【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
変だと思い始めたのは、たぶん私よりかぐやの方が先だった。
ヤチヨと一継さんの間に何かあったことには、気づいていた。露骨に喧嘩しているわけじゃない。普通に話す。ヤチヨが何か言えば一継さんは返すし、一継さんがコーヒーを淹れればヤチヨの分もある。ヤチヨもそれを受け取る。
ただ、二人の間に少しだけ、間が増えた。
昨日の夕方もそうだった。片づけの途中で、一継さんが「ヤチヨ、少しいいかな」と声をかけた。ヤチヨは「あとでね」と笑って、そのままかぐやの方へ行った。あとで、は結局来なかった。
八千年一緒にいた二人の距離なんて、私に正確に測れるはずがない。それでも、毎日のように四人で顔を合わせていれば、いつもと違うことくらいは分かる。
何かあった。でも、二人とも話さない。なら、私から聞くことでもない。
そう思っていた。
だから最初は、一継さんの方の変化も、そのせいだと思っていた。
「彩葉さん、これなんだけど」
差し出された端末を受け取る。
「何です?」
「ヤチヨとかぐやの身体に何かあった時の確認項目。今まで僕が見てたところも、一応まとめておいたから」
「……今までのでも、足りてませんでした?」
「大体はね。ただ、僕しか確認してなかった部分が少しあったから」
画面を開いて、中身を見る。
新しい理論が書かれているわけじゃない。私の研究を勝手に組み直したものでもない。一継さんが補助として受け持っていた部分、つまり魂や因果の側、普通の機器では確かめられない領域を含めて、異常が起きた時にまず何を見るのか。本人がいなければ分からなかったところを、本人がいなくても最低限は判断できる形に直してある。
もちろん、私たちに使えない能力まで使えるようになるわけじゃない。
でも、ここまでは通常の計測で判断できる。ここから先は無理に触らず、一継さんに連絡する。急ぎならこうする。連絡がつかない場合は、どこまで待つ。
そういう線引きが、前よりずっと細かい。
「……ずいぶん整理しましたね」
「曖昧なまま、僕が分かってればいいで残ってたからね」
「それは、助かりますけど」
もう一度、頭から読む。分かりやすい。研究資料として書いたものじゃない。運用のために書かれている。誰が見ても迷わないように。
こういう資料を、私はよく知っている。
研究室から誰かが抜ける時。担当が変わる時。長いあいだ不在になる時。仕事を止めないために作るものだ。
「一継さん」
「うん?」
「これ、急ぎます?」
「できれば」
「何でです?」
一継さんが少しだけ首を傾げた。
「何でって?」
「今まで、この形でやってきたじゃないですか」
「だからこそ、かな」
「どういう意味です?」
「身体も完成したし、一区切りついたでしょう」
一区切り。
その言葉だけが、妙に残った。
「属人化してたところは、減らした方がいいと思って」
「……まあ、それはそうですけど」
理屈は分かる。研究者としては、むしろ正しい。
正しいから、それ以上は何も言えなかった。
◇
同じ日の午後、調整を終えたかぐやが研究室へ戻ってきた。
「終わったー。ねえ、お腹すいた」
「さっき食べたでしょ」
「検査したら減ったの。じっとしてるのって、けっこうお腹すくんだよ」
「そういう仕組みじゃないから」
聞いていない。かぐやはテーブルの上を見回して、置いてあったお菓子の袋を見つけた。
「一個だけね」
一継さんが言った。
「えー、二個じゃだめ?」
「夕飯前だから」
「じゃあ一個半。残りの半分はあとで食べるから」
「どうやって半分残すの」
「彩葉にあげる」
「いらない」
「じゃあイツキ」
「僕を巻き込まないで」
かぐやは不満そうに一つだけ取って、包みを開けながら一継さんの隣に座った。
「イツキ、今日は何してたの?」
「彩葉さんに資料を渡してた」
「何の?」
「二人の身体のこと。今度は、僕が見てた部分」
「ふーん」
お菓子を口に入れる。もぐもぐと噛んで、飲み込んでから、かぐやは言った。
「じゃあ、それ私にも教えて。私の身体のことでしょ。私だって知っときたい」
思わず、手が止まった。一継さんも、一瞬だけ止まった。
それから、笑う。
「そうだね」
端末をもう一つ取り出して、かぐやの前に置いた。
「じゃあ、自分で分かってた方がいいところだけ」
「全部じゃないの?」
「全部は、専門知識からになるから」
「覚えるよ?」
「覚える量じゃないんだよ」
「じゃあ、私が知っといた方がいいとこは全部ね」
「それなら」
そのまま説明が始まった。
違和感があったらどうするか。身体の問題なのか、接続の問題なのか。まず私に伝えること。勝手に何かを試さないこと。どういう時は休めばよくて、どういう時はすぐに確かめた方がいいのか。
かぐやは、意外なくらい真面目に聞いていた。分からないところは聞き返すし、一度分かれば次へ進むのも早い。もともと、そういう子だ。興味を持ったことを覚える速さは、昔から変わらない。
「じゃあ、これが出たら彩葉に言えばいいの?」
「そう」
「こっちは?」
「急がなくていい。続くようなら相談して」
「これは?」
「それは身体の異常じゃなくて、たぶんただの寝不足」
「寝不足って、身体の異常じゃないの?」
「異常ではあるけど、まず寝て」
「なるほど。寝ればいいんだ」
「寝て」
一継さんが笑った。
「これだけ分かってれば、かぐやならもう大丈夫だね」
かぐやの返事が、止まった。ほんの少しだけ。
「……何が?」
「何がって?」
「何が大丈夫なの?」
「自分の状態くらいは、自分である程度分かるでしょう」
「それだけ?」
「うん」
かぐやが一継さんを見る。一継さんも、かぐやを見る。
数秒。
「イツキ、最近それ多くない? 大丈夫ってやつ」
一継さんが黙った。
かぐやは、指を一本ずつ折っていく。
「身体のことも大丈夫。一人で外に出ても大丈夫。何かあったら彩葉に言えば大丈夫。ヤチヨもいるから大丈夫。……この一週間で、何回言ったか数えてたもん」
「……言ったかな」
「言ってる。私、ちゃんと聞いてるよ」
声が、少しだけ低くなった。
「なんで最近、イツキはずっと、私を一人で大丈夫にしようとしてるの?」
私は口を挟まなかった。一継さんの顔を見る。
笑ってはいなかった。
「一人にしようとしてるわけじゃないよ」
「じゃあ何?」
「できることが増えるのは、いいことでしょう」
「それはいいよ。嬉しいし」
「なら――」
「でも、イツキはいらなくなるの?」
一継さんの言葉が止まった。
かぐやは真っ直ぐに見ている。
「私が一人でできるようになったら、イツキはいらないの?」
「そんなことは言ってないよ」
「じゃあ、なんでずっとそういう言い方するの」
「そういう言い方?」
「もう大丈夫、って」
一継さんが、困ったように眉を下げる。
「褒めてるんだよ」
「褒められてるのは分かるよ」
「なら」
「でも、嫌なの」
即答だった。かぐやらしかった。
「自分でできることが増えるのは嬉しいよ。一人で出かけられるし、彩葉がいなくても買い物できるし、イツキがいなくてもご飯は食べられる。……でも、それと、イツキがいなくていいのは違うでしょ」
一継さんは、何も言わなかった。
かぐやが、少しだけ眉を寄せる。
「イツキ、どっか行くの?」
「その予定はないよ」
返事は早かった。
でも、予定はない、という言い方が妙に引っかかった。かぐやも同じだったらしい。
「じゃあ、ずっといる?」
一継さんが止まった。
ほんの一拍。
それだけだったけれど、かぐやは見逃さなかった。
「ほら、今止まった」
「かぐや」
「止まったよ」
「ずっとって言われても――」
「八千年いたんだから、今さらでしょ」
少し離れたところで、誰かが息を呑む気配がした。
振り返ると、入口にヤチヨが立っていた。いつからいたのか分からない。
「ヤチヨ」
かぐやも気づく。
「……ただいま」
一継さんと目が合って、ヤチヨの方がすぐに逸らした。いつもなら一つくらい余計な茶々を入れそうなのに。
やっぱり、何かあった。
「何の話?」
ヤチヨが私たちを見る。かぐやは隠さない。
「イツキが変なの」
「また?」
一継さんが苦笑した。
「またって何」
「昔から変なとこあるでしょう」
ヤチヨは軽く返した。でも、一継さんの方は見ない。
かぐやが続ける。
「最近、私が一人でも大丈夫って、ずっと言うの」
ヤチヨの顔から、少しだけ笑みが消えた。
「……へえ」
「ヤチヨもそう思わない?」
ヤチヨはすぐには答えなかった。私を見て、それから一継さんを見る。
「そうだね。最近、そういうの多いかもね」
短い。一継さんが何か言おうとして、ヤチヨの方が先に歩き出した。
「まあ、今はかぐやの話でしょう」
「ヤチヨは?」
「私はあとでいい」
その言い方だけで、あとで話す気がないことくらいは分かった。
◇
夕方、かぐやとヤチヨが先に帰った。
正確には、かぐやがヤチヨを連れて帰った。「今日はヤチヨと一緒に帰るから」と宣言して、腕を引っ張っていった。ヤチヨは少し驚いた顔をしていたけれど、断らなかった。
残ったのは、私と一継さんだけだった。
私は作業を続けて、一継さんもそれを手伝っていた。いつもなら、何もおかしくない時間だ。
でも、さっきから端末の隅に、一継さんの作った資料が開いたままになっている。
気になる。無視しようとしても、目に入る。
一継さんが手を止めて、立ち上がった。
「じゃあ、今日はこれで」
「一継さん」
「うん?」
「ちょっといいですか」
「もちろん」
一継さんが椅子に戻る。私は端末を一継さんの方へ向けた。
「これ」
「さっきの資料? 何か分かりにくかった?」
「そうじゃないです」
一度、息を吐く。
「どこか行く予定、あります?」
一継さんの表情は、変わらなかった。
「今のところはないよ」
かぐやに返した時と、同じ言い方だった。
「じゃあ、何でこんなもの作ってるんですか」
「言ったでしょう。僕しか分からない部分を減らした方が――」
「それだけじゃないですよね」
一継さんが黙った。
「私、こういう資料、何度も見てます」
「研究室だからね」
「そういう意味じゃないです」
自分の声が少し低くなったのが分かった。
「担当が変わる時とか、長く抜ける時とか。誰かがいなくなっても仕事が止まらないようにするやつです。一継さんが今やってるの、それに見えます」
「考えすぎだよ」
「じゃあ、やめます?」
一継さんが止まった。それで十分だった。
「やめないんですね」
「役に立つものだから」
「一継さん。何考えてるんですか」
「特に何も」
「嘘」
口から、勝手に出ていた。一継さんが少しだけ目を見開く。
「嘘ですよ、それ。何も考えてない人が、十年そのままだったものを急に全部整理したりしません」
「身体が完成したからだよ」
「それも、さっき聞きました」
「なら――」
「一継さんに何かあっても、私たちが困らないようにしてるんですか」
沈黙が落ちた。
少しして、一継さんが答えた。
「それは、悪いことじゃないでしょう」
その言い方。
嫌というほど、覚えがあった。昔の私だ。
自分が倒れても困らないように。迷惑をかけないように。自分でできるところまで全部やって、誰にも頼らずに、大丈夫と言い続ける。
「それ、私がやってた時、一継さん止めましたよね」
一継さんが黙る。
「研究室に泊まり込むたびに迎えに来て、一人で抱え込まないでって。何回言われたか、もう数えてません」
「それとは違うよ」
「何が違うんですか」
「彩葉さんは、自分が無理をすれば全部何とかなると思ってたでしょう」
「一継さんは違うんですか」
「僕は――」
止まって、少し困ったように笑った。
「僕は、自分がいなくても何とかなるようにしてるだけだよ」
背中が、すっと冷えた。
一継さん自身は、たぶん言ってから気づいていない。でも、私は聞いた。
「……今」
「何?」
「いなくても、って言いました?」
一継さんの表情が止まった。
「言葉の綾だよ」
「そうですか」
「そう」
信じられなかった。でも、ここで問い詰めても答えないことも分かっていた。
昔の私がそうだったからだ。
自分の中で「これが一番いい」と決めてしまっている時は、何を言われても理由を後からいくらでも作れる。休まない理由。頼らない理由。一人でやる理由。正しく聞こえる説明なんて、いくらでも出てくる。
「一継さん」
「うん」
「何か決める前に、話してください」
僕は何も、と言いかけた一継さんを、先に遮る。
「何も決めてないなら、それでいいです。でも、もし決めるなら」
一継さんを見る。
「自分一人で決めないでください」
少し、間が空いた。
「……分かった」
答えは、あった。
なのに、どうしてだろう。全然、安心できなかった。
◇
家に帰ると、玄関でかぐやが待っていた。
「おかえり、彩葉。遅かったね」
「仕事してたの」
「イツキと?」
「うん」
「何話したの?」
「取り調べ?」
「確認だよ」
「もっと悪い」
靴を脱ぐ。かぐやは後ろをついてくる。
「ねえ、彩葉。イツキ、やっぱり変だよね」
「……うん」
私が認めると、かぐやの足が止まった。
「彩葉もそう思う?」
「思う」
「どっか行くのかな」
答えられなかった。いつもの調子から、少しずつ勢いが抜けていく。
「……行くの?」
「分からない。予定はないって言ってた」
「私にもそう言った。でも、ずっといるとは言わなかったよね」
よく覚えている。
「ヤチヨは?」
「今日は自分の部屋で寝るって」
「話した?」
「ちょっとだけ」
「何て言ってた?」
かぐやは少し考えた。
「気づいてる、って。それだけ」
「……そっか」
リビングに入る。かぐやもついてくる。
しばらく、かぐやは何も言わなかった。珍しい。
「彩葉」
「何?」
「私さ、イツキがどっか行きたいなら、行くなって言うつもりはないんだよ」
少し意外で、振り返った。かぐやは真面目な顔をしていた。
「イツキがやりたいことなら、ちゃんと聞く。一人でやりたいって言うなら、それも聞く。でも」
眉が寄る。
「私たちがもういらないって、イツキが勝手に決めて行くのは嫌」
それはたぶん、私がさっき一継さんに言いたかったことと同じだった。かぐやの方が、ずっと真っ直ぐだったけれど。
「そうだね」
「止める?」
「まだ」
「なんで?」
「まだ、何もしてないから」
「でも、してからじゃ遅くない?」
返せなかった。その通りかもしれない。
「じゃあ、どうするの」
「見てる。一継さんが何してるか」
私も昔、一人で何とかしようとしていた。だから、もし一継さんが本当に同じことをしているなら、たぶん、まだ何かする。
「何もないなら、それでいい。でも何かあるなら、今度は見逃さない」
「私も見る」
「あんたは露骨すぎるから、普通にしてて」
「なんで。私だって見たいよ」
「一継さん、絶対気づくでしょ」
「じゃあ彩葉が見てて。私はイツキの方を見るから」
「同じこと言ってるからね、それ」
少しだけ笑った。かぐやも笑う。
でも、胸の奥の嫌な感じは、消えなかった。
◇
その夜、三人の生活に必要なものを、僕は一つずつ確かめていた。
彩葉さんへ渡した資料。かぐやに伝えた身体の扱い方。ヤチヨの身体も、今のところ問題はない。
二人とも、現実の側で自分の生活を始められる。
彩葉さんは、最初から僕がいなくても研究を続けられる。当然だ。あれは彼女自身が十年かけて作り上げたものだから。
僕が受け持っていた部分も、今日でかなり整理できた。
残っているものを確かめる。一つ。もう一つ。
僕にしかできないこと。僕がいないと困ること。それを減らしていく。
画面の項目が、一つずつ消えていった。
かぐやの言葉を思い出す。
イツキはいらなくなるの?
そんなことはない、と思う。
ただ、いなくても大丈夫になることと、いらないことは違う。それくらい、僕にも分かっている。
だからこれは、必要かどうかの話じゃない。三人が困らないように。生活が止まらないように。僕が何もしなくても、三人の未来が続くように。
それだけだ。
ずっと前、隣の部屋で熱を出して倒れた彩葉さんを運んだ夜に、記録の端へ一行だけ書いたことがある。
次は、倒れる前に頼ってほしい。
今の彩葉さんは、もうそれができる。かぐやがいる。ヤチヨがいる。頼れる相手が、すぐ隣に二人もいる。
その隣に、僕がいつまでも座っている理由はあるんだろうか。
ヤチヨとは、まだ話せていない。
声をかけると、あの子は笑って、かぐやの方へ行く。避けられているのだと思う。無理に追うことはしなかった。
八千年じゃ、足りなかった?
あの問いの答えは、まだ見つからない。
ただ、一つだけ思った。
僕が近くにいすぎたのかもしれない。帰るたびに、あの子のそばに居座りすぎたのかもしれない。
最後の項目を閉じる。
随分、減った。
あと少し。
あと少しだけ整えれば。
僕がいなくなっても、三人の生活は、止まらない。