転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
この世界の頂点との遭遇から、僕は自己の把握と安定に時間を割いた。
魔素を安定させ、状態を平常に近づける。あの遭遇で得られた情報は、棚から牡丹餅どころではなかった。
僕は現在、聖人の成り損ないらしい。物質に依存しているとも言っていた。本来、聖人が物質に依存しない生命であることは分かるが、殻を破ったあの日から僕の肉体に変化はない。それを指して、赤毛の悪魔は成り損ないと言ったのだろう。
ならば、その枷を外せばさらに先へ進める。値千金の情報だ。幸い、僕には『
『
完全な聖人へ至る道は、確かに存在していた。必要な力も条件も揃いつつあるだろう。それなのに、道筋は僕の魂へ近づくほど細くなり、最後には内側へ折れ曲がっていた。
道を塞いでいるものを探した。
その先にいたのは、僕自身だった。
僕が、拒んでいる……?
そんなはずはない。あの子へ会うためなら、何にだってなる。そう決めて、ここまで進んできた。
けれど、『
そういえば、僕は未来へ進むために力を求めながら、見ているのは過去ばかりだったか。
この世界で力をつけ、元いた世界へ戻る。そして、あの子にもう一度会う。そこまでの道は何度も思い描いた。
それなのに、会った後の未来を一度も願ったことがなかった。僕は、あの子に会うまで死ねないと思っている。
けれど、それは生きたいという願いではなかったのか?
あの子を忘れれば、先へ進めるのか?
一瞬浮かんだ考えを、すぐに否定する。
違う。
あの子を愛していることが僕を止めているのではない。その愛以外のすべてを、自分の人生として認めていないことが問題なのだろう。
そこまで分かっても、答えは見つからなかった。
あの子以外の未来を望むことなど、今の僕にはまだできなかったから。
帰路の間も、答えは出なかった。
今の人生を生きたいと願えばいい。言葉にすれば、それだけのことだった。けれど、その願いを認めようとするたび、あの子がいない世界で幸せになっていいのかという疑念が浮かんだ。
忘れるつもりなどない。諦めるつもりもない。
それでも、今を大切にすることと過去を大切にすることを、僕はまだ別々にしか考えられなかった。
領軍の者たちは帰った後の話をしていた。家族へ土産を渡す。酒を飲む。しばらく眠る。次の休みに誰かと出かける。誰も大それた未来を語ってはいない。それでも、その言葉には明日も自分が生きていることへの疑いがなかった。
あの子とは関係のない明日を、僕も楽しみにしていいのだろうか。
そんなことを考えていると、領軍の一人が話しかけてきた。
「帰ったら世話になっている所に行くのか?」
帝都への道中、最初に話しかけてくれた人だった。別の人と話していたはずなので、こちらへ声をかけてくるとは思わなかった。
「なんだ、違うのか?」
そういうわけではない。返事に迷っていると、その人は笑って続けた。
「早く行ってやれよ。子どもが生まれたんだろ? お前の帰りを待ってるかもしれないぜ」
「そういうものなのかな」
その人は何故か驚いたような顔をしてから、また笑った。笑い過ぎではないだろうか。
「待ってる奴がいる場所を、帰る場所って言うんじゃないのか?」
男はそう言って去っていった。
帰る場所。
その言葉を、すぐには自分のものとして受け取れなかった。
旅程が進むにつれて見知った景色が増えていった。初めて通った頃には何も分からなかった街道も、今では曲がった先に何があるか分かる。
僕が認めようとしない間にも、この世界は僕の中へ積み重なっていた。
領都へ戻れば夫婦へ無事を知らせに行くつもりだった。生まれたばかりの娘も、少しは大きくなっているだろうか。
その姿を思い浮かべた瞬間、帰路を急ぎたい気持ちが生まれた。
これは恩人を心配しているだけだ。長く留守にしたのだから、顔を見せるのは当然だ。
そう理由を並べながら歩き続け、やがて領都の外壁が見えた。
依頼の報告も、報酬の受け取りも、情報の整理も必要だ。
それでも僕は、夫婦の家へ向かう道を最初に選んだ。
『
ただ、帰ってきたと伝えたかった。
「……久しぶり」
そう声をかけると、男と女性はこちらに勢いよく振り返った。
「「おかえり」」
◆
それからは、また以前のような日常へ戻った。違ったのは、あの夫婦に子どもが新たに加わったことだった。
最初は、僕のことなど覚えていなかった。
一年ぶりに訪れた家で、夫婦の娘は母親の服を掴み、その陰から僕を見つめていた。生まれたばかりの頃に一度会っただけなのだから当然だ。それでも、目が合うたびに隠れられるのは少しだけ寂しかった。
何度か通ううち、その警戒は好奇心へ変わった。
僕が床へ座っていると、離れたところからこちらを見つめる。手を伸ばしても逃げなくなり、やがて小さな指が確かめるように僕の指先へ触れた。
掴む力は弱かった。けれど、振りほどかれないようにと僕の方が息を止めていた。
赤子だった頃には、壊してしまいそうで抱き上げられなかった。その子が今度は自分から両腕を伸ばしてくる。女性に抱き方を教わり、恐る恐る持ち上げると、腕の中には以前より確かな重みがあった。
小さくても、生きて育った重さだった。
それからは、家へ顔を出すたびに何かが変わっていた。
支えがなければ立てなかった子が、壁へ手をつきながら歩くようになった。僕の姿を見つけても母親の後ろへ隠れなくなり、不安定な足取りでこちらへ近づいてくるようになった。
短い依頼から戻った日には、椅子から手を離し、倒れ込むように僕の胸へ飛び込んできた。意味のある言葉にはなっていない声を上げ、服を強く握って離さない。
何を伝えたいのか、言葉は分からなかった。
それでも、僕が戻ってきたことを喜んでいる。それだけは分かった。
僕だから喜んだわけではない。この家へよく来る人間だから。両親が警戒していないから。時々、土産を持ってくるから。
そう理由を並べた。
けれど、次に訪ねた時も、その次に訪ねた時も、彼女は僕を見つけると表情を緩めた。何も持たずに行った日にも、変わらず近づいてきた。
いつからか、夫婦へ伝える用事がなくても家へ向かうようになった。返すべき恩も、渡す品もない。
『
ただ、三人の顔を見たかった。
やがて彼女は、意味のある言葉を口にするようになった。
初めのうちは僕の名前もうまく呼べず、何度教えても少し違う音になった。訂正するたびに不満そうな顔をされ、いつしかその呼び方が家の中で定着していた。
帰ろうとする僕の服を掴み、初めて「また」と口にした日のことは、『
「また、来る?」
「うん。また来るよ」
何気なく交わした約束だった。
けれど、その言葉へ頷いた時、僕は次にこの家を訪れる自分を思い描いていた。
あの子へ会うためではない未来を、初めて当たり前のように想像していた。
言葉を覚えれば、質問も増えた。僕がどこへ行っていたのか。何を見たのか。遠くにはどんな生き物がいるのか。どうして空は青く見えるのか。
答えられることには答えた。分からないことは一緒に調べた。
読み書きを教えるようになると、僕は早々に失敗した。
正しい形と効率を優先し、同じ文字を何度も書かせた結果、彼女は机へ突っ伏して二度とやらないと言い張った。女性には子どもへ何を求めているのかと呆れられ、男には教える才能がないと笑われた。
次からは、彼女が読みたがった物語を使った。好きな言葉を書き、旅先で見たものを絵にし、その名前を一つずつ覚えた。
正しい道を示すだけでは、人は進まない。
そのことを、僕は小さな背中から教えられた。
彼女は何度も失敗した。転び、物を壊し、嘘をつき、両親に叱られた。僕にも言えないことを隠すようになった。
初めのうちは、失敗へ続く道が見えるたびに止めようとした。怪我をする前に手を伸ばし、叱られる前に言い訳を整え、困る前に答えを渡そうとした。
ある日、とうとう彼女に怒鳴られた。
自分でやろうとしていたのに。
失敗するかどうかまで、勝手に決めないで。私の選択まで奪わないで。
その言葉に、すぐには何も返せなかった。
守ることと、選ばせないことは違う。
分かっていたつもりだった。けれど僕は、彼女が傷つかない道ばかりを探し、その道を歩きたいかどうかを尋ねていなかった。
それからは、致命的でない失敗なら見守るようにした。
転ぶと分かっていても、手を伸ばすのを待った。頼られた時だけ助言し、本人がやり直す間は隣にいた。
それは、自分が危険へ飛び込むよりも難しかった。
彼女は僕の知らない場所で友人を作った。僕には理解できない遊びを覚え、夫婦にも僕にも言わない秘密を持つようになった。悩みを相談されることもあれば、すべてが終わってから報告されることもあった。
頼られなかったことを寂しく思う自分に気づくたび、何の権利があるのだと考えた。
それでも、彼女が僕以外の誰かへ頼れることは喜ぶべきことだった。
守られるだけだった子どもは、いつしか家の仕事を手伝い、疲れた両親へ食事を用意し、僕が怪我をして戻れば呆れながら包帯を巻くようになった。
「心配をかけたくなかった」と言えば、「心配するかどうかまで勝手に決めないで」と叱られた。
以前、僕があの子へ言われた言葉とよく似ていた。
守る側と守られる側は、いつの間にか固定されたものではなくなっていた。
彼女が家を出たいと言った時、僕には別の道がいくつも見えた。より安全な場所。失敗の少ない仕事。夫婦の近くで暮らせる道。
けれど、それらを口にはしなかった。
彼女が選んだのは、僕なら避けたであろう不確かな道だった。それでも、自分で考え、自分で決めたのなら、僕がするべきことは進路を変えることではない。
「何かあれば帰ってくればいい」
そう伝えた。
「失敗しても、帰る場所までなくなるわけじゃないから」
かつて誰かから受け取った言葉を、今度は僕が旅立つ背中へ渡した。
彼女がいなくなった家は、ひどく静かだった。
娘がいなければ訪ねる理由もない。そう考えかけて、やめた。
男の無遠慮な気遣いも、女性の不器用な優しさも、彼女が生まれる前から僕が受け取っていたものだ。
だから、その後も僕は家へ通った。
離れて暮らす彼女からは、時折手紙が届いた。新しい土地で見たもの、失敗したこと、知り合った人々。返事を書こうとすると、助言ばかりが長くなった。
何度も書き直し、最後には短い言葉だけを残した。
あなたが自分で選んだことを、僕は応援している。
それから何年かして、彼女は自分の足で帰ってきた。
幼い頃の面影は残っている。それでも、もう僕の手を借りなければ立てない子どもではなかった。
両親へ旅の話をし、自分の選択を語り、これから何をするかを自分の言葉で決めていた。
かつては僕が帰るたび、彼女が駆け寄ってきた。
今度は、僕たちが彼女を迎える番だった。
その姿を見た時、ようやく理解した。
僕が見守っていたのは、失わないように保存された時間ではない。
変わり続け、僕の知らないものを増やしながら、それでも先へ続いていく一人の人生だった。
そして、その人生が続く未来を、僕はいつの間にか楽しみにしていた。
後書きで暴れ過ぎた……。反省します。
反省ついでにストック期間に移行します。更新をお待ちを。さらばい