転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
ツクヨミの特設ライブ会場は、開演前から熱を冷ます気配をまったく見せていなかった。
視界の果てまで観客席を埋め尽くす色とりどりのアバターと、空間をかすかに震わせるざわめき。その無数の視線の先で、照明を落とした巨大なメインステージが、これから始まるものへの期待と歓声だけを静かに受け止めている。
僕もまた、周囲のリスナーたちと同じように一般席の一角に身を置き、まだ誰も立っていない舞台を見つめていた。
かぐやが配信を始めてから、本当に色々なことがあった。
最初は機材の扱いもネットの作法も分からないことだらけで、画面の向こうへ飛び込むこと自体が冒険だった。けれど今では、その姿を数え切れないほどの人が待ち望んでいる。歌いたいと願ったかぐやの隣には、いつの間にか彩葉さんが当たり前のように立つようになり、二人で音を紡ぎ、伴奏を重ね、活動を支え合ってきた。
彩葉さんが一人で抱え込みすぎて、限界を迎えたこともあった。
ヤチヨカップの終盤では、あのブラックオニキスを相手に竹取合戦まで駆け抜けた。試合そのものには僅差で届かなかったけれど、二人は最後まで自分たちの意志で足掻き続け、その先で堂々と優勝を掴み取ってみせた。
今日は、その長かった日々の先にある、公式コラボライブの当日だった。
客席の待ちきれない空気を押し上げるように、地鳴りのような歓声がまた一段高く跳ね上がる。
直後、場内の照明が一斉に落ちた。
息を呑むような暗転の中、ステージ中央の円形リフトへ鋭いスポットライトが集まり、床がゆっくりとせり上がってくる。
光の柱の中に、並び立つ三つのシルエットが浮かび上がった。
満面の笑みを浮かべたかぐや。
肩から使い慣れたキーボードを提げた彩葉さん。
そして、二人の間に立つ月見ヤチヨ。
スタジアムの天蓋を揺るがすほどの歓声が爆発した。
かぐやが両腕を大きく振り、彩葉さんも眩しそうに客席の光の海を見渡す。ヤチヨは二人へ柔らかく視線を配ったあと、正面の観客へ向けて朗らかな声を響かせた。
「ヤオヨロ~! みんな生きるのはどうですか? 良い事あった? それとも泣いちゃいそう? よしよし、全部大丈夫。どんなに遠い道のりでも、楽しかったなーって記憶が足元を照らすよ。この時間も忘れられない思い出にしたいから……どうか一緒に踊ってくれる?」
地響きのような返答が、会場の全方位から返ってきた。
その途方もない音圧に、胸の奥がくすぐったくなって自然と笑みがこぼれる。
――そして、最初の音が鳴り響いた。
かぐやの突き抜けるような歌声が真っ直ぐ空へ駆け上がり、そこへヤチヨの澄んだ声が寄り添うように重なる。
その瞬間、喉の奥が熱くなった。
胸の芯を突き上げるような感情が、抑えようもなく込み上げてくる。
目の前にいるのは、もう「これから始める」と手探りで進んでいた二人ではない。
かぐやが心から楽しそうに笑い、歌っている。その隣で彩葉さんが鍵盤を叩き、二人の歌声を力強く、それでいて繊細に支える音を鳴らしている。
二人に向けて降り注ぐ無数の光と歓声が、この仮想空間そのものを幸福な熱で揺らしていた。
初めて二人の活動を間近で見た頃には、こんな眩しい景色が訪れるなんて想像もしていなかった。
かぐやはいつだって、自分の心が動いた方へ迷わず飛び込んでいった。
彩葉さんは、その奔放な跳躍を呆れながら受け止め、現実に耐えうる形へと整えてきた。
決して楽な道ではなかったはずだ。楽しいことばかりでもなかった。傷つき、立ち止まり、躓いた瞬間を、僕はすぐ近くで見てきた。
それでも今、二人が並んで立っているあの舞台を見れば、積み重ねてきた迷いや苦労のすべてが、確かにこの場所へ続いていたのだと思えた。
かぐやの動きは、今日も決まり切った振り付けの枠には収まらない。
楽しさが膨らめば、身体ごと音の先へ飛び出していく。ヤチヨはそんな衝動を自然に拾い、ライブの流れへ溶け込ませる。彩葉さんも二人の勢いに巻き込まれながら、肩掛けのキーボードを鳴らし、ときには一緒になって動いていた。
三人とも、まるで違う。
違うまま、同じ舞台にいる。
その光景が、たまらなく嬉しかった。
そして――ヤチヨ。
彼女が歌う姿なら、それこそ数え切れないほど見てきた。八千年という途方もない歳月の中でも、幾度となく。
けれど、今日の彼女の隣にはかぐやがいて、彩葉さんがいる。
二人の声を受けて、ヤチヨが笑う。
ヤチヨが広げたものへ、二人が自分たちの音で返していく。
それを見つめているうちに、胸の奥がじわじわと締めつけられた。
苦しいわけじゃない。
むしろ、その逆だ。
満たされた幸福があまりにも大きくて、自分の中だけでは収まりきらない。
ずっと見てきたヤチヨが、今は二人と一緒に歌っている。
ただそれだけの光景が、どうしてこんなに胸へ来るのだろう。
気がつけば、緩んだ口元を隠すことも忘れて舞台を見上げていた。
曲が進んでも、その温かな高揚は途切れなかった。
かぐやが自由に舞台を駆ければ、ヤチヨが笑って拾う。彩葉さんも演奏を止めることなく、二人の熱の中へ混ざっていく。
客席から歓声が返り、舞台上の三人がそれを受け取って、また返す。
あらかじめ決められた通りだから成立しているのではない。
今、この三人が立っているからこそ続いていく時間だった。
何度も胸が熱くなる。
かぐやと彩葉さんが、自分たちの足でここまで辿り着いたこと。
ヤチヨが二人とここにいること。
どちらを思っても、同じだけの喜びが胸へ込み上げてきた。
やがて、最後の音が広い空間の彼方へ長く伸びていく。
かぐやとヤチヨの声が重なり、その下を支える彩葉さんの鍵盤が、最後の音を刻んだ。
すべての音が、ふっと静寂へ吸い込まれる。
ほんの一拍の静止。
直後、今日一番の歓声と拍手が、津波のようにステージへ押し寄せた。
かぐやが全身を弾ませ、その勢いのまま彩葉さんへ駆け寄っていく。興奮冷めやらぬ様子で何かを話しかけると、彩葉さんが目を丸くして戸惑っていた。
また何か、突拍子もないお願いでもしているのだろうか。
けれど、ヤチヨだけは二人の方を見ていなかった。
歓声の中心で、わずかに視線を伏せたまま静かに立っている。
言葉もない。
大きな仕草もない。
ただ、今ここにあるものを、自分の中へゆっくりと落とし込んでいるように見えた。
その横顔を見つめているだけで、胸の奥がまた熱くなる。
やがてヤチヨはゆっくりと顔を上げ、穏やかな笑みを客席へ向けた。
僕もまた、惜しみなく拍手を送った。
――最初の違和感は、音だった。
スタジアムを満たしていた歓声が、ふっと一瞬だけ途切れた。
完全な無音ではない。
通信の一部だけが不自然に抜け落ちたような、奇妙で冷たい空白。
僕は拍手を止め、思考より先にツクヨミの運営用管理インターフェースを展開した。
ライブ進行ログ。
会場内通信。
イベント制御。
複数の監視情報を同時に呼び出す。
予定されている演出の中に、こんな処理は存在しない。それどころか、会場通信の一部で更新そのものが止まりかけている。
「……通信障害か?」
監視対象をライブ会場全域へ広げ、同時にスタッフ側へ緊急の状況確認を飛ばした。
だが、返答が戻るより先に異常は表面化した。
ステージ上空や客席の頭上に浮かんでいた巨大モニターの映像が、大きく乱れる。
ノイズ。
月。
そして、無機質な文字列。
《2030/09/12》
一度消えた。
直後、別のスクリーンにも同じ文字が浮かび上がる。
《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》《2030/09/12》
演出側から送られた映像ではない。
発信元を追う。
取得できない。
監視系そのものにも遅延が入り始めている。
ステージを見る。
ヤチヨの表情は、すでに変わっていた。
客席へ向けていた笑みは消え、鋭い眼差しで会場を見渡している。
彩葉さんも異常に気づいていた。
そして、かぐやは――。
「……なに、あれ?」
ある一点を見た。
僕もその先へ視線を走らせる。
白い。
胴体も四肢も、確かに人の形をしている。だが、真っ白な体と提灯のような頭部が異常を際立たせる。
通常のアバター情報も何ひとつ返ってこない。
空間内のオブジェクト情報と照合する。
該当なし。
一体だけではなかった。
観客席の通路、その向こうにも、同じ白い人型が姿を現している。
その異形を目にした瞬間、遠い記憶の底から、かつて聞いた声が鮮明に蘇った。
――いや~、お迎えがきちゃってさー。
ヤチヨが笑いながら零した言葉。
月の仕事を放り出して地球へ来て、彩葉さんと過ごし、迎えが来たから月へ帰った。
その後、もう一度彩葉さんに会いに向かう途中で失敗し、八千年前へ落ちてきたことも聞いている。
――迎え。
これが、その「迎え」に関係するものなのか。
確証はない。
けれど、無関係だとは思えなかった。
白い人型の近くにいた観客たちが、気味悪そうに距離を取る。会場全体が崩れるほどの騒ぎにはなっていないが、異常に気づいた者からざわめきが広がり始めていた。
僕は状況確認を続けながら、ツクヨミの緊急管理系統を開いた。
アクセス元。
不明。
登録情報。
不明。
通常の強制退場対象としても捕捉できない。
なら、守る側を切り離す。
そう判断した瞬間、ステージに最も近かった白い人型が動いた。
かぐやへ。
距離が一気に縮まる。
間に合わない。
僕は緊急切断の対象指定を開いた。
対象――かぐや。
ライブ会場との接続だけを強制的に切る。
白い人型そのものを捕捉できないなら、触れられる前にかぐやをこの場から退避させればいい。
確認画面。
実行。
指を動かす。
あと一押し。
その瞬間――。
ヤチヨの続く道が、途切れた。
「……っ、は……?」
指が止まった。
帰還へ続く因果を不用意に断てば、ヤチヨまで失いかねない。それは分かっていた。
けれど、今はこの場から退避させようとしただけだ。
この切断も、そこへ繋がるのか。
考えている時間はない。
かぐやまで、もうほとんど距離がない。
実行すれば助けられる。
少なくとも、今この瞬間の接触からは逃がせる。
指を押し込もうとする。
道が消える。
止める。
もう一度。
やはり消える。
ここから離すだけでも、駄目なのか。
今、目の前に伸びている手から、かぐやを逃がしたいだけなのに。
ほんの少し前まで、かぐやと彩葉さんとヤチヨが並んで歌っていた。
ヤチヨが、あんなにも幸せそうに笑っていた。
ようやく三人で同じ舞台に立てたのに。
この操作を通した先には、その未来が続かない。
かぐやを助けたい。
ヤチヨにも笑っていてほしい。
どちらか一方なんて、選べるわけがない。
白い腕が伸びる。
猶予がない。
「――かぐやに触るなッ!!」
叫びが喉を裂いた。
近くの観客たちが驚いて振り返る。
そんな視線はどうでもよかった。
目の前には、強制切断の実行確認がまだ浮かんでいる。
押せない。
押して助けたい。
押せば、取り返しのつかないものを失う。
指先が震えた。
その間にも白い腕は止まらない。
「やめろ……ッ!」
今度は、掠れた声しか出なかった。
頼むから。
それ以上、その子に近づかないでくれ。
僕に、どちらかを選ばせないでくれ。
そして。
白い腕が、かぐやを掴んだ。
「かぐやッ!!」
彩葉さんの叫びが響く。
かぐやの全身から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。倒れ込む身体を、彩葉さんが咄嗟に抱きとめた。
客席から悲鳴が上がる。
音は聞こえている。
それなのに、その瞬間だけは何も頭へ入ってこなかった。
間に合わなかったんじゃない。
僕が止めた。
押せるところまで指を進めて、最後に自分の意志で止めた。
その事実が、鉛のように喉へ詰まった。
けれど、立ち止まっている暇はない。
強制切断の確認画面を閉じる。
この手段が使えないなら、別の道を探す。
ツクヨミの管理権限で、監視対象を白い人型と接触箇所へ集中させる。
オブジェクトの識別情報。
侵入元。
通信データ。
経路。
拾えるものを片端から洗う。
同時に、能力でも追う。
目の前に現れている白い人型そのものではなく、ここへ至った経路を辿る。
どこから来た。
何を通った。
どこからツクヨミへ繋がった。
ツクヨミ側の記録は、途中で途切れている。
けれど、完全に何もないわけじゃない。
細い繋がりが残っている。
管理系統で拾った断片と、能力で辿れる経路を重ねる。
一つ先へ。
さらにその先へ。
細い。
それでも、まだ続いている。
――迎え。
先ほど蘇った言葉が、もう一度頭をよぎる。
もし本当に月から来たものなら。
この経路の先には、ヤチヨが話していた場所がある。
それは、通常の空間的な距離を追う感覚とはまるで違っていた。
ここから隣接する場所を順番に辿っているんじゃない。
途中がない。
なのに、接続だけが成立している。
その先に、別の空間がある。
今いる場所とは、空間上の連続性を持たない領域。
輪郭だけが、少しずつ浮かび上がる。
まだ遠い。
細部までは分からない。
それでも、一度掴んだ経路は消えていない。
もっと深く。
もう一段。
辿る。
舞台の上では何かが起き続けている。
声も聞こえる。
観客席からざわめきも上がっている。
それでも今は、経路を離さない。
ここで切れば、もう一度掴める保証はない。
空間同士に連続性はない。
なのに、確かに向こうからこちらへ何かが通っている。
その繋がりだけを追う。
もう少し。
あと少しで。
向こう側の輪郭を、もう少しはっきり――。
経路が切れた。
唐突だった。
細くなったわけでも、遠ざかったわけでもない。
そこまで確かに存在していた繋がりが、一瞬で消えた。
「……っ!」
すぐに能力を伸ばし直す。
ない。
管理側の記録を見る。
こちらも消えている。
接続元も、残っていた情報も、さっきまで追えていた痕跡が一斉に途絶えていた。
そこで初めて、舞台へ意識を戻す。
白い人型はもういなかった。
ヤチヨが観客席へ向き直っている。
「何が起こってしまうんだ? 続報を待て!」
一瞬、場内が止まった。
それから、戸惑いの混じった声が返る。
今までの異常も含めて演出だったのかと、受け取り直し始めている人もいる。
僕はまだ、消えた経路の先を探していた。
何も返ってこない。
ヤチヨは大きく手を振る。
「みんな、今日は本当にありがとう~☆」
幕が下り始めた。
かぐや。
彩葉さん。
ヤチヨ。
三人の姿が少しずつ隠れていく。
僕は最後まで監視表示を閉じなかった。
ライブ会場の状態。
接続異常。
さっきの侵入対象。
一瞬だけ触れかけた、空間の向こう側。
取れるものは全部取る。
けれど、幕が完全に落ちるより少し後。
通信切断。
視界が切り替わった。
ステージ側との接続が消える。
監視表示からも、ライブ空間内部の直接情報が落ちた。
客席とステージが完全に分断された。
静かになった視界の隅に、さっき中断した緊急切断操作だけが履歴として残っている。
対象――かぐや。
実行直前で中止。
そこへ目が止まった。
「……っ」
喉が痛い。
叫んだ時の感覚が、まだ残っている。
かぐやに触るな。
確かにそう叫んだ。
それなのに、僕は最後の一押しができなかった。
押せば、ヤチヨの道が途切れた。
だから止めた。
それでも。
白い腕がかぐやへ届いた瞬間だけは、何度思い返しても消えてくれなかった。