電子書籍も全巻買ったので、少しずつ作品の勉強もしていきます。
夜。
氷川角子は、いつものように畳の上へスマートフォン用の三脚を立てていた。
カメラの前には、大きなボウル、漏斗、空のペットボトル。それから、粉からし、粉わさび、一味唐辛子、うま味調味料が並んでいる。その端には見慣れない小瓶も四本置かれ、ラベルには『獣人用・食用またたびパウダー』と書かれていた。
角子は画面の傾きを軽く直し、ねこねこ動画の生配信を開始する。
『どうも、nyanyanyaです』
『今日は引っ越してから切らしていたものを作ります』
《きた》
《死の灰》
《人生RTA始まった》
《それ食べ物?》
《粉しかない》
《先に換気しろ》
角子は流れていくコメントを一度だけ確認した。
「調味料なので大丈夫かもー」
《大丈夫ではない言い方》
《かもーを付けるな》
《何を作る気だ》
角子は最初の袋を手に取った。
『まず粉からしです』
封を切り、中身をすべてボウルへ入れる。黄色い粉が底へ広がり、その上へ二袋目、三袋目、四袋目が続いた。空になった袋だけは、丁寧に重ねてボウルの横へ置かれる。
《一袋じゃない》
《四個いった》
《業務用の量》
《もう辛い》
『このくらいないと、すぐになくなります』
《何日でなくなるんだ》
《普通はなくならない》
続いて、同じメーカーの粉わさびを持ち上げる。
『次は粉わさびです』
緑色の粉が、粉からしの黄色へ重なっていく。一袋、二袋、三袋、四袋。角子は特に迷わず、空袋を先ほどの山へ重ねた。
《毒霧》
《混ぜる前から危険》
《鼻が痛い》
《画面越しでも辛い》
次に持ち上げたのは、見慣れた大袋だった。
『いつものを入れます』
《いつもの》
《親の顔より見た粉》
《祖父の遺灰》
《今日は祖父って言わないの?》
角子はうま味調味料の袋を傾けた。量は測らない。
ざああっ。
白い粉が黄色と緑の山へ降り積もり、ボウルの中身がほとんど見えなくなった。
《量がおかしい》
《白くなったから安全》
《祖父が多すぎる》
角子が大きなスプーンで底から軽く混ぜると、細かな粉が一斉に舞い上がった。
ぶわっ。
「けほっ」
一度だけ顔を背け、少し黙る。
「大丈夫です」
《大丈夫じゃない》
《肺から味付け》
《吸収が早い》
《換気しろって》
角子は何事もなかったように、赤い蓋の瓶へ手を伸ばした。
『一味を入れます』
一瓶分をすべて投入し、そのまま二瓶目、三瓶目、四瓶目。赤い粉が、白くなった山の表面へ広がっていく。
《赤い》
《殺意》
《一味を隠し味にするな》
《一瓶でやめろ》
《もう味が喧嘩してる》
角子は大きなスプーンで混ぜ始めた。黄色、緑、白、赤。それぞれの粉が混ざり、少しずつ薄い茶色へ変わっていく。
しばらく混ぜたところで、手が止まった。
「少し赤みが足りないですね」
《足りてる》
《誰基準》
《色の問題じゃない》
《追加するな》
角子は五本目の一味唐辛子を取り出した。
《あったのかよ》
《やめろ》
《コメントを読め》
一本すべてを追加する。再びスプーンを動かすと、茶色い粉煙がふわりと上がった。
「けほっ、けほっ……」
《防毒マスクしろ》
《調理中にダメージ受けてる》
《完成前に負けるな》
涙目になりながらも、角子の手は止まらない。ボウルの中身が均一な色になると、ようやくスプーンを置き、端に並べていた小瓶を手に取った。
『今回は獣人向けにアレンジします』
カメラへラベルを見せる。
『獣人用・食用またたびパウダー』
《やめろ》
《ここから独自レシピ》
《獣人限定》
《人間は真似するな》
《用量を守れ》
角子は小瓶の裏面を確認した。説明欄には、食品へ少量を振りかけるよう書かれている。
「食品用なので大丈夫ですね」
一瓶目を開け、すべて投入する。二瓶目、三瓶目、四瓶目も同じだった。
《少量とは》
《四瓶入れろとは書いてない》
《用法用量》
《大丈夫の根拠が弱い》
《合法?》
「市販品なので合法です」
《量の話をしてる》
《合法なら何でもいいのか》
角子はスプーンを持ち直し、すべての粉を混ぜ合わせた。またたびの細かな粉もほかの調味料へ紛れ、最後には小麦粉のような薄い茶色へ落ち着く。
粉からし、粉わさび、一味唐辛子、うま味調味料、またたび。
中身の凶悪さに反して、見た目だけは妙に地味だった。
『できました』
《見た目だけ健康》
《全てを混ぜると地味になる》
《死の灰完成》
《これが合法》
角子は空のペットボトルへ漏斗を差し込み、ボウルを傾ける。さらさらと粉が落ちていったが、途中で止まった。
漏斗の中に粉が詰まっている。
ペットボトルの側面を軽く叩く。落ちない。もう少し強く叩いた。
どん。
詰まっていた粉が一気に落ち、その反動で漏斗の上から細かな粉が吹き返した。薄茶色の粉が、角子の顔へまともにかかる。
「けほっ」
《吸うな》
《食べる前に摂取した》
《全身で味わってる》
《だから換気しろ》
角子はティッシュで目元と頬を拭き、残りの粉もペットボトルへ詰めた。最後に手書きのラベルを貼る。
『アル中パウダー
獣人Ver.』
完成したペットボトルを、カメラの前へ差し出した。
『アル中パウダー獣人バージョンの完成です』
《商品化するな》
《ラベルが一番怖い》
《飲み物みたいに見せるな》
《獣人専用》
角子はペットボトルを横へ置き、最初の試食を用意した。
セロリ。
小皿へアル中パウダーを出し、先端へたっぷりと付ける。粉の層は、セロリの緑色が見えなくなるほど厚かった。
《多い》
《付ける量じゃない》
《セロリが負ける》
角子はそのまま口へ入れた。
しゃく、しゃく。
しばらく噛み、鼻から息を吐く。少しだけ目が細くなった。
「おいしいかもー」
《味覚生きてる?》
《本当に?》
《セロリ消滅》
《またたび効いてない?》
続いてハム、刺身、冷ややっこ。何にでもアル中パウダーを付けていく。
元の食材が何であっても、最終的な味はほぼ同じだった。
最後に、角子はステンレスジョッキを手元へ寄せた。中には、いつもの濃いハイボールが入っている。
ペットボトルを傾け、アル中パウダーを少量振り入れる。
ぱらぱら。
粉が炭酸へ触れた瞬間、泡が急激に立ち上がった。
《入れるな》
《飲み物に使うものじゃない》
《沈殿してる》
《喉が終わる》
角子は慌てることなく、泡ごと一口飲む。
カラカラ。
「ハイボールにも合いますね」
《薄い》
《何が?》
《アルコールが負けた》
《感想が信用できない》
配信を続けているうちに、部屋の中は少しずつ粉っぽくなっていた。目には見えないほど細かな粒が漂い、鼻や喉を刺激する。角子も何度か咳き込み、ようやく換気扇を回した。
「少し換気します」
ごうっ。
粉からし、粉わさび、唐辛子、うま味調味料。そして、普通では考えにくい量のまたたび。
すべてが混ざった刺激臭は、古い換気経路を通り、隣の部屋側へ流れていった。
その頃、自室にいたヤクねこは、床へ座ってタバコを巻いていた。
指先で葉の量を整えている途中、鼻がわずかに動く。
「……なんですか、この匂い」
からし、わさび、唐辛子。どこかで料理でもしているのだろうか。
ヤクねこは、もう一度だけ鼻から息を吸った。
次の瞬間、瞳孔が大きく開いた。
耳がぴんと立ち、尻尾の毛が膨らむ。手に持っていた巻紙が床へ落ちた。
「…………」
視界の奥に、一瞬だけ銀河が広がった。
紫色の星雲が流れ、遠くの星々が回転する。どこからか鈴の音が聞こえ、金色の光が周囲を走り抜けた。
宇宙の果てでは、巨大な猫がこちらを見ていた。
数秒後、ヤクねこは我に返る。
「……今のは、まずいやつでは?」
過去の経験が強く警告している。このアパートで嗅いでよい匂いではなく、少なくとも普通の料理から出る刺激でもなかった。
しかし、鼻の奥へ残った複雑な香りが妙に気になる。
からしの刺激。わさびの辛さ。唐辛子。強すぎるうま味。その奥から、またたびの甘い香りが追いかけてくる。
ヤクねこは立ち上がった。
確認しなければならない。
決して、もう一度匂いを嗅ぎたいわけではない。あくまで住人の安全確認だった。
ヤクねこは廊下へ出て、匂いの出所へ向かう。角子の部屋の前まで来ると、扉越しでもかなり強かった。
どん、どん。
「角子さん!」
「はい」
中から落ち着いた返事が聞こえる。
少しして扉が開き、顔や髪へまだ薄茶色の粉を残した角子が現れた。
ヤクねこは肩越しに部屋の中を見る。
畳の上の大きなボウル、漏斗、粉まみれのスプーン、空の小袋と小瓶。正体不明の薄茶色い粉が詰められたペットボトルと、配信中のスマートフォン。
その中心で、角子がまた咳き込んでいる。
完全に怪しかった。
「何やってるんですか?」
「調味料を作っています」
ヤクねこの目が細くなる。
「そういう言い訳、何度も聞いたことがあります」
「本当に調味料ですよ」
角子はペットボトルを持ち上げた。
ラベルには『アル中パウダー』。その下へ、少し小さな文字で『獣人Ver.』と書かれている。
「アル中パウダー……?」
「獣人用です」
「余計に怪しいんですけど」
ヤクねこは部屋へ入り、畳の上へ並ぶ空容器を確認した。粉からし、粉わさび、一味唐辛子、うま味調味料。すべて市販品だった。
またたびの小瓶にも『獣人用・食用』と書かれている。違法な物は見当たらない。
「本当に、これを混ぜただけですか?」
「はい」
「この匂いで?」
「はい」
「私、さっき一瞬だけ宇宙が見えたんですけど」
「またたびが少し多かったかもしれません」
「少し?」
ヤクねこは、畳へ転がる空瓶を見る。
一、二、三、四本。
「全部入れたんですか?」
「獣人向けなので」
「答えになってませんよ」
それでも、材料そのものは合法だった。
危険な物が入っていないか確かめるには、実際に味を見るのが早い。
ヤクねこはアル中パウダーを見つめた。
「私が確認します」
「大丈夫ですか?」
「問題がないか確かめるだけです」
角子はセロリを一本取り出し、アル中パウダーの小皿へ先端を付けた。薄茶色い粉が大量にまとわりつく。
「少なめのほうがいいと思います」
「先に言ってください」
ヤクねこは粉を少し落とし、セロリの先端をかじった。
しゃく。
「…………」
最初に来たのは、からしだった。舌と鼻を同時に刺し、すぐにわさびが追いついて鼻の奥を突き抜ける。そこへ一味唐辛子の熱が重なり、舌がしびれた。
うま味調味料の濃さが、味覚全体を無理やり底上げする。最後にまたたびの甘い香りが広がり、獣人特有の嗅覚へ直接まとわりついた。
辛い。痛い。妙にうまい。頭が少し軽い。
情報量が多すぎた。
ヤクねこは、セロリを持ったまま動かなくなる。
「どうですか?」
返事はない。
「ヤクねこさん?」
ヤクねこは目を見開いたまま、残ったセロリを見つめていた。
数秒後。
「……もう一口ください」
《落ちた》
《気に入った》
《合法中毒》
《獣人特効》
角子は新しいセロリを一本渡し、今度はアル中パウダーを少しだけ付けた。
ヤクねこは受け取ると、すぐに口へ入れる。耳の先が小さく震え、尻尾が畳の上を左右へ動いた。
「辛い……痛い……」
「無理しなくていいですよ」
「でも、もう一度確認しないと分かりません」
「何がですか?」
「安全性です」
三本目へ手を伸ばす。
もはや安全確認ではなかった。
《確認が長い》
《完全にハマった》
《またたび効いてる》
《この配信大丈夫?》
ヤクねこは三本目を食べ終え、アル中パウダーの入った小皿を見つめる。
「これは……やっぱりヤクですよね?」
「市販の調味料を混ぜただけです」
「いや、これはヤクです」
「合法です」
「合法のヤク……」
ヤクねこは、その言葉をゆっくり繰り返した。それから、感動したような目で角子を見る。
「これから、姐さんと呼ばせていただきます」
「普通に角子でいいですよ」
「姐さん」
「角子で」
「姐さん」
「名字でもいいですよ」
「姐さん」
角子は少し考え、諦めた。
《舎弟できた》
《姐さん誕生》
《合法組織》
《ヤクねこが言うと説得力ある》
《アル中パウダー組》
配信が終わったあと、角子は残ったアル中パウダーを小さな保存容器へ分けていた。
「少しだけ持っていきますか?」
ヤクねこの耳が立つ。
「いいんですか?」
「作りすぎたので」
ペットボトルには、まだ大量の粉が残っている。少し分けた程度では、ほとんど減らなかった。
ヤクねこは保存容器を両手で受け取る。
「ありがとうございます、姐さん!」
「使いすぎないでくださいね」
「大丈夫です。調味料ですから」
先ほどまでヤクだと言っていた。
ヤクねこは機嫌よく部屋を出た。足取りは軽く、廊下を小さく跳ねるように自室へ戻っていく。
角子はその後ろ姿を見送り、扉を閉めた。
「気に入ってもらえてよかったかもー」
数日後の夜。
ヤニねこはタバコを吸おうとして、部屋の外へ出た。ちょうど廊下の奥から、切ったキュウリと冷ややっこを載せた小皿を持つヤクねこが歩いてくる。
「ヤクねこ、何してるにゃ?」
「ちょっと姐さんのところへ」
「姐さん?」
「角子さんです」
「いつから姐さんになったにゃ?」
「この前からです」
ヤクねこはそれ以上説明せず、角子の扉を叩いた。
「姐さん。少しだけお願いします」
「はい」
扉が開き、ヤクねこは角子の部屋へ入っていった。
翌日も、その次の日も、夜になるとヤクねこは小さな皿を持って角子の部屋へ向かった。
しばらくすると、壁の向こうから声が聞こえてくる。
「姐さん、もう少しください!」
「今日は少なめのほうがいいですよ」
「大丈夫です。慣れてきました」
「慣れないほうがいいと思います」
ヤニねこはタバコをくわえたまま、隣室側の壁へ耳を当てた。
「めちゃくちゃ怪しいにゃー……」
角子の部屋では、ヤクねこが冷ややっこの上へアル中パウダーを山盛りにしていた。
「そのくらいでいいと思います」
「もう少しいけます」
「昨日、鼻血が出ていませんでしたか?」
「あれは乾燥です」
ヤクねこは、アル中パウダーまみれの冷ややっこを口へ入れた。耳が跳ね、尻尾の毛が逆立つ。
一瞬だけ、視界の奥に銀河が広がった。
「やっぱりこれ、ヤクですよ!」
「調味料です」
角子は、今日も訂正した。