ヤニねことカラカラねこ   作:きのこ大三元

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第5話 夜中の排水溝の音がうるさいにゃ

その日も、ヤニねこは特に何もしていなかった。

 

 昼頃に目を覚まし、布団の中でタバコを一本吸う。腹が減ったので冷蔵庫を開けてみたが、食べられそうな物はなかった。

 

 正確には、いつから入っているのか分からない物ならあった。

 

 見なかったことにして冷蔵庫を閉じ、もう一本タバコを吸う。

 

 金もない。予定もない。働く気もない。

 

 仕方がないので、もう一度寝た。

 

 夕方に目を覚ますと、窓の外は暗くなり始めていた。何もしていないのに一日が終わりかけていたが、ヤニねこは気にしない。

 

「今日も疲れたにゃ」

 

 どこで疲れたのかは分からなかった。

 

 夜になると、ヤニねこは謎の染みとタバコの灰がついた布団へ潜り込んだ。枕元の灰皿には吸い殻が山のように積まれ、少し動かすだけで崩れそうになっている。

 

 そのすぐ横へ火の消えたタバコを置き、目を閉じた。

 

 しばらくして。

 

 ズゾゾゾゾ……。

 

 部屋のどこかから、妙な音が聞こえた。

 

 ヤニねこが目を開ける。

 

「…………」

 

 少し待つ。

 

 何も聞こえない。

 

 寝ぼけていたのかもしれない。

 

 ヤニねこは目を閉じ直した。

 

 ズゾゾゾ……ズゾッ。

 

 また聞こえた。

 

「うるさいにゃ……」

 

 身体を起こし、部屋の中を見回す。台所から聞こえたような気もするし、トイレの奥から響いたようにも聞こえる。

 

 床の下かもしれない。

 

 壁の中に何かいる可能性もあった。

 

 確認しに行くのは面倒だった。

 

 ヤニねこは布団へ戻り、枕を両耳へ押し当てる。しばらく静かになり、このまま眠れそうだった。

 

 ズゾゾゾゾゾゾッ。

 

 先ほどより長い。

 

 ヤニねこは枕の下で耳を伏せた。

 

「排水溝、死にかけてるにゃ」

 

 そう判断した。

 

 根拠はなかった。

 

 夜中なので、明日の自分へ任せることにした。

 

 ヤニねこは枕を耳へ押しつけたまま、どうにか眠りについた。

 

 ◇

 

 翌朝。

 

 昨夜の音のことは、きれいに忘れていた。

 

 昼過ぎに起きてタバコを吸い、何も食べる物がないことを確認してから廊下へ出る。

 

 ちょうど一階から上がってきた大家を見て、ようやく思い出した。

 

「大家」

「何だ?」

「排水溝壊れてるにゃ」

 

 大家の足が止まる。

 

「どこの?」

「ニャーの部屋」

「水が流れないのか?」

「流したことないから分かんない」

 

 大家は嫌な顔をした。

 

「台所、使ってないのか?」

「水ならたまに飲むにゃ」

「排水の話をしてるんだよ」

 

 仕方なく、大家はヤニねこの部屋へ入った。

 

 台所の流しには、洗っていないグラスと皿が積まれている。その上には空のタバコ箱。排水口の周りには汚れがこびりつき、少なくとも最近掃除された形跡はなかった。

 

 大家は蛇口をひねる。

 

 水は普通に流れた。

 

「詰まってないぞ」

「夜になると、ずぞぞぞって鳴るにゃ」

「今は?」

「鳴ってない」

「いつから?」

「昨日」

「何時頃?」

「夜」

「何時だ?」

「寝てたから分かんない」

 

 情報が少なかった。

 

 大家は排水口を覗き、台所の下も確認する。水漏れはない。異臭も――ヤニねこの部屋そのものが色々な匂いをしているので判別しづらいが――少なくとも配管から異常な臭いが出ている様子はなかった。

 

 古いアパートなので、配管の中で音が響くことはある。それでも壊れている可能性が完全にないとは言い切れない。

 

「また音がしたら、どこから聞こえるか確認してくれ」

「大家が調べて」

「音がしてないと分からないんだよ」

「じゃあ夜までここにいればいいにゃ」

「嫌だよ」

 

 即答だった。

 

 ヤニねこは不満そうに口を尖らせる。

 

「住人が困ってるにゃ」

「その前に台所を片づけろ」

「今は排水溝の話にゃ」

「排水溝より部屋全体が心配なんだよ」

 

 結局、大家は念のため点検業者を呼ぶことにした。

 

 ◇

 

 数日後。

 

 作業着姿の業者が、ヤニねこの部屋を訪れた。

 

 台所、洗面、トイレ。順番に水を流し、排水管の周辺も確認していく。

 

 業者は最後に台所の下から顔を出した。

 

「特に詰まりはありませんね」

「昨日はすごい音してたにゃ」

「今はしていませんね」

「夜しか動かないタイプかもしれないにゃ」

 

 業者は少し黙った。

 

「配管は、夜に動いたりはしません」

「でも鳴ってたにゃ」

「水を流した時に、空気を吸い込むような音がすることはありますけど……今のところ異常はなさそうです」

 

 ヤニねこは納得しなかった。

 

「もっとちゃんと見て」

「一通り確認しましたよ」

 

 大家が横から頭を下げる。

 

「すみません。ありがとうございました」

 

 業者が帰り、扉が閉まった。

 

 ヤニねこは腕を組む。

 

「ちゃんとした業者呼んで」

「今のがちゃんとした業者だよ」

「じゃあ、ちゃんと調べてないにゃ」

「お前の説明が雑すぎるんだ」

 

 大家は部屋を見回した。

 

 床には吸い殻。流しには汚れた食器。正体不明の袋。湿ったタオル。

 

 配管より先に直したほうがいい場所が多かった。

 

「今夜また鳴ったら、自分で音の場所を確かめな」

「大家の仕事にゃ」

「音がしてる最中じゃないと分からないんだよ。台所なのか、トイレなのか、壁なのか。それくらいは見てくれ」

「面倒にゃ」

「こっちは業者まで呼んでるんだ」

「大家は仕事しただけにゃ」

「お前のためにな」

 

 ヤニねこは聞かなかったことにした。

 

 そのまま布団へ戻る。

 

 ◇

 

 その夜。

 

 ヤニねこは、いつもより少し早く布団へ入った。

 

 昨夜の音が気になっていたわけではない。

 

 単純に、やることがなかった。

 

 目を閉じる。

 

 しばらくは静かだった。

 

 ズゾゾゾゾ……。

 

 ヤニねこの耳が立つ。

 

「来たにゃ」

 

 布団からは出ない。

 

 まだ我慢できる。

 

 ズゾゾゾッ。

 

 布団を頭までかぶる。

 

 ズゾゾゾゾゾゾゾ……。

 

「うるさいにゃー!」

 

 ついに起き上がった。

 

 こうなったら、原因を突き止めるしかない。

 

 ヤニねこが自分から何かを調べようとするのは珍しかった。相手が睡眠を邪魔する物でなければ、絶対に動いていなかった。

 

 まず台所へ向かい、流しの排水口へ顔を近づける。

 

「…………」

 

 何も聞こえない。

 

 少し臭かった。

 

 すぐに顔を離した。

 

 次はトイレ。

 

 耳を澄ませても異常はない。便器の蓋も開けてみたが、見たくない物が少し見えた。

 

 閉じた。

 

 ズゾゾゾ……。

 

 また鳴った。

 

「どこにゃ」

 

 ヤニねこは床へ耳を当てる。

 

 少し聞こえる。

 

 だが、下ではない。

 

 今度は壁へ耳をつけた。

 

 ズゾゾゾゾ……。

 

 先ほどより、はっきり聞こえる。

 

 音は隣室側の壁から響いていた。

 

 ヤニねこはそのまま壁へ耳を押しつける。

 

 少し静かになった。

 

 直後。

 

 カラカラ。

 

 氷のような音が混じる。

 

 ズゾッ。

 

「…………」

 

 ヤニねこは壁から顔を離した。

 

「カラカラねこの排水溝が壊れてるにゃ」

 

 確信した。

 

 自分の部屋ではなかった。

 

 それだけでも少し安心した。

 

 ヤニねこは部屋を飛び出し、隣の玄関へ向かった。

 

 扉へ耳を当てる。

 

 ズゾゾゾゾゾッ。

 

 間違いない。

 

 ヤニねこは扉を激しく叩いた。

 

 どんどんどんどん。

 

「カラカラねこー!」

 

 さらに叩く。

 

「排水溝が死んでるにゃー!」

 

 少しして、部屋の中から足音が聞こえた。

 

 鍵が開く。

 

 扉の向こうには、ステンレスジョッキを持った角子が立っていた。

 

「どうしました?」

「排水溝が変な音してるにゃ」

「排水溝ですか?」

「ずぞぞぞって鳴ってるにゃ」

 

 角子が意味を理解する前に、ヤニねこは脇を抜けて部屋へ入った。

 

 料理配信は終わったばかりらしい。畳の上には業務用角瓶、炭酸水のペットボトル、空になった皿、灰皿、ステンレスジョッキが置かれている。

 

 炊飯器の蓋は開いたまま。中には、調味料の色がついた汁だけが少し残っていた。

 

 ヤニねこは台所を見る。

 

 流しの下を覗く。

 

 炊飯器の横まで確認する。

 

「どこが壊れてるにゃ?」

「何の話ですか?」

「ずぞぞぞって音してたにゃ」

 

 角子は少し考える。

 

「今は聞こえませんね」

「さっきまで鳴ってたにゃ」

「配信の音でしょうか」

「配信より気持ち悪い音にゃ」

 

 角子には心当たりがなかった。

 

 そのまま、手に持っていたステンレスジョッキへ目を落とす。中には溶けかけた氷と、ほんの少しだけハイボールが残っている。

 

 せっかくなので、最後まで飲むことにした。

 

 角子はジョッキへ口をつけ、氷の隙間に残った酒を強く吸い込む。

 

 ズゾゾゾゾゾゾッ。

 

 ヤニねこの動きが止まった。

 

 角子もジョッキへ口をつけたまま止まる。

 

 静かになった。

 

 角子は、もう一度だけ吸った。

 

 ズゾッ。

 

「…………」

 

 ヤニねこはジョッキを見る。

 角子を見る。

 もう一度、ジョッキを見る。

 

「おみゃーの口だったのかにゃ……」

 

 角子はジョッキを下ろした。

 

 カラカラ。

 

 中の氷だけが鳴る。

 

「最後まで飲もうとすると、音が鳴るんですよね」

「夜中ずっと、これやってたにゃ?」

「何杯か飲んだので」

「何杯にゃ?」

「覚えていません」

 

 部屋の中で聞けば、ただ飲み物の最後をすすっているだけの音だった。

 

 それがステンレスジョッキの中で響き、薄い壁を通る間に、古い排水管が空気を吸い込むような怪音へ変わっていたらしい。

 

 排水溝は壊れていなかった。

 

 業者も間違っていなかった。

 

 大家も悪くなかった。

 

 ヤニねこはそこで、業者まで呼ばせたことを思い出した。

 

「夜中に飲むのやめてにゃ」

「仕事から帰ると、この時間になるので」

「じゃあ音立てないでにゃ」

「気をつけます」

 

 角子は素直に頷いた。

 

 特に悪びれてはいない。

 

 ただ、最後まで酒を飲んでいただけだった。

 

 ヤニねこは自分の部屋へ戻る。

 

 これで今夜は静かに眠れる。

 

 布団へ入り、枕元のタバコへ火をつけた。

 

 隣から音はしない。

 

「やっと寝られるにゃ」

 

 目を閉じた。

 

 ◇

 

 しばらく後。

 

 角子は新しいハイボールを作っていた。

 

 氷を入れる。

 

 カラカラ。

 

 角瓶を注ぎ、炭酸水を少しだけ足す。

 

 先ほど注意されたばかりなので、最後の一口は静かに飲むことにした。

 

 強く吸い込まない。

 

 少しずつ飲めばいい。

 

 ズッ。

 ズッ。

 ズッ。

 

 一回の音は小さくなった。

 

 その代わり、何度も続いた。

 

 壁の向こうから、ヤニねこの声が響く。

 

「そっちのほうがうるさいにゃー!」

 

 角子はジョッキを見つめた。

 

 音を出さず、最後まで飲む方法。

 

 少し考える。

 

「ストローを使ったほうがいいかもー」

 

 ◇

 

 翌日。

 

 角子の部屋へ、大きな段ボール箱が届いた。

 

 中身は、業務用の長いストロー。

 

 百本入りが、十袋。

 

 合計千本。

 

 しばらく買わなくて済む。

 

 角子としては、これで問題解決だった。

 

 共用廊下が、また少し狭くなった。




次回からやっとヤニねこ以外の住居人を混ぜていきます!
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