【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜   作:蠱毒は孤独

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 一継の部屋は、何も変わっていなかった。

 

 変わっていないように、見える。使っていたものがある。服もある。食器もある。かぐやが置きっぱなしにしていた小物も、私が忘れていた充電器も、そのまま。

 

 一継だけが、いない。

 

「……どこから見る?」

 

 彩葉が、部屋の真ん中で立ち止まった。

 

「全部見たい」

「かぐや。勝手に引っくり返すって意味じゃないからね」

「分かってるよ」

 

 返事は早い。でも、かぐやの手はもう棚の方へ伸びていた。

 

「分かってないでしょうが」

「まだ触ってないもん」

「今から触る手だったでしょ」

「触る前だから、まだセーフ」

「その理屈、一継さんにも使ってたよね」

 

 彩葉がため息をつく。いつものやり取りだった。でも、誰も笑わなかった。

 

 

 私は机へ向かった。見慣れた机。端末。紙の束。筆記具。

 

 この前、一継が買った手帳を探す。

 

 ない。

 

「……手帳」

「何?」

 

 かぐやが振り返った。

 

「この前買ったやつ。持っていってる」

「イツキが自分で欲しいって言ってたやつ?」

「うん」

 

 彩葉も寄ってくる。

 

「何か書いてあった?」

「知らない。見せてもらってないから」

「じゃあ、手がかりになるかは分からないね」

「でも、持っていったんだね」

 

 かぐやが言った。

 

「欲しいって、自分で選んだやつ」

 

 そうだった。一継が自分で、欲しいと言ったもの。

 

「持っていったんだ」

 

 かぐやが、少しだけ嬉しそうな、それでも苦しそうな顔をした。

 

「なら、全部捨てたわけじゃないよね」

 

 誰に言っているのか、分からなかった。たぶん、自分に。

 

 

 彩葉は端末の前に座った。

 

「私、共有データの方を見る。一継さんが何を整理したかは、追えるから」

 

 画面に、私には読めない情報が並んでいく。更新日。共有先。外された権限。書き足された説明。彩葉はそれを一つずつ確かめていく。

 

 かぐやは落ち着きなく部屋を歩き回っていた。

 

 私は棚を見る。一継が何を持っていって、何を残したのか。八千年分の癖を思い出しながら。

 

「服、少ないね」

「旅行くらい?」

 

 彩葉が画面を見たまま聞く。

 

「長く暮らすつもりなら、もっと要るよね」

「一継なら、行った先でどうにでもするよ」

「じゃあ、それじゃ何も分からないじゃん」

「そうだね」

「ヤチヨ」

「怒らないでよ」

「怒ってないよ」

「怒ってるねえ」

 

 かぐやが口を閉じた。

 

「……怒ってる。イツキに」

「うん」

「ヤチヨも怒ってる?」

「ものすごく」

「見えないよ、全然」

「見せてないからね」

「見せてよ」

「何を?」

「怒ってるところ。私だけ怒ってるみたいで、嫌なの」

 

 そんなことを言われるとは思わなかった。少し、笑いそうになった。でも、笑えなかった。

 

「じゃあ、見つけたら一緒に怒ろうか」

「うん。私、一番最初ね」

「私も言いたいこと、あるんだけど」

 

 彩葉が、画面から顔を上げないまま入ってきた。

 

「じゃあ三人同時に」

「それじゃ話が聞こえないでしょ」

「イツキなら、全部聞けるんじゃない?」

「万能扱いしないの」

「だって、イツキだし」

「だから、それが駄目なんだって」

 

 彩葉の声が、少し強くなった。かぐやが止まる。彩葉も、自分で気づいたらしい。

 

「……ごめん」

「なんで謝るの」

「いや」

「彩葉も、イツキに怒ってるんでしょ?」

「怒ってる」

「じゃあ一緒だね」

 

 かぐやはそれで納得した。彩葉は少し困った顔をして、また画面へ戻った。

 

 

 しばらく、操作の音と、物を確かめる小さな音だけが続いた。

 

 最初に何かを見つけたのは、彩葉だった。

 

「これ」

「何?」

「一継さんが最後に整理した資料。身体のことだけじゃない」

 

 表示が切り替わる。

 

「連絡先?」

「うん」

 

 一継自身の連絡先じゃなかった。私たちが困った時、研究のこと、生活のこと、手続きのこと。それぞれ、誰に連絡すればいいのか。

 

「ここまでやる?」

 

 かぐやが顔をしかめる。

 

「普通はやらない。少なくとも、ちょっと出かける人は」

「……ほんとに、帰る気なかったんだ」

「たぶん」

 

 彩葉が、画面を下へ送る。

 

「でも、変なんだよね。これだけ徹底してるのに、全部は切ってない」

「どういうこと?」

「研究室のアクセス権。一継さん自身の分だけ、残してある」

「忘れたんじゃない?」

「この人が?」

 

 確かに。

 

「じゃあ、戻ってくる気はあるってこと?」

 

 かぐやの声が明るくなる。彩葉は首を振った。

 

「分からない。戻るためじゃなくても、残しておく理由はあるから」

「たとえば?」

「私たちに何かあった時、遠くから確認するため」

 

 かぐやの顔から、明るさが消えた。

 

「それ、最悪」

「うん」

「いなくなるくせに、こっちのことは見るつもりなんだ」

 

 かぐやが拳を握る。

 

「ほんとに、最悪」

 

 私も同じことを思った。

 

「一継らしいね」

「褒めてないよね?」

「全然」

 

 でも、それで一つ分かった。一継は、私たちを捨てたわけじゃない。捨てられるわけがない。だから、離れた。

 

 それが一番、腹が立つ。

 

 

「彩葉。一継が私たちの様子を見るつもりなら、どこからでもできるの?」

「能力を使うなら、たぶん」

「じゃあ、場所なんて分からないじゃん」

 

 かぐやが言う。

 

「能力だけならね」

 

 彩葉が椅子から立ち上がった。

 

「でも、一継さん、今回は能力を使った跡をほとんど残してない。少なくとも、研究室側にも共有のところにも、何もない」

「隠してるの?」

「かもしれない。でも、それなら、もっと簡単に消えられたと思う」

 

 私も、同じことを考えていた。

 

 一継が本気で誰にも見つからない場所へ行きたいなら、私たちに追えない場所なんて、いくらでもある。

 

「……隠れたいわけじゃないのかな」

 

 かぐやが言った。

 

「見つけてほしいの?」

「それは違うと思う。一継なら、見つけてほしい時はもっと分かりやすくする」

「じゃあ、何?」

「ただ」

 

 部屋を見る。

 

「自分からは、帰らないだけ」

 

 かぐやが黙った。

 

「追ってくるなんて、思ってないんだよ」

 

 口にして、胸が痛くなった。

 

 一継は、私たちが追いかけてくると思っていない。自分がいなくなれば、最初は怒って、それからそのまま、三人で暮らしていくと思っている。

 

「……むかつく」

 

 かぐやが言った。

 

「うん」

「すっごく、むかつく」

「私も」

「じゃあ、絶対見つけようね」

「うん」

 

 

 その後、かぐやが寝室から何かを持ってきた。

 

「これ」

 

 小さな紙袋だった。

 

「何?」

「イツキの?」

 

 彩葉が覗き込む。

 

「お店の袋だね」

 

 見覚えがある。

 

「あの文具店」

「手帳を買ったとこ?」

「うん」

 

 中は空だった。捨て忘れたのかもしれない。かぐやが裏返しても、レシートすら入っていない。

 

「これだけ?」

「それだけ」

「手がかりじゃなかったか」

「でも」

 

 かぐやは、袋を見つめたまま言った。

 

「イツキ、あの日、ここに行きたいって言ったよね。前から気になってたって」

「言ったね」

「最近、イツキが自分で行きたいって言った場所、ほかにある?」

 

 考える。すぐには出てこない。

 

 身体を得てから。四人で話すようになってから。一継が自分の希望を口にしたこと。手帳。あの店。食べたいもの。旅行。

 

「……旅行」

 

 私が言うと、かぐやが首を傾げた。

 

「温泉? それ、ヤチヨのでしょ」

「一継は?」

「行けるなら、って言ってた」

「そうだね」

「ほかは?」

 

 彩葉が、考える顔になった。

 

「前に、海を見たいって言ってなかったかな」

 

 二人で、彩葉を見る。

 

「いつ?」

「研究室の帰り。泊まり込んだ夜に、迎えに来てもらった時。何年か前だけど」

「どこの海?」

「そこまでは」

 

 彩葉が眉を寄せる。

 

「正確には、海が見たい、じゃなくて……静かなところで、何もしないで海を見るのもいいかもしれない、だったかな」

 

 それだ。一継らしい。そして、今の一継なら。

 

「海……」

 

 かぐやが呟いた。

 

「でも、海っていっぱいあるよね」

「そうだね」

「日本だけでも」

「そうだねえ」

「八千年もいたら、世界中に知ってる海があるでしょ」

「それもそう」

「全然絞れてないじゃん」

 

 怒られた。

 

 

「……ねえ、彩葉。イツキ、どこまで行けるの?」

 

 かぐやが聞いた。彩葉は少し考えてから、首を振った。

 

「能力を使ってないなら、普通に移動してることになるけど……電車でも飛行機でも、何日もあれば、どこへでも行けるよ」

「どこへでもって……」

「一継、たぶん歩いてる」

 

 私が言うと、二人がこっちを向いた。

 

「歩いて?」

「あの人、歩くのが好きなの。会社からでも、散歩しながら帰るような人だよ。急ぐ理由がない時は、だいたい自分の足」

 

 彩葉が、何かを思い出したように眉を寄せた。

 

「……言われてみれば。終電を逃した夜、平気な顔で、じゃあ歩いて帰ろうかって言われたことある」

「歩いたの?」

「タクシー呼んだ」

 

 かぐやが玄関の方へ行って、すぐに戻ってきた。手に、薄いカードを一枚持っている。

 

「このICカード、イツキの? 靴箱の上のトレーに置いてあった」

「……置いていってるんだ」

 

 彩葉が、カードを受け取って裏返した。

 

「本当に、歩いてるんだ」

「歩きなら、そんなに遠くには行けないよね」

「何日も経ってるから、それでも結構な距離にはなるよ。ここから歩いて行ける海なんて、いくつもあるし」

 

 彩葉はそこで言葉を切って、少しの間、黙った。

 

「……さっきの海の話。あれ、電車の中だったんだ」

「電車?」

「研究室に泊まり込んで、一継さんが迎えに来てくれた夜。その日はちゃんと終電に間に合って、いつもの路線で帰ったの」

 

 彩葉の指が、膝の上で小さく動く。

 

「ドアの上の路線図を見てて、一継さんが言ったの。この線、終点の方は海沿いを走るんだよねって。それで、静かなところで何もしないで海を見るのもいいかもしれない、って」

「どこの駅かは?」

「言ってなかった。路線図の、海の方の端を見てただけ」

「線路沿いに歩いたんだと思う」

 

 私は言った。

 

「一継、ちゃんと能力を使えば迷わないけど、普段は普通に道に迷うんだよ。だから、迷わない道を選ぶ。線路に沿って歩けば、海まで一本だから」

「……イツキ、道に迷うの?」

「迷う迷う。八千年、何回置いていかれかけたか」

 

 かぐやが、ほんの少しだけ笑った。

 

「じゃあ、その線の、海のとこ」

「たぶん。……確証はないけど」

 

 彩葉が端末で路線図を開く。私たちがいつも乗る線を、終点の方へたどっていく。途中で線路が海岸へ出て、そこから終点まで、海沿いに駅が並んでいた。

 

「海沿いに出てから終点まで、九駅。電車なら一時間ちょっと。人の足でも、二、三日あれば着く距離」

「九つ……」

「でも、全部じゃない」

 

 彩葉が、一つずつ印をつけていく。

 

「ここと、ここは海水浴場の駅。人が多すぎる。こっちの二つは、駅から海まで遠い」

「じゃあ、残りは?」

「五つ」

 

 小さな港のある駅。古い駅舎の駅。住宅地の先に海岸がある駅。どれも、似たような町だった。

 

 

 彩葉が駅ごとの地図を開いている間、私は考えていた。

 

 一継が一人になりたい時、どこへ行くか。

 

 八千年の間に、いろんな場所へ行った。山。海。森。街。人の多いところ。誰もいないところ。

 

 でも、一継には癖がある。完全に誰もいない場所は、あまり選ばない。自分から人に話しかけるわけでもない。誰かの輪に混ざるわけでもない。

 

 ただ、遠くに人の暮らしがある場所。灯りが見えて、声が届いて、誰かが生きている。そういうところを選ぶ。

 

「一継、誰もいないところには行かないと思う」

「なんで?」

「昔から、そうだから」

 

 かぐやが、真剣に聞いている。

 

「一人になりたい時でも?」

「うん」

「変なの。一人になりたいなら、一人のところに行けばいいのに」

「たぶん、一人きりになりたいわけじゃないんだよ」

 

 言ってから、今の一継にもそのまま当てはまる気がした。

 

 一人になりたい。でも、誰もいないところへは行かない。

 

 それは、誰かに見つけてほしいという意味じゃない。ただ、本当の孤独は、一継だって怖いんだ。

 

「……馬鹿」

「イツキのこと?」

「うん」

「私もそう思う」

 

 かぐやが即答した。

 

 

「ヤチヨ。この五つの中で、一継さんが行きそうなところ、分かる?」

 

 彩葉が画面をこちらへ向けた。

 

 五つの町を、一つずつ見る。港。駅舎。海岸。どれも、少しずつ違う。

 

「……分からない」

 

 正直に言った。

 

「でも、こういうところだと思う。一継が、何かを諦めるって決めた時は」

 

 二人が、私を見た。

 

「諦める?」

「昔から、そうなの。何かを手放すって決めた時、一継は楽な場所を選ばない。誰かに助けてもらえるところでもなくて」

 

 地図の、海沿いの町を指でなぞる。

 

「でも、完全に一人にもならない。人はいる。暮らしもある。だけど、誰も一継を知らない。観光で来る人もいない。……そういう町」

「何それ」

 

 かぐやが顔をしかめた。

 

「面倒くさいね」

「八千年付き合ってきた私も、そう思う」

「じゃあ、どれ?」

「どれも全部、少しずつ当てはまる」

「なら、全部行こう」

 

 かぐやが即答する。

 

「手前から順番に。一つずつ」

「外れたら?」

「次に行けばいいよ」

「その次も外れたら?」

「また次」

「体力は?」

「あるよ。まだ全然ある」

 

 彩葉がため息をついて、端末を閉じた。

 

「……まあ、ここからだね」

「彩葉も来るの?」

「行くよ」

「研究は?」

「今日くらい、止める」

 

 かぐやが一瞬驚いて、それから笑った。

 

「じゃあ、行こう」

 

 私は、二人を見た。

 

 十年前、この二人を遠くから見ていた。ずっと、輪の外から。

 

 今は、三人で一継を探している。

 

 変なの。八千年かけて、こんな日が来るなんて。

 

「行こうか」

 

 私は言った。

 

 

 

◆

 

 

 

 一つ目は、外れだった。

 

 二つ目も。三つ目も。

 

「イツキー!」

「かぐや、大声出さないの」

「聞こえるかもしれないでしょ」

「隠れてたら、余計出てこなくなるって」

「じゃあ、どうすればいいの」

「探すの」

「探してるよ、ずっと」

「知ってる」

 

 私は苛々していた。彩葉も疲れた顔をしている。ヤチヨも。

 

 ヤチヨが身体を得てから、こんなに長く歩くのは初めてだと思う。時々、足が止まる。それでも、止まりたいとは言わなかった。

 

「次」

 

 彩葉が地図を見る。

 

「あと二つ」

「行こう」

 

 私が先に歩き出す。

 

「走らない」

「急いでるの」

「転んだら、余計遅くなるでしょ」

 

 ……それは、そう。

 

 走るのをやめて、ちゃんと歩いた。後ろで彩葉が「えらい」と小さく言った。聞こえないふりをした。

 

 

 四つ目も、いなかった。

 

 海だけがあった。波。釣りをしている人。犬の散歩をしている人。誰も座っていないベンチ。

 

 違う。ここじゃない。

 

 ベンチの前で、ヤチヨが少しだけ立ち止まった。何もない海を、しばらく見ていた。

 

「ヤチヨ?」

「……ううん。次、行こう」

 

 ヤチヨの横顔を見て、私はちょっとだけ怖くなった。

 

 もし、最後も外れたら。

 

「最後」

 

 自分の声が、少しだけ弱くなったのが分かった。彩葉は何も言わない。ヤチヨも。

 

 三人で、最後の町へ向かった。

 

 

 

◆

 

 

 

 海は、光で色を変える。

 

 朝は白っぽく、昼は青く、日が傾くにつれて少しずつ金色が混じっていく。雲が切れれば緑がかって、陰れば灰色に沈む。線路沿いを歩いてここへ着いてから三日、同じベンチから見ていて、同じ色の時は一度もなかった。

 

 あなたの目みたいに、いろんな色が見えるのかな。

 

 ずっと昔、そう言った人がいた。必ず行こうと約束して、今日でなくてもいいと言い続けて、とうとう連れてこられなかった人。

 

 その海を、僕は今、一人で見ている。

 

 膝の上には、手帳がある。

 

 最初のページに、明日したいこと、とだけ書いてある。その下は、まだ白い。家を出てから五日、何度も開いて、何度もペンを持って、一行も書けなかった。

 

 能力は使っていない。三人の様子を見ることも、していない。見れば、帰りたくなる。それが分かっていたから、目を閉じたままにしていた。

 

 だから、今、三人がどうしているのかを、僕は知らない。

 

 怒っているだろうか。もう、普段の暮らしへ戻り始めているだろうか。

 

 

 ――必要ないって言われるまで、家族までやめないで。

 

 あの家の台所で、そう言われたことがある。

 

 僕は、うん、と答えた。

 

 ふと、思った。

 

 三人のうち、誰か一人でも、僕に「必要ない」と言っただろうか。

 

 言っていない。誰も。

 

 かぐやは、四人と言った。彩葉さんは、一人で決めないでと言った。ヤチヨは、行ってらっしゃいと言った。

 

 言われる前に、僕が――

 

 波の音がして、考えが途切れた。

 

 日が、少しずつ傾いていく。手帳の白いページが、橙色に染まっていく。

 

 その続きを、僕は考えなかった。

 

 

 

◆

 

 

 

 着いた頃には、日が傾き始めていた。

 

 小さな駅だった。改札を抜けると、潮の匂いがした。駅前に店がいくつか並んでいて、そのうちの一軒から、魚を焼く匂いが流れてくる。奥には低い家並みが続き、屋根の向こうに、海が細く光っていた。

 

 観光地ではない。でも、人はいる。自転車の籠に買い物袋を載せた人が、坂を下りていく。どこかの家で、子どもが誰かを呼んでいる。誰も、私たちを気にしない。

 

 こういうところ。

 

「ヤチヨ?」

「……うん」

「いる?」

「分からない」

 

 分からない。でも、胸の奥がざわついていた。四つ目の町では、こうはならなかった。

 

 坂を下りて、海の方へ向かう。三人とも、もう口数が少なかった。一日歩き回った脚は重いのに、海が近づくにつれて、足だけが勝手に速くなる。

 

 防潮堤の切れ目を抜けたところで、かぐやが足を止めた。

 

「ねえ」

「何?」

「あれ」

 

 かぐやの指の先に、海沿いの道が延びていた。まだ灯りの入っていない街灯が、等間隔に並んでいる。その途中にベンチが一つあって、誰かが座っていた。

 

 遠い。顔は分からない。

 

 でも、少し前に傾いた背中。膝の上に置かれた手と、小さな手帳。夕日を受けて、黒い髪の縁だけが赤く光っている。

 

 その座り方を、私は八千年見てきた。

 

「……一継」

 

 声が出たのと、人影がこちらを向いたのは、ほとんど同時だった。

 

 何秒だったのか分からない。何年にも感じた。八千年より、長く感じた。

 

 一継が立ち上がった。膝から滑り落ちかけた手帳を、慌てて押さえる。

 

「……なんで」

 

 風に乗って、その声が届いた。

 

 

 かぐやが走り出した。

 

「イツキ!」

「かぐや、待っ――」

 

 彩葉の声は、もう届いていなかった。

 

 かぐやは一直線に一継の前まで行った。殴るかと思った。抱きつくかとも思った。

 

 どっちもしなかった。目の前で止まって、肩で息をしながら、睨みつける。

 

「何してるの」

 

 一継は答えなかった。

 

 私と彩葉が追いつく。近くで見た一継は、出ていった朝と同じ服を着ていた。靴が、白く埃をかぶっている。

 

 本当に、歩いてきたんだ。

 

 一継は私たちを順に見て、ほんの少しだけ、後ろへ下がりかけた。その顔に浮かんでいたのは、驚きだった。

 

 来るなんて、思っていなかった顔。

 

 それだけで、また腹が立った。

 

 

「なんで、来たの」

「迎えに」

 

 答えると、一継の表情が固まった。

 

「置いていかないって言ったの、そっちでしょ」

 

 ずっと昔、海の底で。暗い水の底にいた私の前に、この人は来た。

 

 一継の目が、わずかに揺れた。

 

 それでも、返ってきた言葉は変わらなかった。

 

「……帰らないよ」

 

 分かっていた。分かっていたのに、胸の奥が軋んだ。

 

「なんで」

 

 かぐやが一歩踏み出す。

 

「なんで帰らないの」

 

 一継は目を伏せた。

 

「三人は、もう僕がいなくても大丈夫だから」

「またそれ」

 

 かぐやの声が、波の音を割った。一継は顔を上げないまま、続ける。

 

「ヤチヨは、もう僕を待たなくていい。かぐやは、自分で未来を選べる。彩葉さんは、僕なしで研究をやり遂げた」

 

 横で、彩葉が小さく息を呑んだ。

 

「三人とも」

 

 一継が、笑った。いつもの、人を安心させる時の笑い方だった。

 

「僕がいない方が、自分たちの人生を生きられる」

 

 その優しさに、腹の底が冷えた。

 

 

 波が寄せて、砂を引いていく。それが二度、三度と繰り返されるあいだ、誰も口を開かなかった。

 

「それ」

 

 自分でも驚くくらい、静かな声が出た。

 

「誰が決めたの?」

「……何が」

「私が、一継を待たなくていいこと。かぐやが、一継なしで生きること。彩葉の人生に、一継がいない方がいいこと」

 

 一歩、距離を詰める。

 

「誰が決めたの?」

 

 答えは返ってこない。返ってこないこと自体が、答えだった。

 

「一継だよね。全部」

 

 一継が、目を逸らした。

 

 かぐやが何か言いかける。それより先に、私はもう一歩踏み込んだ。

 

「私たちが縛られてるかどうか、一継が決めないで」

 

 かぐやが隣に並ぶ。反対側に、彩葉が立った。

 

 三人で、一継の前に立つ。夕日が背中から差して、三つの影が一継の足元まで伸びていた。

 

「だから、今度は逃げないで聞いて」

 

 

 一継は逃げなかった。

 

 ただ、すぐには何も言わなかった。私たちの顔を一人ずつ見て、最後に私のところで目を止めて、ようやく口を開く。

 

「……何を、聞けばいいの」

 

 それも、私たちに聞くんだ。

 

「一継が言ったんでしょう。私たちは、一継がいるせいで自由じゃないって」

「そうは――」

「言ってるよ。言葉が違うだけ」

 

 遮られて、一継は口を閉じた。

 

「私が一継を待つことも。かぐやが一継のいる未来を考えることも。彩葉が一継を頼ることも。全部、自分がいるから仕方なくそうなってるって、考えたんでしょう」

「仕方なくとは、思ってないよ」

「じゃあ、何?」

 

 返事はなかった。それなら、こっちが続けるだけだ。

 

「私はね。八千年、一継が必要だったから一緒にいたんじゃないよ」

 

 一継の目が、わずかに動いた。

 

「もちろん、必要だった時もある。助けてもらったし、頼ったし、帰ってくるって思ってたから待ったこともある。でも、それだけじゃない」

 

 息を吸う。潮の匂いが、喉の奥まで入ってきた。

 

「一緒にいたかったから、一緒にいたの」

 

 口に出してみると、思っていたよりずっと簡単な言葉だった。八千年、どうしてこれを言わずに来られたんだろう。

 

「旅についていったのも。残って待ったのも。歌を聞かせたのも。帰ってきた一継に、おかえりって言ったのも」

 

 言葉にするたび、景色が一つずつ戻ってくる。砂埃の舞う街道。雪に埋もれた山小屋。灯りの少ない港町。どこにいても、最後には同じ顔が戸口に立っていた。

 

「全部、私が選んだ。一継に選ばされたんじゃない」

 

 一継が目を伏せた。

 

 その顔を見ていたら、喉の奥から何かがせり上がってきた。

 

「私の八千年を――」

 

 声が、裏返った。

 

「一継の罪みたいに、言わないでよ!」

 

 叫んでいた。自分の声が、海の上を渡っていくのが聞こえた。視界が滲んで、一継の輪郭がぼやける。頬を伝っていくものを、拭う気にもなれなかった。

 

 気づいたら、一継の胸元を掴んでいた。

 

「……そんなつもりじゃ」

「分かってる!」

 

 しゃくり上げそうになる喉を、無理やり押さえつけた。泣いているのに、声だけが止まらない。

 

「善意なのも、私のためだと思ってるのも、全部分かってる。分かってるから、怒ってるの。だから――」

 

 指に、力がこもった。

 

「八千年待たせたくせに、今さら置いていくなんて、許さないから」

 

 一継の顔が、歪んだ。唇が動く。けれど、言葉にはならなかった。

 

 掴んでいた指を、一本ずつ離す。手が、震えていた。身体があると、こんなところまで正直になる。

 

 

 私が下がると、入れ替わるようにかぐやが前へ出た。

 

 さっきまで真っ先に怒鳴っていた子が、今は妙に静かだった。

 

「イツキ。私、イツキがいなくても生きていけるよ」

「……うん」

「彩葉もいるし、ヤチヨもいる。配信もできるし、歌も歌える。一人で買い物にだって行ける」

「それは、最近できるようになったね」

「今それいらない」

「……ごめん」

 

 こんな時まで、と思う。一継も、かぐやも。

 

「でもね」

 

 かぐやが、一継を真っ直ぐ指さした。

 

「だから何なの? 生きていけるよ。でも、私はイツキと生きたいの。理由がいるの? イツキはいつも理由をつけるけど、私はいたいからいたいの。それじゃ駄目なの?」

 

 最後だけ、声が細くなった。

 

 怒っている。でも、その奥に、置いていかれた子どもみたいな不安が透けていた。

 

「……君が優しいから、そう言ってるんじゃないかって」

「まだ言うの?」

「最後まで聞いて」

「嫌だけど、聞く」

 

 かぐやは唇をぎゅっと結んで、待った。

 

「僕がいなくなったら、寂しいでしょう。だから今だけ、戻ってほしいと思ってるんじゃないかって。時間が経てば――」

「勝手に決めないで!」

 

 かぐやの声が、海へ跳ねた。

 

「未来の私の気持ちまで、イツキが決めないでよ!」

 

 拳が、一継の胸を叩いた。

 

 一度だけ。音もしないくらい、弱く。

 

 一継は避けなかった。

 

「……痛い?」

 

 拳を胸に当てたまま、かぐやが聞いた。

 

「痛くないよ」

「私は、痛かったよ」

 

 その声が、崩れた。

 

「イツキがいなくなってから、ずっと。朝起きても、ご飯食べても、ずっと痛かった」

 

 かぐやの目から、涙がこぼれた。

 

 拭わない。睨んだまま、泣いている。強がる時の顔と泣く時の顔が、同時に出ていた。

 

 

 一継の肩が、小さく揺れた。

 

 かぐやを見ているはずの目が、一瞬だけ、ここではないどこかを見た。昔から、時々こういう顔をする。その向こうに何があるのか、私も全部は知らない。

 

「……前にも」

 

 ひどく小さな声だった。

 

「同じことを、言われたことがある。勝手に決めないで、って」

 

 かぐやが、しゃくり上げながら瞬きをした。

 

「誰に?」

「昔の、大事な人に」

 

 かぐやは、それ以上は聞かなかった。代わりに、握っていた拳をほどいて、一継の服の胸元をつかんだ。

 

「じゃあ、二回目だね。……二回も、言わせないでよ」

「……うん」

「今の私は、イツキといたい。それだけ」

 

 服を離して、一歩下がる。袖で目元を乱暴にこすって、それでもまた滲んでくるのを、もう放っておくことにしたらしかった。

 

 

 彩葉は、まだ何も言っていなかった。

 

 ここへ来るまでの電車でも、外れた町を歩いているあいだも、彩葉はずっと地図と時刻表を見ていた。見ていないと、立っていられなかったのかもしれない。

 

 その彩葉が、一継の正面に立った。

 

「一継さん。私、言いましたよね。何か決める前に、話してくださいって」

「……うん」

「分かったって、言いましたよね」

「言った」

 

 彩葉の声が、跳ね上がった。

 

「一人で決めたじゃない!」

 

 かぐやがびくりと肩を揺らした。私も、思わず彩葉を見た。

 

「話してって言ったの! 分かったって言った! なのに資料だけ残して、朝になったらいなくなってて……!」

 

 十年、一継に敬語を崩したことのなかった彩葉が、肩で息をしていた。

 

「私が、どんな気持ちであの資料を読み返したと思ってんの」

 

 一継は、何も返せなかった。

 

 彩葉は大きく息を吸って、吐いた。もう一度、吸う。震えている手を、もう片方の手で握り込む。実験がうまくいかない夜、画面越しに何度も見た仕草だった。

 

「……研究室に泊まり込むたびに、迎えに来てくれましたよね」

 

 声が、少しだけ元に戻った。

 

「一人で抱え込まないでって、何回も言ってくれた。だから私、少しずつ頼れるようになったんです。何でも一人でできるようになれば、誰にも迷惑をかけない。頼らなくていい人になれば、ちゃんとした人になれる。昔の私は、本気でそう思ってましたから」

「……覚えてる」

「だから、今度は私が言います」

 

 彩葉が、一継を見上げた。目の縁が赤かった。

 

「役に立つことと、一緒にいたいことは、別です」

 

 一継の手が、何かを掴もうとするように動いて、何も掴まないまま下りた。

 

「一継さんにしかできないことがあるから、いてほしいんじゃないです。一継さんだから、いてほしいんです」

 

 そこで、彩葉の声が少しだけ崩れた。

 

「……一緒に、考えさせてほしかった」

 

 かぐやが、泣きながら小さく頷いた。

 

「……そう」

 

 

 三人分の言葉が、一継の前に置かれていた。

 

 一継はそれを一つも拾えないまま、立っていた。日が少し低くなって、その顔の半分を橙色に染めている。

 

「……三人とも」

 

 やっと出た声は、かすれていた。

 

「ありがとう」

 

 嫌な予感がした。この人は昔から、礼を言ってから断る。

 

「それで終わらせたら、怒るよ。ありがとう、嬉しい、でも帰らない。そういうの、やめてね」

 

 まだ鼻声のまま言うと、一継は困ったように眉を下げた。

 

「……まだ何も言ってないよ」

「八千年舐めんな」

 

 一継が、少しだけ苦笑した。その笑みも、すぐに消えた。

 

「怖いんだ」

 

 波の音にまぎれてしまいそうな声だった。

 

 一継は、海の方へ目を向けた。

 

「三人に必要とされているうちは、ここにいていいって思える。僕にしかできないことがあるなら、それを理由にできる」

 

 風が吹いた。手帳を握る指に、力がこもるのが見えた。

 

「でも、何もなくなったあと。僕がただ、一緒にいたいと思って残って。それでも――」

 

 言葉が、そこで途切れた。

 

「それでも、何」

 

 私が促す。一継は答えない。

 

「言ってよ、イツキ」

 

 かぐやが言う。

 

「一継さん」

 

 彩葉が呼ぶ。

 

 一継が、顔を上げた。

 

「もういなくてもいいって言われたら、僕には何も残らないんだよ!」

 

 

 叫び声が、海の上で散った。

 

 それきり、波の音しか聞こえなくなった。

 

 三人とも、動けなかった。八千年で、一継が声を荒げるのを聞いたことは、数えるほどしかない。誰かを守る時か、誰かのために怒る時。自分のことで叫ぶのを聞いたのは、たぶん、これが初めてだった。

 

 一継自身も、自分の声に驚いたように口元を押さえていた。

 

「……ごめん」

 

 謝る声が、かすれて震えていた。

 

 この人は、ずっと必要とされる人だった。助ける人。守る人。帰る人。誰かが困れば、誰かが求めれば、そこへ行く。八千年、それを続けてきた。

 

 だから、その役目がなくなったあとの自分を、知らないのだ。

 

 

 沖の方で、海鳥が一羽、低く鳴いた。

 

 その声が遠ざかってから、かぐやがぽつりと言った。

 

「……ねえ。研究室のアクセス権、残してたでしょ。遠くから、私たちのこと見るつもりだったんでしょ」

 

 一継が、少しだけ目を見開いた。

 

「……見てないよ」

「え?」

「出てから、一度も見てない。能力も使ってない」

「なんで?」

 

 答えが返ってくるまで、少し時間がかかった。

 

「見たら、帰りたくなるから」

 

 かぐやが瞬きをした。まつげに溜まっていた涙が、一粒落ちる。

 

「……それ」

 

 濡れた目が、真っ直ぐ一継を捉えた。

 

「帰りたかったんじゃん」

 

 泣いたまま、少しだけ笑っていた。

 

 一継は何か言い返そうとして口を開き、そのまま、何も出てこなかった。

 

 ああ、と思った。

 

 この人の中にも、ちゃんとあったんだ。

 

「……そっか」

 

 声に出すと、一継が意外そうにこちらを見た。

 

「何」

「もっと怒られるかと」

「怒ってるよ。ものすごく。でも」

 

 一歩、一継の前へ出る。

 

「やっと、一継の話になった」

 

 一継が口を閉ざす。私は指を一本立てた。

 

「ヤチヨのため」

 

 二本。

 

「かぐやのため」

 

 三本。

 

「彩葉のため。……さっきまで、ずっとそればっかりだった」

 

 手を下ろす。

 

「今、初めて、一継が怖いって言った。叫んだ。帰りたかったのも、否定しなかった。それでいいじゃん。怖いなら怖いって言えばいい。いてほしいって言われたいなら、そう言えばいい」

「そんなの……重いよ」

「八千年一緒にいる相手に、今さら言う?」

「重いよ」

 

 かぐやが、鼻をすすりながら割り込んだ。

 

「でも、いいの。重くていい」

「今さら、軽い関係でもないですし」

 

 彩葉が目元を指で拭いながら、静かに寄り添った。

 

 一継は、私たち三人を見た。信じられないものを見るような目だった。

 

「でも、いつか――」

「一継」

 

 その先を、私は言わせなかった。

 

「未来の話は、しない。未来の私は、未来の私たちが決める。一継も。未来の一継に任せて」

 

 一継の目が、私に戻ってくる。

 

「今の一継は、今、どうしたいの?」

 

 

 私が起きた日の夜、玄関で、かぐやが同じことを聞いていた。イツキが何したいか聞いてるの、と。

 

 あの時、一継は答えられなかった。

 

 今も、すぐには答えない。けれど、目を逸らさなかった。

 

 日が、水平線に触れかけていた。波打ち際が金色に光って、その光が少しずつ細くなっていく。たった数十秒の沈黙が、八千年よりも、この数日よりも長かった。

 

「……僕は」

 

 そこで止まる。かぐやが身を乗り出しかけて、彩葉がその腕をそっと押さえた。

 

「待って」

「だって」

「今は、待つの」

 

 かぐやが、唇を噛んで口を閉じる。

 

 一継が、もう一度息を吸った。

 

「僕も」

 

 声が震えていた。

 

「三人と」

 

 一度、目を閉じる。開いた目に、沈みかけた夕日が映っていた。

 

「一緒に、いたい」

 

 

 言い終えた一継の目から、一筋だけ、こぼれた。

 

 本人は気づいていないみたいだった。頬を伝って、顎の先で一瞬止まって、砂の上へ落ちた。

 

 八千年で、初めて見た。

 

 一継の顔に、不安が浮かんでいく。泣いていることにも気づかないまま、私たちの返事を待っている。

 

 その顔を見ていたら、泣いているのに、可笑しくなった。八千年経っても、この人はこんな顔をするんだ。

 

「遅い」

 

 自分の声が、ぐしゃぐしゃだった。

 

「……ごめん」

「八千年遅い」

「それは」

「あと五日くらい」

「急に細かいね」

 

 かぐやが、もう我慢できなかった。

 

 一継に飛びついて、胸に顔を押しつける。今度は、声を上げて泣いていた。

 

「いたいって言った。ちゃんと聞いたからね。もう取り消せないからね」

「……うん」

 

 一継の手が、ぎこちなくかぐやの背中に回る。壊れ物を確かめるみたいな手つきだった。

 

 彩葉が、一継の袖をつかんだ。そのまま、額を一継の肩に押し当てる。何も言わず肩だけが、小さく震えていた。

 

 私も、その中へ入った。

 

 四人でぐしゃぐしゃに固まって、海辺に立っていた。誰の涙なのか、もう分からなかった。

 

 一継の胸に額をつけると、心臓の音がした。速い。この人も、怖かったんだ。

 

「……帰ってきて、一継」

 

 長い間があった。

 

 波が寄せて、引いて、また寄せた。

 

「……ただいま」

 

 頭の上で、声がした。

 

「おかえり」

 

 三人の声が、重なった。

 

 

 ◇

 

 

 日が水平線に半分沈むまで、そうしていたのだと思う。

 

 最初に離れたのは、彩葉だった。袖で顔を拭って、まだ赤い目のまま一継を見上げる。

 

「今度勝手にいなくなったら、本当に怒りますから」

「今も怒ってるでしょう」

「もっとです」

「怖いな」

「自業自得です」

 

 一継が笑った。目の端はまだ濡れていたけれど、さっきまでの笑い方とは違っていた。

 

 かぐやは一継の腕にしがみついたまま、離れようとしない。目も鼻も真っ赤だった。

 

「で、イツキ。宿題は?」

「宿題?」

「明日、何したいか。考えてきてって言ったでしょ。片づけ以外で」

 

 一継が、手の中の手帳を見下ろした。

 

 ゆっくりと、最初のページを開く。私の位置からも見えた。明日したいこと、とだけ書いてあって、その下は白いままだった。

 

「……ずっと、書けなかったんだ」

「今は?」

 

 一継はしばらく、その白い行を見ていた。

 

「帰って、本の続きを読みたい」

 

 かぐやが目を丸くした。

 

「それだけ?」

「うん。途中だったんだ。棚に戻してきちゃったけど、まだ半分くらいで」

「地味」

「地味だね」

「……でも、イツキのだね、それ」

 

 かぐやが、にっと笑った。

 

「合格」

 

 一継はペンを取り出して、白い行に一行書き込んだ。少し迷ってから、もう一行。

 

 覗き込んだかぐやが、声に出して読み上げる。

 

「もう少しだけ、ここで、四人で海を見る」

 

 かぐやが顔を上げると、一継は照れたように目を逸らした。

 

「今日のぶん、まだ残ってるから」

 

 

 途中だった本の、続き。

 

 一継は昔から、何かを途中で置いていく人だ。帰ってきてから、続きをやるために。出ていったあの部屋には、その途中が一つもなかった。

 

 今、また一つ、続きができた。

 

 

 四人で、ベンチの前に並んだ。

 

 沈みかけた日が、海に一本の光の道を引いていた。金色だったそれが、見ているうちに橙に変わり、端の方から少しずつ紫に溶けていく。

 

 隣で、一継が海を見ていた。

 

 夕日を映した目が、光の加減で色を変える。金色に見えたかと思えば緑がかって、また橙に戻る。海と同じだ、と思った。

 

 最後の光が水平線に沈む少し前に、私は一継へ手を出した。

 

「何?」

「手」

「……」

「起きた日みたいだね」

「何の話?」

「こっちの話」

 

 一継が、少し首を傾げる。

 

「帰ろ」

 

 手を出したまま、待つ。

 

 一継の手が、ゆっくり重なった。あの日、初めてこの身体で触れた手。温かい。何も変わっていない。

 

「さっき、ただいまって言ったのに。まだ帰り道があるんだね」

「あるよ。帰り道も、ちゃんとあるの」

 

 その手を握る。

 

「でも、一人で帰るんじゃないよ。一緒に、帰ろ」

 

 指が、少しだけ強く握り返してきた。

 

「……うん」

 

 反対側の腕には、かぐやがくっついている。

 

「四人でね」

「うん」

 

 彩葉が、隣に並んだ。

 

「帰りましょう」

「……うん」

 

 海を背にして、四人で歩き出した。

 

 

 ◇

 

 

 駅へ戻る道は、細い上り坂だった。

 

 家々の窓に、ぽつぽつと灯りが入り始めている。どこかの台所から、煮物の匂いがした。来る時には目に入らなかったものが、今はちゃんと見える。

 

 かぐやと彩葉が先を歩いていた。かぐやはもう明日の肉鍋の具を考えていて、彩葉がそれを一つずつ復唱している。二人とも、まだ時々鼻をすすっていた。

 

 私と一継は、少し後ろを歩いた。

 

「ヤチヨ」

「何」

「この前の、答え」

 

 足が、少しだけ遅くなった。

 

「八千年で、僕が自分でしたかったこと。ずっと考えてた」

「……もういいって、言ったのに」

「忘れないって、言ったよ」

 

 一継は前を向いたまま、言った。

 

「帰ることだった」

 

 思わず、一継の横顔を見た。

 

「どこへ行っても、何をしていても、最後には君のところへ帰りたかった。誰かに頼まれたからじゃなくて、必要だからでもなくて。……帰るのは、僕がしたかったことだったんだ」

 

 坂の上で、かぐやが振り返って何か叫んでいる。彩葉が、その頭を押さえて前へ向かせた。

 

「自分でも、ずっと分からなかった。当たり前すぎて、それが自分の願いだって気づかなかった」

 

 海辺で、かぐやに「帰りたかったんじゃん」と言われた時。一継が何も言い返せなかった理由が、やっと分かった。

 

 八千年。一継が帰ってくるたびに、おかえりと言った。それは、私が選んだことだった。

 

 一継が帰ってきたのも、一継が選んだことだった。

 

 言いたいことが多すぎて、どれから言えばいいのか分からなかった。

 

「……そういうのは」

 

 でも、やっと声が出た。

 

「八千年の間に、言って」

「言えなかった。分からなかったんだ」

「知ってる」

 

 知ってる。だから腹が立つし、だから嬉しい。

 

「じゃあ、今聞いたから許す。……ちょっとだけ」

「ちょっとだけなんだ」

「残りは、これからの分で払って」

 

 一継が笑った。今度は何処かおかしそうな、いつもの笑みで。

 

「分割なんだね」

「八千年分だよ? 一括で払えると思わないで」

 

 胸の奥にずっと引っかかっていたものが、ほどけていく。私じゃ駄目だったのかな、と天井に向かって呟いた夜が、ずいぶん遠くに感じた。

 

 

 ◇

 

 

 帰りの電車で、かぐやは一継の肩にもたれて眠ってしまった。彩葉も、窓に頭を預けて目を閉じている。

 

 一継は二人を起こさないように、ずっと同じ姿勢で座っていた。窓の外を、暗い海が流れていく。やがて線路が海から離れて、見慣れた街の灯りが近づいてきた。

 

 マンションの廊下は、五日前と何も変わっていなかった。

 

 一継の部屋の前で、一継が一度だけ立ち止まった。数日前、自分で閉じた扉。もう戻らないつもりで出ていった場所。

 

 私たちは、何も言わずに待った。

 

 一継は、何も言わないまま扉を開けた。言うべきことは、もう海で言ったからだと思う。

 

 部屋の中も、出ていった時とほとんど変わっていない。かぐやのもの。彩葉のもの。私のもの。一継のもの。全部、そのままだ。

 

 かぐやは靴を脱ぐなり、台所へ向かった。電車でひと眠りしたせいか、もうすっかり元気になっている。

 

「ねえイツキ、明日の肉鍋、約束まだ有効だからね」

「覚えてるよ」

「牛と、豚と、鶏」

「全部か」

「全部」

 

 たぶん明日、一継はいっぱい肉を買ってくる。食べ切れるか不安なくらいに。でも、それでいい。

 

 一継は本棚の前に立って、一冊の文庫本を抜き出した。他の本と同じ顔をして、きちんと背を揃えて並んでいた、あの本だ。

 

 ソファに腰を下ろして、栞の挟まったページを開く。

 

 何ページも進まないうちに、台所からかぐやの声がした。

 

「イツキ、ちょっと来て。大きい鍋ってどこにしまってるの?」

「今行くよ」

 

 一継は本を開いたまま、背を上にして、ソファの肘掛けに伏せた。それから立ち上がって、台所へ向かっていく。

 

 私は、肘掛けの上の本を見た。

 

 開いたまま、背を上にして。

 

 

 ◇

 

 

 ソファの端に腰を下ろして、伏せた本を眺めていた。

 

 台所から、三人の声が聞こえてくる。鍋の大きさで揉めているらしい。

 

 たぶん、これで全部終わりじゃない。むしろ、ここからまた面倒なことが始まる。

 

 一継が急に全部変わるわけじゃない。また自分だけで何かを決めようとするかもしれないし、私たちだって、一継を頼りすぎることがあるかもしれない。あの数日間の怖さも、すぐには消えない。

 

 それでも、今度は言えばいい。怒ればいい。泣いて、喧嘩すればいい。

 

 八千年、今までだってそうしてきた。今さら綺麗に生きる必要なんてない。少しくらい面倒で、重くて、それでも一緒にいればいい。

 

 役に立つからでも、必要だからでもなく。

 

 ただ、一緒にいたいから。

 

「ヤチヨも来てよ。鍋、どっちがいいと思う?」

 

 台所から、かぐやが呼んだ。

 

「今行く」

 

 立ち上がる前に、もう一度だけ、伏せた本を見た。

 

 

 ◇

 

 

 棚の奥から大きい方の鍋を下ろしていると、すぐ後ろで三人の声がした。かぐやが鍋の大きさの話をしていて、彩葉がそれに呆れていて、ヤチヨが笑っている。

 

 鍋を抱えたまま、ソファの方を振り返る。肘掛けの上に、伏せたままの本が見えた。

 

 続きは、明日読めばいい。

 

 

 ――僕がいなくても、三人は生きていける。

 

 たぶん、僕はこれからもそう思う。だけど、今はそれが悪いことには思えない。

 

 その続きだけ、忘れなければ。

 

 

 ――それでも、僕は、三人と一緒にいたい。

 

 

 あの子が言ってくれた言葉。その後ろ半分の意味が、やっと分かった気がした。

 

 





かしこ
ハッピーエンドオォォオオ!!
私はIFエンドの方が好きです。三つ子の魂百まで。そう簡単に変わりません

本編はタイトルを優先しました。
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