【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
ツナの本当の名前は、刹那という。
私はそれを、うまく言えなかった。
母に言わせると、最初は「ちゅな」だったらしい。何度直されても同じ音にしかならず、直されるたびに頬をふくらませていたという。そのうち両親まで面白がって真似をするようになり、気がつけば家の中では、それがあの人の名前になっていた。
ツナ本人は、一度も嫌だと言わなかった。呼べば、いつも振り向いた。
だから、私の覚えている一番古いツナは、もうツナだった。
床に座っている大きな人。父と母が「おかえり」と言う人。私が近づくと、なぜか息を止める人。
初めて小さな指でその人の指先をつかんだ時、振りほどかれないように固まっていたのは私ではなくツナの方だったと、これも母から聞いた。聞いた時は笑った。今は、その時のツナの顔を見てみたかったと思う。
ツナは、私が生まれる前からこの家の人だった。
大怪我をしたところを父と母に助けられて、それから何年も、この家へ通ってきていたのだという。父は無遠慮にからかい、母は追い払うふりをして料理を出す。ツナはそのたびに困った顔をして、それでも次の日にはまた来ていた。
私が生まれた年、ツナは遠くへ出かけていて、一年近く帰らなかった。帰ってきた時、私は母の服の陰に隠れて、知らない人を見る目でツナを見ていたらしい。
少し寂しかった、とツナは言った。ずっと後になってから。そんなことを、何十年も覚えている人だった。
◇
ツナは、何でも知っていた。
どこへ行っていたのか。何を見たのか。遠くにはどんな生き物がいるのか。どうして空は青いのか。聞けば答えてくれたし、分からないことは一緒に調べてくれた。
だから、読み書きを教わることになった時は、前の晩に眠れないくらい楽しみにしていた。
三日でやめた。
ツナは、正しい形の文字を書かせたがった。同じ文字を、同じ形で、何度も。書いたそばから少しずつ直され、直されるたびに同じ文字が増えた。楽しみにしていた分だけ、裏切られた気がした。三日目に私は机へ突っ伏して、二度とやらないと言った。
母は「子どもに何を求めてるの」とツナに呆れ、父は「教える才能がないな」と笑った。
次の日、ツナは物語の本を持ってきた。前に私が読みたいと言った本だった。
「好きな言葉を、書いてみる?」
私が選んだのは、物語に出てくる鳥の名前だった。形が崩れていても、ツナはもう直さなかった。代わりに、旅先で見たという大きな鳥の絵を描いてくれた。下手だった。下手なのが嬉しくて、その絵は長いこと寝台の横に貼っていた。
それから少しずつ、文字を覚えた。
◇
ツナは、私が転ぶ前に手を伸ばす人だった。
道に石があれば先にどけておく。高いところへ登ろうとすれば、降り方を先に教える。叱られそうなことをすれば、叱られる前に言い訳を整えてくれる。困る前に、答えを渡してくれる。
小さい頃は、それが当たり前だった。
当たり前でなくなったのは、私が自分で何かをやりたくなってからだ。
その日、私は一人で何かを作ろうとしていた。何を作っていたのかは、もう覚えていない。覚えているのは、うまくいかないと分かっていたことと、それでも最後まで自分でやりたかったことだけだ。
あと少しだった。あと少しで、自分の手で失敗できた。
ツナの手が、私の手より先に動いた。
「そこは、こうした方がいいよ」
出来上がったものは、私がやるよりずっときれいだった。きれいだったから、余計に悔しかった。それはもう、私の作ったものではなかった。
顔が熱くなって、喉の奥が詰まって、気づいたら叫んでいた。
自分でやろうとしていたのに。失敗するかどうかまで、勝手に決めないで。私の選択まで奪わないで。
ツナは何も言えなかった。本当に困った顔をして、私が泣きながら部屋へ戻るのを見ていた。
その夜は、なかなか眠れなかった。言いすぎたとは思わなかった。でも、ツナのあの顔だけが、目を閉じても消えなかった。
次の日から、ツナは少し変わった。
転ぶと分かっていても、手を伸ばすのを待つようになった。私が頼んだ時だけ口を出して、私がやり直している間は、隣に座っていた。
隣にいる。それが、私には一番嬉しかった。転んでも、一人で転んだのではないと思えた。
失敗は増えた。転んだし、物を壊したし、嘘もついて、両親に叱られた。ツナには言わない秘密ができた。ツナの知らない友達もできた。
ツナは時々、寂しそうな顔をした。それでも、何も聞かなかった。その顔を見るたび、少しだけ胸が痛んで、少しだけ誇らしかった。
◇
大きくなると、守られるだけではいられなくなった。
疲れて帰ってきた両親に食事を作るのは、いつの間にか私の役目になっていた。頼まれたわけではない。気づいたら、やっていた。
ツナが怪我をして帰ってきたのは、私の背がツナの胸に届くくらいになった頃だった。
大した傷じゃないよ、とツナは笑った。腕に巻いた布は赤く染まっていた。
血の色を見た途端、足がすくんだ。ツナは強い人だった。怪我をして帰ってくることなんて、考えたこともなかった。
「なんで言わなかったの」
「心配をかけたくなかった」
その答えで、すくんでいた足が動いた。怖いのより、腹が立つ方が先だった。
包帯を取りに走った。巻きながら、ずっと怒っていた。手が震えて、うまく巻けなかった。
「心配するかどうかまで、勝手に決めないで」
ツナは黙って、私が包帯を巻き終えるまで動かなかった。何度巻き直しても、何も言わなかった。
あの時の顔を、今でも覚えている。昔、私が怒鳴った時と同じ顔だった。
◇
家を出たいと言ったのは、それから何年か後だ。
理由は、うまく言えなかった。この家が嫌だったわけではない。父も母も好きだったし、ツナも好きだった。
ただ、この家にいる限り、私はずっと誰かに守られた子どものままだと思った。ツナが整えてくれた道を、ツナが見ていないところでも歩いてしまう気がした。それが、怖かった。
選んだのは、安全とは言えない道だった。ツナには、私が転ぶ場所まで全部見えていたと思う。それでも、ツナは何も言わなかった。止めてほしかったわけではない。でも、本当に何も言われないと、少しだけ心細かった。
出ていく朝、ツナはそれだけ言った。
「何かあれば帰ってくればいい。失敗しても、帰る場所までなくなるわけじゃないから」
振り返らずに歩いた。振り返ったら、きっと帰りたくなるから。
知らない土地で、私は何度も失敗した。慣れない仕事を任され、任されすぎて倒れかけ、信じた人に裏切られかけた。その全部を、ツナには相談しなかった。終わってから手紙に書いた。
ツナからの返事は、いつも短かった。
あなたが自分で選んだことを、僕は応援している。
最初は、それだけなのかと思った。もっと何か書けばいいのに、と。読み終えた手紙を、少し乱暴に机へ置いたこともある。
何通目かで、紙の裏に、何度も書いては消した跡があるのに気づいた。消しきれなかった文字は、どれも助言だった。気をつけた方がいい。その人は信用できるのか。無理をしていないか。
ツナはそれを全部消して、一行だけ残していた。
その夜、一人で泣いた。あの人は、こんなに遠く離れても、まだ私の隣に座っていようとしていた。
その手紙は、今でも捨てていない。
◇
何年かして、私は自分の足で帰った。
父の髪には白いものが混じっていた。母は、立ったまま私を叱っていた頃と違って、椅子に座ったまま口だけで指図するようになっていた。
ツナだけが、変わっていなかった。
私が子どもから大人になるまでの時間を、ツナの身体は何も刻んでいなかった。知っていたことだった。でも、並んで立つと、それが目に見えた。
父の白髪と、ツナの変わらない横顔を、同じ食卓で見比べた夜、初めて怖いと思った。この人を置いて、私はどこまで行ってしまうのだろう。
帰ってからのツナは、少しだけ昔に戻った。あれをした方がいい。こっちの道の方が安全だ。私はそのたびに聞いて、必要なものだけ受け取った。
「意見は聞く。決めるのは私」
そう言うと、ツナは決まって「はい」と答えた。
重い荷物に手を伸ばせば、自分で持てると言った。本当に持てたからだ。
ある日、ツナと街を歩いた。
ツナに気づいた人が、次々に足を止めた。金眼の預見者。その名前は、私が家を離れている間に、ずっと遠くまで広がっていた。依頼を持ちかける人。家族の行く末を見てほしいと頼む人。祈るように頭を下げる人。ツナが一人に応えれば、また一人が寄ってくる。
私は少し離れたところで待っていた。
人の波が途切れてツナが先へ歩き出してからも、私のところへ来る人がいた。
預見者様に話を通してほしい。次にどこへ行かれるのか教えてほしい。貴族の遠縁のお家柄なら、有力な方ともお付き合いがあるのでしょう。
私が外で何をしてきたのかを聞く人は、一人もいなかった。
何年も、知らない土地で自分の足で立ってきた。その全部が、ここではツナの近くにいる人、の一言で片づけられる。
笑って、断った。伝えるべきことだけ伝えて、それ以上は話さなかった。知らない土地で覚えたことだ。
全部終わってから、息を吐いた。自分で思っていたより、重い息だった。
「すまない」
ツナが言った。
「どうしてあなたが謝るの?」
本当に分からなかった。ツナが頼んだことではない。でも、ツナは答えなかった。答えられない顔をしていた。
その顔を見て、苛立ちを飲み込んだ。この人に謝らせたくて、息を吐いたわけではなかった。
しばらくして、ツナがまた怪我をして帰ってきた。
大した傷じゃない、と言う。昔と同じだった。私は椅子を引いた。
「座って」
「大した傷じゃないよ」
「座って」
二度目で、ツナは座った。
「自分でできるよ」
「知ってる」
「なら」
「私がしたいの」
包帯を巻きながら、聞いた。
「あなたが私を助けるのはよくて、私があなたを助けるのは駄目なの?」
ツナは、私を巻き込みたくないのだと言った。
「巻き込まれるかどうかも、私が決めることじゃないの?」
ツナは目を伏せた。昔から、困るとそうする。
私は屈んで、下から顔を覗き込んだ。
「目を逸らさないで」
ツナの目は、明るいところで見ると金色で、角度によって少しずつ色が変わる。小さい頃から、私はその目を見るのが好きだった。
「昔から、その目が好きだった。温かくて、見ていると安心するの」
ツナが瞬きをした。
「だから、安心させるためだけに笑ってる時も分かる」
ツナは、何も言わなかった。
でも、目は逸らさなかった。
その時、はっきり分かった。守られたいのでも、守りたいのでもない。私は、この人の隣にいたい。
◇
ツナの中に、私の知らない人がいることは、ずっと前から知っていた。
はっきり聞いたことはない。ただ、時々ツナは、ここではないどこかを見る顔をした。何を見ているのか聞いても、困ったように笑うだけだった。子どもの頃は、遠くの国の話だと思っていた。
大人になって、それが場所ではなく人なのだと分かった。
分かった夜は、眠れなかった。顔も名前も知らない誰かが、ツナの一番奥にいる。私がどれだけ近くにいても、届かない場所に。
妬かなかったと言えば嘘になる。
それでも、気持ちを伝えたのは私の方だった。
子どもの頃から慕っていたことは、否定しなかった。でも、それだけではないと言った。外の世界を見た。ツナ以外にも、信じられる人や大事な場所ができた。一人でも生きていける。
その上で、ツナと生きたいと選んだのだと。
ツナは、すぐには受け取らなかった。
代わりに、並べた。自分の姿はこの先も変わらないかもしれないこと。私の方がずっと早く老いること。一緒にいれば、私は自分の名前より先に、ツナの妻として見られること。
最後に、言った。
「僕は今も、前の世界で愛した人を忘れていない」
前の世界、という言葉の意味は、その時にはよく分からなかった。分かったのは、ずっと前から知っていたあの顔の向こうにいる人のことだ、ということだけだった。
胸の奥が、ひどく痛んだ。分かっていたことなのに、本人の口から聞くと違った。
全部並べ終えて、ツナは私を見ていた。私が引き返すのを待っているみたいに。
その顔を見ていたら、痛みより先に、可笑しさが込み上げてきた。
笑ってしまった。
「やっぱり、そうすると思った」
「何がだい?」
「私のためって言って、私の未来をあなた一人で決めること」
ツナが挙げたことは、一つも嘘ではなかった。だから、一つも否定しなかった。
「起こるかもしれないことは教えてほしい。でも、それを知って何を選ぶかは私に決めさせて」
それから、一番言いたかったことを言った。声が震えたのは、怖かったからではない。
「前の人を忘れてほしいなんて言わない。私は、誰かを忘れて空いた場所に入りたいわけじゃないから」
その人の代わりになりたいのではなかった。その人を押しのけたいのでもなかった。
顔も名前も知らない。それでいいと思った。思おうとした、の方が正しいかもしれない。それでも、ツナが今もその人を愛しているということは、ツナがそういうふうに人を愛せる人だということだ。
その人を大事にしたまま、ここで生きているツナを、私は選びたかった。
「僕は前の世界で愛した人を、今も愛している」
ツナはそう言った。私は頷いた。涙が落ちたのは、そのあとだった。
それから、ツナは続けた。その続きは、私だけのものにしておく。
その日、初めて手をつないだ。ツナの手は、思っていたより熱かった。離したくないと思ったのは、きっと私だけではなかった。
◇
結婚しても、劇的なことはあまり起きなかった。
ツナは時々、一人になりたいと言った。そういう時は、何も聞かずに一人にした。戻ってきたツナは、少しだけ軽い顔をしていた。
ツナは食事を作りすぎた。私は仕事を抱え込みすぎた。互いに休めと言いながら、自分は休まない。同じことで何度も叱って、同じことで何度も叱られた。
ツナが一人で答えを出そうとすると、私は必ず問い詰めた。迷っていることも、怖いことも、隠さないで話して。疲れた日は向かいに座って、目を合わせた。
「やっぱり安心する」
「何がだい?」
「その目。温かいから」
ツナは同じことを何度も聞いた。私は何度でも、同じことを答えた。そのたびにツナが少しだけ嬉しそうな顔をするので、それが見たくて、また答えた。
市場から戻って、重い荷物を一人で運ぼうとした日のことも覚えている。
ツナが手を出しかけたので、「自分で持てる」と言った。本当に持てた。ツナはすぐに手を引っ込めて、私が荷物を下ろし終えるまで、少し離れたところで見ていた。
自分でやると言ったのは私だ。ツナは、言われた通りにしただけだ。
なのに、少し面白くなかった。
手を出してほしかったわけじゃない。代わりに持ってほしかったわけでもない。じゃあ何だったのかは、その時は考えなかった。その晩、ツナの作りすぎたスープを、わざと少しだけ残した。
◇
海を見たいと言ったのは、その頃だ。
私たちの暮らす街からは遠く、気軽に行ける距離ではなかった。それでもツナは、いつか行こうと約束した。
海は光の加減で色が変わるのだと、家を出ていた頃に聞いたことがあった。
「あなたの目みたいに、いろんな色が見えるのかな」
ツナは少し照れて、必ず行こうと言った。
どんな服を着ていこうか。向こうで何を食べようか。まだ日にちも決まっていない旅のことを、寝る前に何度も話した。子どもみたいだと、自分でも思った。
必ず行けると思っていた。時間はいくらでもあると思っていた。
ツナの名前は、その後も大きくなった。
英雄の妻。外では、私の名前より先にそう呼ばれた。孤児院へ運んだ荷も、私が頭を下げて集めた寄付も、最後には「さすが英雄様の奥方だ」で終わる。父と母まで、英雄を救った一家として、過剰なほど頭を下げられるようになった。
帰り道で、何度か唇を噛んだ。家に着く前に、顔を戻した。
ツナはそれを、ずっと気にしていた。結婚する前に言った通りになった、と。
気にならなかったと言えば嘘になる。でも、選んだのは私だった。知った上で選んだことを、後からツナのせいにするつもりはなかった。だから、苛立ちは自分の中で片づけた。片づけきれない夜もあったけれど。
◇
私の家は昔から、近くの孤児院を支えていた。食べ物や薬を届け、壊れた家具を直し、人手が足りなければ手伝う。子どもの頃は、それを家の役目だと思っていた。
家を出て、戻ってきてからは違った。私は、私が行きたいから孤児院へ通った。ツナと暮らすようになってからも、それは変わらなかった。
ツナは、子どもとの距離の取り方が少し下手だった。
乱暴に扱うわけではない。むしろ逆で、相手が嫌がることをしないように気をつけすぎる。勝手に決めない。勝手に触らない。頼まれていないことに先回りしない。
昔の私が、そう怒鳴ったからだ。
ツナは、あの日から待つことを覚えた。少し、覚えすぎたのかもしれない。
そう思ったのは、孤児院で、あの頃の私と似た顔をした子に出会ってからだった。
あの子は、自分から寄ってくることはなかった。少し離れたところで壊れた玩具や拾った部品をいじり、自分の物は寝台の下の箱へ隠していた。そのくせ、小さい子が食事をこぼせば、黙って布を差し出す。
その背中を見ていると、胸の奥が少しだけ痛んだ。自分でやりたくて、でも一人は嫌で、それを誰にも言えない背中だった。
「それ、何?」
聞いても、答えはなかった。それでいいと思った。私も昔、ツナに何でも話したわけではない。
ツナの方は、聞きもしなかった。少し離れたところに座っているだけで、あの子が苛立って部品を投げ出しても、拾いに行かない。
「手伝わないの?」
帰り道で聞いた。
「頼まれてないから」
「困ってたよ」
「でも、自分でやりたそうだった」
昔の私に言われたことを、ツナはずっと守っている。間違ってはいない。
ただ、昔のツナは、待っている間も私の隣にいた。今のツナは、少しだけ遠くに座っている。
それでも、あの子はいつかツナに「ここ、押さえてて」と頼んだ。ツナは言われた場所を、言われた通りに押さえた。私は干していた布の陰で、笑わないようにした。笑ったら、泣いてしまいそうだった。
◇
一緒に暮らさないかと聞いたのは、何年か通ってからだった。
「決めるのは君だよ。どっちを選んでもいい」
ツナは、それしか言わなかった。だから私が言った。
「私は、来てほしい」
あの子はツナの顔を見ていた。何かを待つみたいに。
その夜、聞いた。
「断られたら?」
「それなら、それがあの子の答えだよ」
「寂しい?」
「……寂しいけど」
「なら、さっきそう言えばよかったのに。僕はこうしたいって」
「でも、それを言ったら、あの子が断りにくくなる」
「黙ってたら、あの子には、ツナがどう思ってるのか分からないでしょ」
ツナは困った顔をした。
少し、腹が立った。あの子が待っていたのは、たぶんツナのその一言だったのに。
相手に選ばせることはできる。でも、自分の望みを一緒に差し出すのは、昔から苦手だった。危険を全部並べて私を引き返させようとした、あの日もそうだった。
数日後、あの子は古い箱を抱えて、私たちの前に立った。
「……行く」
「うん」
ツナは驚くほど普通の声で答えた。その手がゆっくり開いていくのを、私は見ていた。泣きそうになったのは、私の方だった。
家へ来て三日目、私は一つだけ文句を言った。
あの子は私のことを、「奥さん」と呼んでいた。ツナの奥さん。孤児院でも、ずっとそうだった。
「その『奥さん』っていうの、やめない?」
「何で」
「私、あなたの奥さんじゃないもの」
向こうで父が噴き出した。
冗談めかして言ったけれど、本当は少しだけ違った。外へ出れば、私は英雄の妻だった。せめてこの家の中でくらい、誰かの何かではなく、私として呼ばれたかった。
「名前でいいよ。呼びたくなったら、他の呼び方でもいいけど」
他の呼び方が何なのかは、言わなかった。言えば、それはもうお願いになる。
父は、あの子の無愛想な顔を面白がって、毎晩のようにからかった。母はそんな父を叱りながら、あの子の皿へ黙って料理を足した。
懐かしかった。
父は昔から、気に入った相手ほどからかう人だった。母は昔から、言葉より先に皿へ料理を足す人だった。ツナも私も、たぶんそうやってこの食卓で育てられた。
あの子が初めて父に言い返した夜、父は腹を抱えて笑った。私は、あの子が母に「もう入らない」と言えた夜の方が嬉しかった。
◇
あの子が初めてツナを「父さん」と呼んだのは、作業机の前だった。本人が一番驚いていて、ツナは工具を持ったまま固まっていた。二人とも同じ顔をしていて、私だけが笑った。
私の番は、それから何日か後だった。夕飯の時、あの子は塩の器を見て、それから私を見た。
「母さん、塩」
言う前に、ほんの少しだけ息を吸っていた。
間違えて出た呼び方ではなかった。あの子は、自分で決めて呼んだのだ。
私は塩を取って、あの子の前へ置いた。手は、しばらく引っ込められなかった。
その夜、洗い物をしながら、少しだけ泣いた。ツナが黙って隣に来て、皿を拭いてくれた。何も聞かなかった。それが、ちょうどよかった。
◇
あの子が大きくなるにつれ、外では何を作っても「英雄の息子」と言われるようになった。
その言葉がどんなふうに刺さるのか、私には分かった。
だから、二人が大きくぶつかった時も驚かなかった。
「なんで何も言ってくれなかったんだよ!」
「君自身が伝えるべきだと思ったんだ」
台所でその声を聞いて、私は目を閉じた。
ああ、まただ。
ツナは相手の答えを奪いたくない。だから代わりに話さない。そこまではいい。でも時々、代わりに話さないことと、隣に立たないことを同じにしてしまう。
「せめて、父さんだけは僕の側にいてくれると思ってた!」
その声が、胸に刺さった。あの子の声なのに、どこかで聞いたことがある気がした。いつかの荷物の日に、言葉にしなかった私の声だった。
扉が閉まる音がした。私は流しの縁をつかんだまま、しばらく動けなかった。
あの子のところへ行きたかった。抱きしめて、あなたは悪くないと言いたかった。ツナのところへ行って、どうしてと問い詰めたかった。
どちらもしなかった。私が間に入って、誰が何を言うべきか決めてしまったら、また同じことになる。
その夜は、一睡もできなかった。
翌朝、ツナが先に台所へ来た。ツナも、眠っていない顔だった。
「……怒ってる?」
「怒ってる」
声が、自分で思ったより低く出た。
「どっちに?」
「ツナに」
「やっぱり」
「でも、私があの子の代わりに怒って終わりにはしないから」
ツナがこちらを見る。
「謝ったら、次は変わったところを見せ続けるしかないでしょ。一回で許してもらおうとしない」
「うん」
「それと」
「何?」
「離れない」
ツナの顔が、少しだけ止まった。
「口を出すなって言われた時は、口を出さなくていい。でも、必要ないって言われるまで、家族までやめないで」
「……うん」
昔、私が怒鳴ったから、ツナは待つことを覚えた。だったら、待ちながら隣にいることも、私が言わなければいけなかった。ずっと、言いそびれていた。
ツナは、それから外で言い続けた。息子の成果は息子のものだと。物作りと設計では、自分が教わる側だと。一度ではなく、何度でも。
ある研究発表の朝、ツナが出かける支度をしていた。
「行くの?」
「聞いた。僕も行っていいかって」
「それで?」
「来てって。ただし、勝手に答えないでって」
「うん」
「あと、変なのがいたら、隣にはいてって」
私は笑った。
「よかったね」
「うん」
「今度は間違えないで」
「はい」
ツナが出ていったあと、一人で少し笑って、それから椅子に座り込んだ。何日もずっと、肩に力が入っていたらしい。
夕方、帰ってきたあの子は、ツナの半歩後ろを歩いていた。私は何も聞かずに、皿を並べた。
◇
息子が自分の工房を持った日、私はツナより先に泣いた。嬉しいなら嬉しいと言う。昔から、そう決めていた。ツナにも言わせた。息子は、二人とも何なんだと困った顔で笑っていた。
工房を持ってからの息子は、ときどき家へ戻ってきては、ツナの意見を聞いた。
「父さん、これどう思う?」
「僕に聞くの?」
「意見は聞く」
「採用するかは?」
「僕が決める」
「はいはい」
「何その返事」
「前にも似たこと言われたなと思って」
「誰に」
「内緒」
私は台所で、聞こえないふりをした。頬が熱かったのは、鍋の湯気のせいにしておいた。
◇
息子が最初に作った生活の道具は、私のためのものではなかった。
父には、重い物を運ぶ小さなゴーレム。母には、立ち上がる時に身体を支える器具。
二人とも口では要らないと言いながら、いつの間にか毎日使っていた。母が器具に手をかけて椅子から立つのを、私は何度も見た。年を取るというのは、こういうことなのだと思った。
自分がそれを使う側になるとは、思っていなかった。
最初は、疲れやすくなっただけだった。そのうち歩くのが遅くなり、一日で終えていた仕事に何日もかかるようになった。階段の途中で、一度立ち止まるようになった。
気づいたのは、私より母の方が先だった。
母は何も言わなかった。ただ、ある晩、黙って私の皿へ芋を足した。子どもの頃と同じように。
それで、分かった。
その夜、寝台の中で、長いこと天井を見ていた。
父の髪は、とうに白い。母も長くは立っていられない。それでも、私の方が速かった。娘の私が、両親を追い越して老いていく。父と母より先に、いなくなるかもしれない。
怖かった。死ぬことより、父と母にそれを見せることが怖かった。変わらないツナの横で、私だけが崩れていくのを見せることが怖かった。
しばらく、誰にも言わなかった。ツナにも。
人のことは言えない。隠すなと何度もツナを叱ってきた私が、同じことをしていた。
何日かして、自分から言った。言ってしまえば、少しだけ楽になった。
ツナの姿は変わらない。息子は大人になった。私だけが、家族の誰よりも早く時間を進んでいた。
しばらくして、息子が私の分の支えを持ってきた。
「使うかどうかは母さんが決めればいい。でも置いとく」
母のものと、少しだけ形が違った。私の腕の長さに合わせてあった。
「似てきたね」
ツナにそう言うと、息子が嫌そうな顔をした。私は笑った。まだ笑えたことに、少しほっとした。
次の日、私はそれを椅子の横へ動かした。使うと決めたのは、私だ。
◇
ツナがまた一人で何かを抱え始めたのは、その頃だった。
家にいない時間が増えた。書斎の明かりが、遅くまで消えなかった。食卓で私と目が合いそうになると、先に逸らした。
気づかないふりはしなかった。できなかった。自分から打ち明けた時の、あの少しだけ楽になった感じを、私はもう知っていたから。
ある夜、居間でツナの前に立った。
「目を見て話して」
若い頃にも、似たようなことを言った。あの時は、ツナの前に屈んで、下から顔を覗き込めた。今はもう、屈むのが少しつらい。だから、立ったまま待った。脚が震えても、座らなかった。
ツナは、なかなか目を上げなかった。
それでも最後には、全部話した。私の時間を延ばせるかもしれない方法があること。危険も、成功する保証がないことも、私が私でなくなるかもしれないことも。
聞いている間、ずっと怒っていた。私の命のことを、私の知らないところで決めようとしていたこと。危ないことを、一人で抱えていたこと。
それなのに、聞き終えた時に残ったのは、怒りではなかった。
この人は、こんなことを、ずっと一人で考えていたのだ。夜中まで明かりをつけて、私と目を合わせないようにしながら。
長いこと黙っていた。
「たぶん、私は断ったと思う」
ツナは辛そうな顔をした。分かっていた答えのはずなのに。
「でもね」
手を取った。ツナの手は、冷たかった。
「あなたと一緒に悩みたかった」
声が、そこで崩れた。
言ってから、ようやく分かった。
いつか、重い荷物を一人で運んだ日。手を出してほしかったわけじゃない。代わりに持ってほしかったわけでもない。隣で、重いねと言ってほしかった。それだけだった。
何十年もかかって、やっとそれを言葉にできた。
自分でやることと、一人でやることは違う。
昔、息子も同じことを叫んでいた。私たちは家族になってから、ずっとそれを覚え直していたのかもしれない。
ツナは、すぐには研究をやめられなかった。私も、全部やめてとは言わなかった。代わりに、そばにいてほしい時はそう言った。ツナは前より、研究を置いて隣へ座るようになった。
◇
海の話は、いつからかどちらもしなくなっていた。
行こうと思えば、行けたのだと思う。それでも私たちは、今日でなくてもいいと言い続けた。一緒に食事をする時間も、散歩をする時間も、いつか海へ行くための時間だと思っていた。
もう、遠出のできる身体ではなかった。
一度だけ、夜中に一人で泣いた。海を見られないことが悲しかったのではない。今日でなくてもいいと言い続けた、あの何年もの間の私たちが、少しだけ憎らしかった。
それでも、朝になって思い直した。ツナと食べた食事も、並んで歩いた道も、海へ行くための時間ではなかった。それ自体が、私の時間だった。
息子が庭へ出るための道具を作り直してくれた日、久しぶりに外へ出た。
日の当たる場所で、次は何を作るのかと聞いた。身体が思うように動かない人でも、自分で向きを変えられる椅子だと、息子は言った。回路のことも重心のことも、半分も分からなかった。それでも最後まで聞いて、できたら見せてと言った。
息子は、何か言われるのを待っている顔をしていた。父さんのことをお願い。きっと、そういう言葉を。
言わなかった。喉まで出かかったのを、飲み込んだ。
英雄の妻、英雄の息子。外でさんざん役目を背負わされてきた家族に、私まで最後に役目を渡したくなかった。父親だから、息子だから。そんな理由で、二人を互いに縛りたくなかった。
だから私は、息子の作るものの話だけをした。息子が帰ったあと、庭に一人で残って、言わなかった言葉をしばらく持て余していた。
息子とツナは似ている。でも、同じではない。
ツナは、大事な相手ほど自分が一歩引くことがある。息子は、大事な相手ほど真正面からぶつかる。言葉にするまで時間はかかっても、最後にはちゃんと言う。私はそこが、ツナより少し上手だと思っていた。
もちろん、本人たちには言わなかった。言ったら、二人とも同じ顔で否定するから。
◇
今日が最後の日だと、たぶん、みんな分かっている。
家族はみんな、そばにいる。
父が、子どもの頃の私がどれほど手のかかる子だったかを話している。読み書きを三日でやめたことも、ツナを怒鳴りつけたことも。声が震えて、何度も途中で止まる。母は私の手を握って、何度も名前を呼ぶ。息子は小さな人形を、黙って枕元へ置く。
ちゃんと聞いているよ、と言いたいのに、声がうまく出ない。
三人が部屋を出て、ツナと私だけが残る。
ツナはまだ、どこかに道がないか探している顔をしている。
「まだ、そんな顔をしてる」
笑ったつもりだった。うまく笑えたかは分からない。
「ごめん」
何について謝っているのか、たぶん本人にも分かっていない。
首を振って、ツナの目元へ指を伸ばそうとした。腕が、思うように上がらない。
「……ツナ、手」
ツナが私の手を取って、自分の目元へ運んでくれる。
「温かいね」
光で色が変わるという海を、この目みたいだと思っていた。とうとう、二人で見には行けなかったけれど。でも、私はこの色を、何千回も見た。
「見ていると、安心する」
ツナは何も返さない。返さなくていい。
私が最後にツナへ願うことは、一つだけだ。
「私のそばで、立ち止まらないで」
私を忘れて、ではない。私がいなくなったら全部終わりにして、でもない。
私といた時間を持ったまま、その先へ行ってほしい。
◇
私がいなくなったあと、二人がどうするのか、考えなかったわけではない。
息子には自分の工房がある。自分の仲間がいて、自分の未来がある。ツナにも、ツナの未来がある。家族だからといって、同じ場所へずっと縛っておく必要はない。
私は、一人で立てる人と一緒にいたかった。息子にも、一人で立てる人になってほしかった。
だからこそ、立てるようになったあとで、それでも隣にいたいと思えるなら、その方がずっと嬉しい。
思えば、この家の食卓は、ずっと誰かを迎えてきた。
ツナは、大怪我をしたところを父と母に助けられて、この食卓を知った。あの子は、古い箱を一つ抱えてやってきた。
誰も、来いとは言わなかった。来るなとも言わなかった。決めるのは本人だと、ただ椅子を空けて待っていた。
それから、誰かが量を間違えたオムレツを作り、誰かが崩れたところから先に食べた。誰かがからかって、誰かが言い返した。誰かが黙って皿に芋を足して、「もう入らない」と言われれば、そこで止めた。
言えば届く。言わなくても、席は空けてある。この家は、そういうことを何年もかけて覚えてきた。
私の椅子は、もうすぐ一つ空く。
本当は、もっと一緒にいたかった。息子の椅子ができるのを見たかった。ツナと海へ行きたかった。父と母より先に行くのは、嫌だった。
それでも、空いたままにしておかなくていい。
同じ食卓に揃わなくなっても、きっと何かあれば、あの子は「父さん」と呼ぶ。ツナは「何?」と返す。父はまた余計なことを言って、母はそれを叱りながら、誰かの皿へ何かを足す。
それでいい。
私たちは、ずいぶん長い時間をかけて家族になった。
血でも役目でもなく、何度も自分で相手を選び直しながら。