昼過ぎ。
ヤニねこは隣の部屋の前に立ち、扉を叩いた。
こん、こん。
「カラカラねこー」
返事はすぐにあった。
「います」
少しして鍵が開く。扉の向こうには、部屋着姿の角子が立っていた。片手にはタバコ、もう片方には洗いかけのステンレスジョッキを持っている。
「どうしました?」
「タバコくれにゃ」
「嫌です」
今日も即答だった。
「一本でいいにゃ」
「自分で買ってください」
「金ないにゃ」
「そうですか」
角子はタバコを口へくわえた。
ヤニねこの目が、その一本へ集まる。
「それでいいにゃ」
「これは私のです」
「いっぱいあるじゃん」
「次に買う日までの分しかありません」
前にも聞いた。
それでも、ヤニねこは諦めなかった。
「吸いかけでもいいにゃ」
「嫌です」
「半分残るにゃ」
「最後まで吸います」
角子はタバコへ火をつけ、ヤニねこの前で普通に吸い始めた。
「見せつけてるにゃ」
「自分の部屋の前で吸っているだけです」
ヤニねこはしばらく角子のタバコを見ていたが、一本も出てくる気配はない。
仕方なく、廊下の奥へ目を向けた。
「ヤクねこのところ行くにゃ」
「ヤクねこ?」
「後輩にゃ。たぶん持ってる」
ヤニねこは歩き出した。
角子はその背中を見送り、少し考えてから灰皿へタバコを押しつける。
「私も行きます」
「タバコもらうの?」
「挨拶です」
「じゃあ一本多くもらえるかもしれないにゃ」
「私はいりません」
ヤニねこは角子を連れ、共用廊下を進んだ。数部屋先で立ち止まり、扉を叩く。
こん、こん。
「ヤクねこー」
数秒後、部屋の中から物音がした。
「はい」
扉が少し開く。
顔を出したのは、金髪の猫獣人だった。髪の根元は少し黒く、着ているTシャツには意味の分からない文字が大きく印刷されている。
ヤクねこはヤニねこの顔を見た。
「先輩」
「タバコくれにゃ」
「挨拶より先に、それですか?」
「大事にゃ」
ヤクねこは小さく息を吐いた。
そこで、ヤニねこの後ろに立つ角子へ気づく。
「……そちらの方は?」
「隣に越してきたカラカラねこにゃ」
ヤニねこは雑に紹介した。
「飯と酒をくれる、いいやつだにゃー」
「それだけですか?」
「あと会社員にゃ」
角子は軽く頭を下げる。
「はじめまして。氷川角子と申します。先日、隣の部屋へ引っ越してきました」
「はじめまして。越司丸益子です」
ヤクねこも丁寧に頭を下げた。
「先輩からは、ヤクねこと呼ばれています」
「聞いています。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
二人の挨拶は普通だった。
ヤニねこだけが、開いた扉の隙間から部屋の中を見ている。
「タバコは?」
「まだ言うんですか」
「挨拶終わったにゃ」
ヤクねこはヤニねこの顔を見た。
「そういえば先輩。お腹は、もう大丈夫なんですか?」
「治ったにゃ」
「この前、かなり騒いでいたでしょう」
「カラカラねこの飯食ったら、下痢止まらなくなったにゃ」
角子が少し首をかしげる。
「味は大丈夫だったんですけどね」
「辛さが大丈夫じゃなかったんじゃないですか?」
「少し唐辛子を入れすぎたかもー」
「少し?」
ヤクねこがヤニねこを見る。
ヤニねこは腹を撫でた。
「次の日まで痛かったにゃ」
「病院へ行ったんですか?」
「寝たら治ったにゃ」
「先輩は、そういうところだけ丈夫ですね……」
呆れた声だったが、本気で怒っているわけではない。ヤニねこが無事だったことには、少し安心しているらしい。
「氷川さんは、お仕事をされているんですか?」
「はい。平日は会社へ行っています」
「そうなんですね」
「二十九歳です。仕事から帰った後に、料理や動画撮影をしています」
「動画も?」
「料理を撮っています」
「へえ……」
ヤクねこは少し興味を示した。
「料理が趣味なんですか?」
「そうですね。お酒も好きです」
「それで、先輩が入り浸っているんですね」
「飯あるからにゃ」
「人の家を食堂みたいに使わないでください」
「余ってたにゃ」
ヤニねこは悪びれない。
角子も否定しなかった。
「食べ切れない量だったので、助かりました」
「氷川さんがそう言うなら……」
ヤクねこは、少し安心したように頷いた。
働いている。受け答えも落ち着いている。年上で、料理もできる。
少し酒が好きなだけの、普通の住人に見えた。
「カラカラねこ、畳で料理して大家に怒られてたにゃ」
ヤニねこが余計な情報を足した。
「畳で?」
ヤクねこの目が角子へ戻る。
「卓上コンロを使いました」
「畳の上でですか?」
「はい」
「危なくないですか?」
「段ボールを敷いたんですけど、駄目だったみたいです」
「段ボール?」
「大家さんに、悪化していると言われました」
ヤクねこは少し黙った。
角子の表情は穏やかなまま。冗談を言っている様子もない。
「……台所で使ったほうがいいと思うっす」
「次からは、そうします」
返事は素直だった。
その素直さが、本当に理解しているのか少し分かりにくい。
「あと高い肉食ったにゃ」
「そこは今、関係ないです」
「うまかったにゃ」
「そうですか」
ヤクねこは深く追及しなかった。初対面で説教を始めるほどではない。
ただ、最初に抱いた印象へ小さなひびが入った。
まともそうな年上の会社員。
ただし、畳の上で火を使う。
どちらが本体なのかは、まだ分からなかった。
「それよりタバコにゃ」
ヤニねこが催促する。
「さっきから、そればかりですね」
「切れてるにゃ」
「昨日も渡しませんでしたか?」
「昨日のは昨日のにゃ」
「一日でなくなったんですか?」
「吸ったらなくなるにゃ」
「当たり前のことを、こっちの責任みたいに言わないでください」
ヤクねこは部屋へ引っ込み、タバコの箱を持って戻ってきた。
ヤニねこの耳が立つ。
「一本だけですよ」
「二本」
「一本です」
「カラカラねこの分」
「氷川さんは、いらないと言っていたでしょう」
「後でニャーが吸うにゃ」
「それは先輩の分です」
ヤクねこは箱から一本だけ抜き、ヤニねこへ差し出した。
ヤニねこはすぐに受け取る。
「ヤクねこは話が分かるにゃ」
「一本渡しただけです」
ヤニねこはその場でタバコをくわえ、ライターを探した。
ポケット。
反対側のポケット。
服の中。
どこにもない。
「火もくれにゃ」
「部屋の中では吸わないでください」
「廊下ならいい?」
「大家さんに怒られますよ」
「見つからなきゃ大丈夫にゃ」
「先輩」
少し低い声で呼ばれた。
ヤニねこはタバコをくわえたまま、角子を見る。
「カラカラねこ、火ある?」
「あります」
「貸して」
「大家さんに怒られるそうですよ」
「ヤクねこが言ってるだけにゃ」
「私も、廊下では吸わないほうがいいと思います」
「裏切りにゃ」
角子は、特に仲間になった覚えはなかった。
ヤニねこは不満そうにタバコを耳へ挟む。
「部屋で吸うにゃ」
「そうしてください」
目的を果たしたヤニねこは、すぐに帰ろうとした。
ヤクねこが、その背中を呼び止める。
「先輩」
「何にゃ?」
「氷川さんのところで、迷惑をかけてませんか?」
ヤニねこが振り返る。
「かけてないにゃ」
角子は少し考えた。
「料理を勝手に食べられます」
「先輩」
「余ってたにゃ」
「人の料理を勝手に食べたんですか?」
「味見にゃ」
「本人に頼まれていないなら、味見とは言いません」
ヤクねこは角子へ向き直り、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。先輩がご迷惑をおかけして」
「カラカラねこは助かったって言ってたにゃ」
ヤニねこは不満そうだった。自分が迷惑をかけたことにされるのが納得できないらしい。
角子は頷く。
「食べ切れない量だったので、助かったかもー」
「そうですか……」
ヤクねこは二人を見比べた。
勝手に料理を食べる先輩。
それを助かったと受け入れる新しい住人。
しかも、その新しい住人は畳の上で火を使う。
相性がいいのかもしれない。
だからこそ、少し心配だった。
「先輩」
「まだ何かある?」
「氷川さんに甘えすぎないでくださいね」
「甘えてないにゃ」
「タバコをもらえなかったから、私のところへ来たんですよね?」
「それはヤクねこの役目にゃ」
「いつ決まったんですか?」
「高校の時くらい」
「決まってません」
ヤニねこは聞かなかったことにした。
「じゃあ帰るにゃ」
今度こそ廊下を歩き出す。
角子もヤクねこへ軽く頭を下げた。
「それでは、また」
「はい。何か困ったことがあれば、声をかけてください」
「ありがとうございます」
「特に、先輩のことで」
「ヤクねこ、余計なこと言うなにゃ」
廊下の先から声が飛んできた。
ヤクねこは小さくため息をつく。
「さっそく心配ですね」
「大丈夫だと思います」
「何か根拠が?」
「今のところ、料理は全部食べてくれています」
「そこを基準にしないほうがいいですよ」
角子は少し考えた。
「食材が無駄にならないので、助かっています」
「そういう意味ではなくて……」
ヤクねこは言いかけて、やめた。
まだ初対面だった。強く言うほど、相手のことを知らない。
角子も、悪い人には見えなかった。
少し変わっているだけだ。
少しで済むかは、まだ分からない。
角子が自分の部屋へ戻り、ヤクねこも扉を閉めようとする。
そのとき、廊下の奥からヤニねこの声が聞こえた。
「ライターなかったにゃー!」
ヤクねこは扉を閉めた。
聞こえなかったことにした。
数秒後。
今度は角子の部屋を叩く音が響く。
「カラカラねこー! 火貸してー!」
ヤクねこは閉じた扉を見つめた。
「……大丈夫でしょうか」
隣室から、角子の落ち着いた声が返る。
「部屋の中で吸うならいいですよ」
「やったにゃ」
ヤクねこは、もう一度ため息をついた。
少し変な年上の住人。
その評価は、初日のうちに少しだけ下がった。
次は6.5話…あれを作る回にする予定です。