忘却の揺り籠   作:みそそ

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第2話

深い森を抜けると、視界が一気に開けた。

 

穏やかな陽光が、見渡す限りのなだらかな丘陵地帯を黄金色に染め上げている。そよ風が草原を揺らし、心地よい草の匂いが鼻腔をくすぐる。

 

そんなのどかな街道を、年の頃なら十四、五歳といったところの少女が、軽やかな足取りで歩いていた。

 

「見てください、ランスロット! 遠くに街が見えてきましたよ!」

 

アルトリア・リリィ。

汚れを知らない純白のドレスのような鎧を纏い、ポニーテールに結った美しい金髪を揺らしながら、彼女は満面の笑みで振り返った。

 

その腰には、数々の豪華な装飾が施された、まばゆいほどに輝く「選定の剣」が()かれている。

 

アルトリア・リリィが希望に満ちた瞳で見つめる先――彼女のすぐ後ろには、その華奢な体躯とはあまりにも不釣り合いな、巨大な影が佇んでいた。

 

「…………ア、アァ…………」

 

バーサーカー・ランスロット。

全身を怨念のような漆黒の鎧で包み、スリット状のバイザーの奥で不気味な赤い眼光を妖しく明滅させている。

 

その姿は、のどかな草原の風景において完全に浮き上がった「呪い」そのものだった。理性は剥ぎ取られ、喉の奥から漏れ出るのは、地を這うような獣の呻き声だけだ。

 

普通の人間であれば、その姿を見ただけで悲鳴を上げて逃げ出すだろう。だが、アルトリア・リリィは怖がる素振りすら見せず、ふふっ、と鈴を転がしたように愛らしく笑った。

 

「ふふ、お腹が空いたのですか? ちょうど良かったです。ランスロット、あの街に入ったら、まずは今夜の宿を探しましょう。それから、温かくて美味しいお食事をたくさん食べましょうね」

 

「…………ア、ア……」

 

ランスロットの甲冑が、ギチリと小さく音を立てる。

言葉は返ってこない。だが、アルトリア・リリィには分かっていた。狂ってしまい、己の名すら忘却の彼方に沈んだこの黒き騎士が、自分を「アーサー王」の妹として――決して汚してはならない純白の光として、本能的に認識していることを。

 

彼はどれほど狂気に蝕まれようとも、アルトリア・リリィに刃を向けることは決してない。それどころか、彼女が歩調を速めれば静かに距離を詰め、彼女が立ち止まればその背を護るように無言の盾となる。

 

法も秩序も完璧だった美しい都市「キャメロット」を襲った、原因不明の奇病。それによって異形へと変貌しつつあった彼を救うため、アルトリア・リリィは周囲の反対を押し切って、一人でキャメロットを飛び出してきたのだ。

 

「さあ、そうと決まれば急ぎましょう! 行きますよ、ランスロット!」

 

まだ見ぬ街への期待に胸を膨らませ、アルトリア・リリィは無邪気に街道を駆け出した。

 

漆黒の狂騎士は、その白い背中を見失わないよう、ただ黙々と、しかし確かな足取りで彼女の後を追っていく。

 

それが、これから自分たちが足を踏み入れる街が、阿鼻叫喚の地獄へと変貌する引き金になるとも知らずに。

 

賑やかな声が聞こえてくるはずの街の入り口は、妙にひっそりとしていた。

どこか薄気味悪い静寂が漂う木造の門をくぐろうとしたその時、アルトリア・リリィたちの前に、ぎらぎらとした下卑た目を輝かせた男たちが立ち塞がった。

 

「おいおい、見ろよ。上等なカモが向こうから歩いてきやがったぜ」

 

下品な笑い声を上げて現れたのは、数人の盗賊たちだった。

彼らはアルトリア・リリィの可憐な姿をなめ回すように見つめ、その視線を腰の「選定の剣」へと移す。

 

中世の街道において、少女が持つにはあまりにも豪華すぎる装飾が施された魔剣。それは、無知な悪党たちの強欲を刺激するには十分すぎる輝きを放っていた。

 

「お嬢ちゃん、そんな立派な剣は重すぎるだろ? 俺たちが優しく預かっておいてやるよ。……それと、後ろのその不気味な黒い粗大ゴミも、引っ剥がせばいい鉄の値段になりそうだな」

 

盗賊の一人が、ニヤニヤと笑いながらアルトリア・リリィの華奢な肩へと汚れた手を伸ばす。

アルトリア・リリィはすっと身を翻し、毅然とした態度で剣の柄に手をかけた。

 

「……下がってください。私はキャメロットの騎士です。あなたたちに、この剣を渡すわけにはいきません!」

 

「はっ、騎士だってよ! 小娘が一人で何ができるって――」

 

男がアルトリア・リリィを力任せにねじ伏せようと、その腕を掴み、乱暴に引き寄せようとした。

 

――その瞬間。世界が凍りついた。

 

「ギ、ァ……ァァアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!」

 

それは、地獄の底から響き渡るような、凶悪極まりない獣の咆哮だった。

 

背後に佇んでいた漆黒の巨躯――ランスロットのバイザーの奥の眼光が、血のような真紅の輝きを爆発させる。

 

彼にとって、アルトリア・リリィが害されることは、世界が崩壊することと同義だった。剥ぎ取られた理性の奥底、魂の最深部に刻まれた『純白の騎士姫を護る』という絶対の絶対命令が、彼の肉体を爆発的な闘志へと変貌させる。

 

「う、うわっ!? なんだこの化け物は……!」

 

盗賊たちが恐怖に顔を青ざめ、一歩後退る。

だが、狂戦士の動きはそれよりも遥かに速かった。

 

ランスロットは身の丈ほどもある漆黒の魔剣を無造作に振り抜いた。凄まじい風圧とともに放たれた一撃は、最前線にいた盗賊の武器を、触れただけで一瞬にして粉々に粉砕する。

 

「アァァァァァァッ!!」

 

理性を完全に失ったランスロットは、ただの制裁ではなく、目の前の「敵」を跡形もなく肉片へと変えるための暴走を開始した。黒い魔力が甲冑から立ち上り、周囲の空間すらも禍々しく歪めていく。

 

「ランスロット! だめです、街中で戦うのは……! 人々の命まで奪ってはなりません!」

 

アルトリア・リリィの必死の叫び声が響く。しかし、狂化の呪詛に囚われたランスロットの耳には、その優しい声すらも、ただ敵を滅ぼせという焦燥の引き金にしかならなかった。

 

逃げ惑う盗賊たちの悲鳴を置き去りにしながら、黒き狂騎士は凄まじい足音を立てて、街の中心部へと突撃していく。

 

リリィは青ざめた顔で「待ってください!」と叫びながら、暴走するその背中を追って、混乱の渦へと飛び込んでいった。

 

「化け物だ! 黒い幽鬼が暴れてるぞ!!」

 

「誰か、誰か助けてくれ!」

 

静かだった街は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図へと変貌した。

逃げ惑う盗賊たちを追って街の中心部へとなだれ込んだランスロットは、もはや制動の利かない破壊の嵐と化していた。赤く光るバイザーの奥の視界は狂気で濁り、動くもの全てを「騎士姫を脅かす敵」と認識していく。

 

民衆にとっては、目の前で起きている事態の理由など知る由もない。ただ「呪われた黒い騎士が街の人々に襲いかかっている」ようにしか見えなかった。

 

「この、悪魔め! 街から出て行け!」

 

恐怖に駆られた勇気ある住民たちが、農業用の鍬や手斧を握りしめ、震える手でランスロットに立ち向かう。しかし、その決死の抵抗すらも、狂戦士の暴走を加速させるだけの薪に過ぎなかった。

 

「アァァァ、アアアアアアアッ!!」

 

ランスロットは、民衆が振り下ろした鍬を素手で掴み取ると、黒い魔力を伝播させて一瞬でへし折った。そして、怯える住民に向けて、漆黒の魔剣を容赦なく振り上げ――。

 

「――だめです、ランスロット! 止まってください!!」

 

その刃が住民の命を奪う寸前、白い影が二人の間に滑り込んだ。

 

アルトリア・リリィ。

彼女はランスロットの凄まじい剣の間合い、文字通り一歩間違えれば肉片に変えられる「死線」へと、躊躇うことなく自らの身体を投げ出したのだ。

 

「ア、ァ……!?」

 

振り下ろされるはずだった魔剣が、ピタリと、アルトリア・リリィの脳天のわずか数センチ上で静止した。

 

ランスロットの甲冑が、激しくギチギチと軋む音を立てる。バイザーの奥の紅い眼光が、激しく明滅した。

 

理性を失った頭脳に、目の前の少女が、自分がかつて全てを捧げて守ると誓った「騎士王(アーサー)」の姿と重なって映る。

 

(……私は、また……王に刃を向けるのか……?)

 

(我が誉れを、我が魂を、今度こそ守ると誓ったはずではなかったか……!?)

 

激しい精神の拒絶反応。狂化の呪詛を、魂に刻まれた本能的な「忠誠心」だけで無理やりねじ伏せる。ランスロットの口から、血を吐き出すような悲痛な唸り声が漏れた。

 

刃を向けることは絶対にできない。しかし、暴走する肉体の制動もすでに限界だった。

 

「ガ、アァァァッ!!」

 

ランスロットは、大きく振り上げていた魔剣の刃を、無理やり自身の背後へと叩きつけた。石畳が爆散し、凄まじい衝撃波が広がる。

 

そして、空いた無骨な鉄の掌で――アルトリア・リリィの胸元を乱暴に「突き飛ばした」。

 

「あっ……!?」

 

それは、彼女を傷つけるための攻撃ではない。致命傷を避け、この危険な戦場(死線)から彼女を遠ざけるための、狂騎士なりの精一杯の守護の形だった。

 

突き飛ばされたアルトリア・リリィは、勢いよく石畳の上を転がり、ドレスの裾を泥に染めながら倒れ込む。

 

「ランスロット……?」

 

痛む身体を抱えながら、アルトリア・リリィは顔を上げた。

その視線の先で、ランスロットは再び赤い眼光を爛々と輝かせ、誰彼構わず周囲を破壊するために、さらなる咆哮を上げていた。

 

もはやアルトリア・リリィの言葉すら届かない、完全な狂気の底へ、彼は沈んでいこうとしていた。

 

阿鼻叫喚の街。倒れ込む純白の騎士姫。そして、止まらない黒き狂騎士。

 

その絶望的な修羅場の中心に、二つの影が、今まさに足を踏み入れようとしていた。

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