転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
最初に任せたのは買い物へ出る間だけだった。
外へ連れて行かないこと。通販を使って勝手に必要なものを買わないこと。抱く時はできるだけ座ったままでいること。
藤原さんへ一つずつ念を押しても、私はなかなか赤ちゃんから手を離せなかった。藤原さんの腕へ重みが移っても、私の手はまだ赤ちゃんの背中に残っていた。離してしまえば、責任まで一緒に渡してしまうような気がしたから。
それでも、買い物へ行くと決めたのは私だ。指先を一本ずつ離し、最後にもう一度だけ首元を確かめた。
買い物を終えて戻ると藤原さんはソファの端で不自然なほど姿勢を正していた。腕の中では赤ちゃんが眠っている。どうやら、寝かせようとするたびに目を覚ましたらしい。飲み物もスマホも手の届かない場所に置かれたまま身動きが取れなくなっていた。
少しだけ、安心した。
この人も分からないのだ。私より器用に何でもこなせるわけではない。
買ってきた育児用品を広げてからも物事は思うようにいかなかった。おむつの向きを確かめ、着替えの留め具を一つずつ掛け違えた。ようやく眠ったと思えば、寝かせた途端にまた泣き出す。
何かあるたびに抱く人を交代した。最初は赤ちゃんを渡すだけで四本の腕が絡まりそうになった。何度目かにはどこを支えればよいかだけは分かるようになっていた。
用意したお茶はぬるくなっていた。二人とも飲む暇がなかったのだから当然だ。
結局、赤ちゃんが落ち着いたのは水槽の音が静かに響く場所だった。理由は分からない。ただ、分からないなりに一つだけ覚えておくことにした。
翌日、私はまた赤ちゃんを連れて藤原さんの部屋へ向かった。
昨日の続きだ。新しく頼るわけではない。そう自分へ言い聞かせながら、今度は前日より少ない説明で赤ちゃんを渡した。
最初は、朝食を取る間だけ。
次は、洗い物を済ませる間だけ。
さらにその次は、教科書を開いている間だけ。
一度に任せるのは、いつだって一つだった。
昨日と違ったのは、藤原さんの方からも私へ尋ねるようになったことだ。さっきはどう抱いたのか。眠る前にはどんな声を出していたのか。泣き始めたのはいつか。
私にも正解は分からない。それでも、少し長く一緒にいた分だけ藤原さんより知っていることがあった。
空腹だと思って準備を始めたのに赤ちゃんは一向に泣き止まなかった。おむつでもなかった。途方に暮れた末、私が何気なく歌を口ずさむと泣き声が少しずつ弱くなった。
藤原さんは理由を決めつけず、ただそのことを記録した。ミルクを飲んだ時刻。おむつを替えた時刻。眠った時刻。水音と歌には、少し反応したこと。
最初は細かすぎた記録を、私が必要な項目だけに減らした。藤原さんは文句を言わず、次からその形に合わせた。
二日目の夕方には、赤ちゃんを渡すたびに注意事項を並べることもなくなっていた。私が手を伸ばせば藤原さんが赤ちゃんを渡す。藤原さんが困った顔をすれば今度は私が受け取る。
一つだけ。
その言葉は、いつの間にか「一度きり」ではなくなっていた。
一度に一つずつ、自分で任せるものを選ぶ。
まだ、それだけだった。
三日目には互いに遠慮してしまうことも、同じ確認を何度も繰り返すことも減っていた。
私がミルクの準備に立てば藤原さんが赤ちゃんの様子を見る。泣き出せば水槽のそばへ連れていったり、私が歌ってみたりして反応を確かめる。予想外のことはなくならなかった。ただ、起きるたびに二人で立て直せるようにはなっていた。
そうして少しずつ余裕が生まれると、明日からのことを考えずにはいられなかった。
そのことを最初に口にしたのは私だった。
明日には連休が明けてしまう。私には学校が、藤原さんには仕事がある。そして、その間の赤ちゃんをどうするのか。
考えなければならないことは多い。けれど、今日中に決めなければならないことでもあった。
だから、その後の提案をしたのも私だった。
藤原さんのお仕事はほとんどが在宅だと聞いていた。そして、確認するとしばらく出社の予定はないという。
だから、私が学校に行っている日中だけ赤ちゃんを任せられないかと提案した。
朝と夜はこれまでどおり私が面倒を見ることを前提として。
藤原さんは快く了承してくれた。初日の夜のような切羽詰まった様子はない。終始落ち着いていたのが気にかかった。
だが、それよりもこの提案は
私が考えて。
私が選んで。
私が決断したことだ。
藤原さんに任せると決めたのは私だ。その判断からは逃げない。そう決めたし、伝えた。
だから、これは初日から変わらない。
一つだけ、あなたに任せます。
一つだけです。
◆
人生で初めての赤ちゃんのお世話。その初日、僕は無力だった。抱き上げたことはあるが、お世話をした経験はとんと無かったのだ。
遠く離れた場所へ移動することもできる。望む未来へ続く道さえ、かすかながら見ることができる。
それなのに、腕の中の赤ちゃんがなぜ泣いているのかは分からなかった理由が分かったところで、それだけで泣き止ませられるとは限らない。前日は声に思念を重ねることで届いた。それも今は通じていない。
道が見えることと、目の前の相手を理解できることは同じではない。泣き声が一つ大きくなるたび、長く生きた時間も、蓄えた知識も、今この瞬間の答えにはならないのだと思い知らされた。
ただ、彩葉さんが帰ってくるまでの間、任されたことをすればいい。なのに、それすらもまともにできない。
子どもを育てたことはある。誰かと長い間を共に過ごした経験もある。いろんな手段を取れるように余裕を持っていたつもりだった。
だが、
調べたとおりにしても、実際はそのとおりにはならない。一つをどうにかした頃にはもう次の問題が目の前にある。記録を取ったところでその場ですぐ役立つことは少なかった。
このまま失敗を重ね、その失敗を取り繕うために言いつけまで破れば、彩葉さんが二度と僕を頼らなくなっても仕方がない。任された範囲さえ守れない相手に、次を預けられるはずがない。
しばらくして、ようやく赤ちゃんは寝息をたてた。
ようやく肩の力を抜いた頃、彩葉さんが帰ってきた。両手の荷物を床へ置くと彩葉さんは大きく肩を落とした。汗に濡れた姿を見る限り、このあとも赤ちゃんの世話を続けられるほど余力が残っているようには思えなかった。
僕が行っていれば、そんなに汗を流す必要もなかった。通販でも使えば楽ができただろう。
他者の選択は尊重すると決めている。だが、こういった時はいつも酷くもどかしく思う。
だから、せめて。
任されたことだけは失敗なく果たしたかった。
けれど、失敗しないことこそが責任だと、僕はまた思い込んでいたらしい。
彩葉さんだって、何度も失敗していた。
それは不得手だったからではない。僕より多く赤ちゃんへ触れ、多く判断し、多く試していたからだ。彩葉さんは失敗を責任から逃げる理由にはしなかった。失敗した事実を認め、次の方法を選び直す。
そのたびに困った顔はした。それでも、手を止めることはなかった。おむつのつけ方が悪ければやり直した。ミルクの準備に手間取れば、もう一度説明を確かめた。
失敗すればやり直せばいい。そんな当たり前のことを淡々と。今必要なことを一つ一つやり遂げていく。
助けると決めて手を差し伸べた。
けれど、助けるとは失敗そのものを取り除くことではない。分かっていたはずのことを、彩葉さんは目の前でもう一度示していた。
彩葉さんが失敗しても自分でやり直せること。その間、僕が隣にいること。
それだけでいいのかもしれない。
二日目からは僕も彩葉さんにいろいろと聞いた。少なくとも、赤ちゃんとしてのこの子については彩葉さんの方が一夜分多く知っている。なら、分からないことは彩葉さんへ聞けばいい。僕の記録だけでは足りないものも二人で残せば次に生かせる。
彩葉さんに細かすぎると指摘された部分は記録し直した。泣き始めた時の状況と、泣き止ませるために試したことを書き残した。ミルクの時刻や、おむつを替えたかどうかは、互いに把握しやすいようホワイトボードで管理した。
ホワイトボードには、僕の記録と彩葉さんの書き足しが混ざっていった。整然とはしていない。それでも、どちらか一人の記憶より、二人が次に動くための目印としてはずっと役に立った。
段々と言葉数は減っていった。赤ちゃんを渡す時。おむつを替える時。ミルクを作る時。一つ一つの注意や心配もそれに合わせるように減った。
僕も少しは役に立てていて、信頼を預けてもらえているように思えた。それが嬉しかった。
そして、三日目の夕方。彩葉さんが確認するように色々と尋ねてきた。
僕の中には、明日からの案がいくつか浮かんでいた。けれど、口へ出すことはしなかった。どこまで任せるのかを決めるのは今回も彩葉さんであるべきだと思えたからだ。
彩葉さんの問いは明日以降どこまで僕へ任せられるかを確かめているように聞こえた。
彩葉さんは明日からもこの子と生きていく方法を自分で探そうとしている。
なら、僕が先にすべての答えを決める必要はない。
そう分かっていたはずなのに、守りたい相手を前にすると、僕はすぐに先回りしようとする。
彩葉さんは責任を手放したのではない。あれほど、この子のことを一人で背負おうとしていたのに。今は自分で考え、自分だけでは守れない時間を僕へ託そうとしている。
僕も同じなのかもしれない。
ヤチヨを幸せへ連れていきたい。その願いは変わらない。
けれど、僕一人が行き先まで決め、手を引き続けることだけがその方法ではないのかもしれない。彼女たちが自分で選び、僕へ託してくれたものを途切れないよう繋ぐ。そんな道もあるように思えた。
それがどんな未来へ続くのかまでは見なかった。
ただ、今まで見ていたものとは少し違う道がそこにあるような気がした。
……帰っていく彩葉さんを見送る。明日から、あの子のお世話を日中だけ頼まれた。
そして、明日はヤチヨカップの発表を控えたミニライブがある。ヤチヨにとって始まりの日。
腕の中で泣くことしかできなかったあの子。明日、自分の言葉で新しい始まりを告げる現在のヤチヨ。
その間に積み重なったもの、その全てに僕が手を貸したわけではない。
この先、彼女たちは多くのものを経験し、そのたびに自分で選んでいくのだろう。
少なくとも今は、その選択が生まれるまで見守っていたい。
◆
「ぽかぽかでぐわわぁ~んの人、いないの?」
「それで分かれって? ……藤原さん?」
「フジワラサン?」
「藤原一継さん。あんたの世話も手伝ってくれた人」
「イツキ! 一緒いないの?」
「明日会えるから今はいいでしょ、てか今日か。そのオムライスも、藤原さんがわざわざ昼食用に用意してくれてたのに……」
「これ作れるの?!作ってみたい!」
「はいはい、教えてもらえば?」
「うひょぉおお」
「てか、こいつのことどうやって説明すれば……」
重いの終わり!出番だよ、かぐや!