序章では、ウラノが異世界で生きるための土台作りを描いてきました。
ここからは彼の第二の人生が少しずつ動き始めます。
引き続き楽しんでいただけると嬉しいです。
第6話 ソーラ・システリアの補正(前編)
異世界生活八日目。
この世界へ転生してから、気がつけば一週間以上が過ぎ、ここの生活にも慣れてきた。
最初の頃は、目に映るものすべてが恐ろしくて仕方がなかった。見たこともない植物、聞いたこともない言葉、そして当たり前のように腰へ剣を提げて歩く人々。少し外へ出るだけでも心臓は落ち着かず、「今日は無事に帰ってこられるだろうか」と考える毎日だった。けれど、人間というのは案外しぶとい生き物らしい。
今では下宿という帰る場所もある。薬草採取の依頼を地道に続けたおかげで、宿代と食費くらいなら何とか賄えるようにもなった。決して裕福とは言えないが、「明日をどう生きるか」で頭を抱えることはなくなった。そうして生活に余裕が生まれた結果、駄目人間になってる気がする。
そんな事を考えながら、ベッドの上でごろんと寝返りを打つ。
木製のベッドは決して寝心地がいいとは言えない。それでも、一週間も使い続ければ不思議と体が慣れてしまうものだ。天井をぼんやり眺め、何をするでもなく時間だけが過ぎていく。
数日前、「強くなる」と格好よく宣言したはずなのに、その勢いはどこへ行ってしまったのでしょう。
思い返してみても、ここ数日は特別なことなど何もしていない。薬草採取をやめてしまったせいで生活リズムまで崩れ始め、強くなる方法を考えては「無理だな」と結論を出す。その繰り返しだ。
こんな姿を、あの日の僕が見たらどう思うだろう。たぶん、「何やってるんだ」と呆れるに違いない。まあ、その「僕」も今の僕なんだけど。
静かな部屋に、自分のため息だけがやけに大きく響いた。
「ソーラさーん。起きてますか?」
天井へ向かって気の抜けた声を投げかける。部屋には僕しかいない。けれど、この呼びかけはちゃんと届く。頭の中で直接繋がっている、不思議な相手がいるからだ。
『……はぁぁぁ。あなた、本来の目的を忘れてませんか?』
頭の中へ直接響いてくる大きなため息が聞こえる。姿は見えないが、両手で額を押さえながら呆れているソーラさんの姿が、なぜか容易に想像できてしまう。
この人……いや、この女神は本当に感情表現が豊かだ。
「忘れてませんよ。『
歯切れの悪い返事をしながら、僕は枕へ顔を押しつける。柔らかな布地へ頬を埋めても、現実逃避になるわけじゃない。それくらい分かっている。分かっているんだけど……体が動かない。
最近の僕は、日に日に駄目になっている。
街を歩けば「強そうだな」と思う探索者を見つけては勇気を振り絞って声をかけてみる。でも返ってくるのは「忙しい」の一言か、軽くあしらわれるだけ。
強くなる方法だって、暇さえあれば考えている。
剣を習うべきか。
魔法を覚えるべきか。
依頼をもっと受けるべきか。
頭の中で何度考えても、「でも無理じゃない?」という結論に落ち着いてしまう。
その結果がこの有様だ。ベッドの上でごろごろして一日が終わる。異世界へ来たばかりの頃の方が、よっぽど必死に生きていた気がする。
ソーラさんが僕をこの世界へ送り込んだ理由は、今でもちゃんと覚えている。
——この世界を、自分の望む物語へ近づけてほしい。
初めて聞いた時から思っていたけれど、改めて考えてもやっぱり無茶振りだ。だって僕は、ごく普通の大学生だった男だ。
世界を救う勇者でもなければ、天才でもない。
ソーラさん曰く、『嘆きの亡霊は引退したい』という作品は勘違いコメディらしい。
だからと言って、僕が勘違いを演出できるわけがない。そんな器用な人間だったら、日本であんな人生送ってない。ソーラさんもそれは分かっていると思う。要するに「面白くしてください」ってことなんだろうけど……。
いや、どうやってさ……戦えってことですか? 勘弁してくださいよ……。
僕は探索者協会に登録した、一応はハンターだ。でも現実は薬草を摘んで生活費を稼ぐことしかやっていない。魔獣と戦って名を上げるような実力なんて欠片もない。
そんな僕が、世界をどうこうしろなんて言われても困る。困るというか、絶対無理だ。
最近は薬草採取すらやめてしまったせいで、時間だけが無駄に過ぎていく。
「強くなる」と覚悟を決めたはずなのに、振り返ってみれば、あの頃の方がよほど前へ進んでいた。
今の僕は、あの頃の僕よりも立ち止まっている。
しばらく黙っていると、頭の中から小さく息を吐くような気配が伝わってきた。姿は見えない。でも、きっとソーラさんも「何か言いたい」と思っているんだろう。
そんなことを考えていると、案の定、女神は遠慮なく口を開いた。
『ウラノ、そろそろ何かしてください! 暇です。』
「そう言われてもなあ……」
あまりにも身勝手な理由に、思わず苦笑いが漏れる。世界を救えとか、創星界を止めろとか、そういう話ならまだ分かる。
でも、「暇だから何かして」って女神が言う台詞じゃないだろ、それ。
ベッドの上で仰向けになったまま、僕は天井へ向かって深いため息を吐いた。木目模様をぼんやり眺めながら、「今日は何をしようか」と考える。
……何も思い浮かばない。だからこうして、ごろごろしているわけで。
何か一つでもやるべきことがあれば、とっくに部屋を飛び出している。やる気がないというより、何をすればいいのか分からない。そんな状態だった。
『こんなところ、クリュスに見られたらどうするんですか?』
ソーラさんは、少し間を置いてから追い打ちをかけるように言った。そんなの絶対に嫌に決まってる。これ以上幻滅されて嫌われでもしたら、この世界でも生きることが辛くなってしまう。
『また、ロープ買うんですか?』
「…………そのいじりが許されるの、ソーラさんだけですからね?」
思わず呆れた声が出た。日本でそんな冗談を言ったら、間違いなく大炎上だ。本人は悪気なんて一ミリもないんだろうけど、デリカシーという言葉を辞書で引いてきてほしい。あの友人でも、そこまで言わない。
僕は苦笑しながら寝返りを打ち、枕へ顔を埋める。
「あー……クリュスに会いたい……」
自然と名前が口からこぼれる。少しだけ強気で、でもどこか放っておけない性格。あの真っ直ぐな瞳。思い出すだけで、不思議と胸の奥が少しだけ温かくなる。
クリュスとは、あの日以来一度も会えていない。
自分でも笑ってしまうくらい単純だ。好きな子に会えないだけで、ここまで気分が落ち込むなんて。
『……本当にクリュスが好きですね』
「え?そりゃあ、まあ……はい」
クリュスと出会ってまだ数日しか経っていないが、それでもこの世界へ来てから一番心が動いた相手なのは間違いなかった。
この世界で生きていこうと思えた理由の一つでもある。だからこそ強くなりたい。レベル2になって。そして、いつかレベル3へ届いて。少しでも胸を張って、クリュスの隣へ立てるようになりたい。
もちろん、今の実力じゃ夢物語なのは分かっている。それでも、目標くらいは高く持っていたかった。
しばらく沈黙が流れる。さっきまで軽口を叩いていたソーラさんも、珍しく何も言わなかった。何かを考えているのだろうか。
そんなことを思った矢先だった。
『……仕方ないですね』
頭の中へ、いつになく真面目な声が響く。
『ここは一度、日本へ帰ってみてはどうですか?』
———
「……んー?」
あまりにも唐突な提案に、間の抜けた返事が口から漏れた。
日本へ帰る?何を言っているんだ、この人は。
『このままじゃ何も進まないじゃないですか! だから一度戻って、頼れる人に相談してみればいいのではと――』
「ちょ、ちょっと待った!」
僕は勢いよくベッドから起き上がる。さっきまでやる気なく寝転がっていたのが嘘みたいに、眠気もだるさも一瞬で吹き飛んだ。
今、この人は何て言った?
「戻るって……日本に?」
『はい』
あまりにも迷いのない返事だった。今日の天気を答えるくらい当然のような口調に、僕の心臓がどくりと音を立てる。
「……戻れるんですか?」
『戻れますよ。気づいてなかったんですか?』
「気づく訳ないでしょ! そんな大事なこと、一言も聞いてませんけど!?」
『言いましたよ?』
「絶対言ってない!」
それは断言できる。もしそんな説明を受けていたら、一週間も経つまで忘れているはずがない。……いや、たぶん。たぶんだけど。
「僕、生きてたんすか?」
恐る恐る尋ねる。ここへ来る前の記憶は、今でも鮮明に覚えている。友人との口論。追い詰められた自分。そして、自ら命を絶った瞬間まで。だからこそ、「帰れる」という言葉が理解できなかった。
『いや、死んでますよ』
「死んでるんかい」
反射的にツッコむ。帰れると言われた直後に「死んでますよ」と返される人生なんて、そうそうない。というか、女神なんだから、もう少し言い方ってものがあるだろう。
『なので、"意識"だけ向こうにあるあなたの体へ戻すんです』
「……体?」
『あなたの死体です』
「うわぁ……」
その単語だけで鳥肌が立った。できれば聞きたくなかった。できれば「新しい体を用意しました」とか、そういうファンタジーらしい説明がよかった。死体って生々しすぎるだろ。
『あなたが死ぬところを誰にも見られていなかったので、こっそり隠しておきました。バレなきゃセーフってやつです!』
「いや、アウトだから! 何ですかその犯罪者みたいな発想!」
女神って、もう少し神聖な存在じゃないの?僕の中にあった幻想は、とっくの昔に崩れ去っていたけれど、ここまで自由人だとは思わなかった。
「……じゃあ向こうでは、僕って生きてることになってるんですか?」
『そうですね』
「……」
……生きている。その言葉を聞いた瞬間、止まりかけていた思考が一気に動き出した。
もし本当に向こうの世界へ戻れるのなら。もし僕が日本で自由に動けるのなら。できることは、一気に増える。
スマホもインターネットもある。ということは、原作『嘆きの亡霊は引退したい』について調べることだってできる。今まで気づかなかった情報が見つかるかもしれない。何より、この世界では相談できる相手なんていないが、日本は違う。
友達……は、まあ置いておくとして、ネットでも、本でも、いくらでも情報を集められる。今まで「どうしよう」と悩んで立ち止まっていた僕にとって、それは十分すぎる希望だった。やってみる価値はある。いや、むしろこれしかない。
「では、お願いします!」
勢いよく頭を下げる。こんなに前向きな気持ちになったのは、異世界へ来て初めてかもしれない。
『何をです?』
「……はい?」
一瞬、思考が止まる。いやいや、今の流れで分からないことある?
「いや、とりあえず一回、日本へ戻りたいんですが……」
『はい、どうぞ』
「…………」
部屋に沈黙が流れる。僕はしばらく口を開けたまま固まっていた。
「……え? えっと……送ってくれるんじゃなくて?」
『私、前に言いましたよね?あなたに補正をかけたって』
「ああ……はい」
もちろん覚えている。異世界へ来た初日のことだ。「特別な能力を授けます」みたいな雰囲気を出しておいて、実際は名前を考えただけだった、あの話だ。正直、今でも少し根に持っている。
『あれです』
「あれって……名前のことじゃなかったんですか?」
僕は素直な疑問を口にする。あの時の僕は、本気で「チート能力きた!」なんて期待していた。結果はウラノ・スカイ。……いや、名前は嫌いじゃないけど、能力じゃないじゃん。
『いえ、名前は別件です。私があなたに授けたのは、死ににくくする補正です。言いましたよね?』
「…………」
言われてみればそんなことを言っていた気がする。あまりにも最初のインパクトが強すぎて、そこだけ綺麗さっぱり忘れていた。
『私があなたへかけた補正は』
一拍置いてから、ソーラさんはどこか誇らしげに言った。
『“この世界のあなたの体”と、“日本にあるあなたの体”の意識を自由に切り替えられる力です』
「…………」
頭の中が真っ白になる。そんな便利な能力があるならもっと早く教えてくれよ!
『気づくのが遅いですよ。はぁぁぁ』
深いため息が頭の中へ響く。いや、それは絶対、説明不足だから。
心の中でだけ反論しながら、僕は静かに目を閉じた。日本で暮らしていた頃の自分。最後に見た景色。冷たい空気。あの場所。ぼんやりと記憶を思い浮かべる。
その瞬間、ふわり、と体が宙へ浮いたような感覚が全身を包み込む。ベッドの感触が指先から少しずつ消えていく。部屋の空気も、木の香りも、遠ざかるように薄れていった。
「え……?」
思わず手を伸ばそうとしたけれど、体は思うように動かない。
視界は白く霞み、音も、景色も、すべてがゆっくり溶けていく。
そして最後に残ったのは、自分の鼓動だけだった。
———次の瞬間。
僕の意識は、日本へと落ちていった。
ここから日本と異世界、二つの世界が少しずつ繋がっていきます。
第1章もよろしくお願いします。