【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
「ねえ、まだ?」
何度目か分からない問いかけに、彩葉さんの肩がぴくりと動いた。
「まだ」
「さっきもまだって言った」
「さっきもまだだったから」
画面から目を離さないまま返す声は、驚くほど平坦だった。集中している時の彩葉さんは、昔からこういう声になる。
かぐやは不満そうに唇を尖らせ、それから自分の両手を見下ろした。指を開いて、閉じる。もう一度開く。
自分の身体で目を覚ましてから、まだ一日も経っていない。かぐやはその間ずっと、壁に触っては冷たいと報告し、床を踏んでは硬いと報告し、僕の袖を引っ張っては「引っ張れる」と報告してくる。
「イツキ、これ見て。指、ちゃんと全部動く」
「さっきも見たよ」
「さっきと今は違うじゃん!」
理屈はよく分からないけれど、そういうことらしい。
部屋の中央の台の上で、もう一つの身体が目を閉じていた。
ここまで来るのに、十年かかった。
かぐやが精神体として、ツクヨミへ戻ってこられたのはその途中のことだ。そこからは、ただ待つだけの時間ではなくなった。かぐやは彩葉さんへ次々と注文を出し、ヤチヨは自分が何を感じたいのかを、一つずつ言葉にしていった。
彩葉さんは学び、作り、うまくいかなければ作り直した。
僕がしたのは、その日々が途切れないよう暮らしを支えることだった。必要なものを揃え、危ないものを遠ざける。そして最後に、二人の魂を、彩葉さんの作った器へ繋ぐこと。
身体そのものを作ったのは、彩葉さんだ。
僕にできることは、もう全部終えてある。あとは、彩葉さんの作ったものがヤチヨを迎えるだけだ。
「……始めるよ」
小さな声だった。かぐやがぴたりと黙る。
彩葉さんの指が、最後の操作を押した。
何も起きないように見える数秒があった。かぐやが僕の袖を握る。今度は報告ではなかった。
閉じていた瞼が、震えた。
ゆっくりと持ち上がった目が、天井の光に何度か瞬く。焦点を探すように彷徨って、一番近くにいた人のところで止まった。
「……彩葉?」
初めて空気を震わせたその声は、聞き慣れた声と同じで、少しだけ違った。
「……うん」
彩葉さんの返事は、短かった。
「わ」
ヤチヨがゆっくりと身を起こした。それから自分の手を目の前に持ってきて、裏返し、また表へ返す。
「重っ。……え、重い。腕って、こんなに重いんだ」
「重いの、最初だけだよ! かぐやもそうだった!」
「先輩風吹かせてくる……」
かぐやが台へ駆け寄った。ヤチヨはその顔を見上げて、少し目を丸くする。
「かぐや、近っ」
「見て、かぐやかわいくない? めっちゃかわいくしてもらったの!」
「知ってる。注文してるとこ、全部聞いてたし」
二人の声が重なっていく。その少し後ろで、彩葉さんは画面を見たまま動かなかった。
表示されている数字を、目で一つずつ追っている。全部を確かめ終えたのか、その目がようやく画面から離れて、ヤチヨへ向いた。
「……どう?」
ヤチヨは、すぐには答えなかった。
指先を自分の膝に当てる。手のひらを台の縁へ滑らせる。息を吸って、吐く。その一つ一つを、確かめるように。
「……ちゃんと、私の手だ」
彩葉さんの唇が、小さく震えた。
「そっか」
それだけ言って、彼女は顔を背けた。手の甲が、一度だけ目元を擦る。
「彩葉、泣いてる」
「泣いてない」
「泣いてるよ」
「起動ログ見てただけ」
かぐやとヤチヨが顔を見合わせて笑った。笑い方は、二人とも少しずつ違っていた。
「一継」
呼ばれて顔を向けると、ヤチヨが台の縁に腰掛けたまま、こちらへ手を伸ばしていた。
「手」
僕は近づいて、その手を取った。
指が触れた瞬間、ヤチヨの肩がかすかに跳ねた。握り返してくる力は、まだ少しぎこちない。確かめるように一度ほどけて、もう一度、今度はしっかりと重なる。
「……あったかい」
ヤチヨは繋いだ手を見下ろしていた。
「あったかいかなって、ずっと思ってたんだ。……あったかかった」
それから、ふっと笑う。
「ぽかぽかする」
馴染みのある言葉だった。
「知ってたんだよ、ずっと前から。竹越しに触ってもらった時から。……でも、この手で分かるのは初めて」
僕の手の中にある指も、温かかった。
ここにいるヤチヨの温度だ。彩葉さんが、これからのために作った温度だ。
「ヤチヨも、温かいよ」
そう返すと、ヤチヨは少しだけ目を丸くして、それから照れたように視線を逸らした。
横から、かぐやが胸を張った。
「でしょ! イツキってぽかぽかなの。かぐやが先に見つけたんだからね」
「えー、それ言う? 私のほうがずっと前から知ってるんだけど?」
「それずるい!」
「張り合うとこ、そこ?」
「「そこ!」」
返事だけは、ぴったり揃っていた。揃ったのはそれだけで、続く言い分はまた別々だった。
ヤチヨは繋いでいた手をそっと離すと、台から足を下ろし、床の感触を確かめるように爪先を動かした。
「ねえ彩葉」
「何」
「私、パンケーキ食べたい」
「……今それ?」
「今それ。ずっと言ってたでしょ」
「かぐやも! ふわふわのやつ!」
「起動したばっかりなんだけど」
彩葉さんがこめかみを押さえる。ヤチヨは悪びれもせず笑って、それから僕のほうへ顔を向けた。
「一継は?」
「僕?」
「何かしたいこと、ないの? 一継ってさ、そういうの全然言わないじゃん」
かぐやも、彩葉さんも、こちらを見た。
したいこと。
すぐには出てこなかった。誰かの望みを聞くことには慣れていても、自分のものを探すことには、まだ少し時間がかかる。
それでも、探せば見つかった。
言葉にする前に、一度だけ、喉の奥で引っかかった。
「……海に、行きたい」
口にしてから、続ける。
「四人で」
一瞬、部屋が静かになった。
彩葉さんが、少しだけ目を見開いている。ヤチヨは何も言わずに、柔らかく笑った。
「海!」
最初に声を上げたのは、かぐやだった。
「行く! 今行こ!」
「今?」
「今! イツキならすぐ行けるじゃん。ぴゅって」
「ぴゅって……」
「行けるでしょ?」
「……行けるね」
何度か、かぐやの前でも使ったことがある。今さらごまかしようがなかった。
かぐやが勢いよく彩葉さんを振り返る。
「ねえ彩葉、いいでしょ?」
「今って……起動したばっかりで、まだ——」
言いかけて、彩葉さんは目の前の二人を見た。自分の足で立ち、自分の手を握ったり開いたりしている二人を。
それから僕を見て、小さく息を吐いた。
口元が、緩んでいく。
「……行こう」
顔を上げた彩葉さんは、笑っていた。
「行きましょう。四人で」
かぐやが歓声を上げて僕の左手を掴み、ヤチヨがもう片方の手を取る。彩葉さんはヤチヨの空いた手を握った。
「離さないでね」
「離しませんよ」
一つ、息を吸う。
瞬きをするほどの間に、足元の硬さが柔らかな砂へ変わった。
風が吹いた。
潮の匂いがする。寄せては返す波の音が、思っていたよりずっと大きく耳に届いた。
目の前の水面は、光の当たり方で色を変えていた。沖のほうは深く沈んだ色をしているのに、波が崩れるところだけが明るく透ける。雲が流れるたびに、同じ場所がまた違う色になった。
「海だー!」
かぐやが僕の手を離して駆け出した。砂に足を取られて一度よろけ、それでも止まらずに波打ち際まで走っていく。
「冷たっ! 冷たい! イツキ、海、ちょー冷たい!」
「そうだろうね」
「でも楽しい!うひょ~」
ヤチヨは走らなかった。
一歩ずつ、砂を踏んで確かめている。沈む足を見下ろして、指で掬った砂を風に流して、頬にかかった髪を押さえて。何度か立ち止まっては、空を見上げた。
「……風って、こんなに押してくるんだね」
誰に言うでもなく呟いて、また歩き出す。
隣で、彩葉さんが息をついた。
「……できたんだなあ」
ほとんど独り言だった。僕は何も言わずに、同じ方向を見ていた。
波打ち際で、かぐやが振り返って大きく手を振った。少し遅れて辿り着いたヤチヨも、こちらを振り向く。
二人の目が、僕を見ていた。
好きだと言ってもらえた、この目。
最初の人生で、この瞳をお日様のようだと褒めてくれた人がいた。探しても見つからなくて、追いかけてしまった人。
次の世界で、同じ目を温かいと言ってくれた人がいた。見ていると安心する、と。海へ行こうと約束したまま、とうとう連れていけなかった人。
僕に名前を贈ってくれた子がいた。八千年の先でも、手を繋いだら温かいだろうかと思い続けていた人。
電子も現実も関係なく、僕へぽかぽかすると言った子がいた。離したくなくて、ずっと見つめていた子。
あの日、かぐやの魂の奥で触れた温かさを、僕はもう知っている。
同じだった。
最初に僕を照らしてくれた人から、今、波打ち際で手を振っている二人まで。
魂が繋がっていても、僕が愛した一人一人を誰かの代わりにはできない。
それでも、生まれ変わるたびにその温かさは僕のいる場所へ届いた。僕も探して、見つけて、また出会った。
長く望んだ再会は、ここにあった。
けれど、今見ているのは過去の約束の続きではない。今日、四人で初めて来た海だ。
かぐやが波を蹴り上げて笑っている。ヤチヨが濡れた裾に悲鳴を上げて、それから自分の声に驚いたように笑う。
その二人に身体を作った人が、僕の隣にいる。
「一継さん」
すぐ隣から声がして、手を取られた。
「何ぼーっとしてるんですか」
彩葉さんが、笑っていた。
「行きますよ!」
握られた手を、強く引かれる。
彩葉さんが砂を蹴って駆け出し、僕の足もつられて前へ出た。波の音が近づいてくる。かぐやとヤチヨが、こちらへ両手を振っている。
引かれる手の温かさに逆らわず、僕は海へ駆けていった。
これにて完結となります。最後までお付き合いくださりありがとうございました。
自語りは活動報告にていたしますので、興味がありましたらどうぞ。
ご要望、ご質問ありましたらそちらも活動報告へ。
明日より外伝と後日談を投稿していきますので、そちらもよろしくお願いします。