ゆっくりと意識が浮かび上がる。
まぶたを開くと、そこに広がっていたのは見慣れた木目の天井ではなかった。
辺りは薄暗く、ほとんど何も見えない。鼻をくすぐるのは、木の匂いと少しだけ湿った空気。体を動かそうとすると、すぐ目の前で何かに肩がぶつかった。
「……狭っ」
思わず小さく声が漏れる。両手を伸ばして周囲を探ってみると、左右も前も板のようなものに囲まれていた。この感触には覚えがある。
クローゼットだ。
恐る恐る前へ押してみると、扉はあっさりと開いた。クローゼットの外は薄暗かった。カーテンの隙間から街灯の淡い明かりが差し込み、部屋をぼんやりと照らしている。暗闇に慣れていた目には、そのわずかな明かりでさえ少しだけ眩しく感じた。
ゆっくりと外へ出て、部屋を見回す。六畳ほどの狭いワンルームに見慣れた机、見慣れたベッド。壁際に置かれた小さな冷蔵庫。大学へ通っていた頃、毎日帰ってきていた部屋だ。
「……まじで戻ってきた」
ぽつりと呟く。異世界で過ごした一週間が、まるで夢だったかのような錯覚を覚える。けれど、そうじゃない。あの世界で出会った人たちの顔は、今でもはっきり思い出せる。
クリュス。ラピスさん。クロエさん。そして、説明不足にもほどがある女神。僕は思わず苦笑した。
「隠したって……クローゼットだったんだ」
てっきり山の中へ埋められたのかと思っていた。死体を隠すと言えば、僕の中ではそんなイメージしかない。それなのに、自宅のクローゼットへ押し込むとは。大胆なのか雑なのか、判断に困る。
……というか。
「八日も入ってたんだよね、僕」
異世界では八日ほど過ごした。つまり、日本でもそれだけ時間が経っていると思っていたのだが……。
恐る恐る自分の服へ鼻を近づける。くん、と小さく息を吸う。
「……臭くない」
体にも異臭はない。部屋にも腐敗したような臭いは全く漂っていなかった。流石に一週間じゃそうはならないかとりあえず安心していいらしい。
女神がやったことだ。深く考えても答えは出ないだろう。
続いて気になったのが、自分の体だった。
僕は恐る恐る首へ手を伸ばす。指先が触れた瞬間、思わず肩がびくりと震えた。
「……」
あの日、自分で首へロープを掛けた感覚だけは、今でも忘れられない。恐る恐る指でなぞってみる。少しだけ違和感はある。けれど、痛みはない。
僕は急いで洗面所へ向かい、鏡を覗き込んだ。
「……あ」
うっすらと、本当にうっすらとだけ、首に赤い痕が残っていた。遠くから見れば分からない程度だ。思わず胸を撫で下ろす。
「よかった……」
これなら、マフラーでも巻けば十分隠せる。少なくとも、一目見て不自然に思われることはないだろう。
僕は軽く伸びをしてから、部屋へ戻り、辺りを見回した。
異世界で一週間生活したあとだからだろうか。見慣れていたはずの部屋が、少しだけ懐かしく感じる。
床へ置きっぱなしだった教科書。脱ぎっぱなしのジャージ。適当に積まれた漫画。生活感しかない部屋なのに、それが妙に落ち着いた。
「さて……」
まず何をするべきだろう。一番最初に思いついたのは、やっぱりあの人だった。
「ソーラさん。聞こえますか?」
静かな部屋へ声をかけるが返事はない。もう一度、声をかけてみる。
「ソーラさん?」
やっぱり返事はなかった。……まあ、この人の場合、繋がっていても返事をしないことがある。
異世界でも、自分から話しかけてくるくせに、こちらから呼ぶと平気で無視することがあった。なので、これだけでは判断できない。
「ソーラさーん!」
少し大きな声で呼んでみる。それでも何も返ってこなかった。……本当に繋がってないのかな。まあ、今はいいか。異世界へ戻れば確認できる話だ。今の僕には、それより優先するべきことがある。
原作――『嘆きの亡霊は引退したい』について調べることだ。
ソーラさんは「オリジナル要素が多い」と言っていたが、世界の設定や登場人物の情報まで全部変わっているとは思えない。原作を知れば、異世界で役立つ情報が見つかるかもしれない。
そのために、日本へ戻ってきたんだから。
そう考えながら視線を机へ向ける。綺麗に揃えられたレポート用紙。置きっぱなしの充電器。そして、黒いスマホ。
死ぬ前まで毎日のように触っていたはずなのに、異世界での生活が濃すぎたせいか、ずいぶん久しぶりに見る気がした。
「……今、何時だろ」
何気なくスマホを手に取る。電源を入れると、見慣れたロック画面が表示された。
時刻は――23時32分。
そこまではよかった。問題は、その下に表示されていた日付だった。僕は思わず画面を二度見する。
「……え?」
表示されていたのは。
――僕が死んだ、あの日と同じ日付だった。
———
しばらくスマホの画面を見つめたまま固まる。画面が壊れているわけじゃない。何度見直しても、表示されている日付は変わらなかった。
「そりゃそうか。変わるわけない」
思わず独り言が漏れる。僕は確かに異世界で八日間過ごした。クリュスと出会って、薬草採取をして、お金を稼いで、アーノルドさんと話をして。
全部夢じゃない。それなのに、日本ではまだ同じ日の夜。
……時間が止まっている。そう考えるのが一番自然だった。
僕が異世界へ行っている間、日本の時間は流れていない。
だから僕の体も腐らず、誰にも見つからなかった。
……だとしたら。
「それ、最初に説明してくれてもよかったんじゃないですかね」
思わず天井へ向かって文句を言う。返事はない。やっぱり今は、本当に繋がっていないらしい。
「まあ、ソーラさんだしなぁ……」
今さら説明不足を責めても仕方がない。異世界へ戻ったら、一応聞いてみよう。
たぶん、「言ってませんでしたか?」くらいの軽い返事が返ってくる気がする。
……想像しただけで少し疲れた。僕は気持ちを切り替えるように小さく首を振る。
今は原作だ。そのために日本へ戻ってきた。
せっかくインターネットが使える環境なんだ。使わない手はない。僕はスマホを操作し、検索画面を開く。
『嘆きの亡霊は引退したい』
作品名を入力し、検索ボタンを押したら、すぐに作品紹介やアニメの情報が表示される。
「……結構人気なんかな?」
異世界では当たり前のように耳にしていた《千変万化》という名前も、日本では一作品の主人公に過ぎない。
なんだか不思議な気分だった。ページを何度か開いてみる。登場人物紹介。簡単なあらすじ。用語集。
「……うーん」
思っていたより情報が少ない。もちろん、知らないことはいくつも書かれている。
でも僕が知りたいのは、もっと細かい部分だ。人物同士の関係。世界の設定。将来起こる出来事。そういうものまでは載っていなかった。
「やっぱり読むしかないか」
小さくため息をつく。だったら話は早い。原作を全部読めばいい。
幸い、今の僕には異世界で稼いだお金じゃなく、日本で生活していた頃のお金がある。
僕はそのままメルカリを開いた。検索欄へ作品名を入力する。すると、すぐに目的の商品が表示された。
『嘆きの亡霊は引退したい 1〜14巻セット』
「……あった」
値段は三千円。思っていたより安い。中古だからだろう。僕は商品画像を何枚か確認する。
多少の日焼けはあるけれど、読むだけなら十分だった。
「これでいいや」
迷う理由はなかった。購入ボタンを押し、支払いを済ませる。
数十分後、スマホが小さく震えた。出品者からのメッセージだった。
『ご購入ありがとうございます。明日発送予定です。到着まで少々お待ちください。』
「よろしくお願いします」と返信し、小さく頭を下げる。今の僕にとって、この小説はただの娯楽じゃない。
異世界で生き残るための教科書になるかもしれないのだから。
———
それから三日後。
講義へ出席し、適当に食事を済ませ、何事もなかったかのように過ごしていた。
幸いだったのは、首の痕について誰にも何も聞かれなかったことだ。
講義中も、食堂でも、すれ違う学生たちも。誰一人として僕の首を見ることはなかった。
いや、見ても気づかなかっただけかもしれない。
鏡で確認した時もかなり薄かったし、夏とはいえ少し襟の高い服を選んでいたことも大きかったのだろう。
あの日のことを思い出されるのは、正直まだ怖い。だから、このまま誰にも気づかれないでいてほしい。
そんなことを考えていると、インターホンが鳴った。
「はい」
受け取ったのは、それほど大きくない段ボール箱だった。
送り状を確認するまでもない。中身は分かっている。部屋へ戻ると、カッターで封を切る。
中から姿を現したのは、少しだけ日焼けした十四冊の漫画。
『嘆きの亡霊は引退したい』
異世界では誰もが知る《千変万化》クライ・アンドリヒの物語。
これから読むものが、異世界で生きるための手掛かりになるかもしれない。
そんな期待を胸に、僕は一巻を開いた。
———
読み始めると、思っていた以上に時間を忘れた。知っている名前、知らない名前が次々と登場する。クライ。ティノ。そして、《
異世界では噂程度しか聞けなかった人たちが、日本では当たり前のように笑い、会話をし、騒動を巻き起こしていた。
ページをめくる手が止まらない。ソーラさんが言っていた通りだ。
異世界で起きている出来事と、原作の流れは基本的に同じ。
この情報は、きっと武器になる。戦うためじゃなく、生き残るための武器だ。
———
気づけば五日が経っていた。
最後のページを閉じ、思わず大きく息を吐いた。
「……長かった」
読み応えがある作品だった。面白かった。ソーラさんがあそこまで熱く語っていた理由も少しだけ分かる。
ただ、それ以上に僕には気になることがあった。原作には、クライさんが突然行方不明になる展開なんて存在しないことだ。
異世界でクロエさんから聞いた話では、《千変万化》クライ・アンドリヒは行方不明になっていた。
つまり、そこが原作との大きな違いなんだろう。二次創作なんだから展開が違うこと自体は、おかしな話じゃない。問題は、その原因だ。
『
あの名前は原作には一度も出てこなかった。ただ、だからといって何も分からない。あの組織が何なのか。どんな目的で動いているのか。
それは原作には載っていないし、あの世界で自分の目と耳を使って確かめるしかない。
「……結局、向こうで頑張るしかないか」
小さく苦笑する。結局、楽をする方法なんてなかった。それでも、日本へ戻ってきた意味はあったと思う。
何も知らないまま異世界で悩み続けるよりは、ずっと前へ進めた気がする。僕は漫画を丁寧に箱へ戻す。
そして静かに目を閉じた。異世界で目覚めた時のことを思い出す。木の匂い。少し硬いベッド。あの下宿の部屋。
「……戻ろう」
小さく呟いたその瞬間、ふわり、と体が軽くなる。
景色がゆっくりと白く霞み始める。日本の部屋が遠ざかり、意識だけがどこかへ引っ張られていく。
この感覚は、一度経験している。次に目を開ける場所は、もう分かっている。
僕の第二の人生が待つ、あの異世界だ。
———
ゆっくりと意識が浮かび上がる。
次に目を開けた時、僕は下宿の床へ倒れていた。打った腰をさすりながら体を起こす。どうやら無事に戻ってこられたらしい。
部屋の中は静まり返っていた。見慣れた木製のベッド。小さな机。
ほんの数日前まで当たり前だった景色なのに、日本を挟んだからだろうか。少しだけ懐かしく感じる。
僕は一つ、大きく息を吐いた。
日本へ戻った目的は果たした。原作『嘆きの亡霊は引退したい』は十四巻まで読み、登場人物、世界の仕組み、宝物殿、原作と異世界との違い。知りたかったことは、おおよそ頭の中へ入っている。
その中でも、一番印象に残った設定がある。
「マナ・マテリアル……」
思わずその名前を口にする。この世界のハンターたちが、人間離れした力を持っている理由。それが、マナ・マテリアルだった。
宝物殿に存在する特殊な力。ハンターはそれを吸収することで、身体能力や魔力を大きく成長させていく。
だからこそ、見た目では想像もできないほどの力を発揮できる。華奢な少女が、大柄な男を軽々と倒すことすら珍しくない。そして、もう一つ重要なことも分かった。
マナ・マテリアルの吸収量には個人差があるということ。
たくさん吸収できる人もいれば、ほとんど吸収できない人もいる。才能と言ってしまえば、それまでなんだろう。
もし僕にも吸収する才能があるなら、レベル2。そして、その先のレベル3も決して夢物語じゃないのかもしれない。もちろん、才能がない可能性だって十分ある。まずは試してみるしかない。
僕は静かな部屋で天井を見上げた。
「ソーラさーん!」
呼びかけるとすぐに返事が返ってきた。
『お帰りなさい。どうでしたか?』
頭の中へ響く聞き慣れた声に思わず少しだけ安心する。
「はい。ちゃんと原作を全部読んできましたよ」
『おおー。それで?』
「ソーラさんがあそこまでハマった理由、少し分かった気がします」
『でしょう、でしょう!』
なんとなく胸を張っている姿が目に浮かぶ。相変わらず分かりやすい女神だ。
「それで、一つ聞きたいことがあるんですが」
『はい、何でしょう?』
「僕って、マナ・マテリアルを吸収できますか?」
一番気になっていたことだった。どんなに努力しても、吸収できない体質だったら意味がない。数秒だけ沈黙が流れ、ソーラさんは落ち着いた声で答えた。
『はい。吸収はできると思います。ただ、どれくらい吸収できるかまでは分かりません。そこは実際にやってみないとですね』
「……そうですか」
それだけ分かれば十分だった。少なくとも、スタートラインには立てる。才能があるかどうかは、そのあとだ。
胸の奥が少しだけ高鳴る。異世界へ来て初めて、「強くなれるかもしれない」という希望が湧いてきた。
もちろん、いきなり無茶をするつもりはない。原作を読んだからこそ分かる。宝物殿には危険な場所も多い。レベル1の僕が踏み込めば、命を落とす場所だって珍しくない。だから最初は、一番安全そうな場所から始める。
僕の頭には、原作で見覚えのある宝物殿の名前が浮かんでいた。
「アレイン円柱遺跡群……」
十七本の巨大な石柱が並ぶ、小規模なレベル1の宝物殿。初心者向けとして知られていて、原作でも“雑魚宝物殿”なんて言われている場所だ。出現する魔物は
魔物とはいえ、相手は兎だ。もちろん油断するつもりはない。
「うん。いける……たぶん」
自分に言い聞かせるように頷く。それに、問題は魔物だけじゃない。
帝都でも最弱クラスと言われるこの宝物殿で、僕がどれだけマナ・マテリアルを吸収できるか。それが分かれば、自分に才能があるのか、少しは見えてくるはずだ。もし全然吸収できなかったら、その時はその時で別の方法を考えればいい。まだ何も試していないのに、「無理だ」と決めつけるのだけはやめようと思った。
そんなことを考えていると、ふと別の疑問が頭に浮かんだ。
「あの、ソーラさん」
『はい?』
「もう一つ確認したいんですが、僕がこの世界にいる間、向こうの時間が止まってたのって……知ってました?」
『知ってましたよ。言ってませんでしたっけ?』
「…………」
ほらね? こういう人なんですよ、この女神。言ってない。絶対に言ってない。
でも、ここで「言ってません」と返したところで、「言いました」で終わる未来しか見えない。もうツッコむ気力もなかった。
『そしてあなたが日本へ行っている間は、こちらの世界は止まっています。それに、その能力に使用制限はありませんので、安心して情報収集してください』
「それは助かりますけど……」
だったら最初に説明してほしかった。本当に、この人は説明が足りない。
そんな僕の心を読んだのか、ソーラさんは少しだけ笑うような声で続けた。
『ちなみに、私がいる場所はその影響を受けません』
「え?」
まあ、予想通りではあった。
ソーラさんが言うには、僕がどちらかの世界にいる間、もう片方の世界は止まっている。にもかかわらず、そのことを把握できているということは、この人だけは両方の世界を自由に認識できるということなんだろう。
『ただ、あなたが日本にいる間は、観察したり会話したりすることはできませんが……」
「なるほど……」
あの時、日本で何度呼びかけても返事がなかったのは、そのせいだったのか。
認識はできるけど、僕が日本にいる間は何をしているか全く分からないってことか。
少し不便ではあるけれど、使用回数に制限がなくて、日本にいる間はこちらの時間も止まっている。改めて考えると、とんでもない能力だ。情報収集もできるし、困った時には一度日本へ戻って考えを整理することだってできる。
これだけでも、今までソーラさんに振り回されてきたことを、半分くらいは許してもいい気がしてきた。
そんなことを考えていると、ソーラさんが不意に付け加える。
『あ、でも私、その間は一人なので早く帰ってきてくださいね』
「……別に、そんな寂しがるようなキャラでもないでしょう」
『寂しいとは言ってません。暇なだけです』
「同じことじゃないですか」
『違います。あと単純に、早く続きが見たいだけです』
声のトーンが一段階明るくなる。悲愴感も何もない、純粋な好奇心だ。ある意味、彼女らしいといえば彼女らしい。
僕は小さく笑いながら立ち上がる。
まずは、自分がどれだけマナ・マテリアルを吸収できるのかを確かめること。それが分からなければ、この先どう努力すればいいのかも見えてこない。
原作を読んで、この世界の仕組みを知って、自分にも可能性があると分かった。その事実だけで、一歩踏み出す理由には十分だった。
レベル3になって、クリュスに自慢する。脳裏に浮かんだのは、腕を組んで澄ました顔のクリュスだった。あの「です」を、もう一度聞きたい。ただそれだけの理由が、今の僕には十分すぎるくらいの力になっていた。
その最初の一歩を踏み出そう。
「目指すは――【アレイン円柱遺跡群】」