【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
父さん、と呼ぶまでには時間がかかった。
最初からそう呼ぼうと思っていたわけじゃないし、そもそも、あの二人を家族になる人だとも思っていなかった。
孤児院へ来る大人は珍しくない。食べ物を置いていく人もいれば、壊れた家具を直していく人もいる。何度か顔を見せて、そのうち来なくなる人もいる。来なくなった人のことを、誰かが口にすることはなかった。
だから、あの二人がまた来ても、最初のうちは何とも思わないふりをしていた。
自分の物は、寝台の下の箱へ隠していた。壊れた玩具、拾った部品、錆びたばね。大人から見ればガラクタだ。実際、前に一度、掃除の日に捨てられかけたことがある。片づけてあげたのだと言われた。それからは、箱の蓋を紐で縛るようにした。
あの人の奥さんは、よくしゃべる人だった。
台所でも洗濯場でも、手を動かしながら誰かと話している。僕にも、普通に話しかけてきた。
「それ、何?」
部品をいじっていると、隣にしゃがんで聞いてくる。答えないでいると、勝手に感想を言った。
「私は好きだな、そういうの。何になるのか分からないところ」
何が好きなのか分からなかった。でも、捨てろとは言わなかった。
「言いたくなったら教えて」
それだけ言って立ち上がり、本当にそれ以上は聞かなかった。次に来た時も、同じように聞いてきた。
あの人の方は、もっと変だった。
何でもできそうな顔をしているくせに、ほとんど何もしない。僕が壊れた玩具をいじっていても、少し離れたところに座っているだけだった。
外の大人があの人へ頭を下げるのを、見たことがある。だから偉い人なのだろうとは思っていた。偉い大人は、子どもの物を勝手に直すか、勝手に捨てるものだ。
それが最初は、気に入らなかった。
「直せるんだろ」
「たぶんね」
「じゃあ何でやらないの」
「君が僕に頼んでないから」
意味が分からなかった。直せるなら直せばいい。頼まなくても、大人はやりたいようにやる。
でも、次に来た時も、その次に来た時も同じだった。僕が失敗して部品を散らかしても、横から取り上げない。元へ戻せなくなって苛ついていても、勝手に見本を見せない。ただ近くにいて、僕が何か言うのを待っている。
それが、だんだん居心地の悪いものではなくなった。
だから、ある日。
「……ここ、押さえてて」
「ここ?」
「違う。もうちょっと右」
「はい」
初めて頼んだ。あの人は言われた場所を、言われた通りに押さえた。余計なところには触らなかった。
その次は、本の文字を読んでもらった。さらにその次は、細い針金を持ってきてほしいと言った。あの人は本当に持ってきた。太さの違うものを三本。どれがいいのか分からなかったから、と言った。
二人が来る日を数えるようになったのは、たぶんその頃からだ。
もちろん、本人たちには言わなかった。
◇
一緒に暮らさないかと言われたのは、それから何年か経った頃だった。
「決めるのは君だよ。どっちを選んでもいい」
あの人はそう言った。
「私は、来てほしい」
奥さんの方は、そう言った。
あの人は、来てほしいとは言わなかった。そのことが、なぜか少しだけ引っかかった。
すぐには返事をしなかった。嫌だったわけじゃない。むしろ、嬉しかった。だから怖かった。
家族という言葉を信じて、あとから違ったと分かるくらいなら、最初から何も決めない方がいい。今のままなら、あの二人が来なくなっても「そういうものだった」で済ませられる。来なくなった大人のことを、誰も口にしないのと同じように。
奥さんの両親にも会った。爺さんは僕の顔をじろじろ見て「愛想のない坊主だな」と笑い、隣の婆さんに肘で突かれていた。二人とも、来いとも来るなとも言わなかった。
何日も考えた。
それでも最後には、寝台の下から箱を引っ張り出した。紐をほどいて、中身を一つずつ確かめた。壊れた玩具、自分で直した小物、拾った部品。あの人に押さえてもらって直した、ぜんまい仕掛けの鳥も入っていた。
大した量ではなかった。全部、人に触られたくないものばかりだった。
紐を結び直し、箱を抱えて二人の前へ立った。あの人は何も言わなかった。奥さんも、急かさなかった。それが助かった。
「……行く」
「うん」
返ってきたのは、それだけだった。
ただ、あの人の握っていた手が、ゆっくり開くのが見えた。
その日から、食卓に僕の椅子が一つ増えた。
◇
家で暮らし始めて三日目に、奥さんから文句を言われた。
「その『奥さん』っていうの、やめない?」
「何で」
「私、あなたの奥さんじゃないもの」
何も言い返せなかった。向こうで爺さんが噴き出した。
「名前でいいよ。呼びたくなったら、他の呼び方でもいいけど」
それから、二人を名前で呼ぶようになった。口に出す分には、それで困らなかった。
ただ、頭の中ではまだ、あの人と、あの人の奥さんだった。
奥さんは、あの人を「ツナ」と呼んだ。外の人が呼ぶ名前とは違う。理由を聞くと、子どもの頃にうまく言えなかったのがそのまま残ったのだと、奥さんは少し恥ずかしそうに言った。爺さんと婆さんも、たまに真似をした。
僕は、その名前で呼ぼうとは思わなかった。それは、あの人と奥さんの間にあるものだという気がした。
食卓には、爺さんと婆さんがいることも多かった。
あの人は料理を作ると量を間違えた。具を入れすぎたオムレツはよく崩れたし、本人は「味は同じ」と言っていた。
僕は形の崩れたところから先に食べた。別に気を遣ったわけじゃない。食べれば同じだったからだ。
爺さんは、僕の顔を見るたびに何か言った。
「今日も難しい顔だな。オムレツに恨みでもあるのか」
「ない」
「なら、もう少しうまそうに食え」
「うまいよ」
「顔がうまくないと言ってるんだ」
婆さんが爺さんを叱る。その間に、僕の皿へ黙って何かを足していく。肉だったり、芋だったり。足された分を残すわけにもいかなくて、僕は毎回、腹が苦しくなるまで食べた。
どう返せばいいのか分からなかった。孤児院では、からかわれたら黙っているのが一番早く終わった。皿に何かを足されたことは、一度もなかった。
ある晩、爺さんがまた言った。
「坊主、お前は笑うと損をする病気か何かか」
「爺さんこそ、黙ると死ぬ病気なんだろ」
言ってから、しまったと思った。
食卓が静かになった。それから爺さんが、腹を抱えて笑い出した。
「やっと言い返したな!」
婆さんまで笑っていた。奥さんは「言うじゃない」と言い、あの人は口元を押さえて横を向いた。
次の晩、婆さんがまた皿へ芋を足そうとした。
「……もう入らない」
言ってみると、婆さんは手を止めた。
「そう。じゃあ、明日の分にとっておくわね」
それで終わりだった。怒られもしなかったし、がっかりされもしなかった。
言えば、ちゃんと届く。この家では、そういうことがあるらしかった。
二人とも、思っていたよりずっと頑固だった。
奥さんは、重い荷物を一人で運ぼうとする。あの人が手を出しかけると、「自分でやる」と言う。あの人はすぐに手を引っ込めて、それ以上は何もしない。荷物を下ろし終わるまで、少し離れたところで見ているだけだった。
奥さんは下ろし終わってから、あの人を見て、ほんの少しだけ不満そうな顔をした。
自分でやると言ったのは奥さんなのに、何でそんな顔をするのか。その頃の僕には分からなかった。
◇
人形を作り始めたのは、家へ来て何年か経ってからだった。
最初は、拾った魔導具の回路を真似しただけだった。木の骨組みに回路を通して、指を一本動かす。それだけで丸一日かかった。
出来上がった夜、奥さんに見せた。奥さんは、指が一本動くのを、何度も動かしては見ていた。それから、「これ、もらっていい?」と聞いた。いいと言うと、自分の部屋の棚に置いた。
あの人と同じ机を使う時間が増えた。最初は僕が教わる側だった。魔力回路の基礎も、素材の扱い方も、知らないことはいくらでもあった。あの人は、聞けば答えた。聞かなければ、何も言わなかった。
でも、造形や動かし方になると、あの人の作るものには妙な癖があった。
「また布噛んでる」
「本当だ」
「ここ長いんだよ。動くと引っ張るから」
「じゃあ短くする?」
「違う。腕だけ短くしたら、今度は重心が変になる」
「なるほど」
あの人は、分からない時に分かったふりをしなかった。僕が直した人形を見て、普通に聞いてくる。
「どうして、この形にしたんだい?」
説明すると、黙って最後まで聞いた。途中で口を挟まなかった。聞き終わると、もう一度人形を歩かせて、「本当だ」とまた言った。
外では、あの人はいろいろな名前で呼ばれていた。英雄だとか、金眼の預見者だとか。市場を歩けば知らない人が頭を下げるし、立派な服を着た人が家まで訪ねてくることもある。
そういう人が、机の前では僕に教わることを嫌がらない。
それが少し、嬉しかった。
その日も、いつもと同じだった。僕は部品を組みながら、あの人の方を見ないで手を伸ばした。
「父さん、それ」
口にしてから、自分で止まった。
あの人も、工具を持ったまま止まった。
二人で固まって、後ろで奥さんだけが笑った。
「……何笑ってるんだよ」
「別に」
「笑ってるだろ」
「嬉しいだけ」
「何が」
「何でもない」
顔が熱かった。耳まで熱かった。
工具は、まだ父さんの手の中にあった。父さんは少し遅れて、それを僕の手のひらへ置いた。
「はい」
それだけだった。
呼び直そうとは思わなかった。たぶん、言葉にするより先に、もうそういう人になっていたのだと思う。
次に呼ぶ時は、少しだけ意識した。その次は、もっと普通になった。いつの間にか、「父さん」と呼べば「何?」と返ってくることが、家の中の普通になった。
母さんの方は、間違えて呼んだんじゃない。
何日か考えてから、自分で決めて呼んだ。夕飯の時、塩を取ってほしくて、わざとそう言った。
「母さん、塩」
母さんは塩を取って、僕の前へ置いた。
「はい」
それから、手を引っ込めないまま言った。
「ねえ、もう一回」
「言わない」
「何で」
「何でも」
「じゃあ、言いたくなったら言って」
爺さんが、自分の胸を親指で指した。
「俺は?」
「爺さんは爺さんだろ」
「祖父さんと呼べ」
「やだ」
祖父さんと呼ぶようになったのは、それからだいぶ後のことだ。祖母さんは、最初から何も言わなかった。だから、たぶんそっちの方が少しだけ早かった。
◇
僕の作った人形は、少しずつ家の外へ出ていった。
荷物を運ぶ人形。狭い場所へ潜り込んで、中の様子を確かめる人形。職人の作業台で、細かい部品を押さえておく小さな人形。
使ってくれる人が増えるほど、同じ言葉を聞くことも増えた。
さすが英雄の息子だ。父親の教えがいい。あの人の家で育てば、これくらいできるのも当然だ。
最初のうちは流していた。褒められているのは確かだし、父さんに教わったことがあるのも本当だった。
でも、自分で設計して、自分で失敗して、自分で直したものまで、最後には父さんの名前で褒められる。
いつか、父さんには作れないものを作ればいい。そうすれば、誰も父さんの名前を出さなくなる。
その頃の僕は、本気でそう思っていた。
◇
職人や魔導技師が、作った物を持ち寄る集まりがあった。僕はそこへ、新しく作った人形を持っていった。崩れた坑道や狭い隙間へ入って、中の様子を確かめるための人形だ。脚の関節を作り直すのに、半年かかった。
父さんも呼ばれていた。招いた側が、そうしたがったからだ。
人形を床へ置いて、瓦礫に見立てた木箱の山を越えさせた。脚が段差を探り、重心を移し、一度も倒れずに向こう側へ抜ける。見ていた人たちがざわついた。
質問されて、僕が答えた。関節の仕組みも、回路の組み方も、半年かけて何を直したのかも、全部説明した。父さんのやり方とは違うところも、はっきり言った。
聞いていた人たちは頷いた。感心した顔をした。
それから、僕の向こうにいる父さんへ向き直った。
「いや、さすがは英雄殿のご子息だ」
「よほど良い教えを受けたのでしょうな」
「この家で育てば、これくらいは当然ですか」
何人も、同じように。父さんへ頭を下げて、父さんへ礼を言った。
父さんは、何も言わなかった。
困ったように少しだけ笑って、頭を下げ返しただけだった。
帰り道、ずっと口を開かなかった。何か言えば、そこで全部出てしまいそうだった。喉の奥に熱い塊がつかえて、飲み込んでも飲み込んでも下りていかない。
家へ入った途端、耐えられなくなった。
「なんで何も言ってくれなかったんだよ!」
父さんは驚いた顔をした。
「君自身が伝えるべきだと思ったんだ」
「そんなこと頼んでない!」
机を叩いた。手が痛かった。
「伝えたよ! 全部自分で言った! それでもあいつら、最後は父さんしか見てなかっただろ!」
「……うん」
「うんじゃない! 一人でやれって言われたかったんじゃない!」
声が震えた。止められなかった。
「せめて、父さんだけは僕の側にいてくれると思ってた!」
言ってから、泣きそうになっているのが自分でも分かった。
最悪だった。
◇
寝台に座って、叩いた手を見ていた。赤くなっていた。
父さんに、代わりに説明してほしかったわけじゃない。そんなことをされたら、きっともっと苛ついた。僕の研究を、父さんの言葉で守ってほしかったわけでもない。
じゃあ何が欲しかったのか。それが、自分でもうまく言えなかった。
ただ、あの場でみんなが僕の向こうに父さんしか見なくなった時、父さんだけは、こっちを見ていなかった。少なくとも、そう見えた。
悔しかったのは、父さんなら分かると思っていたからだ。僕の物へ勝手に触らず、僕が頼むまで待ってくれた人だったから。
その人が、一番肝心な時にまで待っていた。
翌朝、父さんは謝った。
「昨日は、ごめん」
台所の前で、まっすぐ僕を見て言った。言い訳はしなかった。
僕は返事をしなかった。一回謝られたからって、すぐ元通りになれるほど簡単ではなかった。
しばらくは、必要なことしか話さなかった。父さんが何か手伝おうとしても断ったし、食卓でも目を合わせない日があった。
母さんは、無理に仲直りさせようとはしなかった。いつも通り食事を作って、いつも通り僕の椅子を空けておいた。僕が部屋から出ない日は、皿に布をかけて置いてあった。
祖父さんは、しばらく僕をからかわなかった。それが、からかわれるより落ち着かなかった。
祖母さんだけが、相変わらず黙って皿に芋を足していった。もう入らないと言えば、ちゃんと止めてくれた。
父さんも、すぐに許してくれとは言わなかった。
その代わり、外で言うようになった。
最初に聞いたのは、出入りの職人からだった。
「お前の親父さん、この前の寄り合いで妙なこと言ってたぞ」
「妙なこと?」
「あの人形の設計は息子のもので、自分には作れない、ってな。物作りじゃ、もう自分が教わる側だと」
職人は面白そうに笑った。
「英雄があんなこと言うとは思わなかったよ」
今さら、と思った。
でも、その次も、その次も、似たような話を聞いた。息子の成果は息子のものだと。父親であることと、研究者として優れていることは別だと。誰かが父さんの名前で僕を褒めるたびに、父さんはそれを僕へ返していた。一度ではなく、何度も。
そこでようやく、謝ったから終わりにしたわけではないのだと分かった。
ある研究発表の前の晩、父さんが僕の部屋の前へ来た。
「僕も行っていい?」
「……何で聞くの」
「君が望まないなら、今回は行かない方がいいかと思って」
少し考えた。
「来て」
「うん」
「でも、僕が説明してる時に勝手に答えないで」
「分かった」
「あと」
「何?」
「……変なのがいたら、隣にはいて」
言った後で、また顔が熱くなった。父さんは笑わなかった。
「分かった」
それだけだった。
次の日、父さんは本当に僕の隣にいた。
僕が説明している間は、一言も口を挟まなかった。質問が父さんの方へ向いた時は、黙って僕を見た。それで、質問した人も僕の方へ向き直った。
発表が終わる頃、また誰かが言った。
「いやはや、やはり英雄殿の教えが」
父さんが、そこで初めて口を開いた。
「息子の設計です。僕には作れません」
それだけ言って、また黙った。
帰り道、僕は父さんの半歩後ろを歩いた。何か言おうとして、やめた。
家へ着くと、母さんが僕たちの顔を見て、何も聞かずに皿を並べ始めた。
◇
自分の工房を持ったのは、それから何年か後だった。
古い倉庫を借りて、棚を作り、作業台を三つ置いた。研究仲間ができて、助手もついた。職人と喧嘩して、夜まで話し込んで、次の日にはまた喧嘩した。
鍵を受け取った日、家族を工房へ連れていった。
母さんは中へ入ると、棚を見て、作業台を見て、壁に貼った設計図を見た。それから、急に黙った。
振り返ると、泣いていた。
「泣くほど?」
「泣くでしょ」
「何で」
「嬉しいから」
「母さん、そういうのすぐ言うよね」
「言わないと分からないでしょ」
どう返せばいいのか分からなくて、隣の父さんを見た。父さんは妙な顔をしていた。
「何」
母さんが父さんに言う。
「いや」
「あなたも言えば?」
「何を?」
「嬉しいって」
「言ったよ」
「もう一回」
父さんは少し黙って、それから僕の方を見た。
「……嬉しいよ」
今度は僕が、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
「二人とも何なんだよ」
そう言いながら、笑っていた。後ろで祖父さんが「いい倉庫だな」と言い、祖母さんは作業台の角を布で拭いていた。
その頃には、父さんを超えたいとはあまり思わなくなっていた。
工房にいれば、誰も僕を英雄の息子とは呼ばない。仲間は僕の設計に文句を言うし、助手は僕の失敗を笑って一緒に直す。父さんの名前がなくても、僕の作ったものは僕の作ったものとして扱われた。
勝ち負けではなかった。父さんに作れないものを作る必要もない。僕は僕の工房で、僕の名前で、自分の続きを作ればいい。
それが分かると、父さんへ聞くことも楽になった。
「父さん、これどう思う?」
「僕に聞くの?」
「意見は聞く」
「採用するかは?」
「僕が決める」
「はいはい」
「何その返事」
「前にも似たこと言われたなと思って」
「誰に」
「内緒」
台所の方で、母さんが急に静かになった。鍋の蓋を持ったまま、こっちを見ないようにしていた。
父さんは時々、僕の知らない昔を見ている顔をした。でも、全部を聞こうとは思わなかった。聞きたい時に聞けばいい。父さんだって、自分の話をするかどうかは自分で決めればいい。
工房を持ってからも、家へ戻るたびに何かを作った。
祖父さんには、重い物を運ぶ小さなゴーレム。祖母さんには、立ち上がる時に身体を支える器具。
二人とも口では要らないと言った。祖父さんは年寄り扱いするなと怒り、祖母さんはまだ自分で立てますと言った。それでも次に帰った時には、ゴーレムは庭で薪を運んでいたし、器具は祖母さんの椅子の横に置いてあった。
使ってもらえるのが、嬉しかった。
◇
祖母さんが母さんの皿へ芋を足したのは、ある晩の夕飯だった。
黙って、何でもないことのように。僕が子どもの頃、毎晩そうされていたのと同じ手つきで。
母さんは、何も言わなかった。もう入らない、とも言わなかった。
その時、分かった。
祖母さんがあの手つきで皿に何かを足すのは、言葉にできない時だ。からかわれて黙るしかなかった頃の僕に、そうしたように。
母さんの顔を見た。いつもと同じに見えた。ただ、椅子から立つ時に、机の縁へ手をついた。前からそうだったのかどうか、思い出せなかった。
何日かして、母さんが自分から言った。
夕飯のあと、片づけを始める前に、みんなを座らせた。
「最近、疲れやすいの。たぶん、これからもっとそうなる」
それだけだった。どうしてなのかも、どれくらい続くのかも、母さんは言わなかった。言えなかったのかもしれない。
祖父さんが何か言いかけて、やめた。祖母さんは母さんの手を握った。父さんは、母さんを見ていた。
「黙ってて、ごめん。隠すなって、いつも言ってたのにね」
母さんは少し笑った。
僕は笑えなかった。あれほど何でも自分でやると言っていた人が、自分のことを、少しの間とはいえ一人で抱えていた。それが、うまく飲み込めなかった。
その夜、工房へ戻って、祖母さんの器具の設計図を広げた。
同じものを作るつもりだった。でも、線を引いているうちに、手が止まった。
祖母さんより、母さんの方がずっと若い。その母さんのために、同じものを作っている。
腕の長さを測り直した。背の高さも、手の大きさも、母さんは祖母さんと違う。母さんの寸法で線を引き直していると、紙に落ちた水で、線が一本にじんだ。
立つ時の支えを持っていった日、母さんは椅子に座ったまま、それを眺めた。
「これ、立つ時に使って」
「まだ一人で立てるけど」
「知ってる」
「じゃあ」
「使うかどうかは母さんが決めればいい。でも置いとく」
母さんは、なぜか父さんの方を見た。
「何?」
父さんが聞く。
「似てきたね」
「誰に?」
「あなたに」
「どこが」
「勝手に決めないところ」
冗談じゃない、と思った。
「父さんと一緒にしないで」
「そこも似てる」
「母さん」
母さんは笑っていた。父さんは何も言わなかったけれど、少しだけ目を伏せた。
父さんの真似をしたつもりはなかった。ただ、待ってもらう側だった時のことを、僕はまだ覚えていた。
次の日、工房から戻ると、支えは椅子の横へ動かしてあった。母さんは何も言わなかった。僕も、何も聞かなかった。
それでも、母さんの時間そのものは止められなかった。
父さんは、別の方法を探していた。
最初は、何をしているのか分からなかった。父さんが家にいない時間が増え、書斎の明かりが夜遅くまで消えなくなった。食卓にいても、母さんの方を見ない。正確には、母さんと目が合いそうになると、先に逸らす。
何かを一人で抱えているのは、すぐに分かった。
まただ、と思った。
父さんは人の選択を大事にする。大事にしすぎて、時々、相手が選ぶために必要なものまで自分の中へしまい込む。
何か言おうかと思った。でも、言わなかった。これは父さんと母さんの話で、母さんは、自分のことを誰かに代わりに言われるのが一番嫌いな人だった。
ある夜、居間の扉の向こうで、母さんの声がした。何を話しているのかまでは聞こえなかった。聞こうとも思わなかった。
その後から、父さんは少しずつ母さんの隣へ座るようになった。目を逸らさなくなった。
遅いとは思った。でも、戻ってきたならそれでよかった。
庭へ出るための道具を作り直した日、母さんは久しぶりに外へ出た。
日の当たる場所に椅子を置いて、二人で座った。母さんは花壇を見て、空を見て、それから僕の方を見た。
「次は何作るの?」
「まだ決めてない」
「決めてないのに、顔はもう考えてる」
「……身体が思うように動かない人でも、自分で向きを変えられる椅子」
「どうやって?」
説明した。回路のことも、重心のことも、まだうまくいっていないところも。母さんは途中で一度も口を挟まず、最後まで聞いていた。
「できたら見せて」
「うん」
父さんのことを頼む、とは言われなかった。
言われるのだと思っていた。だから、少し身構えていた。でも母さんは最後まで、僕の作るものの話しかしなかった。
◇
最後の日のことは、あまり順番通りに覚えていない。
祖父さんが、母さんの子どもの頃の話をしていた。読み書きを三日でやめた話。父さんを怒鳴りつけた話。何度も途中で声が止まって、そのたびに祖母さんが続きを待った。祖母さんは母さんの手を握って、何度も名前を呼んでいた。
僕は、上着のポケットの中のものを握っていた。
最初に作った人形だった。指を一本動かすだけの、木の骨組み。あの夜から何年も、母さんの部屋の棚にあった。前の晩に棚から下ろして、緩んでいた回路を直しておいた。
それを、枕元へ置いた。何か言おうとして、何も言えなかった。
指が一本、小さく動いた。
母さんの目が、それを見た気がした。
それから、父さんを残して部屋を出た。扉の前の廊下に、三人で座った。祖父さんも祖母さんも、何も言わなかった。僕も言わなかった。
扉の向こうから、母さんの声が少しだけ聞こえた。何を言っているのかは分からなかった。
聞こうとは思わなかった。あれは、父さんと母さんの時間だった。
◇
母さんが死んだあと、僕は長い間、工房へ戻れなかった。
扉の前までは、何度も行った。鍵を差し込むところまではいく。そこで手が動かなくなる。鍵が、手のひらの中でひどく冷たかった。
中へ入れば、机の上のものが目に入る。母さんの身体に合わせて変えた寸法を書きつけた紙。材料棚の、次に直そうとしていた部品。作業台の端には、向きを変えられる椅子が、脚を片方だけつけたまま置いてある。
できたら見せて、と母さんは言った。僕は、うん、と言った。それだけの約束だった。それだけの約束を、僕は守れなかった。
作る理由が、一度なくなったように思えた。
助手は何も聞かずに、工房の掃除だけを続けてくれた。仲間は、来たくなったら来ればいいと言った。
家では祖母さんが、相変わらず僕の皿に芋を足した。もう入らない、とは言えなかった。言えば、祖母さんの手まで止まってしまう気がした。祖父さんは何も言わずに、それを見ていた。
それでも、ある日、工房の扉を開けた。
埃は、ほとんど積もっていなかった。
作業台の端に、あの椅子があった。脚が片方だけの、傾いたまま立っている椅子。
膝が崩れた。床に座り込んで、しばらく動けなかった。声を上げて泣いたのは、母さんが死んでから、それが初めてだった。
助手が、黙って扉を閉めてくれた。
泣き終わってから、母さんが使っていた器具を、全部机へ並べた。立つ時の支え。物を運ぶ台。庭へ出るための歩行具。どれも、母さんの腕の長さと、母さんの膝の曲がり方に合わせてある。
これを、母さんのためだけのものにしておくのは嫌だった。母さんがいなくなったから終わり、にはしたくなかった。
別の身体、別の生活、別の使い方。それぞれに合わせられて、他の人も使えて、壊れたら直せて、僕がいなくなった後も誰かが続きを作れるもの。
最初に手をつけたのは、あの椅子だった。
たぶん、僕の研究がそちらへ向いたのは、あの頃からだった。
◇
父さんは、僕とは違う形で、母さんが死んだ場所から動けなくなっていた。
口数が減った。食卓にはつくけれど、自分から話すことはほとんどない。祖父さんが何か言っても、短く返すだけだった。
家の中で、「ツナ」と呼ぶ声を聞かなくなった。祖父さんも祖母さんも、もう真似をしなかった。その名前で父さんを呼ぶ人は、どこにもいなくなった。
家を守る。記録を残す。母さんがいた場所を変えない。父さんはそう言った。
言っていることは分かる。でも、あれは守っているんじゃない。止まっているのだと、僕には見えた。
母さんの椅子は、母さんが最後に座った向きのまま、居間に置いてあった。父さんは、誰にも動かさせなかった。
昔、父さんは僕に言った。決めるのは君だと。どっちを選んでもいいと。父さんの隣にいるかどうかさえ、僕が決めていいと。
だったら、父さんだけ決めなくていいわけがない。
ある晩、片づけの終わった台所で、父さんに言った。
「父さんがここを守らなくても、母さんとの時間が消えるわけじゃない」
父さんは何も言わなかった。だから続けた。
「僕には研究がある。仲間もいる。祖父さんたちのことも、僕一人で抱えるわけじゃない」
全部、本当だった。助手も、仲間も、近所の人たちもいる。父さんが残らなければ全部壊れるような家族ではない。
僕はもう、一人で歩ける。
でも、次の言葉を口にする時だけは少し怖かった。
「父さんがいなくても生きていける」
言い方を間違えれば、もういらないと言っているみたいに聞こえる。
違う。そうじゃない。
僕が一人で生きられることと、父さんにいてほしかったことは、ずっと別だった。
だから、今度はちゃんと続けた。
「でも、父さんが家族じゃなくなるわけじゃない」
父さんの顔が、少しだけ変わった。それで、伝わったと分かった。
僕は少し困って、笑った。
「父さんは僕に、自分の道を選べって言っただろ」
「うん」
「だったら父さんも、自分の行き先を選んでよ」
これは父さんに教わったことを、父さんへ返しただけだ。
◇
しばらくして、父さんは旅に出ると言った。
どこへ行くのか。いつまでなのか。戻ってこられるのか。本人にも分からないらしい。
祖父さんは「行ってこい」と言った。祖母さんは、母さんの最後の願いを忘れるなとだけ言った。
僕は、何を言うか迷った。
出発の朝、玄関で、父さんは荷物を背負い直した。驚くほど少ない荷物だった。いつか僕が古い箱一つでこの家へ来た時と、たぶん同じくらいだった。
昔、工具を取ってほしくて、何気なく呼んだ。怒った時にも呼んだ。側にいてほしいと叫んだ時にも、同じように呼んだ。
「父さん」
「何?」
すぐ返事が来た。昔と同じだった。
「……いってらっしゃい」
父さんは少しだけ目を見開いた。
「戻れるか、分からないよ」
「知ってる」
「それでも?」
「それでも」
帰ってくる保証があるから家族なんじゃない。同じ家にいるから父さんなんじゃない。僕が一人で生きられないから、父さんが必要なんでもない。
それでも、父さんは父さんだった。
「だから、いってらっしゃい」
今度は父さんが、少しだけ笑った。
「……行ってきます」
そう言って、父さんは旅に出た。
僕は、背中が見えなくなるまで玄関に立っていた。
◇
その日の昼には、工房へ戻った。
作業台の上で、助手が歩行具の脚を組み直していた。僕に気づくと、手元から目を離さないまま言った。
「……ここ、押さえててもらえますか」
「ここ?」
「違います。もうちょっと右」
「はい」
言われた場所を、言われた通りに押さえた。余計なところには触らなかった。
自分の返事が、誰かによく似ていた。