【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
かぐやが目の前の月人へ顔を向けた。
「逃げちゃって、ごめん。でも、すっごく楽しかったんだ」
雲のように膨らんだものが舞台からゆっくりと離れ、かぐやの身体を持ち上げた。周囲に控えていた月人たちも一斉に空へ浮かび上がる。
僕はかぐやへ伸ばしていた観測をその先まで押し広げた。
月へ続く経路。その途中から枝分かれする可能性。何度も辿ってきた、ヤチヨへ至る長い道。用意してきたものを重ね、観測する位置を変えては先を探る。かぐやを失わず、ヤチヨも失わずに済む未来は今もかすかに見えていた。
そこへ手が届かない。
思考を加速する。ひとつの分岐を追い切るより先に別の観測を走らせ、行き詰まるたび記録を突き合わせた。ここからなら。もう少し先なら。帰還へ繋がる流れを違う角度から捉えられれば。
細い道が幾重もの分岐の向こうへ紛れていく。
違う。これでもない。
視界の中でかぐやが客席へ手を振った。まだ天守閣より少し高いくらいの場所にいる。それでも、つい先ほどまで舞台を踏んでいた足はもう地面から離れていた。
「みんな、ありがとーう!」
会場に広がる声を聞きながら、かぐやの現在へ観測を戻す。遠くばかり見て、今ここから踏み出す場所を見落としているのかもしれない。月人が現れた経路を辿り直しても、望む未来へ繋がるところは掴めなかった。
見えているのに。
どこを見落としている。何が足りない。
握り込んだ手に力が入る。目の前の流れへ干渉すること自体はできる。かぐやを連れ去ろうとするものへ、こちらから力を叩きつけることも。
こんなにも近くにいるのだ。
掴めない道を探し続けるくらいなら、いっそ――。
胸の奥で膨れ上がった力を、僕は寸前で押し留めた。
彩葉さんのお父さん。
あの時も、目の前にある結末だけは受け入れられなかった。死へ向かう流れを逸らし、その先を確かめた時には僕が望んだ親子の日常はそこになかった。
自分が何をどこまで変えたのか。今も答えは出ていない。
また、分からないまま手を伸ばすのか。
指を一本ずつ開いた。張り詰めていた息を吐き出し、かぐやの姿へ意識を戻す。光る雲は止まらない。僕が迷っている間も彼女を乗せて少しずつ高くなっていく。
それでもここで見失ってはいけなかった。
道は消えていない。あの日、切断のキーを押そうとした時とは違う。誰も失わずに済む先があるなら、今の僕に確かめられることをまだ探せるはずだ。
ミーティングルームで頭を下げた彩葉さんの姿が浮かんだ。
――かぐやを助けるの、手伝ってください。
一人で何とかしようとしていた彼女が自分から仲間を集めていた。みんなと一緒に戦うと決め、僕にも運営の方を頼むと伝えてくれた。
そのあとに残ったヤチヨの声。
――一継と、彩葉と……一緒にいたい。
いつもの軽口へ逃がすこともなく彼女はそう答えた。その先も、ずっと。みんなと一緒にいたいと。
そして、僕の部屋へ話をしに来たかぐや。
――でも、イツキたちともまだ一緒にいたい! 離れたくない!
月へ帰ることも、近くで過ごせなくなるのが嫌なことも、どちらも本当だと笑った顔を覚えている。
三人ともこの先を望んでいる。
ならば。
その声をひとつずつ思い返しながら、改めて因果を探った。
月へ続く流れと地上に残したい未来。その両方へ同時に意識を伸ばす。いくつもの可能性が重なり、ひと筋だけ見えていた道がその向こうでかすかに揺れた。
僕はそこへ届こうとした。
また、掴み損ねた。
思わず奥歯を噛み締める。何度繰り返せばいい。確かめたはずのことを並べ直して、そのたび同じ場所で手を空振りさせている。
遠ざかるかぐやを目で追ううちに、ヤチヨの声がもう一度耳の奥へ蘇った。
一継と、彩葉と、一緒にいたい。
僕が尋ねたのは、この先どうしたいかだった。
何を用意すればいいかでも、どうすれば帰還を阻止できるかでもない。あの時の彼女は少し言葉に詰まりながら、自分の望みを聞かせてくれたのだ。
彩葉さんもかぐやもそうだった。
できる保証があるから口にしたのではない。帰らなければならないと分かっていても、失うかもしれないと分かっていても、それでも自分はこうしたいと選んでいた。
その答えを受け取って、僕はずっと考えていた。
どうすれば叶えられるか。何を残せばいいか。どこを繋げれば三人はその先へ行けるのか。
この先、どうしたいか。
自分で口にした問いが今になって胸に引っかかった。
……僕は?
答えより先に懐かしい声がした。
――かぐやと彩葉、それにセツナも。
今とは違う景色の中で、彼女は自分が考えた名前を少し得意げに教えてくれた。
――みんなを一つに繋いで、その先までずっと継いで、連れてってくれる。
一継。
その名を口の中で転がした時の感触まで、鮮やかに戻ってくる。
僕自身も入っているのかと尋ねた。かぐやは何を当たり前のことを聞くのかという調子で答えた。
――セツナだけ置いてったら意味ないし。
そのあと、何度あの声で呼ばれただろう。
イツキという音は未来から過去へ渡り、僕と一緒にここまで来た。どこを辿っても最初に名付けた誰かへ行き着かない、小さな輪。けれど、その音を呼ぶ声はいつだって僕のすぐそばにあった。
呼ばれれば振り返って、彼女のいる方へ歩いていった。
それなのに、今は。
遠くなっていくかぐやへ僕は目を凝らした。あの声を聞いて生きてきた自分を、なぜ僕は見送る側へ置いている。
――一継さんは、どうしたいですか?
転居の相談をしていた時、彩葉さんにも聞かれた。
僕は答えていた。
今くらいの距離にはいたい、と。
自分の部屋は別にすると言い張って、かぐやに同じ階だと念を押された。二人の住む部屋まで廊下を少し歩けばいい。そのくらいの近さを僕も選んだのだ。
助けたい。
それは最初から変わらない。かぐやを彩葉さんのもとへ返したい。ヤチヨにもこの先を生きていてほしい。
助けた、そのあとは。
不意に思い浮かんだのは、ひどくありふれた光景だった。
仕事から帰って、ようやく腰を下ろしたところでチャイムが鳴る。扉を開けるとかぐやが立っている。面白いものを見つけたとか、新しい曲を聴けとか、そんなことを言いながらこちらの都合を尋ねるより先に話し始める。
彩葉さんと食卓を囲みたい。食べ終わっても何となく話が続いて、帰るのを少しだけ後回しにしたい。
ツクヨミへ入ればヤチヨがいて、用事を済ませたあとにも他愛のない話ができる。新しい歌を聴かせてもらって、また舞台へ見に行く約束をする。
何度も過ごしてきたような時間だった。
その続きを僕は欲しかった。
誰かの帰りを待つことも、僕が帰っていくことも。二人の会話に口を挟んで呆れられることも、かぐやに引っ張られて思いがけない場所へ行くことも。
満月の夜を越えたあとにも、まだ。
「……僕も、その先にいたい」
零れた声は、ひどく小さかった。
その願いを抱いたまま、僕はもう一度先を見た。
かぐやがいて、ヤチヨがいて、彩葉さんがいる。彼女たちへ手を伸ばし、声を返す僕自身も、そこへ。
細い道の輪郭がふっと近づいた。
一瞬、何が変わったのか分からなかった。見えていた先から、今ここにいる僕の方へ途切れずに辿れる道がある。
僕は息を止めた。
もう一度確かめる。かぐやへ続く先。ヤチヨの歩んできた時間と、この先。月へ帰っていく流れ。そのどこを見直しても道は消えなかった。
捉えた道へ用意してきたものを重ねると、何度も噛み合わずに滑っていた先が初めて繋がった。
この未来なら。
雲がさらに高くなる。
僕は通信へ声を落とした。
『ヤチヨ。今から、やるよ』
『……うん。分かった』
短い返事を聞き届け、その一本へ意識を集中させた。
広く伸ばしていた観測を、捉えた未来に沿わせていく。少しでも見失えば、また幾重もの分岐へ紛れる。もう一度同じものを掴めると期待して、手を緩める余裕はなかった。
かぐやが月へ帰っていく。
その流れの中にいる彼女を捉えながら、ヤチヨへ続く時間を追う。手元の準備も帰還の経路へ重ねた。
かぐやへ意識を絞ると、ヤチヨへ続く道から目が離れかける。そちらを捉え直せば、今度は月へ向かう流れを見失いそうになる。意識を戻すたび、別のところを確かめ直さなければならなかった。
全部だ。
どれも離すわけにはいかない。
記録を照合し、僅かなずれへ調整を重ねる。複数の能力を同時に走らせたまま、遅れかけたところへさらに意識を注いだ。
重い。
客席のざわめきが遠のいていく。コンソールへ置いていたはずの指の感触も薄れ、目の前の光景より、捉えているかぐやの気配の方がはっきりと感じられた。
歌い終えたばかりの彼女。僕を見上げて、あとで感想を聞くと言った彼女。
その魂を包みながら、ヤチヨへ続く未来を支え、月へ戻る役目を代わりのものへ引き受けさせる。ひとつの揺れを押さえている間にも、ほかへ伸ばした意識が引き戻されそうになる。
僕はさらに深く、持てるものを注ぎ込んだ。
別々に支えていた力が内側で軋む。ひとつを保とうとする意識まで、ほかへ引っ張られていく。どこへ力を注いでいるのか、その境目さえ曖昧になりかけた。
道を離さない。
それだけを掴んで、踏み留まった。
かぐやの気配を確かめ、すぐにヤチヨへ意識を戻そうとした。
戻す必要がなかった。
かぐやを捉えたまま、ヤチヨへ続く道も見えている。月へ向かう流れも見失っていない。ひとつの揺れを押さえても、ほかを掴み直さずに済んだ。
別々に呼び起こし、繋ぎ留めていた力の境目が、もう見つからなかった。
――
僕の内側にある力を、その名で捉えた。
同時に、身体の奥から途方もない重さがせり上がってきた。視界が一度大きく揺れる。捉えているものは離れないのに、僕の意識の方が沈みかけていた。
まだだ。
まだ、確かめていない。
捉えた未来を離さず、残っている力を注ぎ込んだ。かぐやへ伸ばした意識も、ヤチヨへ続く先も、保ったまま。
その先を確かめようとしたところで、視界が大きく揺れた。
今、かぐやはどこにいる。ヤチヨへ続く道はどうなった。
意識を向けても、焦点が合わない。さっきまで捉えていたものの輪郭がぼやけていく。もう一度確かめようとしたが、会場の光ごと遠ざかり、目の前の景色がほどけた。
戻ってきた視界に引っ越し前のアパートの天井が映っていた。
設備室とは別の、今夜、接続に使っていた一室。背を預けている感触はあるのに、身体を起こそうとしても力が入らなかった。
息を吸う。もう一度。
ヤチヨに、連絡を。
今からやると伝えたきりだ。あの短い返事を受け取ってから、僕はまだ何も返していない。
確かめて、伝えなければ。
通信へ向けた意識が途中で揺らいだ。名前を呼ぼうとする。その一言さえ形にできず、考えていたことが遠のきかける。
まぶたが落ちてきた。閉じかけた目をどうにか開くと、天井が先ほどより遠く見えた。
まだ、眠るわけには。
そう思ったはずなのに、ふと、かぐやの顔が浮かんだ。
――どこがよかったか。
あとでちゃんと聞くからと、僕の返事を待っていた瞳。すごかった、だけでは駄目だと念を押された。
ちゃんと聴いたよ。
最初から、最後まで。
声も、歌い切った姿も覚えている。伝えたい感想は、いくつもある。
だから、また。
顔を見て、話をしたい。
口元がわずかに動いた。けれど、何も聞こえなかった。
もう一度だけ確かめようと、僕は遠ざかる意識を引き寄せた。さっきまで捉えていた、かぐやの気配を探す。ヤチヨへ続く先も、まだ確かめられていない。
あと、少し。
その先を捉えるより早く、重いまぶたが閉じた。
返せなかった言葉を胸に残したまま、僕の意識は深い眠りへ沈んでいった。