぱた揺れる。
かなり目立っていた。
ヤニねこは扉を叩く。
こん、こん。
「カラカラねこー」
返事を待たず、もう一度叩いた。
こんこんこんこん。
「いるにゃー?」
「います」
中から落ち着いた声が返ってくる。
少しして鍵が開き、角子が顔を出した。片手にはステンレスジョッキを持ち、もう片方には途中まで包装を剥いた魚肉ソーセージが握られている。
角子はヤニねこを見た。
頬。
額。
首。
最後に、背中から剥がれかけているパッチ。
「ずいぶん貼りましたね」
「これの使い方分かるかにゃー?」
ヤニねこは箱を差し出した。
角子は魚肉ソーセージをジョッキの横へ置き、箱を受け取る。
「説明書は読みましたか?」
ヤニねこは目を逸らした。
「絵は見たにゃ」
「説明書は?」
「絵の裏にあったかもしれないにゃ」
角子が箱の底を開くと、折り畳まれた紙が出てきた。
大量の毛がついている。
一部は粘着剤で貼りつき、開こうとしても端が一緒に持ち上がった。角子は紙を破らないように毛を取り除き、固まった折り目を少しずつ広げていく。
「ずいぶん毛だらけですね」
「説明書のほうからくっついてきたにゃ」
説明書に意思はなかった。
角子は読める部分を探し、赤字の注意書きと簡単な図を確認する。炊飯器や電子レンジなら、動けばだいたい大丈夫で済ませる角子だったが、薬の説明だけは比較的真面目に読むらしい。
「これは、タバコみたいに一度にたくさん取り込むものではないみたいですね」
「どういうことにゃ?」
「皮膚から少しずつ吸収させて、タバコを吸えないときのつらさを和らげるものです」
ヤニねこは分かったような顔で頷いた。
「じゃあ、いっぱい貼ったほうが効くにゃ」
「そういう意味ではありません」
角子は説明書の絵を指す。
「決められた枚数だけ貼ります。身体中に貼ってはいけません」
「顔は?」
「顔にも貼りません」
「尻尾は?」
「貼りません」
「耳の裏なら目立たないにゃ」
「目立つかどうかの問題ではないです」
角子は箱の側面も確認した。高用量から低用量へ切り替えていく図が載っており、週ごとに色と番号が分けられている。
猫獣人でも分かるように作られていた。
ヤニねこには分からなかった。
「この箱に書かれた順番と枚数を守るんですね」
「最初から小さいやつじゃ駄目?」
「書いてある通りにしてください」
「面倒にゃ」
「倒れるよりは楽だと思います」
ヤニねこは黙った。
すでに一度倒れていた。
角子は説明書をさらに読み進め、赤い枠で囲まれた部分へ指を置く。
「それから、一番大事なのはここですね」
「どこにゃ?」
「貼っている間は、タバコを吸ってはいけません」
ヤニねこの耳が少し動いた。
「なんでにゃ?」
「パッチからも成分が入っています。そこへタバコまで吸うと、摂りすぎて吐き気やめまいが起きることがあるそうです」
「危ないにゃー」
どこか他人事だった。
角子はヤニねこの頬と、毛に残っている粘着跡を見る。
「何か心当たりがありますか?」
「ないにゃ」
あった。
角子は追及せず、次の注意書きへ移る。
「これは獣人専用です。獣人以外には使わせないでください」
「使うとどうなる?」
角子は紙を顔へ近づけた。
「死亡するおそれがあるそうです」
二人とも黙った。
換気扇の音だけが聞こえる。
「ずいぶん急に重いにゃ」
「目立つところへ書いてほしいですね」
実際には、箱の正面に大きく書かれていた。
角子は説明書を畳み直そうとしたが、粘着剤で途中がくっついている。何度か折り目を合わせようとして諦め、そのまま箱の上へ置いた。
「でも、こういう物なら私も持っていますよ」
「ニャコチンパッチ?」
「似たようなものです」
角子は部屋の隅に置かれた薬箱へ手を伸ばす。
中には絆創膏、胃薬、酔い止め、期限の切れた風邪薬。何に使ったのか分からない小袋や、空になった薬の箱まで雑に詰め込まれている。
薬を探すたび、全部かき回す仕組みだった。
角子はその底から、ニャコチンパッチによく似た箱を取り出す。
ラベルには、大きくこう書かれていた。
『獣人専用・アル中パッチ』
ヤニねこが箱を読む。
「アル中パッチ……にゃ?」
「禁酒を補助するものです」
「カラカラねこが?」
「はい」
説得力がなかった。
角子は箱を開け、中から一枚取り出す。白いパッチの中央には、小さなジョッキの絵が印刷されていた。
「お酒を飲みたくなったときに使います。皮膚から少しずつ成分が入って、急に飲みたくなる感じを抑えるそうです」
「それ、本当に禁酒の薬かにゃ?」
「獣人用なので、人間には使えません」
角子は話をずらした。
箱の裏には、ニャコチンパッチとよく似た注意書きが並んでいる。
指定枚数を守ること。
酒と併用しないこと。
傷や炎症のある場所へ貼らないこと。
獣人以外へ使わせないこと。
ヤニねこはアル中パッチの箱と、部屋の壁際に積まれた酒瓶を見比べる。開封済みの角瓶だけでも数本あり、その手前には氷の入ったステンレスジョッキが置かれていた。
「これ、効いたことある?」
角子は落ち着いた顔で答える。
「これで何度も禁酒に成功しました」
ヤニねこは首をかしげた。
「何度も成功してる時点で、失敗してないかにゃ?」
角子は少し考える。
「そのときは成功していました」
「今は?」
角子は答えなかった。
代わりに、ステンレスジョッキを少し持ち上げる。
カラカラ。
氷だけが答えた。
「今も飲んでるにゃ」
「今日は禁酒する日ではないので」
「禁酒する日は決まってる?」
「そのうち決めます」
先送りだった。
角子はアル中パッチの箱から、未開封の小袋を一つ取り出す。
「よければ、どうぞ」
ヤニねこは差し出された袋を受け取った。
「ニャー、酒はそんなに飲まないにゃ」
「それなら必要ないかもしれませんね」
「でも無料なら持っておくにゃ」
ヤニねこはニャコチンパッチとアル中パッチを、同じポケットへ入れた。箱の色も形もよく似ており、袋だけになれば区別しにくい。
角子は少しだけ眉を寄せる。
「二つを同時に使っていいとは書いてありませんから、勝手に貼らないでくださいね」
「気をつけるにゃー」
返事だけはよかった。
ヤニねこは立ち上がり、玄関へ向かう。角子は箱と説明書を片づけながら、最後の注意を思い出した。
「ヤニねこ先輩」
「何にゃ?」
「ニャコチンパッチを貼っている間は、タバコを吸わないでください」
廊下へ出たヤニねこの口には、すでに火のついていないタバコがくわえられていた。
動きが止まる。
角子と目が合った。
ヤニねこはゆっくりとタバコを外し、ポケットへ戻す。
「今のは吸うつもりじゃなかったにゃ」
「そうですか」
「くわえてただけにゃ」
「分かりました」
角子は追及しなかった。
ヤニねこは扉を閉め、自分の部屋へ戻っていく。廊下を歩く途中で一度だけポケットへ手を入れたが、角子の扉を振り返り、タバコを取り出すのはやめた。
少しは説明が効いたらしい。
角子は部屋へ戻り、畳の上に残されたアル中パッチの箱を見る。
少し迷い、一枚取り出した。
中央には、小さなジョッキが描かれている。その横には、作りたての濃いハイボール。
説明書には、大きな赤字で書かれていた。
『使用中は飲酒しないこと』
角子はパッチを見る。
ジョッキを見る。
もう一度パッチを見る。
箱へ戻した。
「今日は、まだ必要ないかもー」
ジョッキを持ち上げる。
カラカラ。
禁酒は、また今度になった。