深夜、衛宮邸は深い静寂の底に沈んでいた。
暖腹の薪はとうに燃え尽き、廊下を照らすランプの灯りも消え失せている。中世の冷たい夜気だけが、屋敷の隙間からひっそりと忍び込んでいた。
その暗闇の寝室で、クー・フーリン・オルタは最初から眠っていなかった。
禍々しい外骨格の鎧を軋ませることもなく、ただ静かに窓辺へと立ち、硝子越しに夜の景色を睨みつけている。彼の鋭い五感が、昼間から感じていた違和感の正体を、この深夜の静寂の中で完全に見極めていた。
(……チッ。やっぱりな。この屋敷の底から、妙な匂いがしやがる)
それは、昼間の美味な料理の香りで巧妙に隠されていた、ねっとりとした腐肉の異臭。
今日、玉座の間と街で幾度も嗅いだ、あのグールの匂いそのものだった。あの赤髪の小僧が何を隠していようが関係ない。己の軍勢を汚した不快な気配がこの足元にあるという事実だけで、狂王が動く理由としては十分すぎた。
クー・フーリン・オルタは音もなく寝室の扉を開け、暗い廊下へと足を踏み出した。
すると、隣の部屋の扉がかすかに開き、桃色の髪を揺らした美女が、音もなく滑り出てきた。
「待ってよ、クーちゃん。私を置いて一人で楽しむつもり?」
メイヴだった。
彼女もまた、最初から眠る気などなかったのだろう。ドレスの裾を片手で軽く持ち上げ、その瞳には夜行性の肉食獣のような鋭い輝きを宿している。
「私も調査を手伝ってあげるわ。あの生意気な小僧、私の勇士たちの行方を隠しているなら、ただじゃおかないんだから」
「勝手にしろ。邪魔だけはするなよ」
クー・フーリン・オルタは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、二人はそのまま屋敷の探索を開始した。
隠密、というにはあまりにも容赦がなかった。一階から二階へ、誰もいない部屋の扉をオルタニキが次々と無造作に開け放ち、中を冷徹に検分していく。
王としてのプライドと合理性しか持たない彼らに、他人のプライベートを尊重する気など微塵もなかった。
やがて、二人の足は一階の最奥、廊下の突き当たりにある重厚な鉄の扉の前で止まった。
匂いの源泉は、間違いなくこの先――地下へと続いている。
扉の取っ手には、これでもかというほど厳重な、極太の鉄の鍵がかかっていた。並の人間であれば鍵を探すか諦めるかの二択を迫られる状況だ。
「あら、随分と頑丈な鍵ね。クーちゃん、どうするの?」
メイヴが面白そうに覗き込む。
「ハッ、そんなもん、こうするに決まってるだろ」
クー・フーリン・オルタは冷たく笑うと、担いでいたゲイ・ボルクの石突きを、鍵の噛み合わせ部分に向けて迷いなく突き出した。
――ドンッッ!!!
深夜の静寂を激しい金属破壊音が叩き割る。
魔力を込めた一撃は、強固な鉄の鍵を木微塵に粉砕するだけに留まらず、重厚な扉そのものを枠ごと内側へとバキバキにへし折った。
「ちょっと、レディの前なんだから、もう少しエレガントに壊しなさいよ」
メイヴが耳を押さえながら小言を言うが、その口元は不敵に吊り上がっている。
へし折られた扉の向こうから、冷たく、そして昼間とは比較にならないほど濃密なグールの腐臭が、暗闇と共に一気に噴き出してきた。
狂王と女王は、そのおぞましい闇の階段を、躊躇うことなく見下ろした。
へし折られた扉の先、地下室へと続く石の階段を降りた二人を待っていたのは、緑がかった不気味な魔術の灯りだった。
ひんやりとした地下の空気は、鼻を突く薬品の匂いと、ねっとりとした腐肉の異臭で完全に飽和している。クー・フーリン・オルタとメイヴが足を踏み入れたその場所は、お人好しの少年が管理するにはあまりにも凄惨な、グールの実験場だった。
「……何よ、これ……」
さしものメイヴも、その光景に声を失った。
並ぶ手術台や頑丈な鉄の檻。そこには、全身を赤黒い触手に侵食され、異形の怪物と化したグールたちが何体も繋がれていた。肉を引き裂き、骨を変異させ、理性を奪われた哀れなモノたち。
だが、クー・フーリン・オルタの赤い瞳が捉えたのは、その変異のグロテスクさではなかった。
檻の中でウジウジと蠢くグールたちの身体。そこに辛うじて残っていたのは、見覚えのある緑色の外套であり、見覚えのあるケルトの紋様が刻まれた鎧の破片だった。
「これ……私たちの、兵士じゃない……!」
メイヴが驚愕の後に、激しい怒りで美しい顔を歪ませる。
アラヤ国へ送り込まれ、一言の連絡もなく消息を絶ったケルトの精鋭たち。彼らの一部は、この街道の、この温かいスープを振る舞う洋館の地下で、生きたまま拉致され、おぞましい実験の被験体にされていたのだ。
「…………」
クー・フーリン・オルタは黙ったまま、檻の中の変わり果てた部下たちをじっと見つめていた。
無駄死にを嫌い、部下を壊れた道具と切り捨てる王。だが、同時に彼はケルトの戦士だ。己の兵隊を化け物に変え、尊厳を蹂躙した不届き者を、生かしておく理由など万に一つも存在しなかった。
「――黒だな」
地を這うような低い声で、クー・フーリン・オルタは静かに結論を口にした。
――その瞬間、地上の一室。
ベッドの上に完全に衣服を着たまま横たわっていた衛宮士郎は、カッと目を見開いた。
地下の鉄扉が爆砕された凄まじい衝撃音と地響き。それが、自分の全てを隠した「秘密の部屋」から響いたものであることを、彼は瞬時に理解した。
(――バレた)
どこまで見られたか、どこまで勘付かれたかは分からない。だが、少しでも危ないと思ったら、逃げる。それがこの地獄のような街道で、彼が自分に課してきた絶対の生存ルールだった。
「くそっ……!」
士郎は迷うことなくベッドを飛び出すと、一切の荷物を持たずに部屋の窓を静かに開けた。夜霧が立ち込める冷たい夜の闇の中へ、その身を滑り込ませる。
背後から迫るであろう狂王の圧倒的な殺気から逃れるように、赤髪の少年は息を殺し、アラヤ国へと続く夜道をただ一心不乱に駆け出し始めていた。
「何があったのですか……!?」
地下の破壊音と凍りつくような殺気に気づき、廊下へと飛び出してきたアルトリア・リリィは、目の前の凄惨な光景に息を呑んだ。
壊された扉の先、緑色の不気味な魔光が漏れる地下室。そこから戻ってきたクー・フーリン・オルタとメイヴの顔には、昼間とは比較にならないほどの冷徹な怒りが満ちていた。
「寝ないと旅に響くって注意しに来たのなら、もう遅いわよ、アルトリア」
メイヴが冷ややかに、しかし怒りに震える声で告げる。
「あのお人好しの小僧の正体よ。地下の実験室に、私たちの国の兵士たちがいたの。化け物に変えられてね」
「そんな、衛宮さんが……!? あんなに温かいお料理を作ってくれた人が、どうして……!」
アルトリア・リリィは頭を殴られたような衝撃を受け、その場に立ち尽くした。信じていた少年の裏切り。だが、悲嘆に暮れる時間を狂王は与えない。
「奴がこの屋敷からいなくなった。逃げ足だけは速いらしいな」
クー・フーリン・オルタはゲイ・ボルクを握り直し、迷いなく玄関の扉へと向かう。メイヴも殺意を孕んだ瞳でその後に続いた。
「待ってください! 衛宮さんがそんな恐ろしいことを本当に……」
アルトリア・リリィの足がショックで竦みかける。だがその時、背後でガチリと重厚な甲冑の音が響いた。気絶から完全に覚醒したランスロットが、静かに彼女の肩へと無骨な鉄の手を置いたのだ。バイザーの奥の赤光は、行かねばならない、とアルトリア・リリィを諭すように静かに明滅している。
「……そうですね。確かめなければなりません。彼が本当に、そんなことをしていたのかを」
アルトリア・リリィは唇を強く噛み締めた。「選定の剣」の柄を握りしめ、4人は深夜の激しい
夜霧が立ち込める街道。月光すら届かない深い闇の中、クー・フーリン・オルタは、微かに残る士郎の魔力の残滓を正確に捉えていた。
「小僧の気配は真っ直ぐだ。この先の『アラヤ』へ逃げ込んでやがる」
風を切り裂き、凄まじい速度で夜道を駆ける狂王の背中を、3人は必死に追いかける。
やがて、夜霧の向こうから、求めていた境界線が姿を現した。
そこが、呪われた地――敵国『アラヤ』だった。
一歩足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような異様な静寂が一同を包み込む。
そこは、生気の一切を感じられない、完全なるゴーストタウンだった。かつて人々が暮らしていたであろう木造の家々はどれも窓が割れ、扉は朽ち果て、まるで国全体が巨大な墓標のように静まり返っている。
そしてその死の街の中心、月光を浴びて不気味に聳え立っていたのは、古びた、重厚な石造りの「教会」だった。
「小僧の魔力はこの教会の中から感じる」
クー・フーリン・オルタがゲイ・ボルクを構え、教会の重い木製の扉を見据える。
逃げ込んだ士郎が待ち受ける、異形の聖域。
ついに物語の舞台はアラヤ国の最深部へと到達し、すべてのパズルが残酷な真実へと繋がり始める。