街での大騒動を置き去りにし、アラヤ国へと続く街道を進む頃には、深い森はすっかり夜の帳に包まれていた。
月光すら遮るような鬱蒼とした木々の合間から、突如として、その巨大な影が姿を現した。
「あら、見て頂戴クーちゃん。こんな寂しい街道の途中に、随分と綺麗で大きなお屋敷があるじゃない」
メイヴが弾んだ声で指差したのは、石造りの重厚な門を構えた、立派な洋風の邸宅だった。レンガと堅牢な木材で組まれた美しい洋館である。窓からは、暖かなランプの光が優しく漏れていた。
「ちょうどもう日が暮れるわ。今夜はあのお屋敷に入れてもらえないかしら?」
「あの、メイヴさん……!?」
貢ぎ物のパンを抱えたメイヴの後ろを歩いていたアルトリア・リリィが、慌てて声を裏返した。
「ここは宿屋ではありませんよ。れっきとした個人のお屋敷です。見ず知らずの旅人がいきなり押しかけては、ご迷惑になります!」
「硬いこと言わないの。夜霧の森で野宿するより何倍もマシでしょ? ――ほら、クーちゃん、行きましょう」
「フン……」
クー・フーリン・オルタは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、アルトリア・リリィの常識的な制止など耳にも貸さず、のしのしと門へと歩き出した。門を守護していた兵士たちが、禍々しい骨の鎧を纏った巨躯に気づき、慌てて武器を構えようとする。
だが、クー・フーリン・オルタが赤い瞳でぎろりと一睨みし、その圧倒的な覇気で門番を完全に気圧したところで、すかさずメイヴが割り込んだ。自慢の美貌と女王としての
その間、アルトリア・リリィは隣を歩く黒き騎士を見上げていた。
先ほどクー・フーリン・オルタに石突きで首筋を叩かれ、気絶していたランスロットだったが、持ち前の頑強さですでに意識を取り戻し、自分の足でしっかりと歩いていた。バイザーの奥の紅い眼光も、今は静かに明滅している。
自力で歩けるとはいえ、先ほどの死闘で彼の黒い鎧は半壊し、その隙間からは不気味な触手が見え隠れしていた。アルトリア・リリィは胸を締め付けられるような切なさを抱きながら、強く思った。
(これ以上、彼を過酷な野宿で消耗させたくない……。ちゃんとした場所で、ランスロットを休ませてあげたい)
だからこそ、アルトリア・リリィはケルトの二人の王をただ静かに待つことにした。
「おっけーよ、お二人さん♪」
やがて、門番をあっさりと丸め込んだメイヴが、勝ち誇ったような笑みで手招きをした。
「中に入って良いって。さあ、遠慮なくお邪魔しましょう!」
「……では、失礼します」
アルトリア・リリィはホッとしたように頭を下げ、重厚な木製の扉を開けた。
手入れの行き届いた美しいエントランス。中に入ると、暖炉の薪がパチパチと爆ぜる心地よい音と、鼻をくすぐるスープの香ばしい匂いが一同を迎えた。
そして、その屋敷――の奥から、一人の少年が足音を響かせて歩いてくる。
「遠くから旅をしてこられたのですね。さあ、中へどうぞ。いま温かい食事を用意します」
中世の平民や職人が着るような、仕立ての良いシンプルな服を着た、赤髪の少年。
衛宮士郎が、異形や化け物を連れた不気味な一行を、疑うことも拒むこともせず、ただお人好しな笑顔で快く迎え入れた瞬間だった。
◇
「あら! 期待してなかったけど、意外とやるじゃない!」
大きなオーク材の食堂テーブルに並べられた料理の数々を見て、メイヴが嬉しそうに声を弾ませた。
中央に置かれた大鍋からは、ハーブと熟成肉の芳醇な香りが湯気と共に立ち上っている。
その周囲には、香ばしく焼き上げられた素朴な丸パン、新鮮な高原野菜のサラダ、そしてじっくりと火を通された大ぶりの肉料理が、テーブルから溢れんばかりに敷き詰められていた。
「美味しい……! こんなに温かくて、美味しいお料理、久しぶりです……!」
アルトリア・リリィはスプーンに取ったスープを一口含むなり、その瞳をひまわりのようにパッと輝かせた。過酷な旅の連続で荒みかけていた心が、お腹の中からじんわりと解きほぐされていくのが分かる。
「口に合って良かった。急な来客だからあり合わせだけど、たくさんあるから遠慮しないで食べてくれ。そっちの大きな騎士さんも、座って食べられるかい?」
士郎がそう言って、食堂の隅で静かに佇む黒き巨躯――ランスロットへと優しく視線を向けた。ランスロットはバイザーの奥の赤光を細め、「……ア……」と短く低く唸る。アルトリア・リリィはスープを飲み干すと、士郎に向かって深く頭を下げた。
「お気遣いありがとうございます、衛宮さん。彼は……こう見えてとても大人しいですから、どうか気にしないでください」
「…………」
その横で、クー・フーリン・オルらは一言も発さず、大皿に盛られた骨付き肉を無造作に掴み、凄まじい勢いで喰らっていた。
咀嚼し、骨ごと噛み砕く鈍い音が食堂に響く。行儀が良いとはお世辞にも言えなかったが、その食事の様子は、彼が士郎の料理を「文句なしに美味い」と認めている何よりの証拠だった。
肉をあらかた平らげ、無骨な手で口元を拭った狂王は、濁った赤い瞳でチラリと士郎を一瞥する。
(……ほう。ただのガキかと思ったが、肉の血抜きも、火の通し方も完璧だ。戦闘の役には立ちそうにねぇが、コックとしての腕はケルトに連れて帰りたいレベルだな)
クー・フーリン・オルタは内心でそんな傲慢な評価を下しながら、ふたたび黙々と次の料理へと手を伸ばした。
「ふふ、クーちゃんったら、本当に気に入っちゃったみたい。ねえあなた、うちのお城の料理番にならない? お給料ならいくらでも弾んであげるわよ?」
メイヴがワインのグラスを傾けながら、おどけた調子でスカウトを始める。
「ありがたい誘いだけど、俺にはここでやらなきゃいけないことがあるからさ。この屋敷を空けるわけにはいかないんだ」
士郎は苦笑しながら、穏やかに、しかしどこか譲れない強い意志を宿した瞳でそう断った。
パチパチと暖炉の薪が爆ぜる、温かく平和な食卓。だが、その穏やかな空気の裏側で、クー・フーリン・オルタの野生の嗅覚とメイヴの鋭い直感は、この屋敷が内包する「違和感」を、刻一刻と正確に捉え始めていた。
「おい、小僧」
骨付き肉を噛み砕く音がピタリと止まり、地を這うような低音が食堂の空気を一瞬で凍りつかせた。
クー・フーリン・オルタは手にした骨を皿へと乱暴に放り出すと、濁った赤い瞳で真っ直ぐに士郎を睨みつけた。
「俺はケルトから来た。兵をアラヤに送ったが、誰も国境に到達できず、一人はグールになって帰ってきた。残りの兵士の姿はどこにも見当たらねえ。……お前、何か知ってるんじゃねえのか?」
あまりにも直球で容赦のない尋問。アルトリア・リリィがハッと息を呑む中、士郎は驚く風もなく、手に持った布巾で静かにテーブルを拭いながら答えた。
「その人たちなら、ここを通り過ぎていったよ。何かあったとしたら、この先だな」
「へえ……」
メイヴがフォークを弄ぶ手を止め、冷ややかな、しかし妖艶な笑みを士郎に向けた。
「何百人ものケルトの精鋭が、この屋敷の前の街道を通り過ぎたのね。それなのに、あなたのようなただの子供が、今までグールたちに襲われず、こんな綺麗なお屋敷でピンピンして料理を作っていられるなんて、不思議なこともあるものね?」
女王としての鋭い直感が、士郎の「異常な落ち着き」の裏にある違和感を正確に突いていた。士郎は一瞬だけ視線を落としたが、すぐに顔を上げ、別の話題へと切り替えるように一同を見回した。
「で、そちらの方々はなんの用でここへ来たんですか?」
重苦しい沈黙を破ったのは、アルトリア・リリィの真摯な声だった。
「私はキャメロットから来ました。人々がグールになる原因不明の病気――『ミセラブル・コア』の治し方を探して旅をしているのです」
「ミセラブル・コア……」
士郎の表情が、初めて明らかな驚きと悲哀に曇った。彼は小さく溜息をつき、ぽつりと言葉を漏らす。
「ちょうど俺は、この屋敷でその病気を治す研究をしているんだ。……俺の兄も、その病気にかかっていてね」
「お兄さんが……!?」
アルトリア・リリィが身を乗り出す。士郎は切なげに目を細め、静かに語り出した。
「昔は誰よりも誇り高くて、アラヤの国を守る、傲慢なくらい強い人だったんだ。でも……ある事件をきっかけに、急に病気になっちまった。俺は何としてでも兄さんを救いたい。だからここに残って、研究を続けてる」
「衛宮さん……。実は、そのミセラブル・コアについて、キャメロットでの調査である『法則性』が分かってきたのです」
アルトリア・リリィは真剣な眼差しで、旅の中で突き止めた残酷な設定を口にした。
「あの病は、単に体に感染するものではありません。過酷な現実への絶望、自責の念、全てを忘れてしまいたいという『心の弱さ』……。そう考えるような弱った心に、ミセラブル・コアの呪いは入り込んで、肉体を変異させるのだと思います!」
「自責の念、全て忘れたい、か……」
オルタニキが、低くその言葉を繰り返した。脳裏に浮かぶのは、玉座の間でグール化した自国兵の、「兄貴すんません。辿り着けすらしなかった」という最期の言葉。
(あの野郎は、俺の前ではウジウジ悩んだり、後悔したりするようなタマじゃなかったはずだが……。)
狂王は冷徹に目を細める。
「そうです!実は、私のお供の騎士ランスロットは私の兄、アーサーと喧嘩をしてしまい、全てを忘れたいと彼らしくない弱音を言いました。その直後に、彼はグールに... 」
アルトリア・リリィが言うと、メイヴはワイングラスを弄びながら、ふんぞり返って呆れたように笑った。
「じゃあ、気持ちがいつもハッピーなら良いってこと? 簡単ね! それにしてもこの話、暗くて嫌だわ。悩んだって始まらないじゃない。まず敵はなんなのか、解決策はなんなのか、さっさと見つけて叩きましょう」
自責などとは無縁の、圧倒的な自己肯定感。女王の最強のポジティブメンタルが、食堂の重苦しい空気を一瞬で吹き飛ばした。
「――同感だ。小僧、部屋を借りるぞ」
オルタニキは席を立ち、寝室へと歩き出した。
それぞれの思惑を孕んだまま、屋敷は深夜の静寂へと沈んでいく。
しかし、この温かい温情の館の裏に隠された「本物の地獄」は、夜が更けると共に、ケルトの王たちのによって暴かれようとしていた。