薄く目を開けると、見慣れた白い天井が視界いっぱいに広がっていた。ぼんやりとした頭で何度か瞬きを繰り返す。
「…………あれ」
天井。カーテン。本棚。机。積み上げられた漫画。部屋の隅へ無造作に置かれたリュック。どれも見覚えがある。ゆっくりと身体を起こすと、見慣れた部屋だった。間違いない。ここは僕の部屋だった。
そこで僕は、ようやく現実を理解する。
「死んでなかった」
…………多分、あの瞬間に意識を切り替える能力が発動したんだろう。
レーザーが直撃する寸前、走馬灯のように日本での記憶が頭へ流れ込んできた。
その拍子に、無意識のうちに能力を使ってしまったのだ。
つまり、僕は生きている。
…………助かった。
普通ならそう思う場面なんだろう。でも、その言葉は胸のどこにも浮かんでこなかった。僕が真っ先に思い浮かべたのは、日本じゃない。砂色の巨体で突然現れた謎のゴーレム。そして、クリュス、ソーラさん、あの世界で出会った人たちだった。
…………クリュスは今頃どうしているだろう。
…………いや、"今頃"なんて存在しない。
向こうの時間は止まっている。
僕が戻らない限り、あの世界はレーザーが放たれたあの瞬間のままだ。
だけど、戻れば目の前にはあのゴーレムがいる。時間が止まるだけで、状況は何一つ変わらない。つまり戻れば、ほぼ確実に死ぬ。
その事実だけは、嫌というほど理解できた。
「…………」
時計の秒針だけが、静かな部屋へ響いている。
…………こんなにも静かな部屋だっただろうか。
昨日まで当たり前だったはずの景色が、まるで知らない場所みたいに感じる。帰って来られた。
…………助かった。
そう思うべきなのに、胸の奥には喪失感しか残っていなかった。自分だけが、あの世界から置いていかれてしまったような気がした。
もう一度戻りたい。クリュスに会いたい。ソーラさんと、またくだらない言い合いがしたい。
でも戻れない。戻れば死ぬ。それが分かっているから、能力を使うことすらできない。こんなにも帰りたい場所があるのに、自分の足で帰れない。
そんな自分が、どうしようもなく情けなかった。
僕は大きく息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
この部屋にいても、考えはまとまりそうになかった。
「………学校、行くか」
異世界では命懸けで走り回っていた。なのに日本へ戻った瞬間、待っているのはいつも通りの講義と、いつも通りの日常。
そのあまりにも大きな落差が、胸の奥を締め付けるように虚しかった。
だから僕は、何も考えないようにするためだけに、いつも通り学校へ向かった。
◇ ◇ ◇
学校へ着いても、頭の芯がずっと霞んでいるような感覚が抜けなかった。
まるで、自分だけ別の世界から迷い込んできたような気分だ。
席へ座り、先生が教室へ入ってきて、講義が始まる。それでも、頭の中に浮かぶのは異世界のことだけだった。午後の講義も同じ。
何も頭へ入らない。講義が終わったことにすら気付かず、隣の学生が立ち上がる音でようやく現実へ引き戻される。
帰宅しても何も変わらなかった。そのままベッドへ倒れ込み、天井を見つめる。
能力を使えば、あの世界へ戻れる。頭では何度もそう考える。
けれど、そのたびに脳裏へ浮かぶのは、あの眩しい閃光だった。戻れば死ぬ。その事実だけが、僕の身体を動けなくしていた。
スマホを開き、動画を流す。十分もしないうちに閉じる。漫画を手に取り、数ページ読んだところで内容が頭へ入らず、本を閉じる。ゲームを起動し、タイトル画面を眺めただけで電源を切った。何をしても面白くない。気付けばまた、異世界のことを考えている。
どれだけ画面を見つめても、目の前を流れていく情報が意味を持って頭に入ってこない。まるで自分と世界の間に薄い膜が張られていて、その向こう側で全部が起きているような感覚だった。かつては時間を忘れて没頭できたものたちが、今はただの雑音でしかなかった。
…………向こうの世界へ行きたい。
その気持ちだけが、日に日に大きくなっていった。
◇ ◇ ◇
翌日も、その次の日も同じだった。講義は耳に入らない。誰かと話す気にもなれない。夜は眠れず、朝になれば身体だけを無理やり学校へ運ぶ。鏡を見るたび、自分でも分かるくらい顔色が悪くなっていた。それでも、誰も何も言わない。当たり前だ。たかが数日元気がないくらいで、他人はそこまで気にしない。僕だって、そうだ。日本で好きだったものが、少しずつ色を失っていく。ゲームも。漫画も。動画も。大学生活も。全部が、ひどく退屈だった。
「…………死ななきゃよかった」
ふと、そんな言葉が口をついて出る。死ななければ、生き返ることもなかった。異世界を知ることもなかった。
あんなにも「生きたい」と思える場所に出会うこともなかった。
…………死ななきゃよかった。
きっと生きてても辛かったけど、楽しいこともあった。地元の親友と遊んでる時、漫画を読んでる時、ゲームをしている時、いっぱいあった。
きっと生きてた時の方が、まだ「生きたい」と思えていた。こんなにも「死」を軽く扱ってはいなかった。
きっと周りの人は、「時間が経てば忘れられる」とそう言ってくれるだろう。本当にそれでいいのかな。
…………でも、仮に忘れられたとして、その先には何がある?
また同じ毎日を繰り返し、また誰かとぶつかって、自分を嫌いになって、逃げたくなる。そんな未来しか思い浮かばない。
…………僕は、生き返るべきじゃなかった。
「死ななきゃよかったな」
その考えだけが、心の奥で少しずつ根を張り始めていた。
◇ ◇ ◇
そして、その次の日。僕は、一番会いたくなかった相手——あの日の友人と再会した。
講義を終え、次の教室へ向かおうと廊下を歩いていた時だった。
向こうから見慣れた顔が歩いてくる。楽しそうに友人と話しながら。
何事もなかったように笑いながら。
その姿が視界へ入った瞬間、僕の足はぴたりと止まった。
「…………」
向こうも僕に気付く。一瞬だけ目が合った。ほんの一秒にも満たない時間。それだけだった。友人は何も言わない。僕も何も言えない。
そのまま、お互い視線を逸らし、何事もなかったようにすれ違った。会話はなかった。ただ、それだけだった。
なのに、胸の奥へ押し込めていた何かが、一気に掻き回される。すれ違いざまに感じた空気の温度、あの一瞬の沈黙、笑い声が聞こえていた廊下の遠さ。そのすべてが、まだ乾いていなかった傷口をなぞるように蘇ってくる。頭では「もう終わったことだ」と分かっているのに、身体の方が勝手に強張っていた。
…………最悪だ。学校なんて来るんじゃなかった。
もう顔も見たくない。いや、違う。見たくないんじゃない。怖いんだ。
…………あの日のことを思い出してしまうから。
友人との、たった一度の口論。売り言葉に買い言葉。感情だけで吐き捨てた言葉。
それが最後になった。
友人は何も知らない。僕が死んだことも。異世界へ行ったことも。生き返ったことも。全部知らないまま、今も普通に大学生活を送っている。
…………それでいい。知らなくていい。
だけど、胸のどこかで、納得できない自分もいた。
◇ ◇ ◇
次の講義は実験だった。班分けを思い出す。
…………同じ班か。
嫌でも同じ空間へいなければならない。考えただけで胃が痛くなる。
「…………帰ろ」
小さく呟く。もうどうでもよかった。単位なんて。卒業なんて。就職なんて。全部。どうせ僕に居場所はない。異世界で暮らす事ももうできない。
「…………もう一度、死んでみるか」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に口から零れ落ちた。死ぬのは怖くない。もう、慣れたから。でも異世界にも戻って、あのゴーレムに殺されるのは嫌だ。
…………あれは痛そうだったからな。
全身を焼かれるような死に方は、できれば遠慮したい。だったら、もう一度、自ら死んだ方が楽に決まってる。
「今度はちゃんと、普通に死にたい」
…………もう、生き返りたくない。
そんな考えが、あまりにも当たり前のように頭へ浮かんでしまう。少し前までなら、こんなことを考えた自分に嫌悪感を抱いていたはずだ。なのに今は違う。「それもありか」と、冷静に選択肢の一つとして考えている自分がいた。親には悪いと思う。せっかく育ててもらったのに。それでも、もう限界だった。
自分の中で何かが静かに切り替わる音がした気がした。焦りも、恐怖も、驚くほど湧いてこない。ただ、長く煮詰まっていた感情が、ようやく行き場を見つけたような、奇妙な落ち着きだけがあった。
◇ ◇ ◇
帰り道、僕はふらりとホームセンターへ立ち寄った。特に何かを買うつもりだったわけじゃない。ただ、まっすぐ家に帰る気になれなかっただけだ。それでも足は自然と、いつかの記憶をなぞるように店の奥へ向かっていた。
店内を歩きながら、目的の文房具売り場へ向かう。刃物が並ぶ棚の前で足を止める。カッターを一つ手に取った。新品の刃は、蛍光灯の光を受けて静かに光っている。
「…………これでいいか」
その声は、自分でも驚くくらい落ち着いていた。迷いも震えもない。まるで日用品を選んでいるだけのような感覚だった。
そのまま近くの棚へ目を向けると、そこには色とりどりの入浴剤が並んでいる。ラベンダー、森林、柑橘など色々あったが、僕はラベンダーの香りと書かれた箱を手に取った。
…………最後くらい、ゆっくり風呂に入るのも悪くない。
そんなことを考えながら、レジへ向かう自分に、もう違和感すら覚えなくなっていた。何かを選ぶという、ただそれだけの行為が、こんなにも軽く感じられることが、自分でも少しだけ不思議だった。
◇ ◇ ◇
そうと決まれば、迷いはなかった。最初からあまりなかったが。
楽になれる。そう思うと、不思議なくらい足取りが軽かった。頭の中はやけに静かで、まるで長い間悩んでいたことにようやく答えが出たかのような、妙な満足感すらあった。
買ったものが入った袋を片手に提げ、僕は帰り道をゆっくりと歩いていた。夕方の住宅街は、いつも通りの音で満ちている。誰かの家からテレビの音が漏れ、遠くで犬が鳴き、自転車のベルが鳴った。
世界は何も変わらず回っている。その当たり前さが、今はどこか他人事のように感じられた。
そんな事を考え、死ぬ気満々で辺りを見回しながら歩いていると、着信音が鳴った。
知らない番号………市役所からだろうか。保険料か何かの払い忘れの催促かもしれない。
そんなことを考えながら、電話に出た。
「…………はい」
気だるげに、それでいてどこか投げやりに電話へ出た。今の僕にとって、電話の相手が誰であっても大した意味は持たなかった。
『あ、もしもし! ウラノ! 私です!』
その瞬間、足が止まった。聞き間違えようのない、あの独特な早口と、語尾に少しだけ甘えの滲む声色。何十回、何百回と頭の中で交わしてきた声だった。だからこそ、実際に耳から聞こえてくるという事実が、現実感を伴わないまま僕の頭を素通りしていく。
スマホを持つ手に、無意識に力がこもった。
『……………もしもし?』
「……………え?」
頭が真っ白になる。心臓が一拍飛ばしたような感覚がして、周りの音がすっと遠のいた。歩いていた足も、いつの間にか完全に止まっている。すれ違う人が怪訝そうにこちらを見た気がしたが、それすら気にならなかった。
そんなはずはない。だって、この世界にはあの人の声は届かないはずだ。そう自分に言い聞かせようとする僕の思考を置き去りにするように、電話の向こうの声は続けた。
『今、何してますか?』
「………」
…………なんで?
混乱する頭のまま、僕は何も答えられなかった。心臓だけが妙に大きな音を立てていて、耳の奥でその音がずっと響いている。手の中のスマホが、急に現実味を帯びた重さを持ち始めた気がした。頭の中では「ありえない」という言葉ばかりが空回りしていて、状況を整理しようとすればするほど、逆に何も考えられなくなっていく。足元がふわふわと浮いているような、変な感覚だけが続いていた。
『あのー聞こえてます? 私が誰かちゃんとわかってます?』
その念を押すような口調に、ようやく現実感が追いついてくる。呆然と立ち尽くしていた僕の耳に、その声が少しずつ輪郭を持って届き始めた。間違いない。何度も呼びかけられ、何度も呆れられ、それでもずっと隣にいてくれたあの声だ。声が本物だと理解した瞬間、喉の奥が勝手に締め付けられる。震える声で、僕はやっとの思いで名前を呼んだ。
「……ソーラ、さん?」
『あ、よかった。迷惑電話だと思われているのかと思いましたよ。分かってるならすぐ返事してください!』
「い、いや、だって……この世界では……見えないし、話せないって」
…………そうだ。前に言っていたじゃないか。この世界ではいつもみたいに姿を見ることも、話しかけることもできないって。
頭の中で交わしてきたあの会話とは、根本的に違うはずだった。今度は「できますよ、言いませんでしたっけ?」とは言えないはず。だってちゃんと言ってたし。
そう思うと同時に、じゃあどうして今こうして声が聞こえているのか、という当たり前の疑問がようやく頭に追いついてくる。何かがおかしい。でも、その「おかしさ」よりも、久しぶりに聞くこの声に、僕の胸の方が先に反応していた。
『はい、できません。だからこうして、電話して何してるか聞いてるんじゃないですか』
「………なんで、電話はできるんですか?」
『ケータイを持ってるからですよ』
「………」
…………ケータイ持ってるのか。女神なのに。
…………いやまあ、女神が持ってちゃいけないとかはないんだろうけど。
それにしたって、テレパシーは使えるのに姿は見せられなくて、電話なら普通にかけられるって、一体どういう仕組みになっているんだろう。突っ込みどころが多すぎて、逆に何から聞けばいいのか分からなくなる。
『そんなことより! 今、何してるんですか?』
その一言に、心臓が嫌な音を立てる。答えられなかった。答えたくなかった。袋の中身が、急に重く感じられる。手の中の袋の持ち手が、じわりと汗ばんでいくのが分かった。何気ない質問のはずなのに、まるで全部を見透かされているような気がして、声がうまく出てこない。
「………」
『なんで黙るんです?』
「…………何もしてませんよ」
『本当に?』
…………どうしてそこまで食い下がってくるんだろう。
苛立ちに似た感情が、喉の奥からせり上がってきた。
「………なんでそんなこと聞くんですか…………そんなに気になります?」
『はい、気になります』
…………なんでだよ。彼女かお前は!
思わず胸の内でそう呟いた直後、返ってきた言葉に、僕は完全に言葉を失った。ソーラさんは、僕が一番聞かれたくなかったことを、あまりにもまっすぐに言い当ててきたのだ。
『もしかしたら………ウラノがまた死のうとしてるんじゃないかってね』
「………」
その一言で、全身から力が抜けそうになった。
…………なぜ分かったのだろうか………エスパー? ………テレパシー使えるから未来予知とかもできるのだろうか?
…………じゃないとビンゴ過ぎて普通に怖い。
核心を突かれた気まずさと、それでも見透かされていたことへの恐怖のようなものが、同時に押し寄せてくる。僕は何も言えないまま、しばらく黙り込んだ。喉の奥に何かが詰まって、うまく息が吸えなかった。
「………」
『………当たりでしたか』
誤魔化しようがなかった。もう、隠す意味もない気がした。全身の力が抜けて、その場に立っているのがやっとだった。もう誰にも本当のことなんて言うつもりはなかったのに、気づけば喉の奥から言葉がこぼれ落ちようとしていた。
「………今日……死ぬつもりです」
言ってしまった。その瞬間、不思議なくらい肩の力が抜けていくのを感じた。ずっと一人で抱えていた決意を、誰かに言葉として渡してしまえたことに、安堵にも似た感覚があった。
同時に、後悔にも似た小さな痛みが胸をよぎる。よりによって、この人にだけは知られたくなかった。異世界で唯一、僕を見捨てなかった人だから。
でも、もう遅い。零れた言葉は戻ってこない。
どうせ止められたところで、僕の意志は変わらない。そう自分に言い聞かせながらも、心のどこかで、止めてほしいと願っている自分がいることにも、僕はうっすら気づいていた。
スマホの向こうが静かになる。その沈黙の数秒が、やけに長く感じられた。
『………………ウラノ………やめませんか?』
その声は、いつもの飄々とした調子とはまるで違っていた。真剣で、そしてどこか縋るような響きがあった。それでも、僕の中で固まってしまったものは、簡単には動かなかった。
「やめないです……………僕の意志は変わらない」
こんな所でやめるほど、僕の意志は緩くない。冗談で言ってるわけじゃあない。この先の未来も考え、その上で死ぬ事を選んだのだ。
「だって、あっちの世界にはもう戻れないし、ここにはもういたくないし。他にどうしようもないじゃないですか」
『…………何でいたくないんですか?………何があったのか、ちゃんと話してください』
どうしてと聞かれても、うまく言葉にできる自信なんてなかった。全部が絡み合って、どこから話せばいいのかも分からない。それでも、堰を切ったように、胸の奥に溜め込んでいたものが溢れ出した。夕方の住宅街を歩きながら、スマホを耳に当てたまま、僕は立ち止まっていた。誰かに見られているかもしれない、なんてことすら気にならなかった。
「…………もういいでしょ………僕の事なんて気にしてもしょうがない」
『………』
ソーラさんは黙った。僕が話すのを待っているのだろう。そんなに聞きたいのだろうか? 別に面白い話でもなんでもないのに。むしろ、大分重たい。こんな話を聞かされたら、誰だってネガティブな気持ちになる。
「…………………理解してもらえるか………分からないんですけど……」
そんな事を言いつつ、僕は自然と言葉にしていた。やっぱり僕はめんどくさいやつなんだ。結局は愚痴を聞いて欲しくて仕方がない小さい人間である。
「たった一回、友達に言われた言葉に凄く傷ついて………………もう、生きたくないって思ったんです」
『………』
「………それだけじゃないですけど……………今までも嫌な事はあったし、死にたくなる事もあった」
『………』
「………でも、きっかけはそれです………ただ、謝ってほしかっただけで」
僕は結局のところただの子供で、ただ一言の謝罪を望んでいた。
…………僕は本当にどうしようもない人間だ。なんでそんな事で死んだんだろうね。
だって、あの時はお互い喧嘩腰で話していた。売り言葉に買い言葉の応酬。お互い冷静な判断ができる状態じゃなかった。僕がいくら謝ってほしいと言ったところで、あの場で顧みるのは誰だって難しい。
…………僕はそれが分かっていなかった。
「どんだけ未練タラタラなんだって話ですよね……僕が生きてる限り……僕はあの記憶を忘れる事はできない………僕が死なない限り、僕は……変わらないんです」
多分、変わらないんじゃなくて、変わる勇気がないだけなんだと思う。傷ついたまま生きていくくらいなら、いっそ終わらせてしまいたい。何度もそう考えて、そのたびに同じ結論に辿り着いた。
時間が解決してくれるなんて言葉、僕には一度も効いたことがない。傷はただ表面が固まっていくだけで、下ではずっと同じ熱を持ったまま疼いている。誰かに触れられるたびに、それがまた開く。
だったら、いっそ最初から何も感じない場所へ行きたかった。生きている限り付き纏うこの痛みから、僕は本気で逃げたかったんだ。
「あの日、最後に言われた言葉がずっと僕の中にあるんです………「自分はこのスタンスで生きててお前よりも友達が多い」、「優しさだけじゃ関係は続かないってのはお前が証明してる」って」
思い出すだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。あの言葉を聞いた瞬間の、頭が真っ白になった感覚を、今でも鮮明に覚えている。反論しようにも、言葉が何一つ出てこなかった。だって、否定できなかったから。今までの自分を全部否定されたようで、それでいて、どこかで自分自身もそう思っていたから、余計に苦しかった。
「確かに言い方とかは酷いですけど………普通の人なら「ふーん」くらいで済んだじゃないですか?……でも、僕はそうじゃなかった……彼の最後の発言は……僕にとって、死にたくなるほど酷い言葉だったんです」
自分でも分かってる。世の中にはもっと酷いことを言われても平然としてる人はいくらでもいる。だから、これくらいで死のうとしてる自分が、どれだけ弱くて情けない人間か、痛いほど分かっているつもりだ。
それでも、あの一言は僕の中で一番柔らかい部分に、まっすぐ刺さってしまった。取り除こうとしても、抜けば抜くほど余計に血が滲むような、そんな傷だった。
「……ソーラさんには、感謝してます…………短い間ではありましたが、凄く楽しかった」
本当に、心の底からそう思っていた。誰かとこんなにも自然に軽口を叩き合えたのは、いつ以来だっただろう。呆れられても、面倒だと言われても、それでもソーラさんはいつも隣で喋りかけてきてくれた。あの賑やかさが、いつの間にか僕の日常の一部になっていたことに、失ってから初めて気づかされる。
「本当に………生まれ変わった気分だった」
あの世界で過ごした時間は、短かったはずなのに、日本での何年分よりも濃く、鮮やかに感じられた。誰かに必要とされて、誰かのために動いて、誰かと一緒に笑う。そんな当たり前のことが、僕にとってはどれだけ久しぶりだったか。
だった……本当にそれだけだった。戻って来てみればこのザマである。
「僕はね……メンヘラなんですよ…………男のメンヘラ程きついものってないでしょ?」
…………もう話したくないとか言いながら、謝ってほしかったってどんだけだよ………そりゃ友達少ないね。
自分で自分を笑いたくなるくらい、支離滅裂だ。話したくないのに聞いてほしい。死にたいのに、誰かに止めてほしい。矛盾だらけの自分に、いよいよ嫌気が差してくる。
…………いつから僕は、こんなにもつまらない人間になったのだろうか?
…………自虐を言う奴ほど面白くないとはこの事だね………でも、もうどうでもいい。
…………自分が嫌になるほど、死にたくなる。
「もう切って良いですか? …………これ以上話してると、辛すぎて泣きそうです」
本当はもっと言いたいことがはいっぱいあった。今までだって死にたくなることあったとか、こういう人に会うとそういう気持ちになるとか、誰かに優しくされるたびに「どうせいつか裏切られる」と身構えてしまう癖のこととか、自分でも制御できない感情の波のこととか。
でも、それを話したところで、きっと誰も理解できない。むしろ余計に呆れさせてしまうだけだ。だったら、これ以上は言わない方がいい。そう思って、僕は言葉を飲み込んだ。
「さよなら……ソーラさん……本当にありがとう」
言葉にしてしまった分だけ、胸の中が余計に苦しくなった気がした。誰かに聞いてもらいたかったはずなのに、話し終えた今は、それすらも後悔に変わっていく。こんな弱さを見せて、また嫌われるだけだ。そう思うと、電話越しの沈黙がひどく怖かった。
僕は電話を切った。震える指で画面を伏せる。もう何も聞きたくなかった。
♪♪♪
言い終えて安堵したのも束の間、ものの数秒で再び着信音が鳴る。画面に表示された名前を見て、僕は反射的に息を止めた。
「………」
何も言わず、ただ通話終了のボタンを押す。指先が少しだけ震えていた。
♪♪♪
(…………もういいよ、ソーラさん)
そんなにあの二次創作の続きが気になるなら、別の誰かに頼めばいいだろうに。ていうか、面白くしてほしいって言うくらいなら、原作読んどけばいいのに。
そんな八つ当たりじみた文句を頭の中で並べながらも、あまりにしつこい着信音についに折れて、僕は通話ボタンを押してしまった。
「………なんですか?」
つい強い口調で言ってしまった。僕が1番されたくない事をやってしまった。でも、もういいや。どうせ今日限りの人生だからね。
ソーラさんに何を言われてもこの気持ちが変わる気がしない。
『………あなたが死ぬなら私も死にます』
「………は?」
予想もしていなかった言葉に、思わず声が漏れる。
…………何がどうしたらそうなるのか意味が分からない。
(なんだ? こいつもメンヘラなのか)
『私、こんなんでも女神なので……あなたの様に死んだ人をあの世界に転生させていました』
あれ? さっきの悪口はセーフなの? ソーラさんには心の声が聞こえるから、またいつもみたいに「聞こえてますよ」って言われると思ったのに。それを承知で心の中で言ったのだが、ソーラさんは何も反応せずに言った。
『あなたと同じ様にあの世界へ転移させて、テレパシーで会話しながら……』
どうやら僕以外にも被害者はいたらしい。転生してきたのは僕だけじゃなかったんだ、という当たり前の事実が、なぜか妙に僕の胸を締め付けた。
『……でも、皆めんどくさいって言って、いなくなっていきました…………何度呼びかけても無視するし、日本に帰れると伝えた時だけ反応して、帰り方が分かった途端……誰も帰ってきませんでした』
「………」
『私……何で嫌われたのか……全然分かりませんでした………理由を聞いたら……ずっと頭の中に話しかけてきて“うざい”って……言われまして』
「………」
『人間って……こういう方しかいないのかなぁって………なら、仕方ないかなぁって……そう思ってた時……あなたと出会った』
「………」
『ウラノはいつもツッコんでくれましたよね? ……嬉しかったです……あなたのいる世界には、私に構ってくれる人がいないんじゃないかって思うくらい………私も、人付き合いが苦手なんです』
今度は僕が黙って聞く番だった。ソーラさんの声のトーンが、いつもの飄々としたものから少しずつ剥がれ落ちていくのが分かる。ずっと気楽な女神様だと思っていた人の、知らなかった一面を突きつけられているような気がした。
『私、めんどくさい女なんです………知ってるでしょ? …………今までも何度もそう言われてきました』
「………」
『……あなただけなんですよ……私と、ちゃんと話してくれた人』
「………」
…………ソーラさんは、僕と一緒なんだ。
誰かと話したくて、色々聞きたくて、知りたくて、でも不器用だから失敗する。めんどくさがられて、皆が離れていってしまう。
『私だって……似たような経験をして………ウラノと出会うまでは、ずっと辛かったです』
女神だからって、何も傷つかないわけじゃない。むしろ、あんなに賑やかに話しかけてきていたのは、それだけ寂しかったからなのかもしれない。そう思うと、今まで気安く適当にあしらっていた自分の態度が、急に恥ずかしくなった。
『だからって…………わかります、なんて軽はずみに言えることじゃないのもわかっています』
「………」
『でも……あなたがいなくなったら、私……本当に一人ぼっちになる…………嫌ですよ……』
「………」
『こんな何もない所でまた1人は嫌ッ!!』
急に子供のように駄々をこねる声になった。アンタいくつだよ。さっきまでの落ち着いた大人びた口調はどこへ行ったんだろう。そのあまりの落差に、少しだけ笑いそうになる自分がいた。
『あなた以外に誰が! こんなめんどくさい女に付き合ってくれるんですか!』
「………」
何も言い返せなかった。めんどくさい、なんて思ったことは一度もない。むしろ、あの賑やかなやり取りに何度救われたか分からない。でも、今それを口にする資格が自分にあるとは思えなかった。
『それにッ……原作読んでくれたじゃないですか……面白かったでしょ?』
急に話が飛んだ気がしたが、その突拍子のなさが、逆にソーラさんらしいと思ってしまった。こんな時まで、こんなにも自分らしくいられる人なんだ、この人は。
「…………はい」
『なら、一緒に話しましょうよ』
僕だって、できるならそうしたい。でも、もう異世界へは行けない。それはソーラさんもわかっているはずだ。
『もうあの世界にも行けないし、クリュスにも会えないですが、私、毎日電話します!』
その一言一言が、思っていたよりもずっとまっすぐに胸へ届いてくる。会えなくても、電話でいい。そう言い切れるソーラさんの強さに、僕は何も返せなかった。
『断言します!!』
ソーラさんが何かを断言するそうだ。だが生憎、ソーラさんが何を言いたいのか僕にもうわかっている。だって、この人は本当に僕に似ているから。
『私、ソーラ・システリアはあなたがいないと生きていけません!!』
「………」
まさかとは思ったが、本当に僕が思った通りの事を言って来た。
…………そんな断言を女神がするなよ。
でも、僕なんかの事をそんな風に思ってくれる人ができるなんて思わなかった。
ソーラさんのこと宣言はきっと本心だ。本当に自分には僕が必要だと思ってくれている。それに関しては、凄く嬉しい。
嬉しい、と思った瞬間、それ以上に強い罪悪感が押し寄せてきた。こんなにまっすぐな気持ちをぶつけてもらえる価値が、今の自分にあるとは思えなかったからだ。受け取ってしまえば、いつかまた失望させてしまう。そう思うと、素直に喜ぶことすら怖かった。
『私たち、すごく気が合うと思うんです! 趣味も合うし、側から見ればお互いめんどくさい性格してるし! ぜーったい! 一緒にいるべきです!!』
きっと……ソーラさん以上に僕を理解してくれる人はいない。僕以上にソーラさんとうまくやっていける人もいない。頭ではそう納得しかけている自分がいるのに、それでも心のどこかが、頑なにブレーキをかけ続けていた。
『私、絶対見捨てません!……ウラノとずっといます。逆に見捨てられないか心配なくらいですよ』
その言葉を、素直に受け取れたらどれだけ楽だろう。でも、僕の中には「どうせ」という言葉がこびりついていて、離れてくれない。信じたい気持ちと、信じることが怖いという気持ちが、頭の中でぐるぐると噛み合わないまま回り続けていた。
『………だから…………ウラノ…………』
ソーラさんの声は震えている。
正直、かなり突き動かされた。ソーラさんの思いは凄く、僕の心に。でも、僕は他人に期待できない。
もう分かってる。ソーラさんは女神だが、中身は普通の女の子なんだ。ソーラさんだって傷ついてきた。もしかしたら、僕よりも長い年月をそんな風に生きてきたかもしれない。
…………なのに………僕は………………。
「僕は変わるつもりないですよ」
『……………………え?』
◇ ◇ ◇
言ってしまった。僕が1番嫌いな言葉を……僕を思ってくれてる人に。だってそうでも言わないと、諦めてくれないと思ったから。僕はもう……生きたくない。僕にとって唯一の希望は死ぬことだけだから。
自分でも、最低なことを言っている自覚はあった。それでも、この人が本気で僕を引き止めようとしてくれるほど、その優しさに応えられない自分がみじめで仕方なかった。
『………どうして? 私の事……嫌い、なん、ですか?』
「それはないですよ……最初の印象は良くなかったし、その後も酷い扱いは散々受けたけど……それでもあなたは素敵な人です」
本心だ。この人は僕にはもったいないくらい良い女神だと思う。だからこそ、これ以上関わって、いつか失望されるのが怖かった。好きになればなるほど、失う痛みも大きくなる。だったら、最初から手放してしまった方がいい。そんな臆病な計算が、僕の中でずっと働いていた。
『……だったら』
見えないが、ソーラさんは泣いているだろう。声で分かる。鼻をすする音、途切れがちな息継ぎ、言葉の合間に挟まる小さな嗚咽。電話越しでもはっきりと伝わってくるそれに、僕の胸もじわりと痛んだ。
「だからこそ!…………嫌われたくないんです……どんなに良い人だって機嫌が悪い時だってある。それすら受け入れられない器の小さい男が僕です。……ソーラさんにまで見放されたら……」
僕は最低だ。ソーラさんはそんな人じゃないと信じてあげることができない。傷つきたくないんだ。
「今しかないんです。死ぬ覚悟ができてる今しか……時間が経てば、僕はまた死ぬのが怖くなるかもしれないじゃないですか」
そんなん知らんって感じすよね。自分でもめちゃくちゃなことを言ってる自覚はあった。でも、この覚悟が薄れてしまう前に終わらせなければ、僕はまたずるずると生き続けて、また同じように傷ついて、また同じように死にたくなる。その繰り返しから、今度こそ抜け出したかった。
「たった数日間の付き合いしかないソーラさんに希望を期待をするより、今死ぬ方がッ! ずっとッ!……あっ」
…………ダメだな、僕は。もう遅いとは思うが、この先は言えない。
今ソーラさんがどんな気持ちで聞いているか。「どうせ僕がどうなろうと気にしてないでしょ?」と普段なら思うが、バカな僕でも分かる。
その先は、死んでも言っちゃだめだ。僕を救おうとしてくれた……この人だけには。
『そうですか……』
ソーラさんの声は凄く冷たかった。呆れられてしまったのか。そりゃそうだろう。ここまで言ってくれた人すら、僕は信じれなくなっているのだ。突き放すような静けさが、電話越しにひやりと伝わってくる。自分から遠ざけておいて、その反応に傷ついている自分が、我ながら滑稽だった。
「……ごめんなさい」
…………原因は全て僕だ……僕が……悪いんです。
僕は最低で、クズで、ネガティブで、話が長くて、リアクションが薄くて、一緒にいても得があるわけでもなくて、器が小さくて、短期で、デリカシーがなくて、モラルがなくて、頭も悪くて、運動もできなくて、優しくされたらすぐに勘違いして、逆に怒られたらすぐに苦手になって、自分語りが多くて、人の話を聞くのは苦手で、場を盛り上げるのが苦手で、逆に場を盛り下げるのは得意で、人の悪口ばっか言って、陰でもいって、インキャで、ネクラで、独りよがりで、だらしなくて、頼りなくて、私服もダサくて、遅刻も多くて、それで好きだった人にも振られて、ドジで、マヌケで、失敗が多くて、利用価値すらなくて、良いところが何一つなくて、逆に悪いところだらけの本性がすぐにバレて、誰にも相手にされなくなって、軽くあしらわれて、雑用を押し付ける時だけは友達面をされて、それでも話しかけられたのが嬉しくて受け入れて、きっとこの先僕を見てくれる人が現れたって、どうせ僕を知ったら離れていって、優しさに縋りついた分だけ、離れていく時の落差が怖くて、先に自分から手放してしまう。誰かと近づくたびに同じことを繰り返して、そのたびに自分がどんどん嫌いになって、
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………そして、ソーラさんすら僕から離れていく。
…………そう思ってしまう。
生きる事を完全に諦めた人間に何を訴えても意味はない。どんな理由だろうと、人が自らの意思で命を断つことに、口出しすることは許されない。
……そうなってしまった奴にはもう、何を言っても無駄なのである。
『なら! 私も死にます!』
「え!? ちょ——」
そういえばそんな事を言ってたな。めちゃくちゃ落ち込んでるかと思いきや、さっきまでの陰鬱な空気が少しだけ軽くなる。
この人は本当に、僕が予想もしない方向から殴りかかってくる。
「本当にやるんですか!?」
『当然です!』
その即答っぷりに、思わず言葉に詰まった。冗談で言っているようには聞こえない。むしろ、僕以上に頑固な声だった。
「なんでそうなるんです!? 僕が死ぬくらいもうよくないすか? あなた女神でしょ!?」
…………女神なんだから、もっと超然としていてくれてもいいのに。こんなにも人間くさく取り乱すなんて、聞いていない。
『女神だって死ねるんですよ! なんですか!? 嫌なんですか!? だったらあなたも生きなさい!!』
聞いた事もない理不尽なキレ方だ。何がどうしてそうなるんだ、と突っ込みたい気持ちと、それでもどこか胸が熱くなる気持ちが同時に押し寄せてくる。こんな支離滅裂な理屈で本気で怒られたのは、生まれて初めてかもしれない。誰かにここまで本気でぶつかってもらえたことが、単純に嬉しかった。それを素直に喜べない自分が、また少し嫌になる。
『あなただけが豆腐メンタルだとは思わないでください!!』
豆腐メンタル。自分で言うならまだしも、他人にそう言われると妙に恥ずかしい。でも否定できない。事実だから。それでも、まさかソーラさんまでそっち側の人間だったなんて、僕は今日まで欠片も気づいていなかった。
『うーッ!…………何で決めつけるんですか! 私が! あなたをいつか見捨てるって! 本気で思ってるんですか!? 泣きますよ!!』
「………」
…………もう結構泣いてる声がする。
声がすっかり湿っていて、語尾も不安定に揺れている。それでも、これだけ感情をむき出しにしてぶつかってきてくれる人を、僕は今まで一人も知らなかった。
『私は! あなたよりずっと心が弱いです! あなたと違って死ぬのが怖いです! だから辛くなってもずっとここにいるんです!! ……でも……………あなたが死ぬんじゃ……………生きてる方がつらい………………………うぅ………だから………怖いですけど…………私も死にます』
死ぬのが怖い、とこの人は言った。それなのに、僕のために死ぬとまで言う。矛盾している。でも、その矛盾こそが、この人がどれだけ本気なのかを物語っている気がした。怖いのに、それでも僕のために覚悟を決めようとしている。その事実だけで、僕の中の何かが軋むような音を立てた。
「………僕が言えたことじゃないですが、話相手くらいなら、また見つかるのでは? そんな事で死ぬなんて」
『!? 本当にどの口がいいますか!! わ、私だって怒る時は怒りますよ!! あ、あなただって同じでしょうが! それに………友達はその人だけなんですか!?』
「………」
友達。そう言われて、頭に浮かぶ顔は思いのほか少なかった。地元の親友、大学の知り合い数人。でも、あの日以来、誰とも本音で話せていない。表面だけ取り繕った関係ばかりが、今の僕の周りには残っている気がした。
『…………他にもいるでしょう? 私だって……いるじゃないですか…………』
「………」
いる、と言われても、素直に頷けなかった。いたはずの人間関係は、あの一件でほとんど色褪せてしまった。残っているように見えても、もう昔と同じ温度じゃない。それを認めるのが、たまらなく怖かった。
『それに………それにッ! 話相手くらいまた見つかるといいましたがッ』
言葉を継ごうとして、ソーラさんの声が一瞬詰まる。次に何を言われるのか、僕は妙な緊張感とともに待っていた。
『私はッ!! あなたと話してる時がッ! 1番ッ! 幸せなんですぅ!』
「ッ!」
その一言で、何かが決壊した。ずっと張り詰めていたものが、一気に緩んでいく感覚があった。喉の奥から、抑えていたものが一気にせり上がってくる。今まで誰かにそんな風に言われたことなんて、一度もなかった。
誰かにとって、自分がいることが「幸せ」だなんて。そんな価値が自分にあるなんて、考えたこともなかった。信じられない、と思う一方で、その言葉が僕の中の凍りついていた部分を、少しずつ溶かしていくのが分かった。
『いません! 絶対にあなたより一緒にいて楽しい人なんて………断言します! 命懸けます!』
「………懸けなくていいですよ………それに、そんなことないですって……僕みたいな人間いっぱいいますから」
そう言いながらも、心のどこかで、その言葉を否定してほしいと思っている自分がいた。矛盾しているのは分かってる。でも、こんなにも都合よく揺れ動く自分に、僕はもうとっくに呆れていた。
『だ、だって……私が何か言うたびにツッコんでくれるじゃないですか! めんどくさくても無視しないじゃないですか!』
無意識にやっていたことだった。そんな些細なことを、こんなにも大事に思ってくれる人がいるなんて、想像もしていなかった。誰かにとっての当たり前が、別の誰かにとってはかけがえのないものになる。その事実に、胸の奥が静かに震えた。
『私……知ってます………あなたはどんな人が相手でも優しく話せる人だって』
…………この人には何が見えているのでしょう?
…………そんな事ないですよ。嫌いな奴だらけですよ。今までに何十人の人に苦手意識をもったことか。
「………買い被りすぎですよ」
『いいえ……買い被りではありません………私が今までに何人に逃げられたと思ってるですか?』
ソーラさんは今までに転生させた人全員にめんどくさがられたって言ってたね。それでも僕にだけは、そんな風に言ってくれる。その理由が、まだうまく飲み込めなかった。
『私、今まで会って来た転生者たちに適当にあしらわれてきて………凄く嫌でした……私はめんどくさい女神ですけど……それでも……傷つくんです』
「………」
女神だから傷つかない、なんてことはないんだ。当たり前のことなのに、僕はどこかでソーラさんを人間じゃない存在として見ていたのかもしれない。だからこそ、今この瞬間の言葉が、余計に重く胸へ落ちてきた。
『それでもッ! 1番傷ついたのはッ! あなたに信じてもらえなかった時ですけどねッ!!』
その一言に、心臓を直接掴まれたような感覚がした。信じてもらえなかった、という表現が、今の僕自身の姿とあまりにも重なって聞こえたからだ。
『何で……無理なんですか………うぅ………死なないで………お願い……ですから』
お願い、という言葉が、こんなにも真っ直ぐに刺さってきたのは初めてだった。誰かに本気で「生きてほしい」と乞われる。それがどれだけ稀有なことか、僕は今更ながら思い知らされていた。
『うぅ……』
嗚咽混じりのその声を聞きながら、僕はただ黙って立ち尽くすことしかできなかった。何か言葉を返さなければと思うのに、喉の奥で言葉が固まって出てこない。
「そんなに……生きてほしいんですか? ………僕なんかに……死なれるのが……」
『……うーッ!…………うッ………嫌です……』
その返事はあまりにも単純で、あまりにも真っ直ぐで、だからこそ僕の中の理屈っぽい言い訳を、少しずつ崩していった。
「…………僕は、めんどくさい男です……もう分かってるでしょ?」
『ぐすッ………お互い様です………どんなにめんどくさくてもいいから……』
お互い様。その一言に、僕はようやく肩の力が抜けていくのを感じた。めんどくさいのは、僕だけじゃなかったんだ。
「………男と女では、また話が違うじゃないですか」
『…………一緒ですぅ!!………それに……私はそんなの気にしません!!!』
「…………………いや、でも………僕は………」
『いいって言ってるでしょ! どんだけネガティブなんですか!!』
容赦のない一喝だった。それでも、その怒声の奥に確かな優しさが滲んでいることに、僕はようやく気づき始めていた。誰かに本気で怒られるのも、悪くないのかもしれない。
『絶対! 絶対! 絶対! 絶対の絶対!! 後悔させません!』
繰り返される「絶対」という言葉が、まるで杭を打ち込むように、僕の心の弱い部分に刺さっていく。こんなにも必死に、こんなにも不器用に、誰かが僕を引き留めようとしてくれている。
「……でももう、会えないじゃないですか」
『………それでも!! です!!』
…………語尾がクリュスみたいになってる。
こんな状況なのに、そんなことに気づいて、ほんの少しだけ笑いそうになる自分がいた。
『異世界に行けなくても、例え電話越しでしか話せなくても………私は、あなたがいてくれるなら……きっとなんだって………幸せです』
「………」
自分でも信じられない自分を、信じてくれる人がいるのなら。
…………僕は、生きていても………楽しいのかもしれない。
ずっと自分に問い続けてきたその問いに、初めて別の答えが見えた気がした。
『それに、今までも電話越しみたいなものだったでしよ?』
「ははっ、確かにそうですね」
僕が異世界で楽しかったのは、きっとソーラさんがずっと話しかけてくれたからだ。今だってそうだ。ソーラさんのおかげで僕はまた、前を向く事ができた。
…………本当に、僕にはもったいない女神だ。
『………………………もう……やめてくれますか?』
消え入りそうな、それでいてどこまでも切実な声だった。
その一言が、僕の中に残っていた最後の意地を、静かに溶かしていった。
「…………やめる……ソーラさん……ありがとう」
『……こちらこそ』
…………こんなに“生きる”事に希望を持てたのは久しぶりな気がする。
そう思えたのは、僕が死んだからだ。
僕が思ってたものとは違ったが、概ね正しいと言って良いだろう。
僕にとって、“死は希望”だった。
そして、これからは生きて希望を見つけて行こうと思う。
「……ねぇ……ソーラさん?」
『ふふっ……なんですかー?』
いつのまにか上機嫌になってるソーラさんに僕は言った。
「……返すよ」
『はい?』
「この恩は、死んでも返すから」
『えっと……なんの話をしてますか?』
僕は自分でも、うまく説明できる自信がなかった。だから、ただそのままの気持ちを言葉にすることにした。
『まさか……死なないって言った側からまた死にたくなったんですか!? ダメですよ!! そんな事したら、私も死にますからね!! これは脅しです!! 許しません!! うぅ……』
早とちりで、また涙声に戻っている。さっきまでの真剣な空気はどこへやら、あっという間にいつものテンションへ戻っていくのが、なんだかおかしかった。それに脅し方が中々卑怯だ。
「ソーラさん泣きすぎ」
『だッ誰のせいですか!…………もう死ぬとか言わないでッ! 経験者軽すぎですッ!!』
「いやいや、死ぬなんて言ってないですよ」
『……ッ……ぐッ…………えぇ?』
戻って来た時はあんなにも色褪せてた世界が、今はほんの少しだけ違って見える気がする。それがソーラさんのおかげだと思うと、不思議と素直に感謝できた。
『でもさっき……死んでも返すって……』
「僕、“この恩は”って言いましたよね?」
『…………恩?』
…………そう……恩。
僕はソーラさんに命を救われた。死が希望だった僕に、今度は“生きる希望”ができてしまった。この恩はちゃんと返したい。僕の命に変えてでも。
…………もちろん、ソーラさんが嫌がるので、死ぬのはなしだけど。
「僕は……いや……“俺”はッ!……ソーラさんに凄く感謝してるんで!!」
『……俺? え、なんで急に一人称を俺に………?』
「雰囲気です……生まれ変わったって感じを出す為に」
自分でも何言ってるのか分からない。まあ、一人称なんてどうでも良いけど。でも、一度口にしてみると、不思議と自分の中の何かが本当に切り替わったような感覚があった。
…………僕、じゃなくて……俺が言いたいのは、ソーラさんに! 命の恩人に! 何か見合うだけの恩を返したいってことだ。
今までだって、受けた恩はできるだけ返して来た。返せるものなんてほとんどなかっけど。レポート見せてくれた時はじゃがりこあげたし、テスト勉強手伝ってくれた時は、先輩に媚びてもらった過去問を送ったりした。
…………俺は一体何をしてあげられる?
そんなのは決まってる。ソーラさんが俺にして欲しかったことをもう一度すればいい。
「俺は……裏野空は頑張りたい!!」
『…………急に大声出して恥ずかしくないですか?』
「さっきまで大泣きしてた人が何か言ってる」
『——ッ!? う…………うーッ!』
「そんなに大声で泣いて恥ずかしくないのかな」
『せめて声に出さないでください!! 私を泣かせて、何が楽しいんですか! うーッ!』
これはお互い様である。お互いに素の自分を見せた。やっぱり俺たちは似たもの同士だね。恥ずかしがっているソーラさんの声を聞きながら、俺は久しぶりに、心の底から笑えている自分に気づいた。
しばらくしてソーラさんが泣き止み、聞いてきた。
『それで……さっきの頑張るってのは?』
「ソーラさんにお願いされましたからね……もう一度挑戦してみようかと」
口にしてみると、思っていたよりもすんなりとその言葉が出てきた。強がりでも、その場しのぎでもない。今の俺は、本当にそう思い始めていた。
『……な、なるほど! そういう事ですか………私の早とちりでした、すみません………そうですね! 頑張って生きましょう!』
流石の俺でもそんなにすぐに死にたくはならない。少なくとも、今この瞬間は。
『私も協力しますよ! 電話番号登録しといてくださいね! いつでもかけていいで——』
「俺は異世界で頑張って! ソーラさんと一緒に物語を完結させる!!」
『………………………………何言ってるんですか?』
この世界でソーラさんと助け合いながら生きていく。それも悪くないんだろう。でも、もっと欲張ってもいいだろ?
俺は、ソーラさんと生きていきたい。それに、クリュスにもまた会いたい。
…………異世界で頑張りたい。
…………俺は、裏野空としてではなく、ウラノ・スカイとして生きていくことにする。
そうと決まれば準備をしないとな。まずはあのゴーレムのレーザーをどう避けるかだ。しっかり作戦を立てていかないと死んでしまう。そんな死に方は流石に恥ずかしいからな。
「それじゃあ俺、忙しいんでもう切りますね」
『え!? ちょっと待っ——』
スマホを見下ろす。少し待つが、再び震える事はなかった。突然すぎて呆れられたのか、それとも本気にしていないのか。どちらにしろ、今のうちに動くしかない。
都合よく考えるなら、これでいい。少なくとも「死ぬ」とは一言も言っていないんだから、ソーラさんを本当の意味で騙したわけじゃない……なんて、自分に言い訳しているだけなのは分かってる。
…………ソーラさん、ごめん。俺やっぱりあの世界で生きたい……大丈夫、絶対死なないようにするから。
俺はさっきまでの自分とはまた違う軽い足取りで家に帰宅するのだった。
裏野の一番情けないところを書きたくて、今回は長くなりました。読んでくれてありがとうございました。