ヤニねことカラカラねこ   作:きのこ大三元

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第4話 畳の上で火を使うなにゃ

夜の八時を少し回った頃、氷川角子は仕事から帰宅した。

 

 昼間は落ち着いたシャツとパンツを着ていたが、部屋へ入るなり上着を脱ぎ、『酒命』と書かれたTシャツへ着替える。髪もほどき、仕事鞄は玄関脇へ置いた。

 

 中身は出さなかった。明日の朝に必要な書類も入っているが、その時に探せばいい。

 

 今は夕飯だった。

 

 角子は冷蔵庫から炭酸水とロックアイスを取り出し、畳の上へ置く。続いて壁際の段ボールから、業務用角瓶、卓上コンロ、フライパン、炊飯器、まな板、包丁、調味料を順番に並べていった。

 

 灰皿を置き、スマートフォン用の三脚も立てる。

 

 畳の中央へ、火、刃物、酒、タバコ、炊飯器がそろった。

 

 夕飯の準備としては、少し危険物が多い。

 

 角子はスマートフォンの画面を確認した。少し傾いていたが、手元は映っている。

 

 まあ、大丈夫だろう。

 

 そのまま配信を始める。

 

『どうも、nyanyanyaです』

『今日はすき焼きを作ります』

 

《豪華》

《給料日?》

《畳の上ですき焼き》

《嫌な予感》

 

 角子が最初に取り出したのは、白い発泡スチロールの箱だった。蓋を開けると、中にはきれいな霜降りの牛肉が何枚も並んでいる。

 

 普段の安売り肉とは明らかに違った。赤身の間へ細かな脂が入り、薄い肉が一枚ずつ丁寧に包まれている。

 

『国産黒毛和牛のすき焼き用です』

 

《本物?》

《急に高級》

《それ配信で全部使うの?》

 

 角子は値札をカメラへ向けた。

 

 画面へ、かなりいい金額が映る。

 

《高い》

《返してこい》

《肉だけで酒何本買える?》

 

 コメントは気にせず包装を外し、肉を皿へ移していく。

 

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 

 そのまま全部。

 

《全部いくの?》

《残さないの?》

《一人分ではない》

 

 角子は少し考え、炊飯器の内釜を映した。

 

『食べきれなければ、明日も食べます』

 

《食べきる気だ》

《翌日ある?》

 

 次に椎茸、焼き豆腐、長ねぎ、白菜、春菊、白滝を取り出す。

 

 長ねぎは大きめの斜め切り。白菜は芯と葉へ分け、椎茸には飾り包丁を入れる。白滝も食べやすい長さへ切り、焼き豆腐の水気まできちんと拭いていた。

 

 ここまでは手際がいい。

 

 料理のできる人の動きだった。

 

 角子は卓上コンロのつまみを回す。

 

 ぼっ。

 

 畳から数センチ上で、青い火が燃えた。

 

 そこだけ急に怖い。

 

 角子は気にせずフライパンを置き、牛脂を落とす。

 

『最初にお肉を焼きます』

 

《畳》

《火が近い》

《大家に見つかるぞ》

 

 牛脂が溶ける。角子は黒毛和牛を一枚持ち上げ、フライパンへ広げた。

 

 じゅうっ。

 

 高級な脂が音を立て、甘い匂いが部屋へ広がる。肉の端が縮み、表面の脂がつやつやと光った。

 

 角子はそこへ砂糖を入れる。

 

 大さじ一杯。

 二杯。

 三杯。

 

《多い》

《肉が高いのに味付けが雑》

《砂糖漬け》

 

 続いて醤油をどぼどぼ。

 

 酒もどぼどぼどぼ。

 

《いつもの》

《高級肉への暴力》

《肉が泣いてる》

 

 角子は肉を裏返し、一枚だけ小皿へ取った。残りはすべて炊飯器の内釜へ移していく。

 

『あとは炊飯器で煮ます』

 

 白菜、長ねぎ、椎茸、焼き豆腐、白滝、春菊。内釜の中へ材料が次々と積み上がる。

 

 明らかに多い。

 

 炊飯器の目盛りなど、もうほとんど見えていなかった。

 

 角子は上から手で軽く押す。

 

 少し沈んだ。

 

 入った。

 

 なら大丈夫。

 

《入れすぎ》

《蓋閉まる?》

《炊飯器かわいそう》

 

 続いて割り下を作る。醤油、酒、みりん、砂糖。それぞれ、かなり多めだった。

 

 計量カップは使わず、ボトルから直接注ぐ。

 

 どぼどぼ。

 どぼどぼ。

 ざあっ。

 

『濃いめにします』

 

《見れば分かる》

《濃いめの範囲か?》

《牛肉の味どこ》

 

 最後に、角子は白い粉の入った大袋を持ち上げた。

 

『祖父の遺灰を入れます』

 

《やめろ》

《祖父登場》

《うま味調味料だろ》

《供養の量じゃない》

 

 もちろん、本物の遺灰ではない。祖父がよく使っていたという理由で、角子が勝手にそう呼んでいるだけのうま味調味料だった。

 

 角子は袋を傾ける。

 

 ざああっ。

 

 白い粉が、肉と野菜の上へ雪のように積もった。

 

《大量》

《祖父復活》

《黒毛和牛より主張強い》

《成仏できない》

 

 角子は少し手を止め、内釜を見る。

 

 まだいけそうだった。

 

 もう一度、袋を傾ける。

 

 ざっ。

 

《追加するな》

《追い祖父》

《味覚が心配》

 

 満足した。

 

 角子は内釜を炊飯器へ戻し、蓋を閉めようとした。野菜が引っかかったため、白菜を内側へ押し込み、春菊を折り曲げて、もう一度押す。

 

 閉まった。

 

『炊飯します』

 

 炊飯ボタンが押され、炊飯器が低い音を立て始める。

 

 ぶううん。

 

 卓上コンロの火は、まだついたままだった。

 

 角子は先ほど焼いた肉を小皿へ載せ、隣へ生卵を用意する。卵を割ると、黄身はきれいに残った。

 

 肉を卵へくぐらせ、口へ運ぶ。

 

 少し噛む。

 

 耳が立った。

 

「おいしいかもー」

 

《でしょうね》

《肉は悪くない》

《完成前に食べてる》

《高級肉だけ食べたい》

 

 角子はステンレスジョッキへロックアイスを入れる。

 

 カラカラ。

 

 続いて業務用角瓶を持ち上げ、ジョッキの八割近くまでウイスキーを注いだ。炭酸水は少しだけ。

 

《うっす》

《体調悪いんか?》

《今日は水多い》

《健康に配慮》

 

 角子はコメントを見てジョッキの中を確認し、炭酸水を少し追加した。

 

《入れすぎ》

《台無し》

《もう水》

 

 これで少し薄くなった。

 

 角子の中では。

 

 一口飲む。

 

「ぷはー……」

 

 ジョッキを畳へ戻す。

 

 カラカラ。

 

 すき焼きの匂いは、すでに隣の部屋まで届いていた。

 

 黒毛和牛。

 砂糖。

 醤油。

 酒。

 

 ヤニねこの鼻が動く。

 

「いい肉の匂いするにゃ」

 

 前回の激辛料理で腹を壊した記憶は、もうかなり薄くなっていた。

 

 腹痛より、高級肉の匂いのほうが強かった。

 

 ヤニねこは隣室へ向かい、扉を二度叩く。

 

 こん、こん。

 

「カラカラねこー」

 

 返事を待たず、ドアノブへ手をかけた。

 

 今日は開いている。

 

「入るにゃ」

 

 許可を取る前に入った。

 

 部屋の中央では炊飯器が働いている。その隣には卓上コンロ、フライパン、酒瓶、灰皿、三脚が並び、角子は生卵につけた黒毛和牛を食べていた。

 

 ヤニねこの目が、まっすぐ肉へ向く。

 

「それ高いやつにゃ?」

「国産黒毛和牛です」

「ニャーも食うにゃ」

「まだ一枚しか焼けていません」

「それでいいにゃ」

 

 ヤニねこは、角子の皿に残っていた肉を指した。

 

 角子は少し考える。

 

「味見をお願いします」

「任せるにゃ」

 

 ヤニねこは箸を受け取り、まだ湯気の出ている肉を持ち上げた。

 

 確認せず、生卵へ少しだけつけて口へ入れる。

 

「あっついにゃ!」

 

 耳が伏せ、尻尾の毛が膨らむ。

 

 それでも吐き出さなかった。

 

 高級肉だった。

 

 口の中で何度も転がし、そのまま飲み込む。

 

「熱いにゃ!」

「今焼いたところですからね」

「先に言えにゃ」

「湯気が出ていましたよ」

 

 ヤニねこは空になった皿を見る。

 

「もうないにゃ?」

「残りは炊飯器です」

「開けるにゃ」

「まだ炊けていません」

「味見すれば分かるにゃ」

 

 ヤニねこは炊飯器へ近づき、蓋へ手を伸ばす。

 

 角子は止めなかった。

 

 配信としては、少し面白そうだった。

 

《開けるな》

《猫きた》

《いつもの》

《黒毛和牛が危ない》

 

 蓋が開く。

 

 むわっ。

 

 濃い湯気が一気に立ち上がった。酒、醤油、砂糖、牛肉の脂が混ざったすき焼きの匂いが部屋中へ広がる。

 

「まだ生にゃ」

「炊飯中ですからね」

 

 ヤニねこは顔を近づけ、肉を探す。

 

 白菜。

 長ねぎ。

 白滝。

 椎茸。

 焼き豆腐。

 

 黒毛和牛は、底のほうへ沈んでいた。

 

「肉が見えないにゃ」

「下にあります」

「取るにゃ」

「熱いですよ」

「さっきので慣れたにゃ」

 

 何も学んでいなかった。

 

 ヤニねこは箸で具材をかき分け始める。湯気がさらに広がり、開けた窓から共用廊下へ流れていった。

 

 その匂いに、一階にいた大家が気づく。

 

「すき焼きか?」

 

 少しだけ、うまそうだった。

 

 その直後。

 

 焦げたような匂いが混じる。

 

「……ん?」

 

 大家の顔が曇った。

 

 コーポ大谷で、うまそうな匂いのあとに焦げ臭さが来る。

 

 嫌な予感しかしない。

 

 大家は階段を上がり、角子の部屋へ向かった。

 

 どん、どん。

 

「氷川さん」

 

 角子が玄関へ顔を向ける。

 

「大家さんですね」

「ニャーはいないにゃ」

 

 炊飯器を漁りながら、ヤニねこが言った。

 

「いるだろ」

 

 大家は扉の隙間から室内を覗く。

 

 畳の上には卓上コンロ。

 

 そのすぐ近くには業務用角瓶。

 

 灰皿からは細い煙が上がり、炊飯器の蓋は開いたまま。その前ではヤニねこが高級肉を探している。

 

 少し傾いたスマートフォンは、その光景を全部配信していた。

 

「…………」

 

 大家は短く息を吐いた。

 

「氷川さん」

「はい」

「畳の上で火を使うのはやめてくれ」

「分かりました」

 

 角子は素直に頷く。

 

 大家は卓上コンロの下を見る。

 

「何も敷いてないのも危ないからな」

「では、これを敷きます」

 

 角子は近くにあった段ボール箱を潰した。

 

「それはもっと駄目だ」

 

 大家がすぐに取り上げる。

 

「燃えやすい物を増やすな。コンロは台所で使ってくれ」

「分かりました」

「酒と灰皿も、火から離して」

「次から気をつけます」

 

 返事は素直だった。

 

 安全判断だけが少し心配だった。

 

 その間に、ヤニねこは炊飯器の底から黒毛和牛を一枚発見していた。

 

 大きい。

 

 脂も多い。

 

 かなり当たりの一枚だった。

 

 箸で持ち上げ、生卵へくぐらせ、そのまま口へ入れる。

 

「あつっ」

 

 また熱かった。

 

 今度は声を抑える。

 

 大家に見つかって取り上げられるほうが困る。

 

 大家は卓上コンロの火が消えたことを確認し、玄関へ戻った。

 

「本当に気をつけてくれよ」

「はい。すみませんでした」

 

 角子は丁寧に頭を下げる。

 

 大家が帰り、扉が閉まった。

 

 ヤニねこは口の中の肉を飲み込み、満足そうに息を吐く。

 

「うまいにゃ」

「味はどうですか?」

「濃いにゃ」

「よかったです」

「祖父の味するにゃ」

「会ったことあるんですか?」

「ないにゃ」

 

 うま味調味料の味だった。

 

 角子は卓上コンロを台所へ運び、酒瓶と灰皿も少し離す。注意されたことは、一応その場で守った。

 

 ヤニねこは炊飯器の前から動かない。

 

「カラカラねこ」

「はい」

「これ、全部できたら呼んでにゃ」

「まだ食べるんですか?」

「黒毛和牛なら食えるにゃ」

「白菜も食べてください」

「肉の下にあれば食うにゃ」

 

 野菜を食べる気はなかった。

 

 角子は配信用のスマートフォンを台所へ向け直した。

 

 画面は、前よりさらに傾いている。

 

『大家さんに注意されたので、続きは炊飯器だけで作ります』

 

《怒られた》

《当たり前》

《肉は無事?》

《猫に食われてる》

 

 角子が炊飯器を見る。

 

 ヤニねこが、もう一枚の黒毛和牛を白菜の下へ隠していた。

 

「何してるんですか?」

「肉が乾かないようにしてるにゃ」

「そうですか」

 

 角子は追及しなかった。

 

 炊飯器が再び低い音を立て始める。

 

 ぶううん。

 

 角子はジョッキを持ち上げた。

 

 カラカラ。

 

 ヤニねこは白菜の下から肉を引き出した。

 

 大家の注意は、一応届いた。

 

 高級肉は、ほとんど届かなかった。

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