【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
最初に任せたのは買い物へ出る間だけだった。
「外には連れて行かないでください」
「うん」
「通販で勝手に何か買うのもなしです」
「わかった」
「それと……抱く時は、できるだけ座ったままで」
「座ったまま、だね」
藤原さんは一つ頷くたびに律儀に復唱した。それでも私は、毛布ごと差し出した手をなかなか引っ込められなかった。藤原さんの腕へ重みが移っても、指先だけがまだ小さな背中に残っている。
離してしまえば、責任まで一緒に渡してしまう気がした。
でも、買い物へ行くと決めたのは私だ。一本ずつ指を離し、最後にもう一度だけ首元を確かめてから玄関を出た。
必要なものを抱えて戻ると藤原さんはソファの端で背筋を伸ばしたまま固まっていた。腕の中では赤ちゃんが眠っている。お茶のグラスとスマホはローテーブルの手の届かない端に置き去りだった。
「……おかえり」
「何してるんですか」
「寝かせようとすると起きるんだ」
小声の報告は真剣そのものだった。下ろそうとするたびに泣かれては抱き直し、そのまま動けなくなったらしい。たぶん、かなり前から。
少しだけ、ほっとした。
この人にも分からないことはあるのだ。私より器用に何でもこなせるわけじゃない。
もっとも私が戻ったところで事態が好転したわけでもなかった。おむつの前後を確かめ、肌着の留め具を一つずつ掛け違える。ようやく眠ったと思って寝かせれば、その途端にまた泣き出す。何かあるたびに抱く人を交代して、初めのうちは受け渡すだけで四本の腕が絡まりそうになった。それも何度目かにはどこを支えればいいかくらいは分かるようになっていた。
淹れてもらったお茶は気づけばすっかりぬるくなっていた。二人とも飲む暇がなかったのだから当然だ。
結局その日、赤ちゃんがいちばん落ち着いたのは玄関脇の水槽のそばだった。水音のせいなのかは分からない。分からないなりに、それだけは覚えておくことにした。
翌朝、私はまた赤ちゃんを抱いて階段を上がった。
昨日の続きだ。新しく頼りに来たわけじゃない。自分にそう言い聞かせて、今度は昨日より短い説明で赤ちゃんを渡した。
最初は、自分の部屋で朝食を取る間だけ。
次は、洗い物を済ませる間だけ。
その次は、教科書を持って戻り、赤ちゃんのそばで予習をする間だけ。
一度に任せるのは、いつも一つだった。
昨日と違ったのは藤原さんの方からも聞いてくるようになったことだ。
「さっきはどう抱いてた?」
「眠る前はどんな声だった?」
「泣き始めたのはミルクの前? 後?」
正解なんて私にも分からない。それでも一晩分、私の方が長くこの子といた。その分だけ答えられることがあった。
昼過ぎ、ミルクでもおむつでもないのに泣き止まない時間があった。揺らしても水槽の前へ連れて行ってもだめで、二人で顔を見合わせるしかない。途方に暮れて何気なく歌を口ずさむと、泣き声が少しずつ細くなっていった。
「……今の、もう一回」
「真顔で頼まないでください」
藤原さんは理由を決めつけなかった。ただ、手元のノートに書き足した。ミルクの時刻。おむつを替えた時刻。眠った時刻。水音と歌には少し反応。
覗き込んだノートはもう三ページ目だった。
「多すぎます。慌ててる時にこんなの読めません」
「……どれを残せばいい?」
私が丸をつけた項目だけを残して、藤原さんは文句一つ言わずに次のページを書き始めた。
二日目の夕方には、赤ちゃんを渡すたびに注意事項を並べることもなくなっていた。私が手を伸ばせば藤原さんが赤ちゃんを渡し、藤原さんが困った顔をすれば私が受け取る。
一つだけ。
その言葉は、いつの間にか一度きりのものではなくなっていた。
一度に一つずつ、任せるものを自分で選ぶ。
まだ、それだけだ。
三日目になると遠慮も同じ確認の繰り返しも減っていた。私がミルクを作りに立てば藤原さんが様子を見る。泣き出せば水槽のそばへ連れて行くか、私が歌ってみる。予想外のことはなくならない。ただ、起きるたびに二人で立て直せるようにはなっていた。
余裕が生まれると、考えないようにしていたことが頭に浮かぶ。
明日で連休が明ける。私には学校があって、藤原さんには仕事がある。その間、この子をどうするのか。
考えなければならないことは山ほどある。それでもこれだけは今日のうちに決めなければならなかった。
だから、切り出したのは私だった。
「藤原さん。お仕事って、ほとんど家でしてるんですよね」
「そうだね。しばらく出社の予定もないよ」
「……私が学校に行っている間だけ、この子をお願いできませんか。朝と夜はこれまでどおり私が見ます」
言い終えるまで、毛布の端を握っていた。
「わかった。日中は任せて」
藤原さんはあっさり頷いた。あの夜みたいな切羽詰まった様子はどこにもない。最後まで落ち着いた顔をしていたのが、少しだけ気にかかった。
でも、それより。
私が考えて。
私が選んで。
私が決めた。
「頼むって決めたのは私です。だから、何かあったら全部言ってください」
「うん。そうするよ」
この人に任せると決めたのは私だ。その判断からは逃げない。
だから、これは初日から変わらない。
一つだけ、あなたに任せます。
一つだけです。
◆
人生で初めての赤ちゃんのお世話。その初日、僕は無力だった。
抱き上げたことならある。子どもを育てたこともある。けれど、乳児の世話をした経験はとんとなかった。
遠く離れた場所へ移ることはできる。望む未来へ続く道を感じ取ることもできる。それなのに、腕の中の子がなぜ泣いているのかは分からなかった。仮に分かったとしても、それだけで泣き止ませられるとは限らない。昨夜は声に思念を重ねれば届いたものが、今日は少しも通じなかった。
道が見えることと、目の前の相手を理解できることは別だ。泣き声が一段大きくなるたび、長く生きた時間も蓄えた知識も、今この瞬間の答えにはならないと思い知らされた。
任されたのは彩葉さんが帰ってくるまでの間だけだ。それすらまともにこなせない。
この上、失敗を取り繕うために言いつけまで破れば、彩葉さんが二度と僕を頼らなくなっても仕方がない。任された範囲さえ守れない相手に、次を預けられるはずがない。
だから、ようやく寝息を立てたこの子をどうしても下ろせなかった。
彩葉さんが帰ってきたのは、それからしばらく経った頃だ。両手の荷物を床へ下ろすなり、大きく肩を落とす。汗に濡れた前髪を見る限り、このあとも世話を続けられる余力が残っているとは思えなかった。
僕が行っていれば、あんなに汗をかかせずに済んだ。通販を使えばもっと楽ができた。
他者の選択は尊重すると決めている。それでも、こういう時はいつもひどくもどかしい。
だから、せめて任されたことだけは失敗なく果たしたかった。
けれど、失敗しないことこそが責任だと、僕はまた思い込んでいたらしい。
彩葉さんも何度も失敗していた。不得手だからではない。僕より多くこの子に触れ、多く判断し、多く試していたからだ。おむつの当て方が悪ければやり直し、ミルクの準備に手間取れば説明をもう一度確かめる。そのたびに困った顔はしても、手は止めなかった。
失敗したら、やり直せばいい。そんな当たり前のことを淡々と積み重ねて、今必要なことを一つずつ片付けていく。
助けると決めて手を差し伸べた。けれど、助けるとは失敗そのものを取り除くことではない。分かっていたはずのことを、彩葉さんは目の前でもう一度示していた。
彩葉さんが失敗しても、自分でやり直せること。その間、僕が隣にいること。
それだけでいいのかもしれない。
二日目からは僕の方から彩葉さんに尋ねた。この子のことは彩葉さんの方が一晩分よく知っている。分からないことは知っている人に聞けばいい。僕一人の記録では足りないものも、二人で残せば次に生かせる。
細かすぎると言われた記録は書き直した。泣き始めた時の様子と、泣き止ませるために試したことだけを残す。ミルクの時刻とおむつの交換は、ひと目で分かるようホワイトボードへ移した。
ホワイトボードには僕の字と彩葉さんの書き足しが混ざっていった。整ってはいない。それでも、どちらか一人の記憶より、二人が次に動くための目印としてはずっと役に立った。
赤ちゃんを渡す時も、おむつを替える時も、ミルクを作る時も、交わす言葉は段々減っていった。注意や心配がそれに合わせて減っていくのは、僕が少しは役に立てていて、信頼を預けてもらえているからだと思えた。
それが嬉しかった。
三日目の夕方、彩葉さんは確かめるようにいくつも質問を重ねた。僕の仕事のこと。家にいる時間のこと。この子が昼にどれくらい眠るか。
明日からの案なら僕の中にもいくつかあった。けれど口には出さなかった。どこまで任せるのかを決めるのは、今回も彩葉さんであるべきだと思えたからだ。
彩葉さんは明日からもこの子と生きていく方法を自分で探そうとしている。
なら、僕が先に答えを決める必要はない。
そう分かっていたはずなのに、守りたい相手を前にすると、僕はすぐ先回りしようとする。
彩葉さんは責任を手放したのではない。あの夜はあれほど一人で背負おうとしていたのに、今は自分で考えて、自分だけでは守れない時間を僕へ託そうとしている。
僕も、同じなのかもしれない。
ヤチヨを幸せへ連れていきたい。その願いは変わらない。けれど、僕一人が行き先まで決めて手を引き続けることだけが、その方法ではないのかもしれない。彼女たちが自分で選び、僕へ託してくれたものを途切れさせずに繋ぐ。そういう道もあるように思えた。
その先がどんな未来へ続くのかまでは見なかった。
ただ、今まで見ていたものとは少し違う道がそこにある気がした。
……帰っていく彩葉さんを見送る。明日から日中だけ、あの子を頼まれた。
そして明日は、ヤチヨカップの発表を控えたミニライブがある。ヤチヨにとっての始まりの日だ。
腕の中で泣くことしかできなかったあの子と、明日、自分の言葉で新しい始まりを告げるヤチヨ。その間に積み重なってきたものすべてに、僕が手を貸したわけではない。
この先も彼女たちは多くのことを経験し、そのたびに自分で選んでいくのだろう。
少なくとも今は、その選択が生まれるまで見守っていたい。
◆
「ぽかぽかでぐわわぁ~んの人、いないの?」
「それで分かれって? ……藤原さん?」
「フジワラサン?」
「藤原一継さん。あんたの世話も手伝ってくれた人」
「イツキ! 一緒いないの?」
「明日会えるから今はいいでしょ、てか今日か。そのオムライスも、藤原さんがわざわざ昼食用に用意してくれてたのに……」
「これ作れるの?!作ってみたい!」
「はいはい、教えてもらえば?」
「うひょぉおお」
「てか、こいつのことどうやって説明すれば……」
重いの終わり!出番だよ、かぐや!