目を開けると、そこにはどこまでも続く森が広がっていた。
……いや、森なんて可愛いものじゃない。
ジャングルだ。見上げても空がほとんど見えないほど巨大な木々が生い茂り、昼間だというのに辺りは薄暗い。湿った土の匂いと草木の青臭さが鼻をくすぐり、どこからともなく鳥の鳴き声が響く。その合間に、ガサッ、と獣が草を踏む音まで聞こえてきて、僕の心臓は嫌でも存在を主張し始めた。
「……」
しばらく呆然と立ち尽くす。目が覚めたら知らない場所。漫画でもゲームでも嫌というほど見てきた展開だ。
主人公が森で目を覚まえて、「ここはどこだ?」なんて言いながら冒険が始まる、あのお決まりのシーン。
読む側だった頃は「お、始まったな」くらいにしか思っていなかった。
でも、実際に自分がその立場になってみると——。
「めちゃくちゃ怖ぇ……」
思わず本音が漏れた。スマホはない。地図もない。GPSもない。現在地どころか、自分が立っている国すら分からない。
日本の山へ一人放り込まれるだけでも遭難一直線だというのに、ここは異世界だ。常識も通じなければ、助けを呼ぶ相手すらいない。
改めて状況を整理してみる。
知らない森。知り合いゼロ。所持品ゼロ。
……。
「あれ?」
僕、結構どころじゃなくピンチじゃない?
いや待て。異世界転生して一話で野垂れ死ぬ主人公なんて聞いたことないぞ。そんな作品あったら逆に伝説だ。
「ハハ……」
乾いた笑いが漏れる。笑うしかなかった。
こんな状況で真面目に考えたところで、答えなんて出るはずがない。
(せめて街に飛ばせよ、あのクソババア……)
『聞こえていますよ』
「うわぁっ!?」
突然、頭の中へ直接声が響いた。耳から聞こえるわけじゃない。誰かが脳みその内側で喋っているような、不気味なくらい鮮明な感覚。
「え? え? どこ?」
反射的に辺りへ視線を走らせる。右を見て、左を見る。勢いよく振り返るが、そこにも誰もいない。人の気配すら感じられなかった。
『テレパシーです。あなたの脳に直接話しかけています』
「え? テレパシー?」
『はぁぁぁ……』
今度は大きなため息まで頭に響いた。
やめてほしい。脳内でため息を聞かされると、普通のため息より数倍腹が立つ。
『何かあったら私の名前を呼びなさい、と言ったでしょう』
「あ」
そういえば言ってた。完全に忘れてた。
というか、異世界に放り出された直後にそんなこと思い出せる人間がいたら、その人はたぶん異世界転生のプロである。
でも、確かこうも言っていた気がする。僕は眉をひそめて聞いてみる。
「気が向いたら返事する、とも言ってましたよね?」
『そうでしたっけ?』
「言ってました」
『……まあ、細かいことは気にしないことです』
この女神、都合が悪くなると記憶喪失になるタイプか。
さっきまであれだけ偉そうだったのに、こういうところだけ妙に適当なんだから困る。
でも、このタイミングで話しかけてきたということは、きっと何か用意してくれているんだろう。
さすがに森へ放り込んで終わり、なんて鬼畜仕様ではない……はずだ。
僕の期待は一気に膨らんだ。
「まさか!街までの地図とか!」
『ありません』
「魔物と戦う剣とか!」
『ありません』
「お金とか!」
『ありません』
三連即答だった。しかも一切迷いがない。〇×クイズでもここまでテンポ良く答えないぞ。
「じゃあ何しに来たんですか!?」
『会話です』
「役立たず!」
『失礼ですねぇ』
まるで悪びれた様子もない声が返ってくる。この人絶対反省って言葉知らないだろ。
『それにあなた』
先ほどまでの軽い調子とは違い、ソーラの声色が少しだけ真面目になる。
『今まで、人に頼りすぎて生きてきたでしょう?』
「うっ……」
思わず言葉が詰まる。図星だったからだ。
昔からそうだ。分からないことがあれば誰かに聞く。困ったことがあれば助けてもらう。もちろん、それが悪いことだとは思わない。でも、自分で何とかしようとする前に誰かへ頼る癖がついていたのも事実だった。
大学の課題だってそうだ。バイトでもそう。何かあるたびに「誰か教えてくれないかな」と考えていた気がする。
『何かあればすぐ誰かに頼る。その癖は、これを機に直した方がいいですよ』
……その説教、一番言っちゃいけない人がしてない?
こんな右も左も分からない森へ放り込んだ張本人に「自立しろ」と言われても、全然説得力がないんですが。
むしろ今すぐ助けるべきじゃない?
『安心してください』
僕の心を読んだのか、ソーラはどこか得意げな口調になる。
『転生前に、ちゃんと補正はかけておきました』
「あ」
そういえば最後にそんなことを言っていた。死ににくくなる程度、とか何とか。
あの時は転移の勢いで聞き流してしまったけれど、今考えれば結構重要な話だったのかもしれない。
なるほどね、だからこんなに余裕そうなのか。だったら話は早い。
きっと魔法の才能とか、身体能力が何倍にもなるとか、アイテムボックスとか、鑑定スキルとか、異世界主人公お馴染みのチート能力を用意して——
『新しい名前を用意しました』
「…………はい?」
一瞬、思考が止まった。
いや。今なんて?能力じゃなくて名前?そこ?優先順位おかしくない?
フフン、と自慢げな鼻歌が聞こえてくる。
『聞いて驚いてください。この世界でのあなたの名前は――』
やたらともったいぶったあと、ソーラは胸を張るような声で宣言した。
『ウラノ・スカイです!』
「…………」
思わず沈黙する。数秒経っても、頭の中へ続きの説明は流れてこない。
……終わり?
『どうです? 裏野空の”空”を英語にしました! 格好いいでしょう!』
どやぁ、と効果音が付きそうなくらい誇らしげだった。
確かに響きは悪くない。異世界っぽいし、ちょっと格好いい気もする。
でも今欲しかったのはそれじゃない。
「……あの」
『何ですか?』
「魔法は?」
『ありません』
「装備は?」
『ありません』
「地図は?」
『ありません』
「お金は?」
『ありません』
全部なかった。まさか一つくらいはあるだろうと思っていた僕が甘かった。
名前だけだった。本当に名前だけだった。
『私、そこまで気の利く女じゃありませんよ? 知ってますよね?』
「知らねぇよ……」
思わず空を仰ぐ。もっとも、巨大な木々が邪魔をしていて空なんてほとんど見えないんだけど。
結局、僕がこの世界で手に入れたものは『ウラノ・スカイ』という少しだけ格好いい名前だけ。
現状は相変わらず、森のど真ん中で遭難中である。
……いや、遭難というより放置プレイか。
変わったことがあるとすれば、一つだけ。
(帰れたら、あの女神への顔面パンチは二発から五発に増やそう)
そんな物騒な決意だけが、さっきより少しだけ強くなっていた。
———
いつまでもその場へ立ち尽くしていても、状況は何も変わらない。
誰かが迎えに来てくれるわけでもないし、「実はドッキリでした」とスタッフが出てくるわけでもない。
現実は、残念なくらい現実だった。
現世では「山で遭難したら下手に動くな」とよく耳にした。救助隊が見つけやすいように、その場で待機するのが一番生存率が高い、と。
「でも、ここ異世界なんだよなぁ……」
思わず苦笑が漏れる。救助隊なんて来るはずがない。
そもそも僕が遭難したという事実を知っている人間が、この世界に一人でもいるのだろうか。
答えは、いない。つまり、待っていても何も始まらない。
「よし」
歩こう。とにかく歩こう。
漫画でもゲームでも、大抵は森を抜ければ村がある。村へ着けば宿屋があって、人がいて、情報が集まる。
……まあ、それは作者の都合でそうなっているだけかもしれないけど。
「たぶん、きっと……知らんけど」
自分で言っていて全然信用できなかった。それでも立ち止まって餓死するよりは何倍もマシだ。
「……これで何もなかったら、本気で泣くぞ」
ぶつぶつと独り言を漏らしながら歩き始める。
右を向いても木。左を向いても木。前を見ても木。そして振り返った先にも、やはり木しかなかった。
「木しかねぇ!」
思わず叫んでしまった。異世界へ来たんだから、もっとこう……あるだろう。
スライムとか。ゴブリンとか。ドラゴンとか。冒険者とか。何かイベントの一つくらいあってもいいじゃないか。
「……いや、魔物は嫌だけど」
訂正する。ドラゴンに遭遇して一話で終了なんて笑えない。安全なイベントだけください。
そんな都合のいいことを考えながら歩き続ける。
一時間。二時間。三時間——時計がない以上、正確な時間は分からない。それでも、体感ではそれくらい歩き続けていた。
足は重いし、喉も乾いてきた。それでも不思議と歩けている。
「……あれ?」
少し首を傾げる。現世の僕だったら、こんな山道を一時間も歩けば息が上がっていたはずだ。
大学へ行くだけで「疲れた」と言っていた人間である。
なのに今は、疲れてはいるものの、まだ歩ける。
「これ……補正ってやつなのか?」
ソーラの言っていた”死ににくくなる補正”。
戦闘能力が上がったわけではないけれど、体力や回復力くらいは強化されているのかもしれない。
もしそうなら、あの女神も少しだけは仕事をしていたことになる。
「まあ、それでも説明不足だけど」
結局文句は出てくる。本人が聞いていたら、また「聞こえてますよ」と返されそうなので、それ以上は考えないことにした。
歩く。ただひたすらに歩き続ける。単調な景色が延々と続き、時間の感覚すら曖昧になっていく。
どれくらい歩いただろう。体感では五時間近く歩き続けていた気がする。
異世界へ来たばかりで、水も食料も持たずに五時間歩き続ける大学生。
「……僕、結構頑張ってない?」
誰も褒めてくれないので、自分で褒める。
その道のプロならともかく、昨日まで普通に大学へ通っていた人間としては十分健闘していると思う。
「…………あ」
その時だった。ずっと続いていた木々が、不自然なくらい途切れていることに気付き、思わず足を止める。
そして、その先へ視線を向けた瞬間——
「……やっば」
自然と声が漏れた。
そこに広がっていたのは、まるで童話やファンタジー映画のワンシーンを、そのまま現実へ持ってきたような景色だった。
僕の目の前には、小さな村が広がっていた。
……いや、村という言葉だけではとても言い表せない。まるで昔読んだ絵本や、映画の中の幻想世界が、そのまま現実になったような光景だった。
澄み切った川が村の中央をゆったりと流れ、水面は木漏れ日を受けて宝石のようにきらきらと輝いている。風が吹くたびに水面へ小さな波紋が広がり、その音さえ心地よく耳へ届いてきた。
家々は地面に建っていなかった。
何本もの巨大な樹木を土台にするように造られ、太い枝の上へ木造の家が並んでいる。家と家の間は吊り橋で繋がれ、人々は当たり前のようにその上を歩いていた。
枝葉の隙間から差し込む陽の光。木々を揺らす優しい風。葉擦れの音と、小川のせせらぎ。
どれも日本では聞いたことのない音なのに、不思議と心が落ち着いていく。
自然を切り開いて作った村ではない。自然と一緒に生きるために作られた村。
「異世界だ……」
思わず息を呑み、声が漏れる。ゲームでも、映画でも、漫画でも幾度となく見てきた光景が、今まさに目の前に広がっていた。
風の匂い。木々の大きさ。そして、肺いっぱいに吸い込めるほど澄み切った空気。そのどれもが、これまでいた世界とは明らかに違っていた。
肺いっぱいに息を吸い込むだけで、身体の中まで綺麗になっていくような感覚がある。
「空気まで美味い気がする……」
気のせいかもしれないけど、本当にそう思ってしまうくらい、この景色は現実離れしていた。
さっきまで「帰りたい」と思っていた気持ちが、ほんの少しだけ揺らぐ。
異世界なんて、怖いだけだと思っていた。魔物がいて、剣と魔法が存在し、命の保証などどこにもない。そんな場所に行きたいと思ったことなんて一度もなかった。それでも——。
「異世界、来て正解だったかも」
気付けば、そんな言葉が口から零れていた。もちろん、まだ半日しか経っていない。これから酷い目に遭う可能性なんていくらでもある。
それでも、この景色を見られただけでも、この世界へ来た価値はあったような気がした。
そして、何より僕の目を奪ったのは、その村ですら脇役に思えてしまうほど圧倒的な存在だった。
「……でっか」
村の奥。そこには一本の巨樹が空を突き刺すようにそびえ立っていた。
大きい、なんて言葉では足りない。見上げても頂上が見えない。
幹だけでビル何棟分あるのか想像もつかず、枝は雲へ届くほど高く伸び、その葉は空そのものを覆っているように見えた。
まるで一本の木ではなく、一つの山が生きているようだった。
「世界樹ってやつか……?」
いや、知らないけど。この世界に本当に世界樹なんて存在するのかも分からない。
でも、そう呼びたくなるくらいには神秘的だった。ただ見上げているだけで、自分という存在がどれほど小さいのかを思い知らされる。
時間を忘れて見惚れていた、その時だった。
「誰だ、お前!」
「うわぁっ!?」
突然、背後から鋭い怒声が飛んできた。心臓が本気で止まりかける。
慌てて振り返ると、一人の青年がこちらを睨みつけていた。
整った顔立ち。腰まで届く金色の長い髪。透き通るように白い肌。そして何より、人間とは明らかに違う特徴があった。
耳だ。耳が長い。漫画やゲームで何度も見てきた、あの特徴的な耳。
「エルフだ……」
思わず呟いてしまう。さっきまで恐怖でいっぱいだった心が、一瞬で別の感情へ塗り替えられた。
テンションが、一気に跳ね上がる。
(本物だ……)
異世界。剣と魔法。そしてエルフ。ようやく実感が湧いてきた。
(ファンタジー世界、最高かよ)
———
「……ニンゲン」
低く抑えた声が飛んでくる。さっきまで景色に見惚れていた頭が、一気に現実へ引き戻された。
改めて青年を見る。近くで見ると、本当に整った顔立ちをしていた。白磁のように白い肌、切れ長の瞳、さらさらと風になびく金髪。そして、人間にはない長く尖った耳。
どこからどう見てもエルフだった。
(本物だ……)
耳、長っ。顔、小さっ。肌、綺麗っ。
漫画だと「美形だなぁ」くらいにしか思わなかったけれど、実物を前にすると破壊力が違う。
男の僕ですら見惚れてしまうくらいなのだから、女性なら悲鳴を上げるレベルじゃないだろうか。
(あの性悪女神より美形じゃねぇか)
そんなことを考えていると、エルフが怪訝そうに眉をひそめた。
「どうやってここへ入った?」
「え?」
突然の質問に間の抜けた声が漏れる。
「いや、その……」
どうやってと言われても本当に歩いてきただけなんだけど。
「歩いてたら」
「……は?」
エルフの表情が固まる。今の一言で、空気まで止まった気がした。
「歩いてたらです」
僕はもう一度、正直に答える。嘘をついても仕方がない。だって本当に歩いてきただけなんだから。
数秒の沈黙。エルフは僕の顔をじっと見つめている。
何か見抜こうとしているような鋭い視線だった。
そして、森中へ響く勢いで怒鳴られた。
「そんなわけあるか!」
「いや、ほんとっす」
「ここへ人間が偶然辿り着けるはずがない!」
「でも歩いてたら着いたんですよ」
「あり得ん!」
「いや、あり得たから今ここに……」
「そういう問題ではない!」
話が全く噛み合わない。僕だって好きでこんな場所へ来たわけじゃない。
説明できるなら説明したいくらいだ。でも、できないものはできない。
異世界転生しました、なんて言ったところで信じてもらえる未来が見えない。
エルフは頭痛でもしてきたのか、額へ手を当てて大きく息を吐いた。
「……嘘をついているようには見えないな」
ぼそりと呟く。どうやら、本気で困っていることだけは伝わったらしい。
少しだけ空気が和らいだ……気がした。
「とにかく帰れ」
「え?」
「今、この村は色々あって騒がしい」
エルフの表情が少しだけ険しくなる。その一言だけで、この村に何か問題が起きていることが伝わってきた。
「今回は見逃してやる。だから早くここを離れろ」
「は、はい……」
見逃す、という言葉が少し引っかかった。
つまり、本来なら侵入者として捕まっていてもおかしくなかったということだろう。
……危なかった。
景色に感動してぼーっとしていたけれど、考えてみれば知らない人間が突然村へ現れたら怪しまれて当然だ。
異世界だからと浮かれていた自分を少しだけ反省する。とはいえ……。
「……あの」
「何だ」
「帰り道、分からないんですけど」
エルフの動きが止まった。数秒間、僕を見つめる。
そして、深いため息を吐いた。
「…………はぁ」
そのため息には、「面倒な奴に出会った」という感情が全部詰まっている気がした。
———
エルフは額へ手を当てたまま、しばらく何も言わなかった。
僕と森の出口を何度も見比べるように視線を動かし、そのたびに小さくため息を漏らしている。
……完全に面倒事だと思われてるな。
まあ、当然か。突然知らない人間が村へ現れて、「歩いていたら着きました」なんて言い出したら、僕だって警戒する。
むしろ追い返されるだけで済んでいる分、かなり優しい対応なのかもしれない。
「……森で野垂れ死にされても寝覚めが悪い」
ぼそりと呟くと、エルフは諦めたように肩を落とした。
「ついて来い」
「え?」
「出口まで案内してやる」
振り返ることなく歩き始める。その背中は相変わらず不機嫌そうだったけれど、不思議と冷たさは感じなかった。
「ありがとうございます!」
慌ててその背中を追いかける。返事はない。ただ黙々と前を歩き続けているだけだ。それでも、さっきまでたった一人で森をさまよっていた時とは、安心感がまるで違った。
森の中を歩きながら、僕は何度も周囲へ目を向ける。この森は本当に美しかい。
幹が何人かかっても抱えきれないほど太い木々。枝から垂れ下がる蔦。色鮮やかな花々。日本では見たことのない植物ばかりなのに、不思議と違和感はない。
まるで最初からそこにあるのが当たり前だったかのように、自然へ溶け込んでいる。
(すげぇな……)
観光地として来られるなら、一日中歩いていられるかもしれない。
……魔物さえいなければ。
そんなことを考えていると、不意にエルフが口を開いた。
「お前」
「はい?」
「本当に歩いてここまで来たのか」
「はい」
「誰かに案内されたわけでもなく?」
「はい」
「転移魔法でもない?」
「いや、それは……」
一瞬だけ言葉に詰まる。転移魔法と言われれば、ある意味そうなのかもしれない。
でも「女神に異世界転生させられました」なんて説明したところで、頭のおかしい人認定される未来しか見えない。
「気付いたら森にいました」
結局、嘘ではない範囲で答える。エルフは横目で僕を見ると、小さく息を吐いた。
「……やはり分からんな」
それ以上は追及してこなかった。聞いても無駄だと判断したのか、それとも本当に困っているように見えたのか。
どちらにせよ、助かった。それからしばらくは、お互い何も話さず歩き続けた。
森を抜ける風の音だけが、静かに耳へ届いてくる。
どれくらい歩いただろう。
やがて視界が開け、踏み固められた街道が姿を現した。
エルフはそこで足を止め、前方を顎で示す。
「……ほら」
「ここから先は一本道だ」
振り返ると、確かに街道は真っ直ぐ森の外へ伸びていた。
さっきまで歩いていた獣道とは違う。人の手で整備されたことが一目で分かる立派な道だった。思わず胸を撫で下ろす。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
自然と頭が下がる。エルフは少しだけ目を丸くしたあと、困ったように苦笑した。
「……お前」
「はい?」
「ニンゲンにしては面白いやつだな」
その表情は、初めて会った時よりもずっと柔らかかった。
「歩いていたらユグドラへ着きました、なんてセレン皇女へ報告したら、きっと腰を抜かすぞ」
「ユグドラ?」
「この森の名前だ」
「じゃあセレン皇女って?」
僕が尋ねると、エルフは一瞬だけ言葉を止めた。
何かを話しかけて、やめたような表情をした後、エルフは小さく首を振った。
「……いや、何でもない」
それ以上は何も言わず、軽く手を振った。
「ほら、早く行け」
「はい! 本当にありがとうございました!」
もう一度頭を下げる。顔を上げた時には、エルフの姿はもう森の中へ消え始めていた。
(写真撮りたかったな)
スマホないけど。
そもそもあったとしても、勝手に撮ったら怒られそうだ。
そんなことを考えながら、僕は街道をゆっくりと歩き始めた。
———
エルフと別れ、再び一人になる。
さっきまで隣に誰かがいただけに、森の静けさがやけに身に染みた。
「さて……」
小さく息を吐く。結局、また一人だ。
街道を歩きながら空を見上げると、いつの間にか夕日は沈み、空は濃い藍色へ染まり始めていた。
森の中にいたせいで気付かなかったけれど、思っていた以上に時間が経っていたらしい。
歩き続けていた疲れも、一気に押し寄せてくる。
「今日は野宿かなぁ……」
思わず本音が漏れる。できれば嫌だ。
虫は苦手だし、魔物が出るかもしれないし、何より安心して眠れる気がしない。
とはいえ、文句を言っても宿が空から降ってくるわけでもない。
「……まあ、仕方ないか」
現世の僕の部屋も、似たようなものだったし。
……さすがに屋根くらいはあったな。自分で言って少し悲しくなる。
「いけるよ、たぶん」
誰に言い聞かせるでもなく呟く。そうでもしないと、不安に飲み込まれそうだった。
その時だった。
「……ん?」
街道の先。木々の隙間から、ぼんやりと暖かな光が見えた。最初は月明かりかと思った。
でも違う。あれは人工的な灯りだ。
「え……?」
思わず目を凝らし、自然と歩く速度が速くなる。光は一つではなかった。二つ、三つと増え、やがて十を超える。いや、それ以上だ。暗闇の向こうでは、無数の明かりが静かに揺れていた。
「街じゃね?」
次の瞬間には走り出していた。疲れていたはずの足が軽い。街道は綺麗に踏み固められ、森の中とは違って歩きやすい。
誰かが何度も行き来してきた証拠だった。
つまり、人がいる。それだけで胸がいっぱいになった。助かったという安堵が、張り詰めていた心をゆっくりと解きほぐしていく。そして、やがて視界が開ける。そこには、ついにその全貌が姿を現していた。
「……うわ」
思わず足を止める。目の前にそびえ立っていたのは、巨大な石造りの城壁だった。見上げるほど高い門が中央に構えられ、その両脇では等間隔に灯された松明が夜の闇を照らしている。さらに門の前には、槍を手にした兵士らしき人影が静かに立っていた。
本当に街だ。漫画やゲームでしか見たことのなかった異世界の城塞都市が、今まさに目の前にある。
(奇跡だ)
思わずそう考えたが、すぐに首を横へ振る。一人の顔が脳裏に浮かんだからだ。
(……いや、違う。あのエルフのおかげか)
あのまま村を追い出されていたら、この街道へ出られた保証はない。
最後まで不機嫌そうな顔をしていたけれど、結局は出口まで案内してくれた。
本当に優しい人……いや、いいエルフだったな
自然と笑みが漏れる。どこぞの役立たず女神とは大違いだ。
もし今ここでソーラと繋がったら、絶対文句を言ってやる。
異世界へ来て、およそ半日。
右も左も分からない森で目を覚まえた時は、本気で1話完結するかと思った(正確に言うと2話)。
それでも何とか歩き続け、エルフと出会い、そしてようやく人の暮らす場所まで辿り着くことができた。
僕は大きく息を吸い込み、目の前にそびえる巨大な門を見上げた。
「よし」
ここからだ。僕、ウラノ・スカイの二度目の人生は、きっとこの街から始まる。
第2話でした。
ようやく異世界らしい場所へ到着しました。
次回から街に入って、本格的に物語が動き始めます。