忘却の揺り籠   作:みそそ

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第7話

――ズブ、と肉を裂く鈍い音。

 

クー・フーリン・オルタの放った渾身の突きは、精密な防衛マシーンと化していたエミヤ・オルタの心臓を、正確に、そして深く貫いていた。

 

「ガ……、あ……」

 

エミヤ・オルタの口から、黒い血液が音を立てて溢れ出る。彼の手から二丁の銃剣が力なく滑り落ち、石畳へと激しい音を立てて転がった。赤い槍を引き抜くと同時に、その漆黒の肉体は力なく崩れ落ちる。

 

「ハァ……、ハァ……、ちっ、大の大人を一人突き崩すだけで、随分と高くつかせやがった……」

 

クー・フーリン・オルタは内側から爆散した左肩の激痛に、不機嫌そうに顔を歪めた。ゲイ・ボルクを杖代わりに突き立て、荒い呼吸を繰り返しながら、ドサリと片膝をつく。どれほど強靭な身体を持とうとも、ロストワークスの直撃の代償は重かった。

 

「兄さん……! 兄さん、しっかりしてくれ!」

 

神父姿の士郎が、なりふり構わずエミヤ・オルタの元へと駆け寄り、その身体を抱き起こす。

 

――だが、本当の絶望は、決戦が終わったその瞬間に幕を開けた。

 

倒れたエミヤ・オルタの胸の傷口から、魔光を覆い隠すように、ドロドロとした黒い泥が噴き出し始めたのだ。そのおぞましい怨念の泥は、やがて質量を持ち、空間に歪んだ黄金の器――「聖杯」の形を成していく。

 

そして、その聖杯の縁から、ずるりと這い出てくる不吉な影があった。

 

その影は、目の前にいる「衛宮士郎」の姿をなぞるように滑らかに変異し、全く同じ容姿となって顕現した。ただ瞳だけが、復讐者の紋様を浮かべた濁った赤に染まっている。

 

「いやぁ! 最高に面白いものを見せてもらったぜ! 互いの肉体を切り刻むオルタ同士の死合い、いやぁ、実に傑作だ!」

 

ヘラヘラと下品な笑い声を上げて手を叩くのは、聖杯を汚染する泥の意思――『この世全ての悪(アンリマユ)』だった。

 

「お前……何者だ!?俺と同じ顔をして……!」

 

士郎が戦慄し、ガチガチと歯を鳴らす。

 

「俺が誰かなんてどうでもいいだろ? それより衛宮士郎、これはなぁ、キアラの呪いなんかじゃないぜ?」

 

アンリマユは偽物の笑みを浮かべ、士郎の肩に馴れ馴れしく手を置いた。

 

「ここに辿り着いた命知らずの皆さんに、本物の『真実』を見せてやろう。そこのお兄さんが、一体どんな美しい絶望の果てに化け物を生み出す苗床になったのかをなぁ!」

 

「や……、やめてくれ……っ」

 

聖杯が引きずり出されたことで、一時的に本来の理性を限界まで取り戻したエミヤ・オルタが、血を吐きながら悲痛な声を絞り出す。だが、アンリマユはその言葉を笑い飛ばした。

 

「遅いんだよ、お兄さん! さあ、上映開始だ!」

 

アンリマユが指を鳴らした瞬間、地下聖堂の冷たい闇の中に、ゆらりと巨大な光の映像が浮かび上がった。

 

それは、アラヤ国が地獄へと変貌する発端となった、あまりにも残酷な「過去の記憶」だった。

 

映像の中で、かつてアラヤの戦士だったエミヤは、教祖キアラの邪教の教団を壊滅させるべく、冷徹に刃を振るっていた。

 

正義のために「悪の信者」を一人残らず斬り殺していく。だが、その中に――彼が、そして士郎が誰よりもよく知る、日常の象徴だった女性の姿があった。

 

『――ようやく、私を見てくれた。おかえり、エミヤ……』

 

緑の外套を血に染め、倒れ込んだのは、藤村大河だった。

 

エミヤの頭が一瞬で真っ白になる。邪教の信者など、自分と同じ人間ではないと思っていた。だが、違った。みんな寂しくて、誰かと繋がりたくてそこに集まっていただけの、ただの傷ついた人間だったのだ。

 

自分が正義の騎士として職務を全うし、遠い戦場ばかりを見ている時、大河はいつも家で、たった一人でご飯を食べていた。

 

エミヤが幸せで暖かいと思ってた理想の家は、大河にとってはガチガチの秩序と規律で縛られた檻のように窮屈だったのだ。

 

映像の中の鉄の戦士(エミヤ)は、生まれて初めて、子供のように大粒の涙を流して泣き崩れた。

 

そしてその泣き叫ぶエミヤの姿を見下ろしながら、息絶える寸前の教祖キアラが、完璧な勝利を確信した、おぞましくも美しい勝ち誇った笑みを浮かべた。その最期の笑みが、エミヤの心を完全に粉砕した瞬間を、映像は残酷に映し出していた。

 

映像の中で、心が完全に崩壊したエミヤは、キアラが遺した聖杯を手にしてアラヤ国へと帰還していた。

 

アラヤの王に手柄を立てるつもりだった。けれど、もう何のために戦うのか、誰のために生きているのか分からなくなってしまった。

 

国のためだと思っていた大義の裏で、いつの間にか自分は『藤村大河』という、たった一人の家族のために頑張っていたのだと気づいてしまったからだ。

 

(自分は、一体誰のために、何のために、毎日毎日こんな血生臭い仕事を頑張っていたのか、何もかもが分からない。――全て、忘れられたら。どんなにいいだろう)

 

強烈な自責の絶望に突き落とされたエミヤのその切実な逃避の願いを、アンリマユに汚染された聖杯は、最悪の形で叶えてしまった。それが、国中の人間の記憶と自責を奪い、植物のような平穏な化け物に変える奇病――『ミセラブル・コア』の真実だった。

 

「嘘だ……嘘だろ……! あの場所に、藤ねえがいたなんて……っ!」

 

映像が消えた地下聖堂で、現在の士郎は涙を流して崩れ落ちた。

 

「士郎……」

 

エミヤオルタの白髪が、静かに揺れた。彼の身体から、不気味な触手ではなく、あたたかな光の粒子がサラサラと零れ落ちていく。その顔には、機械のような冷徹さはなく、かつての優しい兄の微笑みがあった。

 

「私はずっと、みんなの夢を見ていた。……案外、本物の忘却というのはいいものかもしれない。ようやく、大河に会って、謝ることができるのだから……」

 

彼は長い間、ミセラブル・コアに呑まれた民たちの集合無意識の中にいた。だからこそ、完全な消滅(忘却)の先は、みんながいる、寂しくない場所へ往けるのだと、本気で信じていた。それだけが、彼の魂の救いだった。

 

「そんなの……意味がわからないよ、兄さん……!!」

 

士郎の悲痛な叫びを置き去りにしながら、光の粒子となったエミヤ・オルタは、静かに地底の天井へと昇り、消滅していった。

 

「あはははは! 最高のメロドラマだ! ほら見ろよ衛宮士郎、お前の兄貴は完璧に救われてるじゃねえか! 次はお前が新しい苗床になる番だなぁ!」

 

アンリマユがゲラゲラと笑い、絶望に染まった士郎を取り込もうと襲いかかろうとする。しかし、クー・フーリン・オルタの冷徹な赤い瞳が、その卑劣な影を捉えていた。

 

「おい、泥人形。チョロチョロと、うるせぇんだよ」

 

クー・フーリン・オルタがゲイ・ボルクを構え直す。その圧倒的な殺気を前に、アンリマユは「おっと、狂王様はまだ元気だったか! じゃあな、お前らはその絶望の中で仲良く腐り果てな!」と吐き捨て、這い出てきた黄金の聖杯の中へとすばやく隠れた。魔力の塊である聖杯が、宙に浮き上がってそのまま逃げようとする。

 

並の魔術師であれば、概念の存在である聖杯を物理的に止める術はない。だが、目の前にいるのは理屈をすべて筋肉でねじ伏せてきた狂王だった。

 

「逃がすかよ、ゴミ箱が」

 

クー・フーリン・オルタは血に染まった右腕を伸ばすと、宙に浮く黄金の聖杯をガシィッッ!!!と力任せに鷲掴みにした。

 

「な、何やってるんだお前! 聖杯は魔力の塊だぞ!? そんな手で直に触ったら、呪いの泥が染み出して――」

 

「もう誰もいない国だろ。泥が出てこようが、ここで勝手に腐らせときゃいい」

 

クー・フーリン・オルタはそう言って、聖杯をマントで包んだ。だが、横からメイヴが鋭い声をあげる。

 

「バカ言わないで、クーちゃん! あんな不潔な泥、放置したらアラヤの地下水を通って、私たちのケルトにまで流れてきちゃうじゃない! 私の美しい国があんな泥まみれになるなんて、絶対に御免よ!」

 

「……チッ。そうだったな。水源を汚されて、俺の国の肉や野菜が食えなくなるのは寝覚めが悪い」

 

クー・フーリン・オルタはフンと鼻で笑った。

そして、空いた無骨な拳に禍々しい魔力を込め、地下聖堂の石床に向けて、渾身のパンチを叩き込んだ。

 

「――オラァァァアアアッッッ!!!!」

 

ドゴォォォォン!!! と地下全体が激しく揺れ、地鳴りとともに底の見えない巨大な大穴が床に穿たれた。クー・フーリン・オルタは自分のマントで何重にもに包まれた聖杯を、その暗黒の穴の底へと無造作に投げ捨てる。

 

クー・フーリン・オルタは指先からパチパチと魔力を走らせ、へし折られた床の境界に、神代北欧のルーン文字――『隔離』と『拒絶』の紋様をいくつも刻みつけた。

 

そして、周囲の崩れかけた巨大な石柱や瓦礫を、強靭な脚力で次々と穴へと蹴り飛ばし、大穴を完全に、完璧に埋め尽くした。

 

物理的な超質量による生き埋め、そして神代ルーンによる概念的隔離。どんな高尚な絶望も、世界の奇跡も、狂王の圧倒的なゴリ押しパワーの前には「ただのうるさいゴミ箱」として地底深くへ葬られるしかなかった。

 

「永久に消す方法は知らねぇが、俺のマントと神代のルーンで包んで地底深くに沈めときゃ、数百年は地上に漏れ出すこともねぇだろ。その間に、小僧。お前がこの泥を完全に消す術でも見つけろ」 

 

――ガタガタと鳴り響いていた地鳴りが、ようやく静かに収まっていった。

 

クー・フーリン・オルタによって無数の瓦礫で完全に埋め立てられ、神代のルーンでガチガチに固められた地底の大穴。その強固な封印を前に、教会の地下聖堂には、かつてないほど清らかな静寂が満ちていた。

 

苗床が還り、聖杯が物理的に完全シャットアウトされたことで、アラヤ国を覆っていた深い夜霧が、嘘のように静かに晴れていく。

 

窓から差し込む月光の下、神父姿の士郎は、埋め立てられた地面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

 

「俺は……兄さんを救いたかっただけなのに。たった一人の、家族を……」

 

彼はただ兄を救うという私欲のために全てを捧げてきた少年。だからこそ、自分の目の前で兄を殺し、その願いを「逃げだ」と一蹴したケルトの狂王を、彼は許すことができなかった。

 

「……クー・フーリン。いつか、お前を倒してやる。お前がどんなに強かろうが、俺は絶対に……っ」

 

士郎が、憎悪の瞳をオルタニキの背中へと向ける。

 

「士郎……! でも、悪いのはアンリマユで、クー・フーリンは――」

 

アルトリア・リリィが慌ててクー・フーリン・オルタを庇おうと声を上げるが、その言葉は最後まで続かなかった。背後に立つランスロットが、無言のまま彼女の肩に手を置き、そこから先を言うのを「首を振って」止めたからだ。

 

ランスロット自身、かつて「王の正しさ」の前に最愛の存在を巡って葛藤し、世界を呪った男。だからこそ、理屈では狂王が正しいと分かっていても、一人の男としてクー・フーリン・オルタに私怨の牙を剥く士郎の気持ちが、誰よりも痛いほど分かってしまったのだ。

 

そして何より、理不尽な恨みによる復讐でもいい。家族を失い、孤独になった士郎には生きる理由が必要だとランスロットは考えた。

 

「面白いじゃない。やれるもんならやってみなさいよ、小僧」

 

メイヴが女王の余裕でフンと鼻で笑う。クー・フーリン・オルタもまた、振り返ることもせず、血に染まった槍を肩に担ぎ直して小さくニヤリと笑った。新たな因縁すらも自分の力強さの糧にするかのように、二人は足早に教会を去っていく。

 

外に出ると、そこは深い霧の晴れた、寂しい廃墟の街並みだった。一つの国が滅びた哀愁を背に、四人はアラヤ国を後にした。

 

アラヤの死の土地を遠く離れた帰り道、そこは見渡す限りの緑が広がる、のどかで美しい草原だった。

 

心地よいそよ風が、アルトリア・リリィの金髪を揺らす。

その風が吹き抜けた瞬間、隣を歩いていた黒き巨躯の周囲から、不吉な黒い怨念の魔力が、サラサラと光の塵になって消えていくのが見えた。

 

「あ……」

 

アルトリア・リリィが足を止める。

 

カチャリ、と静かな音を立てて、ランスロットの頭部を覆っていた禍々しい兜が地面へと落ちた。呪詛の泥に塗れていた長い髪はさっぱりとした短髪になり、血と怨念で汚れていた漆黒の鎧は、陽光を浴びてまばゆいほどに輝く「純白の甲冑」へと変貌していく。

 

グール化から完全に解き放たれ、本来の高潔な姿――『セイバー・ランスロット』へと還った瞬間だった。

 

「ア……、アルトリア様」

 

バイザーの奥ではなく、澄んだ瞳がリリィを見つめ、穏やかで優しい本物の騎士の声が草原に響いた。

 

「ランスロット……! ああ、おかえりなさい、ランスロット……っ!!」

 

アルトリア・リリィの両目から、大粒の涙が溢れ出た。これまで張り詰めていた過酷な旅の緊張がすべて吹き飛び、彼女はひまわりのようにパッと明るい、満面の笑顔を咲かせる。

 

「あーあ、やっと見られる顔になったじゃない。あいつ、永遠に化け物のままアルトリアの荷物持ちにされるかと思ったわよ」

 

前を歩いていたメイヴが、呆れたように、しかし満足そうに髪をかき上げた。

 

「さあ、クーちゃん! フィンが今頃絶対に調子に乗って私達のお城の玉座を汚してるわ、早く帰らないと! じゃあね、お二人さん!」

 

感傷的な空気を笑い飛ばすように、メイヴはさっさと歩き出し、不機嫌そうに肩の傷をさする狂王の背中を慌てて追いかけていく。

 

アルトリア・リリィは、遠ざかっていく二人の背中を、じっと見つめていた。

 

(あなたたちは正直、客観的に見ていい人たちではありませんでした。国を放っておいて旅に出る無責任な人たちで、スリルを愛し、どこまでも合理的。自分たちの美学だけで動く、エゴの塊のような人たちです)

 

法も秩序も完璧なキャメロットの倫理観からすれば、彼らは決して「正しい王」ではなかった。

 

しかし、綺麗事だけでは決して救えなかったあの絶望の地獄を、彼らが力任せにブチ破ってくれたのもまた、紛れもない事実なのだ。

 

(――彼らのおかげで。絶望だらけのこの旅に、愉快な思い出ができたから)

 

アルトリア・リリィはそっと胸に手を当て、去りゆく二人の背中に向かって、小さく呟いた。

 

「……ありがとうございました」

 

少女の紡いだ感謝の声は爽やかな風に溶け、晴れ渡った空へと消えていく。

 

愉快な狂王と女王の背中が地平線の彼方へ見えなくなるまで、純白の騎士姫は、いつまでも、その場で笑顔で見送っていた。

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