転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
炊飯器が炊き上がりを告げる短い電子音を鳴らした。
鍋の蓋を取って火を弱め、お玉で汁の味を確かめる。少しばかり出汁を濃い目にした気もしたが、練習後ならこれくらいでちょうどいいだろう。あとは盛りつけて、二人がやってくるのを待つばかりだ。
今日は彩葉さんとかぐや、それにヤチヨの三人で、今度行うライブの練習をしている。僕はといえば、もちろん不参加だ。当日は客席から一人の観客として見届けるつもりだし、三人で作り上げている舞台へ僕が途中から口を挟む筋合いもない。だからせめて、練習が終わる頃合いを見計らって夕食を用意しておくことにした。
皿を並べ終えたところで、狙い澄ましたようにインターホンが鳴る。玄関扉のロックを外して引いた瞬間、
「イツキーー! 聞いて聞いて!」
案の定、弾丸のような勢いでかぐやが視界へ飛び込んできた。
「靴」
「あっ」
たたきを飛び越えかけた爪先が空中でピタリと止まり、照れくさそうに踵を引っ込める。その後ろから入ってきた彩葉さんが、呆れたように息を吐きながらスニーカーを脱いだ。
「ログアウトしてから廊下歩いてる間、ずーっとこのテンションですよ」
「楽しかったみたいだね」
「超楽しかった! ヤチヨと彩葉と三人で同じとこ立ってさ、声合わせて歌うんだよ!? もうね、本番が楽しくないわけないじゃん!」
まだ始まってもいない本番の熱気まで、すでにつまみ食いしているらしい。まあ、気が沈んでいるよりはずっといい。
「本番、楽しみにしてるよ」
「でしょ! だからイツキ、絶対見ててよ! このキュートなかぐやちゃんを最初から最後まで、一秒も見逃さないでね!」
「うん、ちゃんと見るよ。最初から最後まで」
「途中でどっか行ったら承知しないから!」
「客席からどこへ消える気だい」
「分かんないけど!」
そこは分からないのか。横で靴を揃えていた彩葉さんが、堪えきれずに小さく吹き出した。
「ほら、冷めないうちに食べよ。せっかく作ってもらったんだから」
「はーい! ご飯ご飯!」
二人をリビングへ促し、テーブルへ料理を運んでいく。湯気を立てる皿を見たかぐやが、真っ先に両目を輝かせて身を乗り出した。
「ひょわ~、山盛り。ごちそうじゃん!」
その隣で、彩葉さんの動きがピタリと停止した。並んだ大皿、深鍋、炊飯器、そして僕の顔を、測量でもするかのように順番に見比べていく。
「……一継さん」
「はい」
「確認なんですけど、今日って私たち三人ですよね」
「三人だね」
「ですよね。……これ、何人前作ったんですか?」
「三人前だよ」
「嘘おっしゃい」
迷いのない即答だった。
「かぐやは普段から気持ちよく食べるし、二人とも練習後でお腹が空いているだろうと思ってね。余ったら明日の朝に回せばいいから、少しだけ余裕を持たせたつもりなんだが」
「その『少し』の基準が体育会系の合宿なんですよ。どう見ても五人前はあるでしょ」
「そうかな」
「そうです」
「彩葉、大丈夫! かぐやが全部食べるから!」
「全部食べたら胃袋が破裂するよ」
「いけるってば!」
「何と戦ってんのよ、あんたは」
いただきますの声を合図に箸を伸ばし始めてからも、話題の主役はライブ練習のままだった。かぐやは口を動かしながらも喋る手が止まらない。白米を頬張り、おかずを突っつき、彩葉さんへ同意を求め、思い出したように僕へ身振り手振りを交えて熱弁を振るう。
「あ、そうだイツキ、聞いてよ! ヤチヨの曲の振り付け、クソむじーんだから!」
「クソ難しい?」
「ヤチヨのやつAIだからってさー! サビんとこでくるっと回って手ぇ伸ばすやつ。ヤチヨはなんかふわーって風みたいに回るのに、かぐやだけ手と足がこんがらがって何回も転びそうになったんだから! なんであんな難しいの!」
「あんたが勢いだけで回ろうとするから軸がブレるんでしょ。手先じゃなくて腰から回しなさいって何回も言ったじゃん」
「言われてすぐ回れたら苦労しないもーん!」
「練習なんだから苦労しなさいよ」
彩葉さんにピシャリと言い負かされ、かぐやはリスのように頬を膨らませて唐揚げを放り込む。どうやら練習そのものは、なかなか実践的で充実していたらしい。
「でさ、間奏のところで彩葉の振り付けにちょっとアレンジ入れて――」
「ストップ。そこから先は本番まで内緒」
「えー、なんでよ。いいじゃん!」
「一継さんは客席で観るんだから、ネタバレ全部踏ませてどうすんの。初見でちゃんと驚かせたいでしょ」
「……それもそうだね。当日のお楽しみに取っておくよ」
「えー、一継まで納得しちゃったじゃん!」
不服そうに唇を尖らせるかぐやを宥めつつ、箸を進める。やがて練習の興奮がひと段落すると、話題は自然と食事そのものや、新居での他愛もない日常へ解けていった。新しくなったキッチンの使い勝手や、かぐやが昨日の夜にネットで見つけたという動画の話。彩葉さんが呆れ半分に相槌を打ち、僕が気になったところへ口を挟む。三人で囲む食卓は、特別なライブを控えている最中であっても、驚くほど普段どおりの穏やかさで満ちていた。
最初は多すぎると抗議された料理も、かぐやの旺盛な食欲と彩葉さんの堅実な消費によって、気付けば大皿の底が見えるまで平らげられていた。
「料理、結果的にちょうどよかったじゃないか」
「……結果オーライで押し切るのやめてもらえます?」
彩葉さんにジト目で睨まれたが、綺麗に空になった皿を見れば僕の読みもあながち間違いではなかったはずだ。
時計の針がひと回りしたところで、彩葉さんがふと手元のスマホを確認し、椅子の背から身体を起こした。
「あ、すみません、私そろそろ戻りますね」
「まだゆっくりしていってもいいのに」
「さっきのライブ練習で、間奏の音の重なりでちょっと気になるところがあったんで。忘れないうちに自室の機材で少し弄っておきたいんです。それだけやったら今日はちゃんと寝ますから」
「そっか。無理のない範囲でね」
「分かってますって。ごちそうさまでした、美味しかったです」
彩葉さんは穏やかに笑って立ち上がると、食器を重ねようとしたかぐやの頭を指先で軽く小突いた。
「ほら、かぐやも手伝ったらすぐ戻ってきなよ」
「はーい、お皿洗ったら帰るー」
彩葉さんを見送るため、玄関先まで出る。以前のアパートと違って、今は同じフロアの数歩先だ。外階段で足を滑らせる心配はない。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ。部屋まで気をつけてね」
「数メートル先ですよ」
小さく笑いながら手を振り、彩葉さんは自分の部屋のドアへと吸い込まれていった。
リビングへ戻ると、かぐやが両腕いっぱいに空いた皿を抱え、慎重な足取りでキッチンへ運んでいるところだった。
「イツキ、かぐやもお皿洗うの手伝うよ~」
「ありがとう。じゃあ、水気を拭く係をお願いしようかな」
「まかせて!」
袖をまくり、シンクでスポンジを泡立てる。僕が洗い終えた平皿をすすいで水切りカゴへ置くと、隣のかぐやが布巾を構えて勢いよく受け取った。
一枚。二枚。
三枚目を手渡そうとしたところで、かぐやが眉を寄せて僕の手元を覗き込んできた。
「……イツキ、洗うの早くない?」
「そうかな」
「早いって! かぐやまだ二枚目拭いてるのに、もう次来てるもん!」
「急がなくていいよ。拭く方が丁寧で助かる」
「でも負けてるみたいでヤーダー!」
勝負を挑まれていた自覚はまったくなかったが、そう言われてしまえば手加減するしかない。少しペースを落とし、泡を落とす時間をゆっくりにしてみる。
「……あ! 今わざとゆっくり洗ったでしょ。手加減した!」
「なかなか注文が厳しいね」
思わず苦笑いが漏れる。かぐやはぷくっと頬を膨らませて皿を拭いていたが、ふと何かを思い返したように、持っていた布巾の動きを止めた。視線が手元の白い陶器の上を滑り、そのまま静かに伏せられる。
「……イツキってさ」
「うん?」
「なんか、いつもいろいろやってくれるよね」
「いろいろ?」
「今日のご飯もそうだし、お皿洗うのもだし。……引っ越しの時も、その前のアパートの時もさ。イツキ、ずっとかぐや達のこと助けてくれてるじゃん」
蛇口をひねり、水の音を止める。かぐやは拭き終えた皿を慎重に重ねると、ぽつりと呟いた。
「スマコンくれた時もさ」
「ああ」
懐かしいな。あの時は、これがあれば彩葉さんと一緒にミニライブへ行けると思って渡しただけだった。その小さなレンズを足がかりにして、この子はライバーになり、ヤチヨカップを駆け抜け、ブラックオニキスと渡り合い、今度はヤチヨと同じステージへ立とうとしている。
「かぐや、あの時すっごく嬉しかったんだよ。『僕からの贈り物』って言ってくれたの、ずっと覚えてる」
「うん」
「だからさ」
かぐやがくるりと身体をこちらへ向けた。その瞳には、出会った頃と少しも変わらない真っ直ぐな光が宿っている。
「かぐやも、イツキに何かあげたい!」
「僕に?」
「うん! イツキばっかり贈り物くれてずるいもん! かぐやもイツキにあげたい!」
言い終えるなり、かぐやは自分の身の回りをせわしなく探し始めた。パーカーのポケットに手を突っ込み、何もないと分かると服の裾をめくり、やがて自分の左手首へと視線を落とす。
「あ」
小さな声が漏れた。かぐやがじっと見つめた先には、淡い光を弾く銀のブレスレットがあった。初めて出会った赤ん坊の頃も、ライバー活動を始めてからもずっとその手首に寄り添っていたものだ。
かぐやは迷うことなく細い金属の輪を両の手のひらに乗せて、僕の胸元へと差し出してきた。
「はい! これあげる!」
「……それをかい?」
「うん! これ、かぐやが最初っからずっと持ってるやつで、大事な物だから! イツキへの贈り物なら、これが一番いいでしょ!」
誇らしげに胸を張り、満面の笑みで差し出してくる。自分が大切にしているものだからこそ、いつも支えてくれる相手に手渡したい。その理屈の裏表のなさが、あまりにもかぐやらしくて胸を突く。
「ありがとう、かぐや」
「えへへ~!」
嬉しそうに目元を緩めるかぐやを見つめ、僕は差し出された銀色の輪へ、そっと視線を落とした。それから、静かに首を横に振る。
「でもね、これは受け取れないよ」
「……え?」
弾けるようだった笑顔が、ふっと固まった。
「なんで……? いらないの……?」
「いらないから断ってるんじゃない。その気持ちは、本当に嬉しい」
誤解させないよう、そこだけはすぐに否定する。案の定、かぐやは納得のいかない顔で唇を結び、差し出した手を引っ込めようとしない。
「じゃあ、なんで受け取ってくれないのさ!」
「僕はね、もう十分すぎるくらい、かぐやからたくさん貰っているからだよ」
「……え? なんにもあげてないよ? 美味しいご飯だってイツキが作ってくれたし、私、なんにも……」
「目に見えない贈り物を、もう十分もらっているよ」
かぐやが丸い目を瞬かせた。
今日の夕食だってそうだ。新居の食卓を囲んで、三人で他愛のない話を笑い合ったこと。振り付けが難しいと口を尖らせながら、それでも楽しそうにライブの話を聞かせてくれたこと。皿洗いのスピードで張り合って、手加減したと怒られたこと。もっと前から数え上げれば、この部屋の広さでも収まりきらないほどの記憶が、すでに僕の胸の中には満ちている。
「だから、これ以上はもらいすぎだよ」
「……でもそれ、触れる物じゃないじゃん!」
「うん、形はないね」
「だったら、これも貰えばもっと増えるじゃん! 思い出も物も両方あった方がいいでしょ!」
なるほど、そう切り返してくるか。子どものような、けれどどこまでも純粋で欲張りな理屈に、思わず声を出して笑ってしまう。
「君の言う通りかもしれないね。でも、やっぱりこれは駄目だよ」
「むぅーーーー……!」
かぐやの両頬が、風船のように目一杯膨らんだ。
「イツキの頑固!」
「かぐやにそれだけは言われたくないな」
「かぐやは柔軟だしぃ! イツキが石頭なの!」
「今まさに力ずくで押し通そうとしている人が言う台詞じゃないよ」
「これは別!」
まったく、どこまでも都合のいい論理だ。けれど、かぐやは自分の掌にあるブレスレットと僕の顔を何度か行き来させると、膨らませていた頬からふうっと息を抜いた。
「……ほんとに、いらないの?」
「そういう意味じゃない。僕にあげようとしてくれた君の気持ちだけで、もう手一杯なくらい受け取っているんだよ」
嘘偽りのない本心をそのまま伝えると、かぐやはしばしの間、僕の目を見つめていた。僕が冗談や遠慮で断っているのではないことが、その真っ直ぐな感性に伝わったのだろう。
「……そっか」
小さく息を漏らし、かぐやは差し出していた手をゆっくりと胸元へ引き戻した。そして、少し名残惜しそうにしながらも、銀色の輪を自分の左手首へと戻す。
「じゃあ、これはかぐやが持っとく」
「うん。それが一番似合っているよ」
「でもね! かぐやがイツキにあげようとしたことだけは、ぜーったい忘れちゃダメだから!」
「分かったよ。絶対に忘れない」
約束を交わすと、かぐやは満足そうに鼻を鳴らした。先ほどまでの曇り空が嘘のように晴れ渡り、くるりと踵を返してシンクへ駆け寄る。
「よし! じゃあイツキ、お皿洗いの続き! 今度は手加減なしだからね!」
「はいはい、負けないように洗うよ」
再び蛇口をひねり、温い水が流れ出す。隣で布巾を握り直したかぐやの手首で、いつも見慣れた銀のブレスレットが、キッチンのライトを浴びて小さく瞬いていた。