【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
一継の部屋は、何も変わっていなかった。
変わっていないように、見える。使っていたものがある。服もある。食器もある。かぐやが置きっぱなしにしていた小物も、私が忘れていた充電器も、そのまま。
一継だけが、いない。
「……どこから見る?」
彩葉が、部屋の真ん中で立ち止まった。
「全部見たい」
「かぐや。勝手に引っくり返すって意味じゃないからね」
「分かってるよ」
返事は早い。でも、かぐやの手はもう棚の方へ伸びていた。
「分かってないでしょうが」
「まだ触ってないもん」
「今から触る手だったでしょ」
「触る前だから、まだセーフ」
「その理屈、一継さんにも使ってたよね」
彩葉がため息をつく。いつものやり取りだった。でも、誰も笑わなかった。
私は机へ向かった。見慣れた机。端末。紙の束。筆記具。
この前、一継が買った手帳を探す。
ない。
「……手帳」
「何?」
かぐやが振り返った。
「この前買ったやつ。持っていってる」
「イツキが自分で欲しいって言ってたやつ?」
「うん」
彩葉も寄ってくる。
「何か書いてあった?」
「知らない。見せてもらってないから」
「じゃあ、手がかりになるかは分からないね」
「でも、持っていったんだね」
かぐやが言った。
「欲しいって、自分で選んだやつ」
そうだった。一継が自分で、欲しいと言ったもの。
「持っていったんだ」
かぐやが、少しだけ嬉しそうな、それでも苦しそうな顔をした。
「なら、全部捨てたわけじゃないよね」
誰に言っているのか、分からなかった。たぶん、自分に。
彩葉は端末の前に座った。
「私、共有データの方を見る。一継さんが何を整理したかは、追えるから」
画面に、私には読めない情報が並んでいく。更新日。共有先。外された権限。書き足された説明。彩葉はそれを一つずつ確かめていく。
かぐやは落ち着きなく部屋を歩き回っていた。
私は棚を見る。一継が何を持っていって、何を残したのか。八千年分の癖を思い出しながら。
「服、少ないね」
「旅行くらい?」
彩葉が画面を見たまま聞く。
「長く暮らすつもりなら、もっと要るよね」
「一継なら、行った先でどうにでもするよ」
「じゃあ、それじゃ何も分からないじゃん」
「そうだね」
「ヤチヨ」
「怒らないでよ」
「怒ってないよ」
「怒ってるねえ」
かぐやが口を閉じた。
「……怒ってる。イツキに」
「うん」
「ヤチヨも怒ってる?」
「ものすごく」
「見えないよ、全然」
「見せてないからね」
「見せてよ」
「何を?」
「怒ってるところ。私だけ怒ってるみたいで、嫌なの」
そんなことを言われるとは思わなかった。少し、笑いそうになった。でも、笑えなかった。
「じゃあ、見つけたら一緒に怒ろうか」
「うん。私、一番最初ね」
「私も言いたいこと、あるんだけど」
彩葉が、画面から顔を上げないまま入ってきた。
「じゃあ三人同時に」
「それじゃ話が聞こえないでしょ」
「イツキなら、全部聞けるんじゃない?」
「万能扱いしないの」
「だって、イツキだし」
「だから、それが駄目なんだって」
彩葉の声が、少し強くなった。かぐやが止まる。彩葉も、自分で気づいたらしい。
「……ごめん」
「なんで謝るの」
「いや」
「彩葉も、イツキに怒ってるんでしょ?」
「怒ってる」
「じゃあ一緒だね」
かぐやはそれで納得した。彩葉は少し困った顔をして、また画面へ戻った。
しばらく、操作の音と、物を確かめる小さな音だけが続いた。
最初に何かを見つけたのは、彩葉だった。
「これ」
「何?」
「一継さんが最後に整理した資料。身体のことだけじゃない」
表示が切り替わる。
「連絡先?」
「うん」
一継自身の連絡先じゃなかった。私たちが困った時、研究のこと、生活のこと、手続きのこと。それぞれ、誰に連絡すればいいのか。
「ここまでやる?」
かぐやが顔をしかめる。
「普通はやらない。少なくとも、ちょっと出かける人は」
「……ほんとに、帰る気なかったんだ」
「たぶん」
彩葉が、画面を下へ送る。
「でも、変なんだよね。これだけ徹底してるのに、全部は切ってない」
「どういうこと?」
「研究室のアクセス権。一継さん自身の分だけ、残してある」
「忘れたんじゃない?」
「この人が?」
確かに。
「じゃあ、戻ってくる気はあるってこと?」
かぐやの声が明るくなる。彩葉は首を振った。
「分からない。戻るためじゃなくても、残しておく理由はあるから」
「たとえば?」
「私たちに何かあった時、遠くから確認するため」
かぐやの顔から、明るさが消えた。
「それ、最悪」
「うん」
「いなくなるくせに、こっちのことは見るつもりなんだ」
かぐやが拳を握る。
「ほんとに、最悪」
私も同じことを思った。
「一継らしいね」
「褒めてないよね?」
「全然」
でも、それで一つ分かった。一継は、私たちを捨てたわけじゃない。捨てられるわけがない。だから、離れた。
それが一番、腹が立つ。
「彩葉。一継が私たちの様子を見るつもりなら、どこからでもできるの?」
「能力を使うなら、たぶん」
「じゃあ、場所なんて分からないじゃん」
かぐやが言う。
「能力だけならね」
彩葉が椅子から立ち上がった。
「でも、一継さん、今回は能力を使った跡をほとんど残してない。少なくとも、研究室側にも共有のところにも、何もない」
「隠してるの?」
「かもしれない。でも、それなら、もっと簡単に消えられたと思う」
私も、同じことを考えていた。
一継が本気で誰にも見つからない場所へ行きたいなら、私たちに追えない場所なんて、いくらでもある。
「……隠れたいわけじゃないのかな」
かぐやが言った。
「見つけてほしいの?」
「それは違うと思う。一継なら、見つけてほしい時はもっと分かりやすくする」
「じゃあ、何?」
「ただ」
部屋を見る。
「自分からは、帰らないだけ」
かぐやが黙った。
「追ってくるなんて、思ってないんだよ」
口にして、胸が痛くなった。
一継は、私たちが追いかけてくると思っていない。自分がいなくなれば、最初は怒って、それからそのまま、三人で暮らしていくと思っている。
「……むかつく」
かぐやが言った。
「うん」
「すっごく、むかつく」
「私も」
「じゃあ、絶対見つけようね」
「うん」
その後、かぐやが寝室から何かを持ってきた。
「これ」
小さな紙袋だった。
「何?」
「イツキの?」
彩葉が覗き込む。
「お店の袋だね」
見覚えがある。
「あの文具店」
「手帳を買ったとこ?」
「うん」
中は空だった。捨て忘れたのかもしれない。かぐやが裏返しても、レシートすら入っていない。
「これだけ?」
「それだけ」
「手がかりじゃなかったか」
「でも」
かぐやは、袋を見つめたまま言った。
「イツキ、あの日、ここに行きたいって言ったよね。前から気になってたって」
「言ったね」
「最近、イツキが自分で行きたいって言った場所、ほかにある?」
考える。すぐには出てこない。
身体を得てから。四人で話すようになってから。一継が自分の希望を口にしたこと。手帳。あの店。食べたいもの。旅行。
「……旅行」
私が言うと、かぐやが首を傾げた。
「温泉? それ、ヤチヨのでしょ」
「一継は?」
「行けるなら、って言ってた」
「そうだね」
「ほかは?」
彩葉が、考える顔になった。
「前に、海を見たいって言ってなかったかな」
二人で、彩葉を見る。
「いつ?」
「研究室の帰り。泊まり込んだ夜に、迎えに来てもらった時。何年か前だけど」
「どこの海?」
「そこまでは」
彩葉が眉を寄せる。
「正確には、海が見たい、じゃなくて……静かなところで、何もしないで海を見るのもいいかもしれない、だったかな」
それだ。一継らしい。そして、今の一継なら。
「海……」
かぐやが呟いた。
「でも、海っていっぱいあるよね」
「そうだね」
「日本だけでも」
「そうだねえ」
「八千年もいたら、世界中に知ってる海があるでしょ」
「それもそう」
「全然絞れてないじゃん」
怒られた。
「……ねえ、彩葉。イツキ、どこまで行けるの?」
かぐやが聞いた。彩葉は少し考えてから、首を振った。
「能力を使ってないなら、普通に移動してることになるけど……電車でも飛行機でも、何日もあれば、どこへでも行けるよ」
「どこへでもって……」
「一継、たぶん歩いてる」
私が言うと、二人がこっちを向いた。
「歩いて?」
「あの人、歩くのが好きなの。会社からでも、散歩しながら帰るような人だよ。急ぐ理由がない時は、だいたい自分の足」
彩葉が、何かを思い出したように眉を寄せた。
「……言われてみれば。終電を逃した夜、平気な顔で、じゃあ歩いて帰ろうかって言われたことある」
「歩いたの?」
「タクシー呼んだ」
かぐやが玄関の方へ行って、すぐに戻ってきた。手に、薄いカードを一枚持っている。
「このICカード、イツキの? 靴箱の上のトレーに置いてあった」
「……置いていってるんだ」
彩葉が、カードを受け取って裏返した。
「本当に、歩いてるんだ」
「歩きなら、そんなに遠くには行けないよね」
「何日も経ってるから、それでも結構な距離にはなるよ。ここから歩いて行ける海なんて、いくつもあるし」
彩葉はそこで言葉を切って、少しの間、黙った。
「……さっきの海の話。あれ、電車の中だったんだ」
「電車?」
「研究室に泊まり込んで、一継さんが迎えに来てくれた夜。その日はちゃんと終電に間に合って、いつもの路線で帰ったの」
彩葉の指が、膝の上で小さく動く。
「ドアの上の路線図を見てて、一継さんが言ったの。この線、終点の方は海沿いを走るんだよねって。それで、静かなところで何もしないで海を見るのもいいかもしれない、って」
「どこの駅かは?」
「言ってなかった。路線図の、海の方の端を見てただけ」
「線路沿いに歩いたんだと思う」
私は言った。
「一継、ちゃんと能力を使えば迷わないけど、普段は普通に道に迷うんだよ。だから、迷わない道を選ぶ。線路に沿って歩けば、海まで一本だから」
「……イツキ、道に迷うの?」
「迷う迷う。八千年、何回置いていかれかけたか」
かぐやが、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、その線の、海のとこ」
「たぶん。……確証はないけど」
彩葉が端末で路線図を開く。私たちがいつも乗る線を、終点の方へたどっていく。途中で線路が海岸へ出て、そこから終点まで、海沿いに駅が並んでいた。
「海沿いに出てから終点まで、九駅。電車なら一時間ちょっと。人の足でも、二、三日あれば着く距離」
「九つ……」
「でも、全部じゃない」
彩葉が、一つずつ印をつけていく。
「ここと、ここは海水浴場の駅。人が多すぎる。こっちの二つは、駅から海まで遠い」
「じゃあ、残りは?」
「五つ」
小さな港のある駅。古い駅舎の駅。住宅地の先に海岸がある駅。どれも、似たような町だった。
彩葉が駅ごとの地図を開いている間、私は考えていた。
一継が一人になりたい時、どこへ行くか。
八千年の間に、いろんな場所へ行った。山。海。森。街。人の多いところ。誰もいないところ。
でも、一継には癖がある。完全に誰もいない場所は、あまり選ばない。自分から人に話しかけるわけでもない。誰かの輪に混ざるわけでもない。
ただ、遠くに人の暮らしがある場所。灯りが見えて、声が届いて、誰かが生きている。そういうところを選ぶ。
「一継、誰もいないところには行かないと思う」
「なんで?」
「昔から、そうだから」
かぐやが、真剣に聞いている。
「一人になりたい時でも?」
「うん」
「変なの。一人になりたいなら、一人のところに行けばいいのに」
「たぶん、一人きりになりたいわけじゃないんだよ」
言ってから、今の一継にもそのまま当てはまる気がした。
一人になりたい。でも、誰もいないところへは行かない。
それは、誰かに見つけてほしいという意味じゃない。ただ、本当の孤独は、一継だって怖いんだ。
「……馬鹿」
「イツキのこと?」
「うん」
「私もそう思う」
かぐやが即答した。
「ヤチヨ。この五つの中で、一継さんが行きそうなところ、分かる?」
彩葉が画面をこちらへ向けた。
五つの町を、一つずつ見る。港。駅舎。海岸。どれも、少しずつ違う。
「……分からない」
正直に言った。
「でも、こういうところだと思う。一継が、何かを諦めるって決めた時は」
二人が、私を見た。
「諦める?」
「昔から、そうなの。何かを手放すって決めた時、一継は楽な場所を選ばない。誰かに助けてもらえるところでもなくて」
地図の、海沿いの町を指でなぞる。
「でも、完全に一人にもならない。人はいる。暮らしもある。だけど、誰も一継を知らない。観光で来る人もいない。……そういう町」
「何それ」
かぐやが顔をしかめた。
「面倒くさいね」
「八千年付き合ってきた私も、そう思う」
「じゃあ、どれ?」
「どれも全部、少しずつ当てはまる」
「なら、全部行こう」
かぐやが即答する。
「手前から順番に。一つずつ」
「外れたら?」
「次に行けばいいよ」
「その次も外れたら?」
「また次」
「体力は?」
「あるよ。まだ全然ある」
彩葉がため息をついて、端末を閉じた。
「……まあ、ここからだね」
「彩葉も来るの?」
「行くよ」
「研究は?」
「今日くらい、止める」
かぐやが一瞬驚いて、それから笑った。
「じゃあ、行こう」
私は、二人を見た。
十年前、この二人を遠くから見ていた。ずっと、輪の外から。
今は、三人で一継を探している。
変なの。八千年かけて、こんな日が来るなんて。
「行こうか」
私は言った。
◆
一つ目は、外れだった。
二つ目も。三つ目も。
「イツキー!」
「かぐや、大声出さないの」
「聞こえるかもしれないでしょ」
「隠れてたら、余計出てこなくなるって」
「じゃあ、どうすればいいの」
「探すの」
「探してるよ、ずっと」
「知ってる」
私は苛々していた。彩葉も疲れた顔をしている。ヤチヨも。
ヤチヨが身体を得てから、こんなに長く歩くのは初めてだと思う。時々、足が止まる。それでも、止まりたいとは言わなかった。
「次」
彩葉が地図を見る。
「あと二つ」
「行こう」
私が先に歩き出す。
「走らない」
「急いでるの」
「転んだら、余計遅くなるでしょ」
……それは、そう。
走るのをやめて、ちゃんと歩いた。後ろで彩葉が「えらい」と小さく言った。聞こえないふりをした。
四つ目も、いなかった。
海だけがあった。波。釣りをしている人。犬の散歩をしている人。誰も座っていないベンチ。
違う。ここじゃない。
ベンチの前で、ヤチヨが少しだけ立ち止まった。何もない海を、しばらく見ていた。
「ヤチヨ?」
「……ううん。次、行こう」
ヤチヨの横顔を見て、私はちょっとだけ怖くなった。
もし、最後も外れたら。
「最後」
自分の声が、少しだけ弱くなったのが分かった。彩葉は何も言わない。ヤチヨも。
三人で、最後の町へ向かった。
◆
海は、光で色を変える。
朝は白っぽく、昼は青く、日が傾くにつれて少しずつ金色が混じっていく。雲が切れれば緑がかって、陰れば灰色に沈む。線路沿いを歩いてここへ着いてから三日、同じベンチから見ていて、同じ色の時は一度もなかった。
あなたの目みたいに、いろんな色が見えるのかな。
ずっと昔、そう言った人がいた。必ず行こうと約束して、今日でなくてもいいと言い続けて、とうとう連れてこられなかった人。
その海を、僕は今、一人で見ている。
膝の上には、手帳がある。
最初のページに、明日したいこと、とだけ書いてある。その下は、まだ白い。家を出てから五日、何度も開いて、何度もペンを持って、一行も書けなかった。
能力は使っていない。三人の様子を見ることも、していない。見れば、帰りたくなる。それが分かっていたから、目を閉じたままにしていた。
だから、今、三人がどうしているのかを、僕は知らない。
怒っているだろうか。もう、普段の暮らしへ戻り始めているだろうか。
――必要ないって言われるまで、家族までやめないで。
あの家の台所で、そう言われたことがある。
僕は、うん、と答えた。
ふと、思った。
三人のうち、誰か一人でも、僕に「必要ない」と言っただろうか。
言っていない。誰も。
かぐやは、四人と言った。彩葉さんは、一人で決めないでと言った。ヤチヨは、行ってらっしゃいと言った。
言われる前に、僕が――
波の音がして、考えが途切れた。
日が、少しずつ傾いていく。手帳の白いページが、橙色に染まっていく。
その続きを、僕は考えなかった。
◆
着いた頃には、日が傾き始めていた。
小さな駅だった。改札を抜けると、潮の匂いがした。駅前に店がいくつか並んでいて、そのうちの一軒から、魚を焼く匂いが流れてくる。奥には低い家並みが続き、屋根の向こうに、海が細く光っていた。
観光地ではない。でも、人はいる。自転車の籠に買い物袋を載せた人が、坂を下りていく。どこかの家で、子どもが誰かを呼んでいる。誰も、私たちを気にしない。
こういうところ。
「ヤチヨ?」
「……うん」
「いる?」
「分からない」
分からない。でも、胸の奥がざわついていた。四つ目の町では、こうはならなかった。
坂を下りて、海の方へ向かう。三人とも、もう口数が少なかった。一日歩き回った脚は重いのに、海が近づくにつれて、足だけが勝手に速くなる。
防潮堤の切れ目を抜けたところで、かぐやが足を止めた。
「ねえ」
「何?」
「あれ」
かぐやの指の先に、海沿いの道が延びていた。まだ灯りの入っていない街灯が、等間隔に並んでいる。その途中にベンチが一つあって、誰かが座っていた。
遠い。顔は分からない。
でも、少し前に傾いた背中。膝の上に置かれた手と、小さな手帳。夕日を受けて、黒い髪の縁だけが赤く光っている。
その座り方を、私は八千年見てきた。
「……一継」
声が出たのと、人影がこちらを向いたのは、ほとんど同時だった。
何秒だったのか分からない。何年にも感じた。八千年より、長く感じた。
一継が立ち上がった。膝から滑り落ちかけた手帳を、慌てて押さえる。
「……なんで」
風に乗って、その声が届いた。
かぐやが走り出した。
「イツキ!」
「かぐや、待っ――」
彩葉の声は、もう届いていなかった。
かぐやは一直線に一継の前まで行った。殴るかと思った。抱きつくかとも思った。
どっちもしなかった。目の前で止まって、肩で息をしながら、睨みつける。
「何してるの」
一継は答えなかった。
私と彩葉が追いつく。近くで見た一継は、出ていった朝と同じ服を着ていた。靴が、白く埃をかぶっている。
本当に、歩いてきたんだ。
一継は私たちを順に見て、ほんの少しだけ、後ろへ下がりかけた。その顔に浮かんでいたのは、驚きだった。
来るなんて、思っていなかった顔。
それだけで、また腹が立った。
「なんで、来たの」
「迎えに」
答えると、一継の表情が固まった。
「置いていかないって言ったの、そっちでしょ」
ずっと昔、海の底で。暗い水の底にいた私の前に、この人は来た。
一継の目が、わずかに揺れた。
それでも、返ってきた言葉は変わらなかった。
「……帰らないよ」
分かっていた。分かっていたのに、胸の奥が軋んだ。
「なんで」
かぐやが一歩踏み出す。
「なんで帰らないの」
一継は目を伏せた。
「三人は、もう僕がいなくても大丈夫だから」
「またそれ」
かぐやの声が、波の音を割った。一継は顔を上げないまま、続ける。
「ヤチヨは、もう僕を待たなくていい。かぐやは、自分で未来を選べる。彩葉さんは、僕なしで研究をやり遂げた」
横で、彩葉が小さく息を呑んだ。
「三人とも」
一継が、笑った。いつもの、人を安心させる時の笑い方だった。
「僕がいない方が、自分たちの人生を生きられる」
その優しさに、腹の底が冷えた。
波が寄せて、砂を引いていく。それが二度、三度と繰り返されるあいだ、誰も口を開かなかった。
「それ」
自分でも驚くくらい、静かな声が出た。
「誰が決めたの?」
「……何が」
「私が、一継を待たなくていいこと。かぐやが、一継なしで生きること。彩葉の人生に、一継がいない方がいいこと」
一歩、距離を詰める。
「誰が決めたの?」
答えは返ってこない。返ってこないこと自体が、答えだった。
「一継だよね。全部」
一継が、目を逸らした。
かぐやが何か言いかける。それより先に、私はもう一歩踏み込んだ。
「私たちが縛られてるかどうか、一継が決めないで」
かぐやが隣に並ぶ。反対側に、彩葉が立った。
三人で、一継の前に立つ。夕日が背中から差して、三つの影が一継の足元まで伸びていた。
「だから、今度は逃げないで聞いて」
一継は逃げなかった。
ただ、すぐには何も言わなかった。私たちの顔を一人ずつ見て、最後に私のところで目を止めて、ようやく口を開く。
「……何を、聞けばいいの」
それも、私たちに聞くんだ。
「一継が言ったんでしょう。私たちは、一継がいるせいで自由じゃないって」
「そうは――」
「言ってるよ。言葉が違うだけ」
遮られて、一継は口を閉じた。
「私が一継を待つことも。かぐやが一継のいる未来を考えることも。彩葉が一継を頼ることも。全部、自分がいるから仕方なくそうなってるって、考えたんでしょう」
「仕方なくとは、思ってないよ」
「じゃあ、何?」
返事はなかった。それなら、こっちが続けるだけだ。
「私はね。八千年、一継が必要だったから一緒にいたんじゃないよ」
一継の目が、わずかに動いた。
「もちろん、必要だった時もある。助けてもらったし、頼ったし、帰ってくるって思ってたから待ったこともある。でも、それだけじゃない」
息を吸う。潮の匂いが、喉の奥まで入ってきた。
「一緒にいたかったから、一緒にいたの」
口に出してみると、思っていたよりずっと簡単な言葉だった。八千年、どうしてこれを言わずに来られたんだろう。
「旅についていったのも。残って待ったのも。歌を聞かせたのも。帰ってきた一継に、おかえりって言ったのも」
言葉にするたび、景色が一つずつ戻ってくる。砂埃の舞う街道。雪に埋もれた山小屋。灯りの少ない港町。どこにいても、最後には同じ顔が戸口に立っていた。
「全部、私が選んだ。一継に選ばされたんじゃない」
一継が目を伏せた。
その顔を見ていたら、喉の奥から何かがせり上がってきた。
「私の八千年を――」
声が、裏返った。
「一継の罪みたいに、言わないでよ!」
叫んでいた。自分の声が、海の上を渡っていくのが聞こえた。視界が滲んで、一継の輪郭がぼやける。頬を伝っていくものを、拭う気にもなれなかった。
気づいたら、一継の胸元を掴んでいた。
「……そんなつもりじゃ」
「分かってる!」
しゃくり上げそうになる喉を、無理やり押さえつけた。泣いているのに、声だけが止まらない。
「善意なのも、私のためだと思ってるのも、全部分かってる。分かってるから、怒ってるの。だから――」
指に、力がこもった。
「八千年待たせたくせに、今さら置いていくなんて、許さないから」
一継の顔が、歪んだ。唇が動く。けれど、言葉にはならなかった。
掴んでいた指を、一本ずつ離す。手が、震えていた。身体があると、こんなところまで正直になる。
私が下がると、入れ替わるようにかぐやが前へ出た。
さっきまで真っ先に怒鳴っていた子が、今は妙に静かだった。
「イツキ。私、イツキがいなくても生きていけるよ」
「……うん」
「彩葉もいるし、ヤチヨもいる。配信もできるし、歌も歌える。一人で買い物にだって行ける」
「それは、最近できるようになったね」
「今それいらない」
「……ごめん」
こんな時まで、と思う。一継も、かぐやも。
「でもね」
かぐやが、一継を真っ直ぐ指さした。
「だから何なの? 生きていけるよ。でも、私はイツキと生きたいの。理由がいるの? イツキはいつも理由をつけるけど、私はいたいからいたいの。それじゃ駄目なの?」
最後だけ、声が細くなった。
怒っている。でも、その奥に、置いていかれた子どもみたいな不安が透けていた。
「……君が優しいから、そう言ってるんじゃないかって」
「まだ言うの?」
「最後まで聞いて」
「嫌だけど、聞く」
かぐやは唇をぎゅっと結んで、待った。
「僕がいなくなったら、寂しいでしょう。だから今だけ、戻ってほしいと思ってるんじゃないかって。時間が経てば――」
「勝手に決めないで!」
かぐやの声が、海へ跳ねた。
「未来の私の気持ちまで、イツキが決めないでよ!」
拳が、一継の胸を叩いた。
一度だけ。音もしないくらい、弱く。
一継は避けなかった。
「……痛い?」
拳を胸に当てたまま、かぐやが聞いた。
「痛くないよ」
「私は、痛かったよ」
その声が、崩れた。
「イツキがいなくなってから、ずっと。朝起きても、ご飯食べても、ずっと痛かった」
かぐやの目から、涙がこぼれた。
拭わない。睨んだまま、泣いている。強がる時の顔と泣く時の顔が、同時に出ていた。
一継の肩が、小さく揺れた。
かぐやを見ているはずの目が、一瞬だけ、ここではないどこかを見た。昔から、時々こういう顔をする。その向こうに何があるのか、私も全部は知らない。
「……前にも」
ひどく小さな声だった。
「同じことを、言われたことがある。勝手に決めないで、って」
かぐやが、しゃくり上げながら瞬きをした。
「誰に?」
「昔の、大事な人に」
かぐやは、それ以上は聞かなかった。代わりに、握っていた拳をほどいて、一継の服の胸元をつかんだ。
「じゃあ、二回目だね。……二回も、言わせないでよ」
「……うん」
「今の私は、イツキといたい。それだけ」
服を離して、一歩下がる。袖で目元を乱暴にこすって、それでもまた滲んでくるのを、もう放っておくことにしたらしかった。
彩葉は、まだ何も言っていなかった。
ここへ来るまでの電車でも、外れた町を歩いているあいだも、彩葉はずっと地図と時刻表を見ていた。見ていないと、立っていられなかったのかもしれない。
その彩葉が、一継の正面に立った。
「一継さん。私、言いましたよね。何か決める前に、話してくださいって」
「……うん」
「分かったって、言いましたよね」
「言った」
彩葉の声が、跳ね上がった。
「一人で決めたじゃない!」
かぐやがびくりと肩を揺らした。私も、思わず彩葉を見た。
「話してって言ったの! 分かったって言った! なのに資料だけ残して、朝になったらいなくなってて……!」
十年、一継に敬語を崩したことのなかった彩葉が、肩で息をしていた。
「私が、どんな気持ちであの資料を読み返したと思ってんの」
一継は、何も返せなかった。
彩葉は大きく息を吸って、吐いた。もう一度、吸う。震えている手を、もう片方の手で握り込む。実験がうまくいかない夜、画面越しに何度も見た仕草だった。
「……研究室に泊まり込むたびに、迎えに来てくれましたよね」
声が、少しだけ元に戻った。
「一人で抱え込まないでって、何回も言ってくれた。だから私、少しずつ頼れるようになったんです。何でも一人でできるようになれば、誰にも迷惑をかけない。頼らなくていい人になれば、ちゃんとした人になれる。昔の私は、本気でそう思ってましたから」
「……覚えてる」
「だから、今度は私が言います」
彩葉が、一継を見上げた。目の縁が赤かった。
「役に立つことと、一緒にいたいことは、別です」
一継の手が、何かを掴もうとするように動いて、何も掴まないまま下りた。
「一継さんにしかできないことがあるから、いてほしいんじゃないです。一継さんだから、いてほしいんです」
そこで、彩葉の声が少しだけ崩れた。
「……一緒に、考えさせてほしかった」
かぐやが、泣きながら小さく頷いた。
「……そう」
三人分の言葉が、一継の前に置かれていた。
一継はそれを一つも拾えないまま、立っていた。日が少し低くなって、その顔の半分を橙色に染めている。
「……三人とも」
やっと出た声は、かすれていた。
「ありがとう」
嫌な予感がした。この人は昔から、礼を言ってから断る。
「それで終わらせたら、怒るよ。ありがとう、嬉しい、でも帰らない。そういうの、やめてね」
まだ鼻声のまま言うと、一継は困ったように眉を下げた。
「……まだ何も言ってないよ」
「八千年舐めんな」
一継が、少しだけ苦笑した。その笑みも、すぐに消えた。
「怖いんだ」
波の音にまぎれてしまいそうな声だった。
一継は、海の方へ目を向けた。
「三人に必要とされているうちは、ここにいていいって思える。僕にしかできないことがあるなら、それを理由にできる」
風が吹いた。手帳を握る指に、力がこもるのが見えた。
「でも、何もなくなったあと。僕がただ、一緒にいたいと思って残って。それでも――」
言葉が、そこで途切れた。
「それでも、何」
私が促す。一継は答えない。
「言ってよ、イツキ」
かぐやが言う。
「一継さん」
彩葉が呼ぶ。
一継が、顔を上げた。
「もういなくてもいいって言われたら、僕には何も残らないんだよ!」
叫び声が、海の上で散った。
それきり、波の音しか聞こえなくなった。
三人とも、動けなかった。八千年で、一継が声を荒げるのを聞いたことは、数えるほどしかない。誰かを守る時か、誰かのために怒る時。自分のことで叫ぶのを聞いたのは、たぶん、これが初めてだった。
一継自身も、自分の声に驚いたように口元を押さえていた。
「……ごめん」
謝る声が、かすれて震えていた。
この人は、ずっと必要とされる人だった。助ける人。守る人。帰る人。誰かが困れば、誰かが求めれば、そこへ行く。八千年、それを続けてきた。
だから、その役目がなくなったあとの自分を、知らないのだ。
沖の方で、海鳥が一羽、低く鳴いた。
その声が遠ざかってから、かぐやがぽつりと言った。
「……ねえ。研究室のアクセス権、残してたでしょ。遠くから、私たちのこと見るつもりだったんでしょ」
一継が、少しだけ目を見開いた。
「……見てないよ」
「え?」
「出てから、一度も見てない。能力も使ってない」
「なんで?」
答えが返ってくるまで、少し時間がかかった。
「見たら、帰りたくなるから」
かぐやが瞬きをした。まつげに溜まっていた涙が、一粒落ちる。
「……それ」
濡れた目が、真っ直ぐ一継を捉えた。
「帰りたかったんじゃん」
泣いたまま、少しだけ笑っていた。
一継は何か言い返そうとして口を開き、そのまま、何も出てこなかった。
ああ、と思った。
この人の中にも、ちゃんとあったんだ。
「……そっか」
声に出すと、一継が意外そうにこちらを見た。
「何」
「もっと怒られるかと」
「怒ってるよ。ものすごく。でも」
一歩、一継の前へ出る。
「やっと、一継の話になった」
一継が口を閉ざす。私は指を一本立てた。
「ヤチヨのため」
二本。
「かぐやのため」
三本。
「彩葉のため。……さっきまで、ずっとそればっかりだった」
手を下ろす。
「今、初めて、一継が怖いって言った。叫んだ。帰りたかったのも、否定しなかった。それでいいじゃん。怖いなら怖いって言えばいい。いてほしいって言われたいなら、そう言えばいい」
「そんなの……重いよ」
「八千年一緒にいる相手に、今さら言う?」
「重いよ」
かぐやが、鼻をすすりながら割り込んだ。
「でも、いいの。重くていい」
「今さら、軽い関係でもないですし」
彩葉が目元を指で拭いながら、静かに寄り添った。
一継は、私たち三人を見た。信じられないものを見るような目だった。
「でも、いつか――」
「一継」
その先を、私は言わせなかった。
「未来の話は、しない。未来の私は、未来の私たちが決める。一継も。未来の一継に任せて」
一継の目が、私に戻ってくる。
「今の一継は、今、どうしたいの?」
私が起きた日の夜、玄関で、かぐやが同じことを聞いていた。イツキが何したいか聞いてるの、と。
あの時、一継は答えられなかった。
今も、すぐには答えない。けれど、目を逸らさなかった。
日が、水平線に触れかけていた。波打ち際が金色に光って、その光が少しずつ細くなっていく。たった数十秒の沈黙が、八千年よりも、この数日よりも長かった。
「……僕は」
そこで止まる。かぐやが身を乗り出しかけて、彩葉がその腕をそっと押さえた。
「待って」
「だって」
「今は、待つの」
かぐやが、唇を噛んで口を閉じる。
一継が、もう一度息を吸った。
「僕も」
声が震えていた。
「三人と」
一度、目を閉じる。開いた目に、沈みかけた夕日が映っていた。
「一緒に、いたい」
言い終えた一継の目から、一筋だけ、こぼれた。
本人は気づいていないみたいだった。頬を伝って、顎の先で一瞬止まって、砂の上へ落ちた。
八千年で、初めて見た。
一継の顔に、不安が浮かんでいく。泣いていることにも気づかないまま、私たちの返事を待っている。
その顔を見ていたら、泣いているのに、可笑しくなった。八千年経っても、この人はこんな顔をするんだ。
「遅い」
自分の声が、ぐしゃぐしゃだった。
「……ごめん」
「八千年遅い」
「それは」
「あと五日くらい」
「急に細かいね」
かぐやが、もう我慢できなかった。
一継に飛びついて、胸に顔を押しつける。今度は、声を上げて泣いていた。
「いたいって言った。ちゃんと聞いたからね。もう取り消せないからね」
「……うん」
一継の手が、ぎこちなくかぐやの背中に回る。壊れ物を確かめるみたいな手つきだった。
彩葉が、一継の袖をつかんだ。そのまま、額を一継の肩に押し当てる。何も言わず肩だけが、小さく震えていた。
私も、その中へ入った。
四人でぐしゃぐしゃに固まって、海辺に立っていた。誰の涙なのか、もう分からなかった。
一継の胸に額をつけると、心臓の音がした。速い。この人も、怖かったんだ。
「……帰ってきて、一継」
長い間があった。
波が寄せて、引いて、また寄せた。
「……ただいま」
頭の上で、声がした。
「おかえり」
三人の声が、重なった。
◇
日が水平線に半分沈むまで、そうしていたのだと思う。
最初に離れたのは、彩葉だった。袖で顔を拭って、まだ赤い目のまま一継を見上げる。
「今度勝手にいなくなったら、本当に怒りますから」
「今も怒ってるでしょう」
「もっとです」
「怖いな」
「自業自得です」
一継が笑った。目の端はまだ濡れていたけれど、さっきまでの笑い方とは違っていた。
かぐやは一継の腕にしがみついたまま、離れようとしない。目も鼻も真っ赤だった。
「で、イツキ。宿題は?」
「宿題?」
「明日、何したいか。考えてきてって言ったでしょ。片づけ以外で」
一継が、手の中の手帳を見下ろした。
ゆっくりと、最初のページを開く。私の位置からも見えた。明日したいこと、とだけ書いてあって、その下は白いままだった。
「……ずっと、書けなかったんだ」
「今は?」
一継はしばらく、その白い行を見ていた。
「帰って、本の続きを読みたい」
かぐやが目を丸くした。
「それだけ?」
「うん。途中だったんだ。棚に戻してきちゃったけど、まだ半分くらいで」
「地味」
「地味だね」
「……でも、イツキのだね、それ」
かぐやが、にっと笑った。
「合格」
一継はペンを取り出して、白い行に一行書き込んだ。少し迷ってから、もう一行。
覗き込んだかぐやが、声に出して読み上げる。
「もう少しだけ、ここで、四人で海を見る」
かぐやが顔を上げると、一継は照れたように目を逸らした。
「今日のぶん、まだ残ってるから」
途中だった本の、続き。
一継は昔から、何かを途中で置いていく人だ。帰ってきてから、続きをやるために。出ていったあの部屋には、その途中が一つもなかった。
今、また一つ、続きができた。
四人で、ベンチの前に並んだ。
沈みかけた日が、海に一本の光の道を引いていた。金色だったそれが、見ているうちに橙に変わり、端の方から少しずつ紫に溶けていく。
隣で、一継が海を見ていた。
夕日を映した目が、光の加減で色を変える。金色に見えたかと思えば緑がかって、また橙に戻る。海と同じだ、と思った。
最後の光が水平線に沈む少し前に、私は一継へ手を出した。
「何?」
「手」
「……」
「起きた日みたいだね」
「何の話?」
「こっちの話」
一継が、少し首を傾げる。
「帰ろ」
手を出したまま、待つ。
一継の手が、ゆっくり重なった。あの日、初めてこの身体で触れた手。温かい。何も変わっていない。
「さっき、ただいまって言ったのに。まだ帰り道があるんだね」
「あるよ。帰り道も、ちゃんとあるの」
その手を握る。
「でも、一人で帰るんじゃないよ。一緒に、帰ろ」
指が、少しだけ強く握り返してきた。
「……うん」
反対側の腕には、かぐやがくっついている。
「四人でね」
「うん」
彩葉が、隣に並んだ。
「帰りましょう」
「……うん」
海を背にして、四人で歩き出した。
◇
駅へ戻る道は、細い上り坂だった。
家々の窓に、ぽつぽつと灯りが入り始めている。どこかの台所から、煮物の匂いがした。来る時には目に入らなかったものが、今はちゃんと見える。
かぐやと彩葉が先を歩いていた。かぐやはもう明日の肉鍋の具を考えていて、彩葉がそれを一つずつ復唱している。二人とも、まだ時々鼻をすすっていた。
私と一継は、少し後ろを歩いた。
「ヤチヨ」
「何」
「この前の、答え」
足が、少しだけ遅くなった。
「八千年で、僕が自分でしたかったこと。ずっと考えてた」
「……もういいって、言ったのに」
「忘れないって、言ったよ」
一継は前を向いたまま、言った。
「帰ることだった」
思わず、一継の横顔を見た。
「どこへ行っても、何をしていても、最後には君のところへ帰りたかった。誰かに頼まれたからじゃなくて、必要だからでもなくて。……帰るのは、僕がしたかったことだったんだ」
坂の上で、かぐやが振り返って何か叫んでいる。彩葉が、その頭を押さえて前へ向かせた。
「自分でも、ずっと分からなかった。当たり前すぎて、それが自分の願いだって気づかなかった」
海辺で、かぐやに「帰りたかったんじゃん」と言われた時。一継が何も言い返せなかった理由が、やっと分かった。
八千年。一継が帰ってくるたびに、おかえりと言った。それは、私が選んだことだった。
一継が帰ってきたのも、一継が選んだことだった。
言いたいことが多すぎて、どれから言えばいいのか分からなかった。
「……そういうのは」
でも、やっと声が出た。
「八千年の間に、言って」
「言えなかった。分からなかったんだ」
「知ってる」
知ってる。だから腹が立つし、だから嬉しい。
「じゃあ、今聞いたから許す。……ちょっとだけ」
「ちょっとだけなんだ」
「残りは、これからの分で払って」
一継が笑った。今度は何処かおかしそうな、いつもの笑みで。
「分割なんだね」
「八千年分だよ? 一括で払えると思わないで」
胸の奥にずっと引っかかっていたものが、ほどけていく。私じゃ駄目だったのかな、と天井に向かって呟いた夜が、ずいぶん遠くに感じた。
◇
帰りの電車で、かぐやは一継の肩にもたれて眠ってしまった。彩葉も、窓に頭を預けて目を閉じている。
一継は二人を起こさないように、ずっと同じ姿勢で座っていた。窓の外を、暗い海が流れていく。やがて線路が海から離れて、見慣れた街の灯りが近づいてきた。
マンションの廊下は、五日前と何も変わっていなかった。
一継の部屋の前で、一継が一度だけ立ち止まった。数日前、自分で閉じた扉。もう戻らないつもりで出ていった場所。
私たちは、何も言わずに待った。
一継は、何も言わないまま扉を開けた。言うべきことは、もう海で言ったからだと思う。
部屋の中も、出ていった時とほとんど変わっていない。かぐやのもの。彩葉のもの。私のもの。一継のもの。全部、そのままだ。
かぐやは靴を脱ぐなり、台所へ向かった。電車でひと眠りしたせいか、もうすっかり元気になっている。
「ねえイツキ、明日の肉鍋、約束まだ有効だからね」
「覚えてるよ」
「牛と、豚と、鶏」
「全部か」
「全部」
たぶん明日、一継はいっぱい肉を買ってくる。食べ切れるか不安なくらいに。でも、それでいい。
一継は本棚の前に立って、一冊の文庫本を抜き出した。他の本と同じ顔をして、きちんと背を揃えて並んでいた、あの本だ。
ソファに腰を下ろして、栞の挟まったページを開く。
何ページも進まないうちに、台所からかぐやの声がした。
「イツキ、ちょっと来て。大きい鍋ってどこにしまってるの?」
「今行くよ」
一継は本を開いたまま、背を上にして、ソファの肘掛けに伏せた。それから立ち上がって、台所へ向かっていく。
私は、肘掛けの上の本を見た。
開いたまま、背を上にして。
◇
ソファの端に腰を下ろして、伏せた本を眺めていた。
台所から、三人の声が聞こえてくる。鍋の大きさで揉めているらしい。
たぶん、これで全部終わりじゃない。むしろ、ここからまた面倒なことが始まる。
一継が急に全部変わるわけじゃない。また自分だけで何かを決めようとするかもしれないし、私たちだって、一継を頼りすぎることがあるかもしれない。あの数日間の怖さも、すぐには消えない。
それでも、今度は言えばいい。怒ればいい。泣いて、喧嘩すればいい。
八千年、今までだってそうしてきた。今さら綺麗に生きる必要なんてない。少しくらい面倒で、重くて、それでも一緒にいればいい。
役に立つからでも、必要だからでもなく。
ただ、一緒にいたいから。
「ヤチヨも来てよ。鍋、どっちがいいと思う?」
台所から、かぐやが呼んだ。
「今行く」
立ち上がる前に、もう一度だけ、伏せた本を見た。
◇
棚の奥から大きい方の鍋を下ろしていると、すぐ後ろで三人の声がした。かぐやが鍋の大きさの話をしていて、彩葉がそれに呆れていて、ヤチヨが笑っている。
鍋を抱えたまま、ソファの方を振り返る。肘掛けの上に、伏せたままの本が見えた。
続きは、明日読めばいい。
――僕がいなくても、三人は生きていける。
たぶん、僕はこれからもそう思う。だけど、今はそれが悪いことには思えない。
その続きだけ、忘れなければ。
――それでも、僕は、三人と一緒にいたい。
あの子が言ってくれた言葉。その後ろ半分の意味が、やっと分かった気がした。
かしこ
ハッピーエンドオォォオオ!!
私はIFエンドの方が好きです。三つ子の魂百まで。そう簡単に変わりません
本編はタイトルを優先しました。