【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
アパートの外へ出ると、アスファルトの路肩に薄く霜が降りていた。この間まで落ち葉が溜まっていた植え込みの縁も、今は白い結晶に縁取られている。
背後の外階段を、とんとんと下りてくる足音がした。
「彩葉さん、おはよう」
『ヤオヨロ~、彩葉!』
「おはようございます。……あれ、今日は出勤ですか?」
コートにマフラーを巻いた彩葉さんが、階段の途中で足を止めた。僕の格好を上から下まで眺めている。白いシャツに濃紺のネクタイ、チャコールグレーのツーピース。その上から冬用のウールコート。
「うん。たまにはちゃんとオフィスに顔を出そうと思ってね」
「珍しいですね」
短くそう返して、彩葉さんは駅の方へ歩き出した。
耳元で、ヤチヨがくすくす笑っている。出がけに玄関の鏡の前で『おぉ、キマってるねぇ。ヤッチョのお墨付き!』と太鼓判を押してくれたのは、ほかでもないこの人だ。一緒に選んだスーツだからね、と返したら、用事のついでに立ち寄るのと朝から出勤するのは全然違うでしょ、と言われた。
着るものを変えるだけで、鏡の中の僕はいつもより随分立派な社会人に見えた。中身の方は、そう簡単に成長してくれないのだけれど。
立ち寄ってはいる、という弁明をここで重ねるのも大人気ない。少し歩幅を広げて、彩葉さんの隣に並んだ。
「冬本番かと思えば、もう春も近そうだね」
「まだしばらく先ですよ。クソ寒いですし」
「過ぎてしまえば、あっという間だよ」
「今、寒いんです」
反論の余地がなかった。コートのポケットに深く押し込まれた両手と、マフラーに埋もれた顎。春がどれほど待ち遠しくても、今朝の刺すような冷気まで縮んでくれるわけではない。
『彩葉、手袋もしてないね』
「手袋はしないのかい?」
「駅まで歩くだけなんで、別にいいんですよ」
「その駅までが、随分と寒そうに見えるけれど」
「見なくていいところまで観察しないでください」
あれだけ肩をすくめてポケットを突っ張らせていれば、見ない方が難しい。上京してきてからの付き合いで、彼女のこういう節制には何度か覚えがあった。風邪を引かないのが一番の節約だと思うのだけれど、口で言って納得してくれる相手なら苦労はしない。
「そういえば、学年末の試験はそろそろかな」
「まだですけど、もうすぐですね」
この前の配信でも、試験勉強が佳境だというリスナーの声を聞いた。彩葉さんの性格なら、朝の時間も惜しんで参考書を開いていそうだ。ヤチヨから教わった『彩葉検定』の知識に照らしても、そう的外れではないはずだ。
「それで朝ご飯を抜いてきた?」
「話が飛びすぎですよ」
僕の頭の中では綺麗に繋がっているのだけれど、途中を全部省いたことは認めよう。補足の言葉を探すより先に、ヤチヨが妙に自信満々な声を上げた。
『これはバイトの賄いをちょっとだけ胃に放り込んできた顔だね』
「バイト先の賄いは、少し口にしたんだね」
「なんで分かったんですか!?」
彩葉さんが飛び退くように足を止めて、目を丸くしてこっちを睨んだ。さすが奥伝保持者。顔色と時間帯だけで言い当ててしまったらしい。
感心している隙に、彩葉さんはポケットから素早くスマートフォンを取り出して、画面を叩き始めた。横からちらりと見えた検索窓には、「隠しカメラ 探し方」。
失礼な。名探偵の正体は、君の大好きな推しだよ。
スマホをしまうなり、悴んだ指先はすぐまたポケットの奥へ逃げ帰っていった。朝食の量も気になるけれど、目の前の寒さになら今すぐできる手当てがある。ビジネスバッグを開けて、予備のカイロを取り出した。
「はい。これ使って」
「大丈夫ですから」
即答だった。パッケージを見もしない真顔に、伸ばした手の行き場がなくなる。
『イツキ、サングラスちょっと外してからお願いしてみて』
なぜそこでそうなるんだろう。
ヤチヨからたまに受ける助言の一つではある。実際、そうすると妙に話が通りやすくなる場面があるのだけれど、どういう理屈なのかはいまだによく分からない。とはいえ、自慢の瞳を見せることにやぶさかではないし、ヤチヨの言うことなら従っておいて損はない。
先を歩く彩葉さんに追いついて、フレームに指を添え、サングラスを少しだけ鼻梁へ滑らせる。
「見ているこっちまで凍えてしまいそうだから。受け取ってくれないかい」
「……っ」
何か言い返そうとした唇が、ぴたりと閉じた。見上げてくる丸い瞳を、近くからじっと見つめ返す。ヤチヨは、この表情が本当に大好きだと言っていた。それを思い出すと、少しだけ羨ましいような気分になる。
僕一人で独占するのも気が引けるので、下げたレンズの角度を彩葉さんの方へ向けておいた。
「……はぁ」
『こうかは、ばつぐんだ! ……私もちょっと横になるね』
片方は深くため息を吐き、もう片方は尊死して倒れた。
観念したように差し出された手のひらへ、カイロを重ねて乗せていく。彩葉さんは手元を見下ろして、それから僕の顔を見上げた。
「……なんか、増えてるんですけど」
「オマケ付きだよ」
「オマケで三倍になってるんですけどっ」
「キャンペーン期間中につき、特典の返品は受け付けていません」
一つだけ渡すとは言っていない。これだけ冷え込んでいるのだから、両ポケットと手元の分があって困ることはないはずだ。箱ごと鞄に詰めてこなかったことだけが悔やまれる。
サングラスを元に戻しながら、彩葉さんの横顔をもう一度うかがった。僕の目が原因なのは分かるけれど、単に見入っていたというわけでもなさそうだ。理由を教えてくれそうな人は、彩葉成分の過剰摂取で現在休眠中である。
まあ、また今度聞いてみよう。
駅の地下通路への階段を下りる。彩葉さんとは使う路線が違うから、ここから先は別々だ。両手でカイロを持て余している彼女を横目に、僕は改札の方へ足を向けた。
「ちょっと、藤原さん!」
「その代わり、あとで課題のメッセージを送るから。時間のある時に回答しておいてね」
『さらば~い』
そこだけ都合よく意識を取り戻すんだね。
伸びてきた手を軽く躱して、通行人の邪魔にならない間合いで距離を取る。走る必要はない。追いつかれなければ、それで十分だ。
何かをもらうばかりでは居心地が悪いらしい彩葉さんには、こうして後から思考実験を投げることにしている。トロッコ問題のような倫理の問いに、彼女なりの現実的な答えを返してもらうのだ。時々こちらが目を見張るほど鋭い視点が返ってくるから、届いたメッセージを開くのが密かな楽しみだった。
「私は藤原さんのゼミ生じゃないんですけど!」
振り返ると、両手にカイロを抱えた彩葉さんが、改札の手前でこっちを睨んでいた。片手を軽く掲げて、別れを告げる。
「あの人、私に悟りでも開かせるつもりか……?」
背中に届いた呟きには純粋な困惑が滲んでいたけれど、拒む冷たさはどこにもなかった。少しだけ肩の力を緩めて、僕は自分の乗るホームへ向かった。
◆
会談相手が会議室を出ていくのを見送ってから、自室のデスクに戻った。
いつもの癖で目元のサングラスを押し上げようとして、素顔のままだと気づく。今日の会談には、サングラスをはじめとする通信機器をすべて別室のトレイに置いて臨んでいた。議論の途中経過が、余計なノイズとして彼女に届かないように。おかげで、いつもなら耳の奥で賑やかに飛び交っている茶々がない。
行き場を失った指先で、額にかかる前髪をそっと撫で下ろした。
手元に残された企画書を開く。目当ての項目は、もう頭に入っている。
『月見ヤチヨの対話モデル』
用途:施設専用の案内AI
何度読み返しても、印字された文言は変わらない。
「代表、お疲れ様でした」
「ああ、ありがとう」
湯気の立つマグカップをデスクの端に置いてくれたのは、僕の補佐を務めてくれている人だった。僕などよりよほど忙しいはずなのに、たまに出勤するたびにこうして世話を焼かれるものだから、座り心地のいい革張りの椅子がどうにも落ち着かない。
「企業区画の件、いかがでしたでしょうか」
「企画自体はよかったよ。参加型の常設企業区画というのも、ツクヨミに合っている」
「では、ついにご決断を?」
「いや。今回は見送りの返答をしたよ」
「……またですか」
短いため息を受けながら、企画書を補佐へ渡す。持ち込んできたのは、大手広告・ITグループ傘下の会社だ。信用も経験もある。本来なら社内で検討して進めたい内容だったし、こうした提案を持ってきてくれること自体はありがたい。
補佐は慣れた手つきでページをめくり、ほどなくしてデータ連携の要件欄でぴたりと指を止めた。こちらから問題の箇所を指摘する必要すらない。すぐに書類は閉じられ、机の上へ戻ってきた。
「この条件は呑めない。先方にもそう伝えて、修正を提案したよ」
施設専用の案内役として、いつでも応対する月見ヤチヨが欲しい。そのために彼女の対話モデルを提供してほしい――企画書の一項目として整えられてはいるけれど、僕には彼女の複製を求められているようにしか読めなかった。
相手もAI技術を事業の核に据えている企業だ。会談中も、業界を牽引するAIライバーとしてのヤチヨへの配慮や敬意は十分に感じられた。けれど、言葉の端々に、生きた人格として彼女を認める響きは一片もなかった。
世間に向けて『最先端の自律型AIライバー』という看板を掲げている以上、そういう受け取られ方は僕たち自身が蒔いた種でもある。それでも――あの声で笑い、時々理不尽に拗ね、無邪気に世界を面白がる彼女を、案内機能の部品として他社へ渡すことなど、僕にはできない。
「代表の、ヤチヨさんに対する基本方針は本当に揺らぎませんね」
「彼女あってのツクヨミだからね。そこを曲げてしまったら、会社を立ち上げた意味がないよ」
ヤチヨが何の憂いもなく、自分の創りたい世界に没頭できるように。この会社を立ち上げた日から、その思いは変わっていない。思いついた面白いことを片っ端から形にして、遊びに来てくれた人たちと思い切り笑い合っていてほしい。
ただ、その自由な創作を現実の社会へ届けるには、コードの美しさだけでは立ち行かない。法的な責任、システムの安全性、知的財産の防護、そして企業同士の泥臭い交渉。向こう側でできることと、こちら側の枠組みへ安全に着地させることは、まったく別の問題だ。
だから、外から持ち込まれる話はまず会社で精査する。法務や安全面を確かめて、有用だと判断したものだけをヤチヨへ説明し、相談する。その上で本人が嫌だと言えば、そこで終わりだ。
「では、社内決裁の書類の確認をお願いいたします」
「うん。見せてもらおうか」
補佐が広げたファイルへ、意識を切り替える。現場で判断の分かれた案件、代表としての最終承認を必要とする決裁事項。一つずつ説明を受け、内容を確かめて返していく。書類の山と向き合っているうちに、マグカップの湯気はすっかり息を潜めていた。
前回オフィスに腰を落ち着けたのは、確か半月ほど前だったか。普段のやり取りはメールやAR空間で大半が済むとはいえ、それだけでは片づかない案件もある。紙をめくる音が途切れて、補佐が書類の束をきちんと揃えた。
「本日の確認事項は以上で全て完了となります」
「丁寧に進めてくれてありがとう。いつも手間をかけさせてすまないね」
「いえ、仕事ですから」
僕が留守にしていても会社が回るのは、補佐が実務の仕組みを整えてくれたおかげだ。こちらの事情を承知の上で支えてくれていることには、感謝してもしきれない。とはいえ、礼を言うためにいつまでも引き留めていては本末転倒だ。
「それでは、私はこれで失礼するよ」
「社用車を手配いたします」
「いや、その必要はないよ。今日は少し外の空気を吸いながら、歩いて帰りたいんだ」
鞄を持って立ち上がろうとすると、補佐は一歩も引かずにこちらを見ていた。
「何度もお伝え申し上げておりますが、代表として相応しい振る舞いをお願いいたします」
「歩いて帰るくらい、別に構わないだろう」
「代表がそうして社用車を固辞なさいますと、役員や他の社員たちも遠慮して、社用車を使いづらくなるのです」
……その言い方はずるい。
僕個人の気まぐれなら押し通せる。けれど、それで社員たちが社用車を使いづらくなると言われては、無下には突っぱねられない。
「街を少し散策しながら、のんびり帰りたかったんだがなぁ」
「ご指定の散策エリアの入り口まで、車でお送りいたします」
「散策というのは、そういう計画的なものじゃなくてね」
「お乗りください」
口調は終始穏やかだった。けれど、僕が頷くまでこの話を終えるつもりはないらしい。これ以上長引かせれば、その分だけ補佐の貴重な時間を削ることになる。そこまで計算に入っているのだとしたら、補佐は随分と僕の扱いを心得ている。
「……わかったよ」
補佐はエントランスまで付き添い、僕が社用車に乗り込んでドアが閉まるのを見届けてから、ようやく深々と一礼して社屋へ戻っていった。その実直な背中を見送りながら、膝の上の鞄を抱え直す。
重要な案件の最終判断は、ついさっきまで僕がしていたはず。
僕、これでもこの会社の代表なんだけどなぁ。
―サングラス外してからお願いしてみて
超かぐや姫名物垂れ目族
酒寄彩葉
完璧超人を遂行する女子高生。
上京してしばらくしてから隣人と推しから侵略を受ける。
彩葉本人より学んだ解像度の高い攻略検定を勝手に伝授されている。逃げ場はない。
幼少期のキーホルダーは糸が解れてしまったため、神棚の横に置かれている。
当時のことは朧げにしか覚えていない。
ツクヨミ運営企業
イツキがヤチヨのために設立した企業。
設立当初にヤチヨとイツキが引っ張ってきたSSR人材と先を視るイツキにより進化。規模は中堅、影響力は国内有数の化け物企業となる。進化を残している。
補佐
ツクヨミ運営企業の古参幹部。SSR人権の一人。
イツキからのヘッドハンティングで入社。
ヤチヨとイツキの事情を聞いた当初宇宙猫と化した。
仕事がキツくないか聞いたら本人曰く、業務の分散はできているから問題ない、とのこと。
状況把握と全体調整の達人。イッキ推し。