【本編完結】転生したら八千年の遠回りをしていた件 〜生まれ変わっても、君と出会う〜 作:蠱毒は孤独
午後六時を回った研究所は、昼間とは別の建物みたいに静かだった。
研究員たちはもう帰っている。廊下の明かりは半分に落ちて、所長室に残っているのは私と、机の上で光っている画面だけだ。
画面の一番上には「次期研究計画(草案)」とある。
朝からずっと、白い。
正確に言えば、何度も書いては消した。午前中は測定データの確認会議で、一つの数字が三回続けて予想から外れた。午後は取材と講演の依頼への返信で、丁寧なお断りの文面を、言い回しを変えて七通書いた。その合間合間に、この白い画面へ戻ってきては、一行書いて、消した。
昼過ぎ、データの件で相談に来た研究員の子が、グラフを一目見た私に「所長、今ので分かったんですか」と目を丸くしていた。分かるも何も、見れば分かる。そう返したら、なぜか余計に変な顔をされた。なんでみんな、ああいう顔をするんだろう。
そういう細かいことは、どうにでもなる。
どうにもならないのは、この白さのほうだ。
どの依頼の文面にも、どの会議の終わりにも、同じ質問が付いてくる。
次は、何を。
やりたいことがないわけじゃない。むしろ、ありすぎるくらいだ。ただ、十年かけて追いかけた一つの目標のあとで、どれを「次」と呼んで一番前に置けばいいのかが、まだ決まらない。
私は椅子の背にもたれて、部屋を見回した。
壁一面の棚。ホワイトボード。応接用の小さなソファ。
最初の年、ここには机が二つと、段ボールの山しかなかった。
看板もまだ届いていなくて、借り物の椅子に座って、自分で段ボールを開けて、自分で配線を這わせた。初めて「所長」と呼ばれた時は、それが自分のことだと気づくまでに三秒かかった。
あのソファも、最初の年からある。
あそこで何度寝落ちしたか分からない。業界屈指のホワイト研究所を名乗ってはいるけれど、泊まり込みがまったくないわけじゃない。一番泊まっていたのが所長だった、というだけで。
そういう夜は、気がつくと肩に上着が掛かっていて、目を開けると一継が立っていた。
「迎えに来た」
何時だろうと、それだけ言う人だった。
寝ぼけたまま差し出された手を取ると、ぐいと引き起こされる。その手の温度を、帰り道のあいだずっと覚えていた年がある。今も、ちゃんと思い出せる。
試作のたびに、一継はあの作業台の前に立った。
掌をそっと載せて、サングラスの奥で目を閉じる。魂の側から、繋がるかどうかを確かめているのだと聞いていた。その間、私は息をするのも忘れて、首が縦に振られるか、横に振られるかを待っていた。
横に振られた日のほうが、ずっと多かった。
そして、縦に振られた日が来た。
あの日のことは、今もまだうまく言葉にできない。
――で、今だ。
私はもう一度画面を見て、白いままの草案を保存した。今日はここまで。これ以上にらんでいても、白いものは白い。
……私にも、何か能力が生えてこないだろうか。目標を決める能力とか。
いやいや。私が能力頼みになってどうする。一継だって、こういうことに能力は使わない。
……たいていのことは、できるのにね。まあ、一継らしいか。
妄想ごと端末を閉じて、鞄を肩に掛ける。所長室の明かりを消して、半分暗い廊下を歩く。
あの頃、この先の自動ドアの向こうで待っていたのは、たいてい一継一人だった。
研究所の自動ドアを抜けると、夜の空気が頬に触れた。
昼の熱はもう引いていて、袖口から入ってくる風が少し冷たい。一日中、空調の効いた部屋にこもっていたせいか、外の匂いがやけに濃く感じる。
「彩葉、おつかれー!」
植え込みの縁に座っていたかぐやが、ぴょんと立ち上がって手を振った。その隣でヤチヨも片手を上げ、少し離れた街灯の下では、一継が壁から背を離すところだった。
今日は、三人だった。
「……お疲れさま」
返した声が、自分で思っていたより低かった。かぐやが首を傾げる。
「声ひっく。今日そんなだった?」
「そんなだった」
それ以上説明する気力もない。並んで歩き出しながら、私は鞄の紐を握り直した。
駅へ向かう道には、帰りの人たちがまばらに流れている。どこかの店から、揚げ物の匂いが漂ってきた。
油と、塩。
吸い込んだ瞬間、胃のあたりで何かがはっきりと決まった。
「今日はもう、ジャンクで」
口に出すと、隣を歩いていた一継がこちらを見た。
「ジャンク」
「うん。栄養バランスとか、野菜とか、ちゃんとした晩ご飯とか、そういうの全部いったん忘れたい」
「なるほど」
一継は納得したように頷いた。
「じゃあ、モス?」
「なんで?」
反射で返していた。
「え?」
「なんで今の話を聞いてモスになるの」
「ハンバーガーだから」
「そこじゃない」
「ハンバーガーは、ジャンクじゃない?」
「分類の話はしてないの」
本当に分からない、という顔で首を傾げられる。
困ったように下がった目尻まで、ちゃんと見えた。
出会ってから長いあいだ、この人の目はいつも色の濃いレンズの向こうにあった。それが、二人の身体が目を覚ましたあの日に外されたきり、一度も戻っていない。おかげで、こういう時の顔は前よりずっと読みやすい。
ただ、そのぶん少しだけ直視しづらい。もともと下がり気味の目尻が、困るとさらに下がるのだ。
その目に、私は弱い。
「今日はマック」
「モスじゃなくて?」
「マック」
「どうして?」
「だから、今日はジャンクな気分なんだってば」
「モスもハンバーガーだよ」
「一継」
「はい」
「モスは、ちゃんと『ご飯食べよう』って日に行くところなの」
「……ハンバーガーなのに?」
「ハンバーガーでも」
「じゃあ、マックは?」
「今日はもう知らん、ポテト食べたい、油と塩と炭水化物くれ、って日に行くところ」
数秒。
一継は歩きながら、真剣に考え込んでいた。この人は、こういうところで手を抜かない。
「それ、かなり個人的な分類じゃない?」
「私の晩ご飯なんだから、私の分類でいいの」
「それはそうだね」
あっさり認められて、振り上げかけていた何かの行き場がなくなった。
後ろで、ヤチヨが小さく吹き出す。
「彩葉、今日ほんとに限界なんだね」
「限界だよ」
「うん。顔に書いてある」
ヤチヨは笑いながら、思い出したように隣を見た。
「でもさ、かぐや。晩ご飯、もう作ってあるよね」
足が止まりかけた。
そうだった。今朝、出がけにかぐやが「今日は私が作るから!」と宣言していたのを、今になって思い出す。
「……あ」
さっきまでの勢いが、すうっと引いていく。
「ごめん、かぐや。そうだよね。今日はまっすぐ帰って――」
「えっ、いいじゃんハンバーガー!」
かぐやの声が、私の言葉に被さった。
「行こ行こ! 私も食べたい!」
「……いいの?」
「いいよ? なんで?」
「なんでって、作ってくれたんでしょ」
「作ったよ。煮込みハンバーグ」
一継が、ほんの少しだけ間を置いた。
「ハンバーグを作って、ハンバーガーを食べに行くんだ」
「ガーがついたら別物でしょ」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
かぐやは胸を張ってから、指を一本立てた。
「それに煮込みは、明日食べた方が絶対おいしいの。一晩置いたら味しみるし。むしろ今日食べちゃう方がもったいないって」
「理屈は合ってるね」
ヤチヨが感心したように頷く。
「でしょ? だから今日はハンバーガーで、明日はハンバーグ。完璧じゃん」
完璧かどうかはともかく、胸の奥で少しほっとしている自分がいた。
「じゃあ近くにあるか調べる!」
言うが早いか、かぐやがスマホを取り出した。画面の上で指が忙しく跳ねる。
「あ、駅の向こう! ハンバーガー屋さん固まってるとこある! マックもあるし、モスもあるし、あと知らないとこもいっぱい!」
「そんなところあったっけ」
「あるある。ほら」
差し出された画面を覗き込むと、駅の反対側の一角に、見覚えのある看板の印がいくつも並んでいた。歩いて行ける距離だ。
マックも、モスも。
一継がちらりと私を見た。何も言わなかったけれど、今の一瞬で何を考えたのかは分かった。
今日は、マックだからね。
その時、ヤチヨがすっと一歩前に出た。
街灯の明かりを背に、片手を高く掲げる。まるでアニメのクライマックスみたいな立ち姿だった。
「これはもう――乗るしかないね。このビッグマックウェーブに!」
よく通る声だった。通りすがりの人が一人、ちらっとこっちを振り返って、そのままそそくさと足を速めていった。
私は瞬きをした。
かぐやも瞬きをした。
「……え、何?」
「ビッグマックの新しいCM?」
かぐやが真顔で聞き返す。ヤチヨの手が、空中で止まった。
何かのネタ、なんだろうか。
「……あれ」
「ごめん、知らない」
「私も」
掲げられていた手が、ゆっくりと下りていく。
「通じない……」
さっきまで街灯を背負っていた背中が、目に見えて小さくなった。私の推しがしょげている。普段なら大事件なのに、今日の頭は、まだ半分くらいポテトのことを考えていた。
……しょげても可愛いなぁ。
一継が、ヤチヨの肩にそっと手を置く。
「仕方ないよ。彩葉さんが生まれる前の言葉だから」
慰めのつもりだったのだと思う。声はとても優しかった。
ヤチヨが、ぴたりと止まった。
「……生まれる、前?」
「うん」
「……嘘だよね?」
ガバチョッと振り返ったヤチヨが、一継の腕を掴んだ。
「嘘だよね、一継!? そんな前じゃないよね!? ついこの間じゃん! ねえ!」
「ついこの間ではないかな」
「なんでそこは正直なの!?」
「嘘をつく理由がないから」
「今はあったでしょ! 今だけは!」
揺さぶられながら、一継が困ったようにこちらを見る。助けを求められても、こっちは何の話なのかもまだ分かっていない。ヤチヨの「ついこの間」が、私たちの物差しとまるで合っていないことだけは分かった。
まあ、この二人の物差しがずれているのは、いつものことだけれど。
とりあえず、出どころを調べてみる。
「乗るしかない」「ビッグウェーブ」と打ち込むと、答えはすぐに出てきた。
「えっと……二〇〇八年。日本で最初のiPhoneが発売された日に、お店の行列に並んでた人が、テレビの取材でそう答えたんだって」
読み上げると、ヤチヨが「そう、それ!」と勢いよく顔を上げた。分かってもらえたのが嬉しいらしい。
……うっ。顔がいい。
目を逸らすように、私は画面をもう少し下までなぞった。当時の行列の写真が載っている。店の前から歩道の先まで、ずらりと人が並んでいた。
「へえ」
思ったことが、そのまま口から出た。
「新しいスマホが出るたびに、お店に行列ができてた時代があったんだ」
ヤチヨの顔から、表情が抜け落ちた。
「……時代」
ぽつりと、その一言だけを繰り返す。それからふらりと道の端へ寄って、ガードレールの前にしゃがみ込んだ。
「時代……」
「あ」
そこでようやく、自分が何を言ったのか気がついた。
ただの感想だった。本当に、何の気もなしに出た言葉だった。
その何の気もない一言で、私は今、推しに止めを刺した。
……やってしまったッ。
「ち、違うの、ヤチヨ。ほら、昔のことでも、それだけ有名な言葉だったってことでしょ?」
「昔……」
「彩葉さん、それも追い打ちだと思う」
「一継が言い出したんでしょ!」
そんなつもりはなかった、みたいな顔をしない!
しゃがみ込んだヤチヨの隣に、かぐやもしゃがんだ。膝を抱えた肩を、ぽんぽんと叩く。
「ヤチヨー」
「なに……」
「冷めたポテトって、おいしいじゃん」
「……今その話?」
「今その話。揚げたてじゃなくても、しなってしてても、なんか無性に食べたくなる時あるでしょ。ヤチヨのネタも、それ」
「冷めてる前提なんだ……」
「揚げたてじゃないのは事実だし」
悪びれもせずに言ってから、かぐやはにっと笑った。
「でも私、冷めたポテト好きだよ。それに今日はジャンクの日なんだから、ちょっとくらい古くても全部アリでしょ」
ヤチヨが膝から顔を半分だけ上げて、私を見た。
「……アリ?」
さっき止めを刺した側に聞かないでほしい。でも、聞かれたら答えは一つしかなかった。
「アリ。今日はジャンクだから」
「万能だね、その言葉」
一継が感心したように言う。
「今日限定です」
ヤチヨは少しの間、黙っていた。
それから、すっくと立ち上がった。膝を払って、深く息を吸う。街灯の明かりが、またその背中に戻ってくる。
「じゃあ、改めて」
片手が、さっきよりも高く上がった。
「乗るしかない、このビッグマックウェーブに!」
「乗るー!」
今度は、かぐやが両手を上げて応えた。由来を知ったばかりのくせに、迷いが一つもない。
ヤチヨが目を輝かせて私を見る。かぐやも、垂れた目をいっそう丸くして見てくる。
……そんな目で見なくても、乗るってば。
今日はジャンクだから。
「……乗るー」
小さく片手を上げると、ヤチヨが嬉しそうに笑った。その笑顔を真正面から浴びてしまって、疲れていたはずの胸のどこかが、ちょっとだけ跳ねた。
私の周り、目の保養が過ぎる。
「一継は?」
「僕は、モスの波に乗りたいな」
「「「まだ言う!?」」」
三人分の声が揃った。
一継は、なぜか少し嬉しそうだった。
駅の向こうの空が、看板の明かりでうっすらと明るい。家の鍋の中では、かぐやの煮込みハンバーグが明日の出番を待っている。
油と塩と炭水化物の波へ向かって、私たちは四人で歩き出した。