【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
それから半年が過ぎた。
最後の文書を送信して、画面を閉じる。途端に、部屋には水槽が刻む規則正しい水音だけが残った。キーボードから手を離して腕を上へ伸ばすと、凝り固まった関節が小気味よく鳴る。立ち上がって部屋の明かりを落とし、もう一度深く椅子へ腰を沈めた。
静かな時間には慣れている。けれど、誰もいない時間にはどれほど時を重ねても馴染めそうにない。
気づけばいつも、傍らには誰かがいた。ヤチヨがいて、補佐がいて。もっと遠い日には、家族だと言ってくれた人がいて、笑いかけてくれた人がいた。
こういう静けさの中では、自然と意識が内側へ向く。
背もたれに身体を預けて、静かに息を吐き出す。目は閉じずに、外へ向けていた意識だけを内側へ折り返していく。胸の鼓動よりも深い場所、存在の中心に、長い歳月を共にしてきた権能の確かな感触があった。
知覚した景色も、交わした言葉も、積み重ねてきた失敗も、何一つ欠けてはいない。記憶の層を確かめて、その先にある望む未来へ意識を伸ばす。
誰も消さず、誰かが歩んできた時間も失わせず、その先へと繋ぐ道。
魂の奥に、淡い光が灯る。細くはあるけれど、途切れてはいない。けれど、その先を手繰ろうとした途端、幾重にも重なり合う分岐が行く手の輪郭を曖昧に滲ませていく。無理に覗き込めば歪むと知っているから、そこで静かに踏みとどまった。
目指す場所が見えていることと、そこまで辿り着けることは違う。今の僕にはまだ、そこまで辿り着く道筋が掴めていない。
「まだ、途中か」
独り言が、水音に溶けていく。足りないのなら、届くところまで歩みを止めないだけの話だ。今捉えた細い道の感触を、忘れないよう魂へ刻み直す。
長く吐いた息と一緒に肩の力を抜き、何もない天井を見上げた。傍らにいてくれた人たちの温もりを思い浮かべると、さっき確かめたばかりの記憶へ、また無意識に手を伸ばしそうになる。
指先がその輪郭に触れる、まさにその寸前。
バフゥーーーン
外から、間の抜けたコミカルな破裂音が響いた。
「イツキィ! 外行くよ!!」
続けざまに耳元を突き抜けた絶叫に、思わず背もたれから身体を起こす。視界のAR上にヤチヨの姿が現れ、至近距離からこちらの顔を覗き込んできた。
「おやおや~、寝起き? 駄目だよ、寝る時は布団で寝なくちゃ」
「寝てはいなかったよ。今ので眠気も完全に吹き飛んだけれど」
「それなら準備ばっちりだね!」
「何の準備かな」
「ありゃ? 今日だよ?」
今日という日に、心当たりを探す。約束も、外出の予定も入っていなかったはずだ。黙って次の言葉を待つと、ヤチヨは両手を大げさに広げてみせた。
「私が来るの! 言ってなかった?」
「……聞いてないなぁ」
「ともかく早く! 即行! 爆速! 間に合い隊!」
日時を伝え忘れていた件は、その勢いで押し流すつもりらしい。立ち上がった僕を追い立てるように前へ回り込んだヤチヨは、けれど、次の言葉をすぐには継がなかった。跳ねるようだった声が途切れて、こちらへ戻ってきた視線が落ち着かなげに揺れている。
「彩葉は……ちゃんといるよね?」
地球へ来たばかりの自分のそばに、あの子がちゃんといるのか。明るい声の下からこぼれた不安に、僕は足を止めた。
僕にも二人の姿が見えているわけではない。ただ、近くにある二つの魂と、その先へ続く細い道の気配だけは、確かに感じ取れた。
「大丈夫だよ。道は、ちゃんと続いているから」
「……そっか。なら安心」
ヤチヨの口元に、いつもの柔らかな笑みが戻る。さっきまでの大声を潜めて、僕を見つめたまま静かに告げた。
「イツキ、彩葉と私をお願い」
まだ先の未来へは届かなくても、今この瞬間にできることはある。その始まりを、迎えに行こう。
「わかった。行こう」
◆
赤ちゃんを拾った。
バイト帰りに。七色に光るゲーミング電柱から。
何度順番に考え直しても、何一つ意味が分からない。過労でついに幻覚でも見始めたのかと疑うたび、腕の中の確かな温もりとずっしりした重みがそれを全力で否定してくる。しかも、さっきから元気いっぱいに泣き叫んでいる。幻覚なら、もうちょっとこっちの疲労具合に配慮してほしい。
いや、幻覚じゃないから本気で頭を抱えているんだけど。
とにかく部屋へ帰ろう。誰かに見咎められる前に。鉛みたいに重い足を無理やり動かして、アパートの階段下まで来たところで、頭上から聞き慣れた声が降ってきた。
「彩葉さん」
見つかった。
恐る恐る顔を上げると、上の階の踊り場で藤原さんが軽く片手を上げていた。同じアパートの住人で、何かと私の一人暮らしを気にかけて世話を焼いてくる人だ。普段なら適当に挨拶を返して終わるのに、今ばかりは、その何事もなさそうな落ち着いた顔がひどく気まずい。
「藤原さん。えっと、これは……」
「赤ちゃんか」
はい。それは見れば分かると思います。
問題はどうして私が抱いているかで、そこを説明しようと思ったらゲーミング電柱の話から始めなければならない。どこから話せば正気の話として受け取ってもらえるか必死に探しているうちに、藤原さんは階段を下りてきて、私の腕の中を覗き込んだ。
「大丈夫。怖くないよ」
張り詰めた泣き声の隙間へ、驚くほど柔らかな声が落ちる。頭をそっと撫でる指先に、赤ちゃんはまだ何度か小さくぐずったものの、次第に声を潜めていった。やがて腕の中に残ったのは、穏やかな寝息だけだった。
「な、泣き止んだ……」
「困ってるんだろう。ついておいで」
「えっ。ちょ、ちょっと待ってください」
寝息を立てる頭を最後にもう一度撫でて、藤原さんは何でもないことのように階段を上り始めた。困っている。ものすごく困っているけれど、事情聴取を丸ごと飛ばして勝手に先へ進んでいくあなたにも、今かなり困っている。
上っていく背中と、自分の部屋のドアを見比べる。眠ったばかりの赤ちゃんを落とさないよう抱き直して、結局私は一つ上の階へ後を追った。
「おじゃまします……」
「いらっしゃい。そこに座ってて」
通された部屋は、思いのほかひんやりしていた。勧められるままソファへ腰を下ろすと、疲れ切った身体が深く柔らかく沈み込む。
うおっ。何だこれ、立ち上がりたくなくなる。
そんな場合じゃないのに、身体の芯はすっかりここを動きたくないと主張し始めていた。落ち着かない気分を誤魔化すように、目だけで部屋を見渡す。紺と白を基調にした室内に、木目の家具が静かに馴染んでいる。玄関脇の水槽から聞こえる水音までが、心地いい波の音みたいだった。
悔しいくらい、センスがいい。
「はい、お茶」
「あ、ありがとうございます」
ローテーブルのグラスへ手を伸ばしかけて、慌てて引っ込めた。腕の中の子を落とすわけにはいかない。赤ちゃんとお茶を交互に見比べて固まっていると、藤原さんもその不自然な手元に気づいたらしい。
「抱き方を少し変えてみようか。たしか、首と頭をこう支えて……」
目の前で示された手本に合わせて、ゆっくりと赤ちゃんの身体を支え直す。慣れない重みが腕の中で動くたびに心臓が跳ねそうになったけれど、赤ちゃんは目を覚まさなかった。
「こ、こうですか」
「うん。それでいいね」
体勢が落ち着いて、ようやくお茶に口をつけられた。喉を通る冷たさに、強張っていた息がすっとほどけていく。その間にも藤原さんは机からスマホを取って、赤ちゃんの世話について調べ始めていた。
……何も聞いてこない。
この人がお節介なくらい世話焼きなのは知っている。けれど今回は、何があったのかも聞かずに「この子のために次は何が必要か」を考えている。まるで最初から、自分も一緒に世話をする頭数に入っているみたいに。
ただの隣人なのに。
「あの、何も聞かないんですか?」
こらえきれずに口からこぼれた。聞いてから、自分で困る。聞かれたところで、まともに答えられるわけがないのに。藤原さんはスマホから顔を上げて、それをテーブルへ置き、まっすぐこちらへ向き直った。
「聞かせてくれるかい」
今さら「やっぱり何でもない」と逃げるわけにもいかなくなった。バイトの帰り道だったこと。電柱が七色に光っていたこと。扉が開いて中に赤ちゃんがいて、放っておけずに連れて帰ってしまったこと。
自分の声で話せば話すほど、頭の痛くなるようなおかしな話だった。精神科を勧められても文句は言えない。それなのに藤原さんは、笑いも呆れもせず、静かに最後まで聞いていた。
「私自身も、話していて変だと思います」
言い訳を足す声が、だんだん尻すぼみになっていく。こうして聞いてもらっているだけで、どこか「何とかなるんじゃないか」と思い始めている自分がいた。拾ってきたのは私で、自分で何とかすると決めたはずなのに。
助けを求めたわけじゃない。聞かれたから、起きたことを答えただけだ。
助けて?そないなこと気軽に言えるのが私の娘やなんて、ほんま驚きやわ
耳の奥を刺した冷たい声に、赤ちゃんを支える腕へ無意識に力が入る。藤原さんは私の強張りに踏み込むこともせず、ただ穏やかに言葉を返してくれた。
「彩葉さんは、見知らぬ人でも心配してしまうような優しい人だから。経緯は不思議でも、君が放っておけなかったことは、ちっともおかしくないよ」
「見知らぬ人って……赤ちゃんですよ。自分で立つこともできない子を、路上に置いていけるわけないじゃないですか。普通です、普通」
「そうか……。まあ、そうかもね」
何だろう、その何か言いたげに頬をかく仕草は。
私だって、誰彼構わず拾ってくるほどのお人好しじゃない。お人好しと言うなら、見ず知らずの他人の赤ん坊を部屋に引き入れているあんたの方だろう。目の前に生きた実例がいるので反論の材料には事欠かないが、本人はもう次の確認へ移っていた。
「必要なものは多そうだね。明日は買い物かな」
「……なんで藤原さんがお世話するつもりなんですか?」
「彩葉さんは勉強もあるだろうし、僕が行ってくるよ。その間、この子を任せてもいいかな」
「いや、元々私が連れてきた子なんですけど」
いつの間に、当たり前のように役割分担の話になっているのか。
うっかり相槌でも打とうものなら、明日にはベビー用品が一式揃っていそうだ。すやすや眠っている赤ちゃんを見下ろして、上がりかけた声を懸命に呑み込む。この子が眠っていなければ、一度くらい「人の話を聞いてください!」と叫んでいたと思う。
「私が拾ったんです。自分で何とかします」
「でも、学校もバイトもあるだろう」
「分かってます。助けてもらったって、お返しできるものなんてありませんし。自分で引き受けたことですから」
これからの予定をどうやりくりすればいいかなんて、正直まだ見当もついていない。睡眠時間を削るのか、勉強の合間に世話をするのか。それでも、分からないからといって誰かへ丸投げしていい責任じゃない。
藤原さんは、スマホを完全に伏せた。何か言い返そうとしていた私へまっすぐ顔を向けて、口元を固く結ぶ。
「わかった。それなら僕は手を出さない」
拍子抜けするほど、あっさりした返事だった。ようやく突っぱねることができたのだと、肩からふっと力が抜ける。
――その途端、腕の中の温もりが、さっきよりずっと重く感じられた。
いや、気のせいだ。ずっと抱いたままだったから、腕が疲れてきただけだし。
それで話は終わるはずだった。けれど藤原さんは立ち上がろうとせず、一度伏せた顔を、ゆっくりと私の方へ戻してきた。口元には、いつもの飄々とした余裕がまるで残っていない。
「ただ、多少の無茶なら必要な時もあると思う。やってみたからこそ身につくことも、きっとあるだろうしね」
言葉が、そこで途切れた。私を言いくるめる理屈を探しているというより、自分の内側にある苦いものを押し殺しながら喋っているように見えた。
「でも、ボロボロになると分かっている無茶を黙って見ているだけでは、僕は僕自身を許せなくなる。……果たしたい約束もあるんだ」
何の約束なのかは分からない。けれど、さっきまで買い物の段取りを呑気に話していた時とは、声の温度が明らかに違っていた。
「……だから、少しでいいんだ。辛い時は、その責任を僕にも背負わせてほしい」
「君のためだから」と押しつけられたなら、余計なお世話ですと突っ返せた。でもこの人は、「自分が許せないから」と、自分の我が侭みたいに言ってくる。断ればそれ以上踏み込んでこないと分かってしまうから、余計に拒む言葉が喉に引っかかる。
そんなの、ちょっとずるい。
腕の感覚は、とうに麻痺しかけていた。肩も首も鉛みたいに重くて、瞬きをするたび視界に眠気が滲む。それでも口を開けば、まだ一人で大丈夫だと言い張ってしまいそうだった。
藤原さんの指先が、膝の上で微かに動いて止まる。赤ちゃんへ手を伸ばしかけたように見えた。けれど、その手は膝の上に留まった。
……どうしてあなたまで、そんなに辛そうな顔をするんだ。
先が見えなくて途方に暮れているのも、今この重みを抱えているのも私だ。腕が痛くて、眠くて、明日からの生活をどう回せばいいのか頭を抱えているのも。
そうだ。私は今、辛いのだ。
腕の中の生き物は、何も知らずに静かな寝息を立てていた。明日になったからといって、必要なものが空から降ってくるわけじゃない。買いに行かなければならないし、何を買うべきかも自分で確かめたい。
でも、この痺れた腕で抱いたまま、店を何軒も回るのは――。
「……明日、買い物」
「うん?」
藤原さんが顔を上げた。その静かな声に続きを促されるように、私は腕の中の毛布をほんの少しだけ引き寄せた。
全部を預けるわけじゃない。一つだけ。その間だけだ。
「明日、買い物に行きます。その間だけ、この子を預かっていてください。誰かに抱えているところを見られたくないので」
言い切ってから、藤原さんの顔をまっすぐ見据えた。買い物なら代わりに行こうかとは、今度は言ってこなかった。
「そうか……。わかった」
胸元へそっと手を当てて、藤原さんが深く長く息を吐き出す。それから、助けてもらうのはこっちの方なのに、小さく破顔して私へ言った。
「ありがとう」
お礼を言う順番が根本的におかしい。喉まで出かかったけれど、今度は言い返すのをやめて、腕の中の小さな寝顔へ視線を落とした。
明日の、買い物の間だけ。その分だけは、この人に預ける。
私の突然の育児休暇は、そうして静かに幕を開けた。
―外からコミカルな爆発音が響く。
『かぐや爆誕。おい、ちょ、ま!』
―どうしてあなたまでそんなに辛そうなんだ
イツキ「無理する気でしょう?!ヤメて、ヤメロぉ!!」