転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
それから半年が過ぎた。
文書を確認し、送信する。定例の作業はこれで終わりだ。キーボードから手を離し、身体をほぐすように伸ばす。凝り固まった関節が小気味よく鳴った。
ひと息ついてから立ち上がり、そのまま自室の照明を落とす。
水槽の水音だけが、規則正しく部屋の静けさを揺らしていた。再び椅子へ深く腰掛け、背もたれに身体を預ける。目は閉じない。ただ、外へ向けていた意識をゆっくりと内側へ折り返していく。
呼吸を一つ。
胸の奥よりも深く。鼓動や血流とは異なる、自分という存在の中心へ意識を沈める。
そこに形はない。
けれど、長い時間を共にしてきたものだからこそ、どこに何があるかは分かる。記憶を抱え続ける静かな層。その先へ道を求め、伸びていく感覚。触れれば、いくつもの権能が互いを邪魔せず、魂の内側で息づいている。
焦らず、一つずつ確かめる。
記録は欠けていない。知覚したものも、交わした言葉も、積み上げた失敗も残っている。
道も見える。
けれど、まだ細い。
望む場所へ続いてはいる。途切れてはいない。ただ、その先へ踏み込もうとすると、幾重もの分岐が重なり、輪郭が滲んだ。
無理に覗けば、見えるものまで歪む。
それを知っているから、急かさない。
目的を思い浮かべる。
誰かを消さず、誰かの歩んだ時間も否定せず、これまで起きたことを残したまま、その先だけを幸福へ繋ぎ直す。
その未来へ、今の自分で届くのか。
問いかけても答えが言葉で返ってくることはない。
代わりに、魂の奥で一本の道が淡く明滅した。
進むことはできる。
だが、まだ足りない。
道筋を見つけるだけでは駄目だ。変えた後にも、途切れず続く道を残さなければならない。望む結果へ辿り着くだけではなく、そこへ至ったすべてが矛盾なく繋がっていなければならない。
今の権能では、近づける。
けれど、成し遂げられるとは言い切れない。
その事実を胸の内で静かに受け止める。
失望はない。焦りも押し込める。
足りないのなら、足りるところまで歩けばいい。
見えた道を忘れないよう魂へ刻み、意識をゆっくりと浮かび上がらせる。
意識を部屋へ戻すと水槽の音が変わらず響いていた。
一度だけ長く息を吐く。
「まだ、途中か」
独り言は静かな部屋へ溶けた。
そこでようやく、肩の力が抜けた。
何もない天井を見つめるうちに思考が揺蕩う。
静かな時間に身を置くことは多い。だが、それを一人で心地よく感じたことは少なかった。
音がないことと、誰もいないことは似ているようで違う。前者には慣れている。後者だけは、どれほど時間を重ねても馴染むことがなかった。
いつも気づけば横には誰かがいた。
ヤチヨ
補佐
家族だと言ってくれた人
笑いかけてくれた人
そして浮かぶのは、今も鮮明な遠い日の記憶。その過去へ、今日も手を伸ばそうとした。
指先が記憶へ触れる、その寸前。
バフゥーーーン
外からコミカルな爆発音が響く。
「イツキィ!外行くよ!!」
耳から脳内へ、爆音が突き抜ける。鼓膜が破裂するような錯覚を覚えた。
「あれ?イツキ寝起き?駄目だよ、寝るときは布団で寝なくちゃ」
不意の落差に、深く、それはもう深く息を吸う。突然の登場に思うところはあるが、感傷を振り払うように立ち上がる。
ヤチヨは何を急いでいるのだろうか。
「どうしたんだい」
「ありゃ?今日だよ?」
「今日、何かあったかな」
特に約束事や予定は入れていなかった。外で鳴った音と関係があるのかな。
「私が来るの!言ってなかった?」
「……聞いてないなぁ」
視線を窓の外に向ける。詳しい日時、聞いていなかったな。
「ともかく、早く行かなくちゃだよ〜!即行!爆速!間に合い隊!」
ヤチヨがAR上で急かしてくる。だけどその跳ねる元気は次第にしぼんでいった。
急いでいたのではなく、不安を勢いで押し流そうとしていたのかもしれない。その勢いが尽きると、残っていたものがそのまま声へ現れた。
「彩葉は」
「……ちゃんといるよね?」
確かめる声が、不安に揺れている。地球へ現れたばかりの過去の自分と、これから出会う彩葉さん。その両方を心配しているのだろう。優しい子だ。
ヤチヨは普段、他人の端末や公共の電子機器へ許可なく接続しないようにしている。技術的には可能でも、悪いことに違いはないから。覗けば、答えはすぐに分かる。それでも自分の不安を解消するためだけに、誰かの暮らしへ入り込むことは選ばない。
だから、不安なのだろう。今、地球へ現れた過去の自分のそばに、この世界でも記憶どおり彩葉さんがいるのか。それとも、見知らぬ誰かなのか。
姿を見ているわけではない。それでも、二つの魂が近くにあり、細い道が先へ続いていることだけは感じ取れた。
「大丈夫だよ。道は続いているから」
そうであるなら、僕に出来るのはその不安を取り除くこと。大丈夫。道の先には、ちゃんと彩葉さんがいる。
「そっか、なら安心」
「イツキ、彩葉と私をお願い」
まだ道の途中でも、今この瞬間に出来ることはある。まずは、その始まりを迎えに行けばいい。
「……わかった、行こう」
◆
いつものようにバイトを終えて、アパートに帰る途中。七色に光る電柱から赤ちゃんを拾ってしまった。
正直、疲労の限界で幻覚でも見たのか今でも疑っている。けれども、腕の中で息づく温かさと重みはそれを否定してくる。あぁ、なんで拾ってしまったんだろう。あんな急激な治安の悪化は聞いていない。ここら辺の治安は結構いいはずなんだけどな。
とにかく、今は誰かに見られるのは不味い。はやく部屋へ帰ろうと泣き叫ぶ赤ちゃんを抱え、重い身体に力を入れて部屋に足を向けた。
「彩葉さん」
あと少しで私の部屋に着く、というところで頭上から聞き覚えのある声がする。思わず足を止めて恐る恐る顔を上げた。
「藤原さん。え、えっと……」
藤原一継さん。同じアパートに住んでる人。そして、何かと一人暮らしの私を心配してか世話を焼いてくる人だ。待っていた様子はなく、いつものようにこちらへ気軽に片手を上げる。今だけは、その何でもなさがひどく困る。
「赤ちゃんか。大丈夫、怖くないよ」
そんな私の焦りを気にした様子もなく、藤原さんはいまだに泣き叫ぶ赤ちゃんを覗き込んできた。
その優しい声が、赤ちゃんの泣き声の間に静かに重なる。頭をなでる指先が張り詰めた声を少しずつほどいていく。やがて声は小さくなっていき、穏やかな呼吸だけが残った。
す、すっごい。
「な、泣き止んだ」
「困ってるんだろう。ついておいで」
「え、あ。ちょ、ちょっと?」
寝息を立てる赤ちゃんを最後にもう一度撫でて、藤原さんは階段を上って行った。確かに困っている。突然の赤ちゃん遭遇イベントとなんの説明もなく先導するあなたに。
けれど、私は素直に自分の部屋に帰ることも出来ず、そのまま後を追った。
藤原さんの部屋はちょうど私の部屋の一つ上の階にあった。部屋の中に入っていく背中についていく。室内は思いのほか冷えていた。
「おじゃまします……」
「いらっしゃい。そこに座ってて」
うおっ、柔らかっ。
指し示されたソファに座って、そんな語彙力の欠けた感想が浮かんだ。その心地よいはずのソファが逆に居心地が悪く感じられて、落ち着きもなく室内を見渡す。
印象として紺と白を基調とした部屋。木目の家具が差し色として全体のバランスをとっている。そこに玄関にある水槽からの水音が漣のようになり、海辺にいるような感覚を抱かせてくる。滅茶苦茶センスがいい。
「はい、お茶」
「ありがとうございます」
冷たそうなお茶が目の前の机に差し出される。もてなしてくれるのはありがたいが、赤ちゃんを抱いたままお茶を飲める自信はなかった。
「赤ちゃんの抱き方。たしか、……首と頭を支えて身体を仰向けにして。こうやって」
私の様子から察したのか、藤原さんは赤ちゃんの抱き方について教えてくれる。手本を見せてもらいながら、ゆっくりと赤ちゃんを抱き上げなおす。
「こ、こうですか」
「うん、あってるね」
そして、お茶を飲んで一息つく。いつの間にか居心地の悪さは消えていた。けれど、遅れて疑問が湧いてくる。
この人が世話焼きなのは知っている。私じゃなくても人が困っていれば放っておけないことも、頼んでいないものまで押しつけてくることも。
今回は少し違った。
何があったのかも、どこで見つけたのかも聞かない。私を助けようとしているというより、最初から自分もこの子の世話をする側に数えているように見える。
ただの隣人なのに。
私とこの子の事情なんて、何も知らないはずなのに。
どうしてこの人は、何の説明もないまま、こんなにも自然にこちら側へ立てるのだろう。
その答えを考えている間にも、藤原さんは赤ちゃんのお世話の仕方を調べ、次に必要なものを確認していた。
この人は、一度も「なぜ」と聞かない。
もう、これからのことを考えている。
「あの、何も聞かないんですか?」
膨れ上がった違和感はするりと吐き出された。聞かれても、なんて答えればいいか分からないのに。話したからって、現状が変わるわけではないのに。
藤原さんはスマホでの調べものを終えると、私に向き直った。一つ一つ無駄なく整った所作は、いつもは安心感を抱かせるのに、今はこちらの緊張を煽ってくる。
けれど、口元に浮かぶ穏やかさは変わらなかった。
「聞かせてくれるかい」
……助けを求めるわけではない。聞かれたから、起きたことを答えるだけ。
けれども、自分で拾った。自分で何とかしないと。そう決めたはずなのに、藤原さんに話しているだけでどこか大丈夫だと思ってしまっている。
頼んでもいないのに。頼るつもりもないのに。
静かに耳を傾ける藤原さんに全てを話した。荒唐無稽だと言われても仕方がないこと。精神科を勧められたって文句は言えない。
「私自身も、話していて変だと思います」
そんな言い訳めいた声は、次第に尻すぼみになった。これではまるで、助けを求めているみたいだ。
思考を打ち消すように、聞き慣れた声が蘇った。
助けて?そないなこと気軽に言えるのが私の娘やなんて、ほんま驚きやわ
藤原さんは私の言葉の裏を暴くこともなく、動揺へ触れようともせず、ただ言葉を返してくれた。
「彩葉さんは見知らぬ人でも心配してしまうような、優しい人だから。経緯は不思議でも、何もおかしくはないよ」
「見知らぬ人って。赤ちゃんですよ、自分で立つことすらできない赤ちゃんを放ってはおけませんよ。普通です、普通」
「そうか……。まぁ、そうかもね?」
藤原さんが何か言いたげに頬を指でかいている。
ムッ
なんだ、その仕草は。私だって誰彼構わず拾ってくるほどのお人好しじゃない。だいたい、お人好しというなら人のことは言えないだろう。実際、駅前で何回か道案内していたし、ちょくちょく人助けしてるのは知ってるんだぞ。
藤原さんはそんな私の気持ちもお構いなしにまた何か調べている。そのマイペースな様子を見ていると、何を考えているのか頭の中を覗き込んでみたくなる。
「放っておけないならちゃんとお世話しないとね。必要なものは多いから、明日は買い物かな」
「ちょっと待ってください。なんで藤原さんがお世話するつもりなんです」
「彩葉さんは勉強とかあるだろうし、僕が行ってくるね。その代わり赤ちゃんは任せてもいいかな?」
話を聞けぇ!
赤ちゃんが寝息を立てている手前、大声を出せないのがもどかしい。
勿論、抵抗はした。元々赤ちゃんを拾ってきたのは私だ。助けてもらっても返せるものはないし、この責任は私自身のものだ。学業と両立できないことも、承知の上だ。なんとかしてみせる、と。
「わかった。僕は手を出さない」
誤魔化しようのない断言だった。私の求めていた言葉。
肩から力が抜けた。
欲しかったはずの答えだった。そのはずなのに、腕の中の重さだけが急に増したように感じた。
気のせいだ。
そう自分に言い聞かせた。でも、話は終わっていなかった。
藤原さんはすぐに次の言葉を続けなかった。
一度伏せた顔を上げても、口元にはいつもの余裕が戻っていない。言うべきか迷った末に、それでも言葉を選んだように見えた。
「ただ、多少無茶するのはいい。時にはその無茶も糧となる。だけど、ボロボロになるのが分かっている無茶を、ただ見ているだけでは、僕は僕自身を許せなくなる」
でも、藤原さんはそうやって心情を吐露してきた。約束も果たしたいから、と。
「だから、その時はその責任を僕にも背負わせてほしい」
辛い時は僕の我儘を通すために、私の決意を少しだけ曲げてくれ。
そう言われた気がした。
そんな優しい自分勝手さは、ズルではないだろうか。断られたら、そのまま何も言わずに去ってしまいそうな声だった。人を助けてないと死んでしまうのではないか。先行きが見えないのは私なんだぞ。
抱き続けた腕は痺れている。肩も首も重い。眠気で視界が滲む。それでも、私の心はまだ大丈夫だと言い張ろうとしていた。
藤原さんの指先が膝の上で一度、動いて止まる。手を伸ばしたいのに、伸ばさないと決めているようだった。
……なんだそれは。どうしてあなたまでそんなに辛そうなんだ。
辛いのはこっちだ。
そうだ。今、私は辛いんだ。
……。
全部を任せることはできない。
でも、全部を一人で抱える必要もないのなら、今の私が手放せるものは一つだけあった。
一つだけ。
一つだけだから。
「明日、買い物」
「?」
買うものまで任せるのは違う。この子に必要なものを選ぶくらいは、自分でやりたかった。
でも、赤ちゃんを抱いたまま店を回る余裕はない。だから、その間だけ。
「明日!買い物行くので、その間だけ預かっていてください。誰かに赤ちゃんを抱えているのは見られたくないので!」
「そうか……。わかった」
こうしてほんの少しだけ、藤原さんにも責任を預けることになった。
胸元へ手を当て、安堵したように長く息を吐いた。それから、助けてもらうのはこちらなのに私へ礼を言った。
「ありがとう」
私の突然の育児休暇はそうして幕を開けた。
―外からコミカルな爆発音が響く。
『かぐや爆誕。おい、ちょ、ま!』
―どうしてあなたまでそんなに辛そうなんだ
イツキ「無理する気でしょう?!ヤメて、ヤメロぉ!!」