【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
あと少し。
そう思ってから、三日が過ぎた。
彩葉さんへ渡すものは、もうほとんど残っていない。研究のうち僕が説明できること。身体に異常が出た時の確認。僕に連絡がつかない場合に、無理をしない線引き。かぐや自身が知っておいた方がいいこと。ヤチヨ自身が知っておいた方がいいこと。
一つずつ、整理した。
僕がいなくなるためだけに要るものじゃない。いつかは必要になるものだった。だから、今やっていること自体は間違っていない。
彩葉さんの声が、頭に浮かぶ。
――自分一人で決めないでください。
分かっている。
けれど、これは三人に決めてもらう話なんだろうか。僕がいるか、いないか。それを三人に委ねること自体が、もう僕の都合なんじゃないか。
僕が残りたいと言えば、三人はきっと拒まない。かぐやはあれほど分かりやすく、四人と言ってくれる。彩葉さんも、僕を生活の外へ追い出そうとはしない。
ヤチヨは。
ヤチヨはたぶん、僕が帰ってくることを疑わない。
八千年。あまりに長く、それを当たり前にしてしまった。
昔から、どこかへ行く時はヤチヨに伝えた。
行ってくる、と。
いつ戻るか分からない時もあったし、すぐに帰る時もあった。何年も経つこともあった。ヤチヨがついてくることもあれば、残ることもあった。残ったヤチヨは、その間も自分の生活をしていた。歌って、人と話して、何かを作って、自分の時間を生きていた。
だから、大丈夫だと思っていた。依存させているわけじゃない。僕がいなくても、ヤチヨはヤチヨの人生を生きられる。
その通りだった。今だって、間違ってはいない。
でも、帰るたびに、ヤチヨはいた。
時代が変わっても。住む場所が変わっても。人の姿を失っても。月見ヤチヨと名乗るようになっても。僕が帰れば、そこにいた。
――明日もいる?
――いるよ。
ただの確認だった。僕たちにとっては、それくらい普通のことだった。
普通になってしまっていた。僕が帰ることも、僕がそこにいることも。
八千年、僕はいつも同じことを問うてきた。
今、この瞬間。僕を求めている存在はいるか。
求められる場所へ行き、用が済めば帰る。そうやって、気の遠くなるような時間を過ごしてきた。助けが要る誰かがいる限り、僕には行き先があった。
今は、その問いに浮かぶ顔がない。
彩葉さんは研究をやり遂げた。かぐやは自分の足で立った。ヤチヨは、自分の手で触れられるようになった。誰も、僕の助けを待っていない。
それは、喜ぶべきことのはずだった。
かぐやは、明日までの宿題だと言った。
僕が何をしたいのか。
彩葉さんは十年かけて、自分の選んだ未来を形にした。
ヤチヨは、八千年で僕が何をしたかったのかと聞いた。
三人とも、答えを持っている。自分が何をしたいのかを知っていて、それを口にできる。
僕だけが、まだ答えられない。
答えられないまま隣に座っていることが、三人の何かを塞いでいる気がした。僕がいれば、ヤチヨは僕が帰ってくる未来を前提にする。かぐやは僕のいる未来を当然のものにする。彩葉さんは、僕がいる限り僕を頼ってくれる。
もし、僕がいなかったら。
三人はもっと違う何かを、選べるんじゃないか。
思い出したのは、ずっと昔のやりとりだった。
工房を持った息子が、僕に言った。
――父さんがいなくても生きていける。
それから、いってらっしゃい、と送り出してくれた。戻れるか分からないと言った僕に、それでも、と。
あの子は、僕がいなくても生きていけた。工房で、仲間と、自分の名前で、続きを作り続けた。
だから、大丈夫だ。
僕が離れても、人は自分の足で歩いていける。あの子が、それを見せてくれた。
そこまで考えて、ようやく気づいた。
僕は、怖いんだ。
三人のため。ヤチヨのため。かぐやのため。彩葉さんのため。理由ならいくらでも並べられる。全部、本当だ。
でも、それだけじゃない。
僕が残りたいと言って、いつか「もういなくてもいい」と言われるのが、怖い。
必要とされているうちは、そばにいられる。誰かが困っていれば。僕にできることがあれば。理由がある。
でも、何もなくなったあと。ただ一緒にいたいから、それだけで残ることを、僕は知らない。
笑ってしまった。
「……今さらか」
八千年も生きて、今さら、こんな簡単なことが怖いらしい。
だったら、なおさら今だと思った。
ヤチヨには身体がある。かぐやにも身体がある。彩葉さんは、自分の道を作った。三人はもう、僕がいなくても一緒にいられる。僕がいなくなっても、誰か一人が取り残されるわけじゃない。互いに手を伸ばせる。
今なら、離れられる。
これは逃げなんだろうか。たぶん、少しくらいは。
それでも、僕がいるせいで選べなかったものがあるなら。僕がいなくなって、初めて見える未来があるなら。
それはきっと……。
◇
その日の夕方、四人で夕食をとった。
特別なことは何もしなかった。今日は僕が作って、かぐやが横から何度も鍋を覗き込んできた。
「何作ってるの?」
「魚」
「この前も魚じゃなかった?」
「一週間前だよ」
「一週間前なら最近じゃん」
「かぐやの最近は、範囲が広いね」
「そうかな。……でも私、お肉が食べたいな」
「明日ね」
「ほんと? 約束だよ」
言ってから、胸が少しだけ痛んだ。
明日、僕はいないかもしれない。
「……うん」
かぐやは気づかなかった。
「どうせなら牛がいいなあ」
「高い」
「じゃあ豚。豚も好き」
「現実的になった」
「鶏でもいいよ、唐揚げにしてくれるなら」
「どんどん下がってる」
「……やっぱり全部入れたい」
「上がった」
彩葉さんが、呆れたように笑った。
「結局それ?」
「全部入ってたら最強でしょ」
「何が最強なのよ」
ヤチヨも笑った。
「鍋にしたら、全部入れられるんじゃない?」
「それいい。肉鍋にしよう」
「ヤチヨ、余計なこと言わないで」
「えぇ~、いいじゃん。豪華肉鍋」
「もう別の料理になってるでしょ」
普通だった。いつもの四人だった。
だから、このまま続けたくなった。明日も。その次も。来週も。何年先も。
その気持ちを、黙って飲み込んだ。
いつもは作りすぎる。四人分と言いながら、たいてい一人分か二人分は余る。
今夜は、四人分ちょうどにした。
鍋は空になって、洗い物の山だけが残った。
◇
食後、かぐやは買ったばかりの服を二着持ってきて、明日の配信でどっちを着るかヤチヨに聞いていた。彩葉さんは横で仕事の続きをしている。僕は洗い物をしていた。
食器を拭きながら、三人を見る。
かぐやが二着を持ち上げた。
「ヤチヨ、どっちがいいと思う?」
「右」
「え、早くない?」
「一継が左を選んだんでしょ。なら右」
「なんで逆にするの」
「両方着ればいいじゃん」
「話そらした」
ヤチヨが笑った。
その笑い声を、長く聞いてきた。これからも、聞きたかった。
でも、僕がいなくても、この子はきっと笑う。それでいい。
彩葉さんが、ふと顔を上げた。目が合う。
「一継さん」
「うん?」
「さっきから、何です?」
「何が?」
「こっち見てますよね」
「見てた?」
「見てました」
鋭いな。
「楽しそうだなと思って」
「……そうですか」
少しだけ疑うような目をして、彩葉さんはそれ以上は何も言わなかった。僕も、言わなかった。
◇
夜も遅くなって、片づけが終わった。三人が帰り支度を始める。
今夜は珍しく、三人とも僕の部屋にいた。かぐやと彩葉さんは同じ階の自分たちの部屋へ帰る。ヤチヨも、最近はそちらで過ごすことが多い。
「イツキ」
かぐやが靴を履きながら振り返った。
「明日、お肉だからね。忘れないでよ」
「まだ言ってる」
「約束したもん」
「……うん」
少しだけ、間が空いた。
「覚えておくよ」
「絶対だよ」
彩葉さんが「行くよ」と呼ぶ。かぐやは慌てて外へ出て、彩葉さんがその後を追った。
ヤチヨだけが、残った。
「一継」
「うん」
ヤチヨは玄関の手前で立ち止まったまま、靴を履こうとしなかった。
「この前は、ごめん」
僕の方を見ずに、言った。
「八つ当たりだった。一継が自分のこと言うようになったの、ほんとは嬉しいんだよ。嬉しいのに、変なこと言った」
「気にしてないよ」
「気にしてよ、ちょっとは」
「どっちなの」
「……ちょっとだけ気にして、あとは忘れて」
ヤチヨは、ようやくこちらを見て笑った。
「あの質問の答え、まだ考えてるよ」
「いいよ、もう。忘れてって言ったでしょ」
「忘れないよ」
「知ってる。だから、ずるいんだって」
それで終わった。何日も続いていた間が、すっと埋まった気がした。
ヤチヨが靴を履く。それから、思い出したように聞いた。
「明日、何かある?」
心臓が、一度だけ大きく鳴った。顔には出さない。
「少し出てくるよ」
「どこに?」
「ちょっと遠く」
「いつ帰る?」
聞かれると思っていた。八千年、何度もされてきた質問だ。
「……分からないかな」
ヤチヨの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「そっか」
それだけ。怒らない。聞き返さない。止めない。
「行かなきゃいけないの?」
答えに詰まった。
「……僕が、行きたいんだ」
嘘だった。
いや、全部が嘘ではない。一人になることを選んだのは、僕自身だ。だから、行きたい。そういう意味でなら。
ヤチヨは僕を見ていた。八千年一緒にいた人の目だった。何かを言われる気がした。
でも、ヤチヨは視線を外した。
「分かった。……行ってらっしゃい」
胸が、痛んだ。
何千回も聞いた言葉だった。いつもなら、帰ることが前提の言葉だった。
「行ってきます」
そう返した。
ヤチヨが出ていく。扉が閉まった。
◇
一人になった部屋は、静かだった。
必要なものは、もう整理してある。三人が困るものは、残していない。連絡の手段も、生活も、研究も、僕がいなくても続く。
最初は、きっと怒る。かぐやは特に。彩葉さんも。ヤチヨは、たぶん一番怒る。
それでも、時間が経てば三人だけの生活になる。僕がいないことが普通になる。僕の帰りを待たない人生になる。
それでいい。
いや、それがいい。
机の上に、買ったばかりの手帳があった。
まだ、何も書いていない。
開いて、最初のページにペンを置いた。かぐやに出された宿題のことを、思い出したからだ。
明日したいこと。
そう書いて、手が止まった。
その下に続けようとして、何も出てこなかった。肉鍋。それはかぐやの希望だ。温泉。それはヤチヨの。研究の整理。それは彩葉さんの。
僕のものが、一つもない。
しばらくペンを持ったまま、白い行を見ていた。結局、何も書かずに手帳を閉じて、鞄へ入れた。
照明を落とす。
「……おやすみ」
誰もいない部屋へ、言った。
◇
翌朝、荷物はほとんど持たなかった。必要なものだけ。
部屋は、そのままにした。帰るつもりがあるように見えるくらい、何も変えなかった。
ソファの肘掛けに、読みかけの本が伏せてあった。
少しだけ迷ってから、それを閉じて、棚へ戻した。
洗い物は、昨夜のうちに全部片づけてある。流しには、皿の一枚も残っていない。
能力を使えば、どこへでも一瞬で行ける。けれど、今日は自分の足で行くことにした。三人の様子を見ることも、しないと決めた。見れば、きっと帰りたくなる。
扉へ手をかける。
昨夜の声が、耳の奥に蘇った。
――行ってらっしゃい。
目を閉じる。
「……行ってきます」
小さく、答えた。
それから、誰にも聞こえないところで、最後に一度だけ。
「さようなら」
扉を、閉めた。