夜の八時を少し回った頃、氷川角子は仕事から帰宅した。
昼間は落ち着いたシャツとパンツを着ていたが、部屋へ入るなり上着を脱ぎ、『酒命』と書かれたTシャツへ着替える。髪もほどき、仕事鞄は玄関脇へ置いた。
中身は出さなかった。明日の朝に必要な書類も入っているが、その時に探せばいい。
今は夕飯だった。
角子は冷蔵庫から炭酸水とロックアイスを取り出し、畳の上へ置く。続いて壁際の段ボールから、業務用角瓶、卓上コンロ、フライパン、炊飯器、まな板、包丁、調味料を順番に並べていった。
灰皿を置き、スマートフォン用の三脚も立てる。
畳の中央へ、火、刃物、酒、タバコ、炊飯器がそろった。
夕飯の準備としては、少し危険物が多い。
角子はスマートフォンの画面を確認した。少し傾いていたが、手元は映っている。
まあ、大丈夫だろう。
そのまま配信を始める。
『どうも、nyanyanyaです』
『今日はすき焼きを作ります』
《豪華》
《給料日?》
《畳の上ですき焼き》
《嫌な予感》
角子が最初に取り出したのは、白い発泡スチロールの箱だった。蓋を開けると、中にはきれいな霜降りの牛肉が何枚も並んでいる。
普段の安売り肉とは明らかに違った。赤身の間へ細かな脂が入り、薄い肉が一枚ずつ丁寧に包まれている。
『国産黒毛和牛のすき焼き用です』
《本物?》
《急に高級》
《それ配信で全部使うの?》
角子は値札をカメラへ向けた。
画面へ、かなりいい金額が映る。
《高い》
《返してこい》
《肉だけで酒何本買える?》
コメントは気にせず包装を外し、肉を皿へ移していく。
一枚。
二枚。
三枚。
そのまま全部。
《全部いくの?》
《残さないの?》
《一人分ではない》
角子は少し考え、炊飯器の内釜を映した。
『食べきれなければ、明日も食べます』
《食べきる気だ》
《翌日ある?》
次に椎茸、焼き豆腐、長ねぎ、白菜、春菊、白滝を取り出す。
長ねぎは大きめの斜め切り。白菜は芯と葉へ分け、椎茸には飾り包丁を入れる。白滝も食べやすい長さへ切り、焼き豆腐の水気まできちんと拭いていた。
ここまでは手際がいい。
料理のできる人の動きだった。
角子は卓上コンロのつまみを回す。
ぼっ。
畳から数センチ上で、青い火が燃えた。
そこだけ急に怖い。
角子は気にせずフライパンを置き、牛脂を落とす。
『最初にお肉を焼きます』
《畳》
《火が近い》
《大家に見つかるぞ》
牛脂が溶ける。角子は黒毛和牛を一枚持ち上げ、フライパンへ広げた。
じゅうっ。
高級な脂が音を立て、甘い匂いが部屋へ広がる。肉の端が縮み、表面の脂がつやつやと光った。
角子はそこへ砂糖を入れる。
大さじ一杯。
二杯。
三杯。
《多い》
《肉が高いのに味付けが雑》
《砂糖漬け》
続いて醤油をどぼどぼ。
酒もどぼどぼどぼ。
《いつもの》
《高級肉への暴力》
《肉が泣いてる》
角子は肉を裏返し、一枚だけ小皿へ取った。残りはすべて炊飯器の内釜へ移していく。
『あとは炊飯器で煮ます』
白菜、長ねぎ、椎茸、焼き豆腐、白滝、春菊。内釜の中へ材料が次々と積み上がる。
明らかに多い。
炊飯器の目盛りなど、もうほとんど見えていなかった。
角子は上から手で軽く押す。
少し沈んだ。
入った。
なら大丈夫。
《入れすぎ》
《蓋閉まる?》
《炊飯器かわいそう》
続いて割り下を作る。醤油、酒、みりん、砂糖。それぞれ、かなり多めだった。
計量カップは使わず、ボトルから直接注ぐ。
どぼどぼ。
どぼどぼ。
ざあっ。
『濃いめにします』
《見れば分かる》
《濃いめの範囲か?》
《牛肉の味どこ》
最後に、角子は白い粉の入った大袋を持ち上げた。
『祖父の遺灰を入れます』
《やめろ》
《祖父登場》
《うま味調味料だろ》
《供養の量じゃない》
もちろん、本物の遺灰ではない。祖父がよく使っていたという理由で、角子が勝手にそう呼んでいるだけのうま味調味料だった。
角子は袋を傾ける。
ざああっ。
白い粉が、肉と野菜の上へ雪のように積もった。
《大量》
《祖父復活》
《黒毛和牛より主張強い》
《成仏できない》
角子は少し手を止め、内釜を見る。
まだいけそうだった。
もう一度、袋を傾ける。
ざっ。
《追加するな》
《追い祖父》
《味覚が心配》
満足した。
角子は内釜を炊飯器へ戻し、蓋を閉めようとした。野菜が引っかかったため、白菜を内側へ押し込み、春菊を折り曲げて、もう一度押す。
閉まった。
『炊飯します』
炊飯ボタンが押され、炊飯器が低い音を立て始める。
ぶううん。
卓上コンロの火は、まだついたままだった。
角子は先ほど焼いた肉を小皿へ載せ、隣へ生卵を用意する。卵を割ると、黄身はきれいに残った。
肉を卵へくぐらせ、口へ運ぶ。
少し噛む。
耳が立った。
「おいしいかもー」
《でしょうね》
《肉は悪くない》
《完成前に食べてる》
《高級肉だけ食べたい》
角子はステンレスジョッキへロックアイスを入れる。
カラカラ。
続いて業務用角瓶を持ち上げ、ジョッキの八割近くまでウイスキーを注いだ。炭酸水は少しだけ。
《うっす》
《体調悪いんか?》
《今日は水多い》
《健康に配慮》
角子はコメントを見てジョッキの中を確認し、炭酸水を少し追加した。
《入れすぎ》
《台無し》
《もう水》
これで少し薄くなった。
角子の中では。
一口飲む。
「ぷはー……」
ジョッキを畳へ戻す。
カラカラ。
すき焼きの匂いは、すでに隣の部屋まで届いていた。
黒毛和牛。
砂糖。
醤油。
酒。
ヤニねこの鼻が動く。
「いい肉の匂いするにゃ」
前回の激辛料理で腹を壊した記憶は、もうかなり薄くなっていた。
腹痛より、高級肉の匂いのほうが強かった。
ヤニねこは隣室へ向かい、扉を二度叩く。
こん、こん。
「カラカラねこー」
返事を待たず、ドアノブへ手をかけた。
今日は開いている。
「入るにゃ」
許可を取る前に入った。
部屋の中央では炊飯器が働いている。その隣には卓上コンロ、フライパン、酒瓶、灰皿、三脚が並び、角子は生卵につけた黒毛和牛を食べていた。
ヤニねこの目が、まっすぐ肉へ向く。
「それ高いやつにゃ?」
「国産黒毛和牛です」
「ニャーも食うにゃ」
「まだ一枚しか焼けていません」
「それでいいにゃ」
ヤニねこは、角子の皿に残っていた肉を指した。
角子は少し考える。
「味見をお願いします」
「任せるにゃ」
ヤニねこは箸を受け取り、まだ湯気の出ている肉を持ち上げた。
確認せず、生卵へ少しだけつけて口へ入れる。
「あっついにゃ!」
耳が伏せ、尻尾の毛が膨らむ。
それでも吐き出さなかった。
高級肉だった。
口の中で何度も転がし、そのまま飲み込む。
「熱いにゃ!」
「今焼いたところですからね」
「先に言えにゃ」
「湯気が出ていましたよ」
ヤニねこは空になった皿を見る。
「もうないにゃ?」
「残りは炊飯器です」
「開けるにゃ」
「まだ炊けていません」
「味見すれば分かるにゃ」
ヤニねこは炊飯器へ近づき、蓋へ手を伸ばす。
角子は止めなかった。
配信としては、少し面白そうだった。
《開けるな》
《猫きた》
《いつもの》
《黒毛和牛が危ない》
蓋が開く。
むわっ。
濃い湯気が一気に立ち上がった。酒、醤油、砂糖、牛肉の脂が混ざったすき焼きの匂いが部屋中へ広がる。
「まだ生にゃ」
「炊飯中ですからね」
ヤニねこは顔を近づけ、肉を探す。
白菜。
長ねぎ。
白滝。
椎茸。
焼き豆腐。
黒毛和牛は、底のほうへ沈んでいた。
「肉が見えないにゃ」
「下にあります」
「取るにゃ」
「熱いですよ」
「さっきので慣れたにゃ」
何も学んでいなかった。
ヤニねこは箸で具材をかき分け始める。湯気がさらに広がり、開けた窓から共用廊下へ流れていった。
その匂いに、一階にいた大家が気づく。
「すき焼きか?」
少しだけ、うまそうだった。
その直後。
焦げたような匂いが混じる。
「……ん?」
大家の顔が曇った。
コーポ大谷で、うまそうな匂いのあとに焦げ臭さが来る。
嫌な予感しかしない。
大家は階段を上がり、角子の部屋へ向かった。
どん、どん。
「氷川さん」
角子が玄関へ顔を向ける。
「大家さんですね」
「ニャーはいないにゃ」
炊飯器を漁りながら、ヤニねこが言った。
「いるだろ」
大家は扉の隙間から室内を覗く。
畳の上には卓上コンロ。
そのすぐ近くには業務用角瓶。
灰皿からは細い煙が上がり、炊飯器の蓋は開いたまま。その前ではヤニねこが高級肉を探している。
少し傾いたスマートフォンは、その光景を全部配信していた。
「…………」
大家は短く息を吐いた。
「氷川さん」
「はい」
「畳の上で火を使うのはやめてくれ」
「分かりました」
角子は素直に頷く。
大家は卓上コンロの下を見る。
「何も敷いてないのも危ないからな」
「では、これを敷きます」
角子は近くにあった段ボール箱を潰した。
「それはもっと駄目だ」
大家がすぐに取り上げる。
「燃えやすい物を増やすな。コンロは台所で使ってくれ」
「分かりました」
「酒と灰皿も、火から離して」
「次から気をつけます」
返事は素直だった。
安全判断だけが少し心配だった。
その間に、ヤニねこは炊飯器の底から黒毛和牛を一枚発見していた。
大きい。
脂も多い。
かなり当たりの一枚だった。
箸で持ち上げ、生卵へくぐらせ、そのまま口へ入れる。
「あつっ」
また熱かった。
今度は声を抑える。
大家に見つかって取り上げられるほうが困る。
大家は卓上コンロの火が消えたことを確認し、玄関へ戻った。
「本当に気をつけてくれよ」
「はい。すみませんでした」
角子は丁寧に頭を下げる。
大家が帰り、扉が閉まった。
ヤニねこは口の中の肉を飲み込み、満足そうに息を吐く。
「うまいにゃ」
「味はどうですか?」
「濃いにゃ」
「よかったです」
「祖父の味するにゃ」
「会ったことあるんですか?」
「ないにゃ」
うま味調味料の味だった。
角子は卓上コンロを台所へ運び、酒瓶と灰皿も少し離す。注意されたことは、一応その場で守った。
ヤニねこは炊飯器の前から動かない。
「カラカラねこ」
「はい」
「これ、全部できたら呼んでにゃ」
「まだ食べるんですか?」
「黒毛和牛なら食えるにゃ」
「白菜も食べてください」
「肉の下にあれば食うにゃ」
野菜を食べる気はなかった。
角子は配信用のスマートフォンを台所へ向け直した。
画面は、前よりさらに傾いている。
『大家さんに注意されたので、続きは炊飯器だけで作ります』
《怒られた》
《当たり前》
《肉は無事?》
《猫に食われてる》
角子が炊飯器を見る。
ヤニねこが、もう一枚の黒毛和牛を白菜の下へ隠していた。
「何してるんですか?」
「肉が乾かないようにしてるにゃ」
「そうですか」
角子は追及しなかった。
炊飯器が再び低い音を立て始める。
ぶううん。
角子はジョッキを持ち上げた。
カラカラ。
ヤニねこは白菜の下から肉を引き出した。
大家の注意は、一応届いた。
高級肉は、ほとんど届かなかった。