【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
本日2話投稿
カーテンの隙間から入る光が、床の上に細く伸びていた。
部屋の中は静かだった。耳に届くのは、目の前の人の浅い呼吸だけだ。
一継さんは、今日も目を閉じたままだった。
そばに座って、その顔を見る。少し疲れてうたた寝をしているだけのような顔なのに、どれだけ呼んでも瞼は動かなかった。
「……一継さん」
返事がないのは分かっていた。それでも、呼ばずにはいられなかった。
「一継。そろそろ起きない?」
隣からヤチヨの声がした。
スマコン越しに見えるヤチヨは、私のすぐ横で膝を抱えて座っている。手を伸ばせば肩に触れられそうなほど近い。けれど床に影は落ちていないし、膝の上で組んだ指はどこにも重さを預けていなかった。
あの夜のことは、ヤチヨから聞いた。
一継さんが、かぐやを助けようとしていたこと。
うまくいかなかったのだと思う、とヤチヨは言っていた。
だとしたら、一継さんが目を覚まさないのは。
きっと、あの夜のせいだ。
何をするつもりだったのかも、ヤチヨが話してくれた。前から二人で準備していたことだという。それなのに、それがどうなったのかも、一継さんがどれだけ無理をしたのかも、本当のところは分からない。教えてくれるはずの人が、目を閉じたままだから。
待つことしかできないのが、苦しかった。ヤチヨも、きっと同じだ。
聞きたいことは、たくさんあった。
海の底でかぐやに返事をした時のこと。名前をもらった日のこと。私の知らない長い時間のこと。すぐ近くに住んでいながら、何も言わずに笑っていたこと。
でも、まずは声が聞きたかった。
「……ねえ、彩葉」
ヤチヨの声が、少しだけ硬くなった。
「今、動かなかった?」
顔を戻す。
閉じた瞼の下で、何かが揺れた気がした。眉の間にかすかな皺が寄り、唇がほんの少し開く。
息を止めて、身を乗り出した。
「一継さん」
さっきまでとは違う声が出た。
「一継!」
ヤチヨの声が重なる。
瞼が持ち上がった。
ぼんやりとした目が天井を彷徨い、ゆっくりとこちらへ下りてくる。何度か瞬いて焦点を探し、私の顔のところで止まった。
「……彩葉、さん」
掠れた声だった。
それでも、呼ばれた。
喉の奥から何かがせり上がってきて、言葉にならなかった。ずっと返ってこなかった声が、今、私の名前を呼んでいる。
「……遅いですよ」
やっと出た声は震えていた。
一継さんの目が、少しだけ見開かれた。それから視線が私の横へ動いて、また止まる。
「ヤチヨ……」
「うん。……うん、いるよ。おはよ、一継」
ヤチヨは笑っていた。笑いながら、眠っていた人の方へ手を伸ばす。その手は、額に届く少し手前で止まった。
「もう……ほんとに。起きないかと思ったじゃん」
私は膝の上で両手を握りしめた。そうしていないと、身体じゅうの力が抜けてしまいそうだった。
返事があった。
たったそれだけのことが、こんなにも。
◆
声が聞こえていた。
ずっと遠くから、何度も。
一継さん、と呼ぶ声。一継、と呼ぶ声。どちらも知っている。返事をしなければと思うのに、どこへ力を込めればいいのか分からない。沈んだ意識の上を、声だけが行き来していた。
その奥から、もう一つ届いた。
耳で聞く声とは違った。僕の内側のずっと深いところで小さな声が跳ねる。
『イツキ』
『ねえ、イツキってば』
『聞こえてるんでしょ。返事して!』
誰だろうか。ずっとこの声を聞き続けてきたような気がする。けれど思考は形になる前にほどけて、呼ばれているという感覚だけが残る。
その声に引かれるように、沈みかけていたものが浮き上がった。
聞こえてるよ。
そう返そうとしても、言葉は形にならなかった。代わりに、重い瞼を押し上げた。
滲んだ光の中に、彩葉さんの顔があった。名前を呼ぶと、その顔がくしゃりと歪む。遅いですよ、と返ってきた声は震えていて、その隣でヤチヨが笑いながら泣きそうな顔をしていた。
見覚えのある天井だった。引っ越す前のアパート。あの夜、接続に使っていた部屋だ。
あれから、どれだけ経ったのだろう。
背を起こすと、彩葉さんが少しだけ身を引いた。
「……どうして、彩葉さんがここに」
「FUSHIに連れてきてもらいました」
彩葉さんは手の甲で目元を拭い、僕をまっすぐに見た。
「代表なんですってね」
……ああ。
「それなりに偉い立場、って言ってましたよね」
「言ったね」
「それなりの範囲、広すぎませんか」
「嘘は言っていないつもりだよ」
「つもり、で済ませないでください」
横でヤチヨが小さく吹き出した。
けれど、彩葉さんの声はそこで少し低くなった。
「それから。刹那さんのことも、見ました」
僕は彼女の顔を見た。
「FUSHIに頼んで、ヤチヨが過ごしてきた時間を見せてもらったんです。海の底のことも、名前のことも。……一継さんが、ずっと一緒にいたことも」
すぐには言葉が出なかった。
海の底の竹。名前をもらった日。その先へ続いていった長い時間。
あれを、彩葉さんが。
「……見たのかい」
「はい」
迷いのない返事だった。
人が一人で受け止めるには、長すぎる時間のはずだ。
「無茶をしたね」
「一継さんに言われたくないです」
ぴしゃりと返された。どれだけ眠っていたのかも分からない僕に、言い返せる余地はなさそうだった。
ヤチヨが今度は声を立てて笑った。けれど、その笑いはすぐに途切れた。
「……あの夜のことはね、私が話したの」
いつもなら真っ先に茶化してきそうな口元に、薄い笑みしか残っていない。
「一継が、かぐやを助けようとしてたこと」
彩葉さんが、膝の上で手を握った。
「うまくいかなかったかもしれないって、聞きました。……一継さんがずっと起きないのも、そのせいなんじゃないかって」
その言葉で、ようやく分かった。
僕が眠っている間、二人はそう思いながら、ここで返事を待っていたのだろう。かぐやには届かなかった。手を伸ばした僕も、そのせいで目を覚まさない、と。
『イツキ! ねえってば!』
内側で、また声が跳ねた。
眠りの底で聞いたのと同じ声だった。
今度は、はっきりと分かった。少し拗ねたように語尾を上げる調子。急かすくせに、どこか楽しげな響き。この呼び方を、この声で、僕は何度も聞いてきた。
かぐやだ。
胸の奥で、何かが強く脈打った。
ずっと、呼んでいたのか。
「……少し、待っていてくれるかい」
二人に言ったのか、かぐやに言ったのか、自分でもよく分からなかった。
目を閉じる。
探す必要はなかった。呼ぶ声の方へ意識を向ければ、すぐそこにかぐやがいた。
あの夜、月へ向かう流れから切り離し、包み込んだもの。かぐやの魂は形を崩さずにそこにあった。急かす声の調子も、元気いっぱいな響きも全部、僕の知っているかぐやのままだ。辿ってきた日々の記憶も、欠けずに残っている。
守れていた。
その事実は、少し遅れて胸に届いた。
あの夜、結果を確かめる前に、僕の意識は途切れた。届いたのか、間に合わなかったのか。分からないまま沈んでいった眠りの底で、この声だけがずっと僕を呼んでいた。
かぐやは、ここにいる。
かぐやも、ヤチヨも。誰も、失わずに済んだ。
喉の奥が、熱くなった。閉じた瞼の裏で、何かが滲みそうになる。
よかった。
ただ、それだけを思った。
確かめ終えても、すぐには離れがたかった。それでも、目を開けて伝えなければならない二人がいる。
意識を引こうとした。
その加減を、僕はわずかに誤った。
一つにまとまったばかりの力は、思っていたよりずっと深くまで届いてしまう。かぐやの魂の、さらに奥。根のようなところへ、意識の端が触れた。
知っている温かさがあった。
かぐやのものだ。ヤチヨにも通じているものだ。そして、それより前にも。
ずっと前にも。
息が止まった。
これは、と問いかけるより早く、急かす声が僕を引き戻した。
『イツキ? なんか静かじゃない?』
目を開けた。
胸の奥へ届いたものは、そのまま置いておく。今は、向き合う顔が目の前にある。
彩葉さんとヤチヨが、息を詰めて僕を見ていた。
「かぐやは、無事だよ」
声にすると、自分の声が少しだけ震えた。
「月へ帰る役目は、用意していたものに引き受けてもらった。かぐや自身は、魂も、心も、記憶も、全部そのまま守れている。今は、僕のところにいる」
二人とも、動かなかった。
「ただ……入れ替える時に、身体までは保てなかった」
彩葉さんの唇が開いて、閉じた。
「……え」
聞き返す声は、ほとんど息だった。
「かぐやが……?」
「うん」
「だって、ヤチヨが」
言いかけて、彩葉さんはヤチヨを振り向いた。それからもう一度、僕を見る。僕の顔のどこかに冗談の気配がないか、探しているようだった。
「そこにいるんですか」
「いるよ。さっきから、ずっと僕を呼んでる」
彩葉さんの肩から、すとんと力が抜けた。
両手で口元を覆う。指の隙間から漏れた息が、途中で嗚咽に変わった。泣くまいとしているのか、泣いていることにも気づいていないのか。彼女は僕から目を逸らさないまま、何度も小さく頷いていた。
ヤチヨは、笑った。
「……なにそれ」
短く息を吐くような笑いだった。
「なにそれ、一継。私、ちゃんと……ちゃんと覚悟、してたのに」
その声が、途中でほどけた。笑った形のまま、ヤチヨの目からこぼれたものが頬を伝っていく。拭おうともせず、ヤチヨは自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
「……よかったぁ」
それきり、ヤチヨは何も言わなかった。
『ねえ! イツキ、まだ? 彩葉は? ヤチヨは?』
内側の声が、そろそろ我慢の限界らしい調子になってきた。
「……かぐやが、二人と話したがってる」
彩葉さんが顔を上げた。ヤチヨも。
「繋ぐよ」
二人へ意識を伸ばす。かぐやのいるところから、彩葉さんへ。ヤチヨへ。言葉をそのまま運ぶ道を通した。
『……彩葉?』
彩葉さんの肩が跳ねた。
空気を震わせない声だ。部屋のどこからでもなく、聞く者の内側へ直接届く。彩葉さんは目を見開いたまま部屋を見回し、それから何もない宙を見つめた。
「……かぐや?」
その声が、僕を通って向こうへ届く。
『彩葉だ! ほんとに彩葉の声だ! ……聞こえる! ちゃんと聞こえる!』
「かぐや……っ」
それ以上は続かなかった。彩葉さんは口元を押さえたまま、宙へ向かって何度も頷いている。頷いても向こうには見えないことに、たぶん気づいていない。
『ヤチヨは? ヤチヨもいるんでしょ!』
「……いるよ」
ヤチヨの声は、いつもより低く、静かだった。
「ちゃんといる。聞こえてるよ、かぐや」
『ヤチヨ!』
弾んだ声に、ヤチヨが目を細めた。何か言いかけて、唇を閉じる。それから、いつものように笑ってみせた。
『あのね、あのね。聞いて』
かぐやは待ちきれないというように話し出した。
『かぐや、ずっと寝てたみたいな感じだったの。なんにも分かんなくて。そしたら、歌が聞こえてきて』
「……歌?」
『彩葉の歌! 新しいやつ。あれ、卒業ライブの曲でしょ? 続きあったじゃん! かぐや、ワンコーラスしか知らなかったのに、最後まであった!』
彩葉さんが、息を呑んだ。
「……聞こえてたの」
『聞こえた! それで起きたの。起きたらイツキがいるのは分かったから、呼んだの。ずーっと呼んでたんだよ。なのにイツキ、全然返事しないし!』
「ごめん。眠っていたんだ」
『知ってる! でも返事してよ!』
理不尽だった。それでも、言い返す気にはなれなかった。
彩葉さんは宙を見つめたまま、唇を震わせていた。
「届いたんだ」
小さな声だった。誰かに聞かせるためというより、自分の中で確かめるような響きだった。
『うん。届いた!』
かぐやが即座に答えた。彩葉さんは一度ぎゅっと目を閉じて、それから、ようやく笑った。
『あ、そうだ。イツキ』
声の調子が変わった。何かを思い出した時の、少し得意げな響き。
『忘れてないからね』
「何をだい?」
『どこがよかったか!』
ああ、と思った。
あの夜、眠りへ沈む直前まで抱えていたもの。言葉にできないまま、置いてきてしまったもの。
「すごかった」
『それだけじゃ駄目って言った!』
「分かってる。続きがあるんだ」
僕は、あの舞台を思い返した。
「始まってすぐ、挨拶しようとして何度も歓声に遮られただろう。それで、聞いてってば、って笑った。あの笑い声で、会場がもう一段沸いた。あそこで、今日は大丈夫だと思ったよ」
『……うん』
「彩葉さんが出てきた時、一度止まったね。それから顔を上げて、歌い出した。あの一声目は、たぶんずっと忘れない」
彩葉さんが、ちらりと僕を見た。
「前線が押されて、みんなが次々に下がっていった時も、君の声は途切れなかった。息が乱れても、すぐ次の音へ行った。あれだけの中で、最後まで歌い切った」
『……』
「最後のフレーズは、空の上まで伸びていった。そのあと伴奏が消えるまで踊って、きちんと足を揃えて止まった。……それから、彩葉さんの方を見ただろう」
かぐやの返事が、少しだけ遅れた。
「楽しんでいたのが、ちゃんと分かったよ。最後まで楽しんで、って言っていた通りに」
しばらく、何も聞こえなかった。
『……長い』
「感想だからね」
『……でも』
小さな声が続いた。
『合格』
「採点制だったのか」
『提出物だもん』
ヤチヨが吹き出し、彩葉さんもつられて肩を揺らした。泣いたあとの、少し鼻にかかった笑い声だった。
その笑いが落ち着いた頃、彩葉さんが居住まいを正した。
「一継さん」
「うん」
「言っておかなきゃいけないことがあって」
彩葉さんは隣のヤチヨを見た。ヤチヨが小さく頷く。
「ヤチヨの身体を作ります」
一瞬、意味が掴めなかった。
「……身体を」
「はい。勉強して、研究して。ヤチヨが、こっちで生きられる身体を。ヤチヨには、もう話しました」
作る。
研究して、人の手で。
その言葉を、頭の中で何度か繰り返した。材料があって、構造があって、感覚を伝える仕組みがあって。それを一つずつ積み上げていけば、確かに届かない場所ではないのかもしれない。
そういえば、能力以外での手法は考えたことがなかった。
「……何ですか、その顔」
「いや」
正直に言うしかなかった。
「その方法は、考えていなかった」
「考えてなかった、って」
彩葉さんが呆れたように眉を寄せた。
『イツキ、頭いいのにたまにそういうとこあるよね』
「あるある。一継ってさ、すっごい遠回りはするのに、目の前の道は見てないこと多いよねー」
「……返す言葉がないな」
彩葉さんは小さく息をつき、それから何もない宙へ目を向けた。かぐやの声が届いてくる、どこでもない場所へ。
少しの間、彼女は黙っていた。
膝の上の手が一度ほどけて、もう一度握られる。
「……それと」
顔を上げた彩葉さんの目に、もう迷いはなかった。
「かぐやのも、作る」
『……え?』
「二人分。ヤチヨのと、かぐやの。別々に、ちゃんと作る」
『かぐやの……身体?』
「そう」
『作れんの?』
「作る」
即答だった。
かぐやの声が、しばらく途切れた。
『……じゃあ』
次に聞こえた声は、少しだけ湿っていた。
『待ってる。……ううん、待ってるだけじゃやだ。かぐやも、こういうのがいいって、いっぱい言うからね。かわいいやつね。めっちゃかわいいやつ』
「注文が多い」
『だって、かぐやの身体だもん!』
彩葉さんが笑った。今度は、泣き笑いではなかった。
ヤチヨが、その横顔を見ていた。
「……二人分だよ?」
「分かってる」
「大変だよ」
「知ってる」
ヤチヨは、ふっと笑った。
「うん。じゃあ、私も。彩葉が作ってくれる身体で、こっち側を生きてみたい」
少しだけ間を置いて、続ける。
「よろしくね、彩葉」
「……うん」
三人の声を聞きながら、僕は口を開いた。
「手伝えることがあったら、言ってほしい」
彩葉さんがこちらを向いた。
「言います。たぶん、いっぱい」
「たぶん、なんだね」
「いっぱいです」
言い直す顔が、妙に真剣だった。
『ねえ彩葉、どんなのにする? かぐや、もういっぱい考えてあるよ!』
「まだ何も始まってないんだけど」
『じゃあ今から始めよ!』
「気が早いって!」
「まずは基礎からだよねー、かぐや」
『ヤチヨまでそういうこと言う!』
賑やかな声が、部屋の中で重なっていく。
彩葉さんの声は空気を震わせて。ヤチヨの声は彩葉さんの隣から。かぐやの声は、そのどれとも違う場所から、僕を通って二人へ。
あの夜、僕は何も返せないまま眠った。
確かめて、伝えなければと思いながら。顔を見て、話をしたいと思いながら。
かぐやの顔は、まだ見えない。ヤチヨの手も、まだ誰にも触れられない。
それでも、今は。
『イツキ、聞いてる?』
内側で、声が跳ねた。
「聞こえてるよ」
返事をすると、待っていたように次の言葉が飛んでくる。彩葉さんが呆れた声を上げ、ヤチヨが笑ってそれに乗る。
まだ身体のない声と、触れられない姿と、ここにいる僕たちの声が同じ先の話をしていた。