その国を支配する城の空気は、いつも冬の夜のようだった。
天を突くほどに聳え立つ石造りの要塞。その最奥にある玉座の間は、どれほど多くの松明を灯そうとも、入り込む影を完全に払うことはできない。煤けた石壁は歴史の重み以上に、この城の主たちが纏う圧倒的な「死」の気配を吸い込んで、黒く淀んでいた。
「――ねえ、どうなってるのよ」
静寂を切り裂いたのは、鈴の音を転がしたような、しかし容赦のない傲慢さを孕んだ美女の声だった。
ケルト国の女王、メイヴ。
豪華な毛皮と豪奢な絹のドレスを身に纏い、豪壮な玉座に深く背を預けてふんぞり返っている。その美しい顔は、隠しようのない不機嫌さに歪んでいた。
完璧に手入れされた爪を椅子の肘掛けに小刻みに打ち付けながら、彼女は誰とも知れぬ闇に向かって吐き捨てる。
「アラヤに送り込んだ兵士たちから、いつまで経っても連絡がないじゃない。あの臆病者ども、まさか敵前で逃げ出したわけじゃないでしょうね? ――ありえないわ。だって彼らは、クーちゃんと私がどれだけ怖いか、身に染みて知っているはずなんだから」
それは傲慢な言葉であったが、紛れもない事実だった。
彼女の歪んだ願望によって築かれたこの軍勢において、王への恐怖と妄信は、どんな軍律よりも絶対の縛りとして機能している。逃亡などという選択肢は、彼らの脳裏に浮かびすらしないはずだった。
「…………」
メイヴの苛立ち混じりの独白を受け流しながら、窓辺に立つ巨大な影は微動だにしなかった。
クー・フーリン・オルタ――ケルト国の最強の「狂王」。
窓枠に荒々しく頬杖をつき、その爛々と輝く赤い瞳は、深く立ち込め始めた夜霧の街道をただ見下ろしている。彼の肉体を包む禍々しい外骨格の鎧が、退屈そうに向きを変えた拍子にギチリ、と硬質な音を立てた。
彼は無駄を極限まで嫌う。どれほど精鋭を送り込もうとも、アラヤの国境に到達したという報せすら戻らない。その非効率な現状そのものが、彼の神経を静かに逆撫でしていた。
「おい、メイヴ。ガタガタ騒ぐな。耳障りだ」
地を這うような低音の声音。だが、その一言には誰もが平伏せざるを得ない絶対的な覇気が籠もっていた。
「騒ぎたくもなるわよ! 私の勇士たちが、どこの馬の骨ともしれない『アラヤ』なんて国相手に、一言の伝令も残さず消えるなんて。ねえ、クーちゃん。退屈しのぎに、私が戦車を駆って様子を見に行ってあげましょうか?」
「……いや。不吉な匂いがする」
クー・フーリン・オルタは、窓の外を睨んだまま鼻を鳴らした。
風が運んでくるのは、中世ののどかな土や草の匂いではない。かつて無数の戦場を踏み越え、あらゆる死線を貪り食ってきた彼だからこそ察知できる、ねっとりとした、そして酷く人工的な「腐肉」の異臭だった。
沈黙が再び、二人の王の間に降りる。
連絡の途絶えた何百人もの精鋭。沈黙を保つ敵国アラヤ。そして、街道の奥から這い寄ってくる不気味な夜霧。
ケルト城を包む凍てついた静寂は、今まさに、最悪の形をしてその扉を叩こうとしていた。
――ドン、と重苦しい音が、城の静寂を乱暴にぶち破った。
鉄で補強された強固な玉座の間の扉が、内側へと大きく歪む。それは儀礼を知る者のノックなどでは決してなかった。まるで、知性を失った獣が肉体を投げ打って体当たりを繰り返しているかのような、無軌道で不気味な衝撃。
「な、何事よ……!?」
メイヴが眉をひそめ、不快そうに声を張り上げる。
だが、その疑問に誰も答える間もなく、ギギギ……と耳障りな音を立てて扉がゆっくりと開かれた。
滑り込んできた夜霧の向こうから、一人の男がよろめきながら入ってくる。
それは、間違いなくケルトの精鋭兵だった。しかし、その姿はあまりにも無残だった。緑色の外套はボロボロに引き裂かれ、皮膚の下を何かが蠢くように、全身の血管が黒く、禍々しく浮き出ている。
「お前……その無様な姿は何だ。アラヤはどうした」
クー・フーリン・オルタが窓辺から一歩を踏み出す。その赤い瞳が、兵士の肉体に走る異変を鋭く見抜いていた。
「あ……が、あ……」
兵士は虚ろな目で宙を掻き毟り、喉の奥から獣のような喘鳴を漏らした。
次の瞬間、彼の肉体が異様な音を立てて弾けた。
ピシ、ピシ、と骨が異常な角度できしむ音が響き、背中や首筋の皮膚を突き破って、赤黒い肉の『触手』がウジウジと這い出てくる。
それはまるで、意思を持った寄生虫が、宿主の肉体を内側から造り変えているかのようだった。人間の原型を失い、ドロドロとした粘液を撒き散らす化け物に呑まれたグールへと、男は急速に変貌していく。
「ヒッ……!? なにそれ、信じられない、酷く醜いわ……!」
メイヴが嫌悪感に顔を歪めて立ち上がる。
だが、グール化が完全に脳まで達する直前、兵士の濁った両目に、一瞬だけかつての理性の残影が灯った。
彼は目の前に立つ、禍々しくも圧倒的に強大だった己の『王』の姿を見つめる。その顔に浮かんだのは、恐怖ではなく、ただ申し訳なさそうな、深い自責の色だった。
「あ、兄貴……すんません……。みんな……アラヤに、辿り着けすらしなかった……」
それが、彼の人間としての最期の言葉だった。
直後、完全に理性が吹き飛び、兵士だったモノは絶叫とともに爪を突き立て、オルタニキへと跳びかかった。
「フン。」
クー・フーリン・オルタの表情は、ピクリとも動かなかった。
同情も、躊躇いもない。ただの「使えなくなった壊れた道具」を廃棄するかのように、彼は肩に担いでいたゲイ・ボルクを、無造作に振り抜いた。
刹那、轟音とともに突風が吹き荒れる。
赤いトゲトゲの巨大な槍が、迫るグールの胴体を真っ二つに叩き割った。容赦のない圧倒的な破壊力は、化け物の肉肉しい細胞ごと、その存在を玉座の間の石床へと文字通り粉砕し、肉片へと変えてみせる。
ドサリ、と不快な音を立てて、かつて部下だった肉塊が転がった。
クー・フーリン・オルタは槍を引くと、こびりついた不浄な血を床へと一振りで払い落とし、冷徹に言い放つ。
「俺一人で行く。他は足手纏いだ。ついてくるな」
「ちょっと待ちなさいよクーちゃん! 一国の王が一人で敵国を相手にしに行くの!?」
部屋を出ようとする背中に、メイヴが慌てて詰め寄る。だが、狂王は振り返りもせず、低い声で事実だけを口にした。
「こいつはアラヤにたどり着けすらしなかったと言った。おまけに、こんな変な化け物になっちまいやがった。……アラヤへの道中に、確実に『何か』がある。そいつを潰したら帰ってくる。それだけだ」
その言葉に一切の迷いはなかった。彼にとっては、王が城にふんぞり返ることよりも、目の前の障害を一番強い自分が最速で排除することの方が、遥かに合理的だった。
「もう! 勝手にしなさい! ――でも私もついていくわ!」
メイヴはドレスの裾を乱暴にまくり上げると、不機嫌そうに、しかしその瞳に激しい執着を宿して、足早に歩き出す王の後ろ姿を慌てて追いかけていった。
――バタン! と重厚な城門が閉まる音が、遠く玉座の間まで響いてきた。
嵐が去った後のような静寂が、再び冷たい石壁の間に満ちていく。床に残されたのは、クー・フーリン・オルタがゲイ・ボルクで叩き潰したグールの、赤黒い肉片と粘液の痕跡だけだった。
誰もが狂王の覇気と女王の激情に圧倒され、息を潜めていたその時。
玉座の間の片隅で、ずっと気配を消していた一人の男が、ふっと長い前髪をかき上げて前に進み出た。
「……ふむ。ついに来たね、私の時代が」
整った美貌に、どこか調子の良い笑みを浮かべた男――フィオナ騎士団の団長、フィン・マックールである。
彼は誰もいなくなった豪華な玉座を見つめ、実になめらかな足取りで近づいていく。そして、ケルトの最高権力の象徴であるその椅子の肘掛けに、愛おしそうにそっと細い指先を触れさせた。
「狂王も女王も不在となれば、この美貌と知略を兼ね備えた私が実質的なトップ。いや、臨時の王と言っても差し支えないだろう。さあ、皆の者、これからは私を――」
ガキィィィン!!!
フィンの言葉が最後まで紡がれることはなかった。
凄まじい金属音が玉座の間に鳴り響く。
見れば、部屋の左右に直立不動で控えていたケルトの兵士たちが、一斉に手にした大斧や巨剣を持ち上げ、フィンの頭上すれすれで交差させていた。
「…………」
兵士たちは一言も発しない。だが、その兜の奥の瞳には、ガチの殺意と不快感が満ち満ちていた。
彼らの魂が忠誠を誓っているのは、あくまで圧倒的な暴力で自分たちを従える狂王と、気高き女王メイヴだけである。留守になったからといって、このいささか胡散臭い元大英雄に玉座を汚させるつもりは毛頭なかった。
「だ、団長。……冗談ですよね?」
少し離れた場所から、困ったような苦笑いを浮かべた美貌の騎士――ディルムッド・オディナが、片手を額に当てて溜息混じりに声をかけた。彼の目は、「またうちのボスが余計なことをして命を危険に晒している」と完全に悟っている。
「も、もちろん冗談さ! ははは、私はただの留守番役だよ! ちょっと椅子の埃が気になっただけさ!」
フィンは背中に冷や汗を流しながら、慌てて玉座から両手を離して一歩後ろへと飛び退いた。
それを見て、兵士たちはチッ、と小さく舌打ちをしながら、何事もなかったかのように元の直立不動の姿勢へと武器を戻していく。
「やれやれ……。しかし団長、冗談はさておき、王が仰っていた『アラヤ国への道中にある何か』というのは、不穏ですね。戻ってきた兵の姿、あれは魔術の類とは思えません」
ディルムッドが床の肉片に視線を落とし、真剣な面持ちで呟く。
「ああ、そうだね。だが、あのクー・フーリンが直々に行ったのだ。どんな化け物が相手だろうと、最後には彼が全てを更地にして帰ってくるさ。私たちはここで、王の帰還にふさわしい歓迎の準備でもしていればいい」
フィンは乱れた衣服を整え、再びいつもの気取った笑顔に戻って窓の外を見つめた。
二人の王が去り、不穏な影を残したケルトの城。
だが、その狂王たちが向かった先には、キャメロットの騎士姫と、黒き狂騎士が待ち受けている。