【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜   作:蠱毒は孤独

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 本日2話投稿



34.また一緒に

 カーテンの隙間から入る光が、床の上に細く伸びていた。

 

 部屋の中は静かだった。耳に届くのは、目の前の人の浅い呼吸だけだ。

 

 一継さんは、今日も目を閉じたままだった。

 

 そばに座って、その顔を見る。少し疲れてうたた寝をしているだけのような顔なのに、どれだけ呼んでも瞼は動かなかった。

 

 「……一継さん」

 

 返事がないのは分かっていた。それでも、呼ばずにはいられなかった。

 

 「一継。そろそろ起きない?」

 

 隣からヤチヨの声がした。

 

 スマコン越しに見えるヤチヨは、私のすぐ横で膝を抱えて座っている。手を伸ばせば肩に触れられそうなほど近い。けれど床に影は落ちていないし、膝の上で組んだ指はどこにも重さを預けていなかった。

 

 あの夜のことは、ヤチヨから聞いた。

 

 一継さんが、かぐやを助けようとしていたこと。

 

 うまくいかなかったのだと思う、とヤチヨは言っていた。

 

 だとしたら、一継さんが目を覚まさないのは。

 

 きっと、あの夜のせいだ。

 

 何をするつもりだったのかも、ヤチヨが話してくれた。前から二人で準備していたことだという。それなのに、それがどうなったのかも、一継さんがどれだけ無理をしたのかも、本当のところは分からない。教えてくれるはずの人が、目を閉じたままだから。

 

 待つことしかできないのが、苦しかった。ヤチヨも、きっと同じだ。

 

 聞きたいことは、たくさんあった。

 

 海の底でかぐやに返事をした時のこと。名前をもらった日のこと。私の知らない長い時間のこと。すぐ近くに住んでいながら、何も言わずに笑っていたこと。

 

 でも、まずは声が聞きたかった。

 

 「……ねえ、彩葉」

 

 ヤチヨの声が、少しだけ硬くなった。

 

 「今、動かなかった?」

 

 顔を戻す。

 

 閉じた瞼の下で、何かが揺れた気がした。眉の間にかすかな皺が寄り、唇がほんの少し開く。

 

 息を止めて、身を乗り出した。

 

 「一継さん」

 

 さっきまでとは違う声が出た。

 

 「一継!」

 

 ヤチヨの声が重なる。

 

 瞼が持ち上がった。

 

 ぼんやりとした目が天井を彷徨い、ゆっくりとこちらへ下りてくる。何度か瞬いて焦点を探し、私の顔のところで止まった。

 

 「……彩葉、さん」

 

 掠れた声だった。

 

 それでも、呼ばれた。

 

 喉の奥から何かがせり上がってきて、言葉にならなかった。ずっと返ってこなかった声が、今、私の名前を呼んでいる。

 

 「……遅いですよ」

 

 やっと出た声は震えていた。

 

 一継さんの目が、少しだけ見開かれた。それから視線が私の横へ動いて、また止まる。

 

 「ヤチヨ……」

 「うん。……うん、いるよ。おはよ、一継」

 

 ヤチヨは笑っていた。笑いながら、眠っていた人の方へ手を伸ばす。その手は、額に届く少し手前で止まった。

 

 「もう……ほんとに。起きないかと思ったじゃん」

 

 私は膝の上で両手を握りしめた。そうしていないと、身体じゅうの力が抜けてしまいそうだった。

 

 返事があった。

 

 たったそれだけのことが、こんなにも。

 

 

     ◆

 

 

 声が聞こえていた。

 

 ずっと遠くから、何度も。

 

 一継さん、と呼ぶ声。一継、と呼ぶ声。どちらも知っている。返事をしなければと思うのに、どこへ力を込めればいいのか分からない。沈んだ意識の上を、声だけが行き来していた。

 

 その奥から、もう一つ届いた。

 

 耳で聞く声とは違った。僕の内側のずっと深いところで小さな声が跳ねる。

 

 『イツキ』

 

 『ねえ、イツキってば』

 

 『聞こえてるんでしょ。返事して!』

 

 誰だろうか。ずっとこの声を聞き続けてきたような気がする。けれど思考は形になる前にほどけて、呼ばれているという感覚だけが残る。

 

 その声に引かれるように、沈みかけていたものが浮き上がった。

 

 聞こえてるよ。

 

 そう返そうとしても、言葉は形にならなかった。代わりに、重い瞼を押し上げた。

 

 滲んだ光の中に、彩葉さんの顔があった。名前を呼ぶと、その顔がくしゃりと歪む。遅いですよ、と返ってきた声は震えていて、その隣でヤチヨが笑いながら泣きそうな顔をしていた。

 

 見覚えのある天井だった。引っ越す前のアパート。あの夜、接続に使っていた部屋だ。

 

 あれから、どれだけ経ったのだろう。

 

 背を起こすと、彩葉さんが少しだけ身を引いた。

 

 「……どうして、彩葉さんがここに」

 「FUSHIに連れてきてもらいました」

 

 彩葉さんは手の甲で目元を拭い、僕をまっすぐに見た。

 

 「代表なんですってね」

 

 ……ああ。

 

 「それなりに偉い立場、って言ってましたよね」

 「言ったね」

 「それなりの範囲、広すぎませんか」

 「嘘は言っていないつもりだよ」

 「つもり、で済ませないでください」

 

 横でヤチヨが小さく吹き出した。

 

 けれど、彩葉さんの声はそこで少し低くなった。

 

 「それから。刹那さんのことも、見ました」

 

 僕は彼女の顔を見た。

 

 「FUSHIに頼んで、ヤチヨが過ごしてきた時間を見せてもらったんです。海の底のことも、名前のことも。……一継さんが、ずっと一緒にいたことも」

 

 すぐには言葉が出なかった。

 

 海の底の竹。名前をもらった日。その先へ続いていった長い時間。

 

 あれを、彩葉さんが。

 

 「……見たのかい」

 「はい」

 

 迷いのない返事だった。

 

 人が一人で受け止めるには、長すぎる時間のはずだ。

 

 「無茶をしたね」

 「一継さんに言われたくないです」

 

 ぴしゃりと返された。どれだけ眠っていたのかも分からない僕に、言い返せる余地はなさそうだった。

 

 ヤチヨが今度は声を立てて笑った。けれど、その笑いはすぐに途切れた。

 

 「……あの夜のことはね、私が話したの」

 

 いつもなら真っ先に茶化してきそうな口元に、薄い笑みしか残っていない。

 

 「一継が、かぐやを助けようとしてたこと」

 

 彩葉さんが、膝の上で手を握った。

 

 「うまくいかなかったかもしれないって、聞きました。……一継さんがずっと起きないのも、そのせいなんじゃないかって」

 

 その言葉で、ようやく分かった。

 

 僕が眠っている間、二人はそう思いながら、ここで返事を待っていたのだろう。かぐやには届かなかった。手を伸ばした僕も、そのせいで目を覚まさない、と。

 

 『イツキ! ねえってば!』

 

 内側で、また声が跳ねた。

 

 眠りの底で聞いたのと同じ声だった。

 

 今度は、はっきりと分かった。少し拗ねたように語尾を上げる調子。急かすくせに、どこか楽しげな響き。この呼び方を、この声で、僕は何度も聞いてきた。

 

 かぐやだ。

 

 胸の奥で、何かが強く脈打った。

 

 ずっと、呼んでいたのか。

 

 「……少し、待っていてくれるかい」

 

 二人に言ったのか、かぐやに言ったのか、自分でもよく分からなかった。

 

 目を閉じる。

 

 探す必要はなかった。呼ぶ声の方へ意識を向ければ、すぐそこにかぐやがいた。

 

 あの夜、月へ向かう流れから切り離し、包み込んだもの。かぐやの魂は形を崩さずにそこにあった。急かす声の調子も、元気いっぱいな響きも全部、僕の知っているかぐやのままだ。辿ってきた日々の記憶も、欠けずに残っている。

 

 守れていた。

 

 その事実は、少し遅れて胸に届いた。

 

 あの夜、結果を確かめる前に、僕の意識は途切れた。届いたのか、間に合わなかったのか。分からないまま沈んでいった眠りの底で、この声だけがずっと僕を呼んでいた。

 

 かぐやは、ここにいる。

 

 かぐやも、ヤチヨも。誰も、失わずに済んだ。

 

 喉の奥が、熱くなった。閉じた瞼の裏で、何かが滲みそうになる。

 

 よかった。

 

 ただ、それだけを思った。

 

 確かめ終えても、すぐには離れがたかった。それでも、目を開けて伝えなければならない二人がいる。

 

 意識を引こうとした。

 

 その加減を、僕はわずかに誤った。

 

 一つにまとまったばかりの力は、思っていたよりずっと深くまで届いてしまう。かぐやの魂の、さらに奥。根のようなところへ、意識の端が触れた。

 

 知っている温かさがあった。

 

 かぐやのものだ。ヤチヨにも通じているものだ。そして、それより前にも。

 

 ずっと前にも。

 

 息が止まった。

 

 これは、と問いかけるより早く、急かす声が僕を引き戻した。

 

 『イツキ? なんか静かじゃない?』

 

 目を開けた。

 

 胸の奥へ届いたものは、そのまま置いておく。今は、向き合う顔が目の前にある。

 

 彩葉さんとヤチヨが、息を詰めて僕を見ていた。

 

 「かぐやは、無事だよ」

 

 声にすると、自分の声が少しだけ震えた。

 

 「月へ帰る役目は、用意していたものに引き受けてもらった。かぐや自身は、魂も、心も、記憶も、全部そのまま守れている。今は、僕のところにいる」

 

 二人とも、動かなかった。

 

 「ただ……入れ替える時に、身体までは保てなかった」

 

 彩葉さんの唇が開いて、閉じた。

 

 「……え」

 

 聞き返す声は、ほとんど息だった。

 

 「かぐやが……?」

 「うん」

 「だって、ヤチヨが」

 

 言いかけて、彩葉さんはヤチヨを振り向いた。それからもう一度、僕を見る。僕の顔のどこかに冗談の気配がないか、探しているようだった。

 

 「そこにいるんですか」

 「いるよ。さっきから、ずっと僕を呼んでる」

 

 彩葉さんの肩から、すとんと力が抜けた。

 

 両手で口元を覆う。指の隙間から漏れた息が、途中で嗚咽に変わった。泣くまいとしているのか、泣いていることにも気づいていないのか。彼女は僕から目を逸らさないまま、何度も小さく頷いていた。

 

 ヤチヨは、笑った。

 

 「……なにそれ」

 

 短く息を吐くような笑いだった。

 

 「なにそれ、一継。私、ちゃんと……ちゃんと覚悟、してたのに」

 

 その声が、途中でほどけた。笑った形のまま、ヤチヨの目からこぼれたものが頬を伝っていく。拭おうともせず、ヤチヨは自分の胸元をぎゅっと掴んだ。

 

 「……よかったぁ」

 

 それきり、ヤチヨは何も言わなかった。

 

 『ねえ! イツキ、まだ? 彩葉は? ヤチヨは?』

 

 内側の声が、そろそろ我慢の限界らしい調子になってきた。

 

 「……かぐやが、二人と話したがってる」

 

 彩葉さんが顔を上げた。ヤチヨも。

 

 「繋ぐよ」

 

 二人へ意識を伸ばす。かぐやのいるところから、彩葉さんへ。ヤチヨへ。言葉をそのまま運ぶ道を通した。

 

 『……彩葉?』

 

 彩葉さんの肩が跳ねた。

 

 空気を震わせない声だ。部屋のどこからでもなく、聞く者の内側へ直接届く。彩葉さんは目を見開いたまま部屋を見回し、それから何もない宙を見つめた。

 

 「……かぐや?」

 

 その声が、僕を通って向こうへ届く。

 

 『彩葉だ! ほんとに彩葉の声だ! ……聞こえる! ちゃんと聞こえる!』

 「かぐや……っ」

 

 それ以上は続かなかった。彩葉さんは口元を押さえたまま、宙へ向かって何度も頷いている。頷いても向こうには見えないことに、たぶん気づいていない。

 

 『ヤチヨは? ヤチヨもいるんでしょ!』

 「……いるよ」

 

 ヤチヨの声は、いつもより低く、静かだった。

 

 「ちゃんといる。聞こえてるよ、かぐや」

 『ヤチヨ!』

 

 弾んだ声に、ヤチヨが目を細めた。何か言いかけて、唇を閉じる。それから、いつものように笑ってみせた。

 

 『あのね、あのね。聞いて』

 

 かぐやは待ちきれないというように話し出した。

 

 『かぐや、ずっと寝てたみたいな感じだったの。なんにも分かんなくて。そしたら、歌が聞こえてきて』

 「……歌?」

 『彩葉の歌! 新しいやつ。あれ、卒業ライブの曲でしょ? 続きあったじゃん! かぐや、ワンコーラスしか知らなかったのに、最後まであった!』

 

 彩葉さんが、息を呑んだ。

 

 「……聞こえてたの」

 『聞こえた! それで起きたの。起きたらイツキがいるのは分かったから、呼んだの。ずーっと呼んでたんだよ。なのにイツキ、全然返事しないし!』

 「ごめん。眠っていたんだ」

 『知ってる! でも返事してよ!』

 

 理不尽だった。それでも、言い返す気にはなれなかった。

 

 彩葉さんは宙を見つめたまま、唇を震わせていた。

 

 「届いたんだ」

 

 小さな声だった。誰かに聞かせるためというより、自分の中で確かめるような響きだった。

 

 『うん。届いた!』

 

 かぐやが即座に答えた。彩葉さんは一度ぎゅっと目を閉じて、それから、ようやく笑った。

 

 『あ、そうだ。イツキ』

 

 声の調子が変わった。何かを思い出した時の、少し得意げな響き。

 

 『忘れてないからね』

 「何をだい?」

 『どこがよかったか!』

 

 ああ、と思った。

 

 あの夜、眠りへ沈む直前まで抱えていたもの。言葉にできないまま、置いてきてしまったもの。

 

 「すごかった」

 『それだけじゃ駄目って言った!』

 「分かってる。続きがあるんだ」

 

 僕は、あの舞台を思い返した。

 

 「始まってすぐ、挨拶しようとして何度も歓声に遮られただろう。それで、聞いてってば、って笑った。あの笑い声で、会場がもう一段沸いた。あそこで、今日は大丈夫だと思ったよ」

 『……うん』

 「彩葉さんが出てきた時、一度止まったね。それから顔を上げて、歌い出した。あの一声目は、たぶんずっと忘れない」

 

 彩葉さんが、ちらりと僕を見た。

 

 「前線が押されて、みんなが次々に下がっていった時も、君の声は途切れなかった。息が乱れても、すぐ次の音へ行った。あれだけの中で、最後まで歌い切った」

 『……』

 「最後のフレーズは、空の上まで伸びていった。そのあと伴奏が消えるまで踊って、きちんと足を揃えて止まった。……それから、彩葉さんの方を見ただろう」

 

 かぐやの返事が、少しだけ遅れた。

 

 「楽しんでいたのが、ちゃんと分かったよ。最後まで楽しんで、って言っていた通りに」

 

 しばらく、何も聞こえなかった。

 

 『……長い』

 「感想だからね」

 『……でも』

 

 小さな声が続いた。

 

 『合格』

 「採点制だったのか」

 『提出物だもん』

 

 ヤチヨが吹き出し、彩葉さんもつられて肩を揺らした。泣いたあとの、少し鼻にかかった笑い声だった。

 

 その笑いが落ち着いた頃、彩葉さんが居住まいを正した。

 

 「一継さん」

 「うん」

 「言っておかなきゃいけないことがあって」

 

 彩葉さんは隣のヤチヨを見た。ヤチヨが小さく頷く。

 

 「ヤチヨの身体を作ります」

 

 一瞬、意味が掴めなかった。

 

 「……身体を」

 「はい。勉強して、研究して。ヤチヨが、こっちで生きられる身体を。ヤチヨには、もう話しました」

 

 作る。

 

 研究して、人の手で。

 

 その言葉を、頭の中で何度か繰り返した。材料があって、構造があって、感覚を伝える仕組みがあって。それを一つずつ積み上げていけば、確かに届かない場所ではないのかもしれない。

 

 そういえば、能力以外での手法は考えたことがなかった。

 

 「……何ですか、その顔」

 「いや」

 

 正直に言うしかなかった。

 

 「その方法は、考えていなかった」

 「考えてなかった、って」

 

 彩葉さんが呆れたように眉を寄せた。

 

 『イツキ、頭いいのにたまにそういうとこあるよね』

 「あるある。一継ってさ、すっごい遠回りはするのに、目の前の道は見てないこと多いよねー」

 「……返す言葉がないな」

 

 彩葉さんは小さく息をつき、それから何もない宙へ目を向けた。かぐやの声が届いてくる、どこでもない場所へ。

 

 少しの間、彼女は黙っていた。

 

 膝の上の手が一度ほどけて、もう一度握られる。

 

 「……それと」

 

 顔を上げた彩葉さんの目に、もう迷いはなかった。

 

 「かぐやのも、作る」

 

 『……え?』

 「二人分。ヤチヨのと、かぐやの。別々に、ちゃんと作る」

 『かぐやの……身体?』

 「そう」

 『作れんの?』

 「作る」

 

 即答だった。

 

 かぐやの声が、しばらく途切れた。

 

 『……じゃあ』

 

 次に聞こえた声は、少しだけ湿っていた。

 

 『待ってる。……ううん、待ってるだけじゃやだ。かぐやも、こういうのがいいって、いっぱい言うからね。かわいいやつね。めっちゃかわいいやつ』

 「注文が多い」

 『だって、かぐやの身体だもん!』

 

 彩葉さんが笑った。今度は、泣き笑いではなかった。

 

 ヤチヨが、その横顔を見ていた。

 

 「……二人分だよ?」

 「分かってる」

 「大変だよ」

 「知ってる」

 

 ヤチヨは、ふっと笑った。

 

 「うん。じゃあ、私も。彩葉が作ってくれる身体で、こっち側を生きてみたい」

 

 少しだけ間を置いて、続ける。

 

 「よろしくね、彩葉」

 「……うん」

 

 三人の声を聞きながら、僕は口を開いた。

 

 「手伝えることがあったら、言ってほしい」

 

 彩葉さんがこちらを向いた。

 

 「言います。たぶん、いっぱい」

 「たぶん、なんだね」

 「いっぱいです」

 

 言い直す顔が、妙に真剣だった。

 

 『ねえ彩葉、どんなのにする? かぐや、もういっぱい考えてあるよ!』

 「まだ何も始まってないんだけど」

 『じゃあ今から始めよ!』

 「気が早いって!」

 「まずは基礎からだよねー、かぐや」

 『ヤチヨまでそういうこと言う!』

 

 賑やかな声が、部屋の中で重なっていく。

 

 彩葉さんの声は空気を震わせて。ヤチヨの声は彩葉さんの隣から。かぐやの声は、そのどれとも違う場所から、僕を通って二人へ。

 

 あの夜、僕は何も返せないまま眠った。

 

 確かめて、伝えなければと思いながら。顔を見て、話をしたいと思いながら。

 

 かぐやの顔は、まだ見えない。ヤチヨの手も、まだ誰にも触れられない。

 

 それでも、今は。

 

 『イツキ、聞いてる?』

 

 内側で、声が跳ねた。

 

 「聞こえてるよ」

 

 返事をすると、待っていたように次の言葉が飛んでくる。彩葉さんが呆れた声を上げ、ヤチヨが笑ってそれに乗る。

 

 まだ身体のない声と、触れられない姿と、ここにいる僕たちの声が同じ先の話をしていた。

 

 

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