【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
最初の一日は、何も思わなかった。
一継がいない。それだけなら、珍しいことじゃない。
昨日、「少し出てくるよ」と言っていた。いつ帰るかは分からないとも。だから朝起きて、一継の部屋の明かりが消えていても、気にしなかった。
昔から、一継は時々一人になりたがる。どこかへ行って、しばらくすると少しだけ軽い顔で戻ってくる。そういう時は、何も聞かずに待つのが一番いい。八千年かけて、私はそれを覚えた。
かぐやは、気にしていた。
「イツキ、まだ帰ってきてないね」
「そうだね」
「連絡もないよ」
「そうだね」
「ヤチヨ、気にならないの?」
「なるけど、まだ一日でしょう」
「一日だよ?」
「一継、一日いないことなんて、いっぱいあったよ」
「八千年基準で言わないでよ」
「便利なんだけどなあ、この基準」
軽く返した。かぐやは不満そうだったけれど、それ以上は言わなかった。
私だって、気にしていないわけじゃない。
あの夜の一継は、少し変だった。どこへ行くのか、いつ帰るのか、聞いても答えなかった。
それでも私は、「行ってらっしゃい」と言った。
止めなかった。
謝ったばかりだったからだ。ずっと胸に引っかかっていたことをやっと口にして、許してもらって、その直後に「行かないで」なんて言ったら、また一継を縛ってしまう気がした。八千年、私が一継の人生を縛っていたのかもしれない。そんなことを考えた後だったから、なおさら。
一継が自分からどこかへ行きたいと言ったなら、止める資格なんて、私にはない。
二日目も、連絡はなかった。
こっちから送ればいい。そう思って、端末を開いた。
『ちゃんと寝てる?』
打って、消す。
『いつ頃帰る?』
打って、消す。
『肉鍋、かぐやが本気で作る気でいるよ』
これも消した。
何をしているんだろう、私は。送ればいい。重くない。いつも通りだ。一継だって、いつもなら返す。忙しければ、あとで返す。それだけのこと。
分かっているのに、送信が押せなかった。
もし、返事がなかったら。
そんなことを考えている自分に気づいて、端末を伏せた。
三日目、かぐやが送った。
「既読、つかない」
「そう」
「電話も出ないよ」
「そう」
「イツキ、何してるんだろ」
かぐやの声が、苛立っていた。
彩葉は横で、端末を見ている。
「研究室にも、何も来てない」
「そっか」
彩葉も、気にしている。
それでも、まだ三日だ。私はそう思おうとした。何年も帰らなかったことだってある。人間の感覚なら長すぎる時間も、私たちには、そういう時期があった。
でも、今と昔は違う。
今は毎日、顔を合わせていた。同じ建物の、同じ階。一継が帰れば、扉一枚向こうにいる。朝になれば、廊下で会う。一緒にご飯を食べる。
そういう生活に、なっていた。
だから、三日は長かった。
四日目、一継の部屋へ行った。
合鍵はある。ずっと前から持っていた。使うことなんてほとんどなかったけれど、今の生活になってからは、何かあった時のために。
扉を開ける。
「一継?」
返事はない。分かっていた。靴もない。
中へ入る。
何も変わっていなかった。ソファ。テーブル。台所。かぐやが勝手に置いていった小物。私が忘れていった充電器。彩葉が持ってきた資料の束。全部ある。
一継が帰ってくる部屋だ。そう見える。
だから、余計に怖かった。
ソファの肘掛けを見た。
何もない。
本棚に目をやると、あの文庫本が、ほかの本と同じ顔をして並んでいた。背を揃えて、きちんと。
台所へ行く。流しには皿の一枚もない。水切りかごも空で、冷蔵庫を開けても、作り置きの小鉢一つ入っていなかった。
机の上には、メモ一枚、残っていない。
「……違う」
声が出た。
もう一度、部屋を見回す。机。棚。収納。生活用品。どれも残っている。服が少し減っているくらいで、旅行へ出た時と大して変わらない。
でも、八千年、見てきた。
一継が帰るつもりで出かける時には、必ず何かが途中になっている。読みかけの本が伏せてある。書きかけのメモが机に残っている。洗い物が一枚、流しに置いたままになっている。本人も気づいていない、帰ってきてから続きをやるための、小さな置き忘れ。
それが、どこにもない。
全部、終わっている。
帰れないんじゃない。
帰らないんだ。
そう思った瞬間、足から力が抜けた。ベッドの端に座り込む。呼吸が浅くなる。
こんなのは、久しぶりだった。身体があるというのは本当に面倒だ。怖いと思えば、心臓まで勝手に速くなる。
「……何してんの」
誰もいない部屋へ言う。
「一継」
返事はない。当たり前だ。それでも、呼んだ。
「何してんの」
もう一度。声が震えた。
怒っている。たぶん。悲しいより先に、ものすごく腹が立った。
頭の中で、あの日の休憩室がよみがえる。
八千年じゃ、足りなかった?
……あんなことを言ったから。
一継に、自分が私の人生を縛っていたのかもしれないなんて、考えさせた?
まさか、と思う。いくら一継でも、そこまで馬鹿じゃないでしょう。
でも、最近の一継の言葉が、次々に浮かんでくる。
もう大丈夫だね。三人なら。僕がいなくても。
「私を、自由にするとか……そんなこと……」
笑いが漏れた。全然、面白くない。
「……ふざけんな」
八千年で一番低い声が出た気がした。
◆
五日目の朝、私は朝から機嫌が悪かった。
「かぐや、パン焦げるよ」
「分かってる」
「分かってる人のフライパンじゃないでしょ、それ」
「分かってるってば」
彩葉が横から手を伸ばして、火を弱めた。
「これ以上焦がすなら代わるよ」
「やる。私がやるの」
「じゃあ、ちゃんと火を見て」
「見てるよ」
「私の顔を見てるじゃない」
むかつく。
パンをお皿に移す。端っこが黒い。食べられる。たぶん。
イツキなら何て言うかな、と思った。焦げたとこだけ削れば食べられるよ、とか。絶対言う。
むかつく。
「……帰ってきたら、焦げたやつ全部イツキに食べさせる」
「先に焦がさない練習した方がよくない?」
「じゃあもっと焦がす」
「目的変わってるから」
彩葉がため息をついた。
ヤチヨはいない。朝早くから、またイツキの部屋へ行っている。
昨日から、ヤチヨの様子がおかしい。ううん、もっと前から。イツキと何かあってから、ずっと。でも聞いても「大丈夫」しか言わなかった。
大丈夫じゃないくせに。
最近、みんな大丈夫って言いすぎだと思う。イツキも、ヤチヨも、彩葉だってたまに言う。全然大丈夫じゃない顔で。
玄関の開く音がした。
「ヤチヨ」
すぐに行く。顔を見た瞬間に分かった。何かあった。
「イツキ、いた?」
「いない」
「部屋は? どうだった?」
「そのまま」
「じゃあ、帰ってくるよね?」
ヤチヨが黙った。
「ヤチヨ?」
「……かぐや。彩葉もいる?」
「いるよ」
リビングへ戻る。彩葉もこっちを見た。
ヤチヨが椅子に座る。私も向かいに座った。彩葉は立ったまま。
「何か分かった?」
彩葉が聞く。ヤチヨは、少しだけ息を吐いた。
「一継、帰るつもりないと思う」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……何それ」
「私の勘」
「勘って」
「八千年分の」
「意味分かんないよ」
「かぐや」
「帰るつもりないって、どういうこと?」
声が大きくなった。
「何それ。そんなの、聞いてない」
「私にも、分からないんだよ」
「じゃあ電話する」
「もうしてるでしょう」
「もっとする。それで出なかったら、探しに行く」
立ち上がる。
「今すぐ」
「待って」
彩葉が止めた。
「なんで止めるの」
「場所、分かってないでしょ」
「探せば分かるよ」
「どうやって?」
「イツキが行きそうなところ」
「どこ?」
言葉が、止まった。
分からない。イツキがどこへ行ったのか。何をしたいのか。何も。
「……探すの」
「だから――」
「待ってたら、帰ってくるの?」
彩葉が止まった。自分の声が震えているのが、自分でも分かった。
「イツキ、帰ってこないんでしょ?」
ヤチヨを見る。
「ヤチヨがそう言ったじゃん」
「うん」
「じゃあ、なんで座ってるの」
ヤチヨの顔が、動かない。
「なんで、そんなに普通なの」
「かぐや」
彩葉が止めようとする。でも、止まらなかった。
「八千年もイツキといたんでしょ。帰ってこないって分かったなら、なんでそんなに平気なの」
言った瞬間、まずい、と思った。でも、遅かった。
部屋が静かになった。
ヤチヨが私を見る。怒っている顔じゃなかった。その方が、怖かった。
「……平気なわけ、ないでしょ」
小さい声だった。いつもの言葉遊びも、何もない。
「八千年だよ。一継が出ていくのを、何回見たと思ってるの」
ヤチヨの指が、膝の上で握られる。
「帰ってくるのも、何回見たと思ってるの」
声は、静かなままだった。
「だから、分かるんだよ。今回は違う。帰れないんじゃない。一継が、帰らないって決めてる」
ヤチヨが、一度だけ目を閉じた。
「分かるから……分かっちゃうから、どうしたらいいか分からなかったんだよ」
そこで初めて、ヤチヨの顔が歪んだ。
私は、何も言えなくなった。
「……ごめん」
声が小さくなる。ヤチヨは首を振った。
「いいよ」
「でも」
「かぐやも、怖いんでしょう」
「……うん」
「私も」
ヤチヨが、怖いって言った。八千年も生きてるヤチヨが、私と同じように。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……ねえ」
口を開いたのは、私だった。
「私が、宿題なんか出したからかな」
「宿題?」
「ヤチヨが起きた日。イツキに、明日何したいか考えてきてって言ったの。片づけ以外でって」
イツキ、困った顔してた。考えておくよって言ったのに、その次の日も、その次の日も、答えてくれなかった。
「答えられなかったから、いなくなったのかなって」
「かぐや」
「だって、他に思いつかないんだもん」
ヤチヨが、少しだけ目を見開いた。
「……私も、同じこと考えてた」
「え?」
「一継と喧嘩したの。八千年で、一継が自分でしたかったことは何だったのって。答えられなかった一継に、足りなかったのかって、聞いた」
知らなかった。ヤチヨとイツキの間にあったのは、それだったんだ。
「だから、私のせいかもしれないって」
ヤチヨはそう言って、笑おうとして、やめた。
◆
一継さんの端末から、私がアクセスできる範囲を確かめた。
もちろん、勝手に見ていいものばかりじゃない。だから研究に関わるもの、共有していたデータ、私に渡された資料。そこだけを見る。
昨日までは、妙に整理されている、くらいにしか見えなかった。
今は違う。はっきり見える。
終わらせている。引き継げるようにしている。自分しか分からなかった箇所を消している。困った時の問い合わせ先まで、用意している。
一継さんがいない場合。その条件のところだけが、異様に丁寧だった。
ファイルの履歴を遡る。いくつもの版が並んでいた。何度も書き直して、項目を足して、削って。
一番古い版の日付で、指が止まった。
「……起動した日だ」
声が出た。かぐやとヤチヨが、こっちを見る。
「何が?」
「この資料の、一番最初の版。作られたのが、ヤチヨが起きた日の夜」
端末を二人に向ける。
「一継さん、あの日の夜から、いなくなる準備を始めてた」
ヤチヨが、画面を見つめたまま動かなかった。
「……私と喧嘩する、前」
「うん。何日も前」
「かぐやの宿題より、後?」
かぐやが身を乗り出す。
「同じ夜。……たぶん、宿題を出したすぐ後」
かぐやが唇を噛んだ。ヤチヨは、しばらく黙っていた。
「私のせいじゃ、なかったんだ」
安心した声じゃなかった。
「なら、もっと最悪じゃん。誰にも言わないで、最初から一人で決めてたってことでしょ」
その通りだった。
――僕に何かあっても、困らない方がいいでしょう。
――僕は、自分がいなくても何とかなるようにしてるだけだよ。
あの時、聞いていた。本人の口から。
それでも私は、その場で止められなかった。
「彩葉?」
かぐやの声。
「私たち、一継さんに頼りすぎたのかもしれない」
二人が黙った。言葉にしたら、一気に形になった。
「研究で分からないことがあれば聞いた。危ない時も頼った。かぐやのことも、ヤチヨのことも。一継さんなら何とかしてくれるって、何回思ったか分からない」
喉が詰まる。
「ずっと頼って、身体が完成して、それで……もう自分の役目はないって、思わせたんじゃないかな」
「違う」
かぐやがすぐに言った。
「でも」
「違うよ。イツキが勝手にそう思っただけでしょ」
「勝手にって」
「だって私、イツキがいらないなんて一回も言ってない。彩葉も言ってないでしょ」
「言ってないよ」
「じゃあ違う」
「でも、本人がそう思ったなら――」
「なんで、イツキが思ったことが本当になるの」
言葉に詰まった。
かぐやは怒っていた。私に。一継さんに。たぶん、全部に。
「イツキ、私に自分で決めろって言ったよ。彩葉にも言ってたじゃん。ヤチヨにもそうでしょ?」
ヤチヨは黙って聞いている。
「なのに、自分だけ勝手に、私たちはイツキがいなくても平気って決めるの、おかしいよ」
分かる。分かるけど。
「それでも、私たちがそう思わせた可能性はあるでしょ」
「彩葉」
今度は、ヤチヨだった。
「違うよ」
静かで、でも、はっきりしていた。
「頼られるのが嫌なら、一継は八千年も帰ってこない」
何も言えなくなる。
「頼られて嫌なら、とっくにそう言ってる。一継だよ?」
ほんの少しだけ、いつものヤチヨみたいに眉を上げた。
「あの人、自分にできることを頼まれたら、なんだかんだでやるでしょう」
そうだ。嫌というほど知っている。
「でも、それと自分の価値を、同じにしちゃったんだと思う」
ヤチヨが続ける。
「役に立つから、いる。必要だから、帰る。……それしか、理由にできなくなったんだよ」
胸が痛かった。
それなら、昔の私がやっていたことより、もっと深い。
一継さんは、役に立たなくなった自分を、ここに置いていいと思えなかったんだ。
「じゃあ」
かぐやが言った。
「なおさら探そう。ね、ヤチヨ」
ヤチヨは、すぐには答えなかった。
「ヤチヨ」
「……うん」
小さく。でも、今度は迷っていなかった。
「探そう」
私は端末を閉じた。
「手がかり、集める」
「今から?」
「今から」
かぐやが立ち上がる。
「私、イツキの部屋をもう一回見てくる」
「一人で勝手に全部動かさないでよ」
「動かさないよ」
「そう言う人ほど危ないんだけど」
「じゃあ彩葉も来ればいいでしょ」
「行くよ」
ヤチヨも立ち上がった。かぐやが振り返る。
「ヤチヨも?」
「行く」
「うん」
三人で玄関へ向かう。靴を履いて、扉を開ける。
廊下の少し先に、一継さんの部屋がある。いつもなら、あの扉の向こうにいる。
「一継」
ヤチヨが小さく名前を呼んだ。返事はない。
でも、今度はそこで止まらなかった。
「八千年、ずっと帰ってきたんだよ」
かぐやがヤチヨを見る。私も。
ヤチヨは一継さんの部屋を見たまま、続けた。
「だったら」
ほんの少しだけ、笑った。泣きそうな顔で。
「一回くらい、私が迎えに行ってもいいでしょ」
扉を、開けた。