その日も、ヤニねこは特に何もしていなかった。
昼頃に目を覚まし、布団の中でタバコを一本吸う。腹が減ったので冷蔵庫を開けたが、食べられそうな物はなかった。
正確には、いつから入っているのか分からない物ならあった。
見なかったことにして冷蔵庫を閉じ、もう一本タバコを吸う。
金もない。予定もない。働く気もない。
仕方がないので、もう一度寝た。
夕方に目を覚ますと、窓の外は暗くなり始めていた。何もしていないのに一日が終わりかけていたが、ヤニねこは気にしなかった。
「今日も疲れたにゃ」
どこで疲れたのかは分からない。
夜になると、ヤニねこは謎の染みとタバコの灰がついた布団へ潜り込んだ。枕元の灰皿には吸い殻が山のように積まれ、少し動かすだけで崩れそうになっている。
そのすぐ横へ火の消えたタバコを置き、目を閉じた。
しばらくして。
部屋のどこかから、妙な音が聞こえた。
ズゾゾゾゾ……。
ヤニねこが目を開ける。
「…………」
少し待ったが、何も聞こえない。寝ぼけていたのかもしれない。
ヤニねこは目を閉じ直した。
ズゾゾゾ……ズゾッ。
また聞こえた。
「うるさいにゃ……」
身体を起こし、部屋の中を見回す。台所のようにも聞こえたし、トイレの奥から響いたような気もする。
床の下かもしれない。
壁の中に、何かいる可能性もあった。
確認しに行くのは面倒だった。
ヤニねこは布団へ戻り、枕を両耳へ押し当てる。しばらく静かになり、このまま眠れそうだった。
ズゾゾゾゾゾゾッ。
先ほどより長い。
ヤニねこは枕の下で耳を伏せた。
「排水溝、死にかけてるにゃ」
そう判断した。
根拠はなかった。
夜中なので、明日の自分へ任せることにした。ヤニねこは枕を耳へ押しつけたまま、どうにか眠りについた。
翌朝。
昨夜の音のことは、きれいに忘れていた。
昼過ぎに起きてタバコを吸い、何も食べる物がないことを確認してから廊下へ出る。
ちょうど一階から上がってきた大家を見て、ようやく思い出した。
「大家」
「何だ?」
「排水溝壊れてるにゃ」
大家の足が止まる。
「どこの?」
「ニャーの部屋」
「水が流れないのか?」
「流したことないから分かんない」
大家は嫌な顔をした。
「台所、使ってないのか?」
「水ならたまに飲むにゃ」
「排水の話をしてるんだよ」
大家は仕方なく、ヤニねこの部屋へ入った。
台所の流しには、洗っていないグラスと皿が積まれている。その上には空のタバコ箱。排水口の周りには汚れがこびりつき、少なくとも最近掃除された形跡はなかった。
大家は蛇口をひねる。
水は普通に流れた。
「詰まってないぞ」
「夜になると、ずぞぞぞって鳴るにゃ」
「今は?」
「鳴ってない」
「いつから?」
「昨日」
「何時頃?」
「夜」
「何時だ?」
「寝てたから分かんない」
情報が少なかった。
大家は排水口を覗き、台所の下も確認する。水漏れはなく、異臭も普段のヤニねこの部屋と大きく変わらない。
古いアパートなので、配管の中で音が響くことはある。それでも、壊れている可能性が完全にないとは言い切れなかった。
「また音がするようなら、場所を確認してくれ」
「大家が調べて」
「音がしてないと分からないんだよ」
「じゃあ、夜までここにいればいいにゃ」
「嫌だよ」
大家は即答した。
ヤニねこは不満そうに口を尖らせる。
「住人が困ってるにゃ」
「その前に台所を片づけろ」
「今は排水溝の話にゃ」
「排水溝より部屋全体が心配なんだよ」
結局、大家は念のため点検業者を呼ぶことにした。
数日後。
作業着姿の業者が、ヤニねこの部屋を訪れた。
台所、洗面、トイレ。順番に水を流し、排水管の周辺も確認する。
業者は最後に台所の下から顔を出した。
「特に詰まりはありませんね」
「昨日はすごい音してたにゃ」
「今はしていませんね」
「夜しか動かないタイプかもしれない」
業者は少し黙った。
「配管は、夜に動いたりはしません」
「でも鳴ってたにゃ」
「水を流した時に、空気を吸い込むような音がする場合はありますけど……今のところ異常はなさそうです」
ヤニねこは納得しなかった。
「もっとちゃんと見て」
「一通り確認しましたよ」
大家が横から頭を下げる。
「すみません。ありがとうございました」
業者が帰り、扉が閉まる。
ヤニねこは腕を組んだ。
「ちゃんとした業者呼んで」
「今のがちゃんとした業者だよ」
「じゃあ、ちゃんと調べてないにゃ」
「お前の説明が雑すぎるんだ」
大家は部屋を見回した。
床には吸い殻。流しには汚れた食器。正体不明の袋。湿ったタオル。
配管より先に直したほうがいい場所が多かった。
「今夜また鳴ったら、自分で音の場所を確かめな」
「大家の仕事にゃ」
「音がしている最中じゃないと分からないんだよ。台所なのか、トイレなのか、壁なのか。それくらいは見てくれ」
「面倒にゃ」
「こっちは業者まで呼んでるんだ」
「大家は仕事しただけにゃ」
「お前のためにな」
ヤニねこは聞かなかったことにして、布団へ戻った。
その夜。
ヤニねこは、いつもより少し早く布団へ入った。
昨夜の音が気になっていたわけではない。
単純に、やることがなかった。
目を閉じる。
しばらくは静かだった。
ズゾゾゾゾ……。
ヤニねこの耳が立つ。
「来たにゃ」
布団からは出ない。
まだ我慢できる。
ズゾゾゾッ。
ヤニねこは布団を頭までかぶった。
ズゾゾゾゾゾゾゾ……。
「うるさいにゃー!」
ついに起き上がった。
こうなったら、原因を突き止めるしかない。
ヤニねこが自分から何かを調べようとするのは珍しかった。相手が睡眠を邪魔する物でなければ、絶対に動いていなかった。
まず台所へ向かい、流しの排水口へ顔を近づける。
「…………」
何も聞こえない。
少し臭かった。
すぐに顔を離した。
次はトイレ。耳を澄ませても異常はなく、便器の蓋も開けてみたが、見たくない物が少し見えただけだった。
閉じた。
ズゾゾゾ……。
また鳴った。
「どこにゃ」
ヤニねこは床へ耳を当てる。
少し聞こえる。
だが、下からではない。
今度は壁へ耳をつけた。
ズゾゾゾゾ……。
先ほどより、はっきり聞こえる。
音は隣室側の壁から響いていた。
ヤニねこはそのまま壁へ耳を押しつける。
少し静かになった。
直後。
カラカラ。
氷のような音が混じる。
ズゾッ。
「…………」
ヤニねこは壁から顔を離した。
「カラカラねこの排水溝が壊れてるにゃ」
確信した。
自分の部屋ではなかった。
それだけでも少し安心した。
ヤニねこは部屋を飛び出し、隣の玄関へ向かう。扉へ耳を当てると、室内からまた音が聞こえた。
ズゾゾゾゾゾッ。
間違いない。
ヤニねこは扉を激しく叩いた。
どんどんどんどん。
「カラカラねこー!」
さらに叩く。
「排水溝が死んでるにゃー!」
少しして、部屋の中から足音が聞こえた。
鍵が開く。
扉の向こうには、ステンレスジョッキを持った角子が立っていた。
「どうしました?」
「排水溝が変な音してるにゃ」
「排水溝ですか?」
「ずぞぞぞって鳴ってる」
角子が意味を理解する前に、ヤニねこは脇を抜けて部屋へ入った。
料理配信は終わったばかりらしい。畳の上には、業務用角瓶、炭酸水のペットボトル、空になった皿、灰皿、ステンレスジョッキが置かれている。
炊飯器の蓋は開いたままで、中には調味料の色がついた汁だけが少し残っていた。
部屋の排水口から、音は聞こえない。
ヤニねこは台所を見て、流しの下を覗き、炊飯器の横まで確認した。
「どこが壊れてるにゃ?」
「何の話ですか?」
「ずぞぞぞって音してたにゃ」
角子は少し考える。
「今は聞こえませんね」
「さっきまで鳴ってた」
「配信の音でしょうか」
「配信より気持ち悪い音にゃ」
角子には心当たりがなかった。
そのまま手に持っていたステンレスジョッキへ目を落とす。中には、溶けかけた氷と、ほんの少しだけハイボールが残っている。
角子は最後の一滴まで飲もうと、ジョッキへ口をつけた。
氷の隙間から強く吸い込む。
ズゾゾゾゾゾゾッ。
ヤニねこの動きが止まった。
角子も、ジョッキへ口をつけたまま止まる。
静かになった。
角子は、もう一度だけ吸った。
ズゾッ。
「…………」
ヤニねこはジョッキを見る。
角子を見る。
もう一度、ジョッキを見る。
「おみゃーの口だったのかにゃ……」
角子はジョッキを下ろした。中の氷が鳴る。
カラカラ。
「最後まで飲もうとすると、音が鳴るんですよね」
「夜中ずっと、これやってた?」
「何杯か飲んだので」
「何杯にゃ?」
「覚えていません」
部屋の中で聞けば、ただ飲み物の最後をすすっているだけの音だった。
しかし、ステンレスジョッキの中で音が反響し、薄い壁を通る間に、古い排水管が空気を吸い込むような怪音へ変わっていた。
ヤニねこは設備が壊れていなかったことに安心した。
その直後、業者まで呼んだことを思い出す。
「夜中に飲むのやめて」
「仕事から帰ると、この時間になるので」
「じゃあ、音立てないで」
「気をつけます」
角子は素直に頷いた。
特に悪びれてはいない。
ただ、最後まで酒を飲んでいただけだった。
ヤニねこは自分の部屋へ戻る。
これで今夜は静かに眠れる。
布団へ入り、枕元のタバコへ火をつけた。
隣から音はしない。
「やっと寝られるにゃ」
ヤニねこは目を閉じた。
しばらく後。
角子は新しいハイボールを作っていた。
氷を入れる。
カラカラ。
角瓶を注ぎ、炭酸水を少しだけ足す。
先ほど注意されたばかりなので、最後の一口は静かに飲むことにした。
強く吸い込まない。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
ズッ。
ズッ。
ズッ。
一回の音は小さくなった。
その代わり、何度も続いた。
壁の向こうから、ヤニねこの声が響く。
「そっちのほうがうるさいにゃー!」
角子はジョッキを見つめた。
「ストローを使ったほうがいいかもー」
翌日。
角子の部屋へ、大きな段ボール箱が届いた。
中身は、業務用の長いストロー。
百本入りが、十袋。
共用廊下が、また少し狭くなった。
次回からやっとヤニねこ以外の住居人を混ぜていきます!