『本当に行くんですか? 【アレイン円柱遺跡群】に』
呆れを隠そうともしていない声が、頭の奥へ静かに響いた。
その問いを投げ掛けられる頃には、僕はもう帝都の城壁をとっくに後ろへ置き去りにしていた。石畳の道はいつの間にか土へ変わり、乾いた風が頬を撫でるたび、帝都の喧騒は少しずつ遠ざかっていく。
ここまで来て引き返す、なんて選択肢は最初から存在しない。
今さら「やっぱり帰ります」などと言い出したところで、費やした時間も覚悟も全部無駄になる。それくらいなら、多少怖くても前へ進んだ方がいい。
「もちろんです。これ以上、日和ってる場合じゃありませんからね」
そう口にはしたものの、胸の内では「本当は帰りたい」が七割くらいを占めている。
だけど、この世界で生きる以上、怖いからと立ち止まっていられるほど甘くないことも知っていた。
ハンターが強くなるには、マナ・マテリアルを吸収するしかない。そして、その最も効率的な方法が宝物殿へ潜ること。
避けて通れない道なら、どこかで踏み出さなければならない。
……もちろん、その一歩が命取りにならない程度の危険であることを、心の底から願っている。
今回向かう【アレイン円柱遺跡群】は、レベル1向けとされる宝物殿だ。世間一般からすれば「初心者向け」と呼ばれる場所なのだろう。
けれど、僕自身の実力を冷静に見積もるなら、その初心者という土俵に立てているかさえ怪しい。
自己評価を数字にするなら、せいぜいレベル0.3。まだ「0」ではない、と言い張れる程度の実力しかない。だからこそ、油断だけは絶対にしない。
この世界では、自信過剰な人間から先に死ぬ。
『……そうではなくて』
ソーラさんは小さく溜め息を吐くような間を挟み、呆れた調子のまま言葉を続けた。
『強くなりたいなら、もう少し上を目指せばいいじゃないですか。 あそこ、本当に何もないですよ? 行くだけ無駄です!』
「いや、その“もう少し上”が初心者には怖いんですけど」
『日和りすぎです』
「慎重派と言ってください」
『同じです』
「違います」
僕は別に臆病なわけじゃない。ただ、生きて帰りたいだけだ。
……それすら、この世界では贅沢なんだろうか?
ソーラさんの話によれば、【アレイン円柱遺跡群】は半径数メートル程の範囲に十七本の石柱が並ぶだけのつまらない宝物殿らしい。
幻影が現れるため、一応は宝物殿として認定されている。しかし立地は悪く、得られるマナ・マテリアルも雀の涙ほどしかない事から、ハンターの中では半ば忘れ去られ、「存在しないもの」と同じ扱いを受けているらしい。
けれど、僕はそれで構わないと思っていた。
ゲームでも、チュートリアルを飛ばした人ほど最初のボスで泣きを見る。基礎を軽視した結果、あとになって何倍もの苦労を背負う。それはゲームだけじゃない。
この世界へ来たばかりの頃だってそうだった。
右も左も分からないまま森へ放り込まれたあの日のことを思い出すだけで、今でも背筋が冷える。
木々の間から聞こえてきた正体不明の鳴き声。どこから襲われるか分からない恐怖。喉が張り付き、足は震え、それでも立ち止まれば死ぬと本能だけが叫んでいた。
本気で、自分はここで終わるのだと思った。だからこそ、安全そうな場所から始めたい。その考えだけは、どうしても譲れない。
それに、この女神は説明不足という前科が多すぎる。
「そう言って、急に強い魔物とか出てきません?」
『出ませんよ』
「本当に?」
『多分』
「“多分”って言いましたよね!?」
ほらね、やっぱり信用できない。
ソーラさんから貰った補正の力を使えば、日本へ戻ること自体はできる。でも、この能力を逃げ道として使うのはできるだけ避けたい。
何故なら、この能力はあくまで"意識を切り替える"だけだからだ。
日本へ戻っている間、この世界の時間は止まる。
だから、安全な場所で使う分には便利だ。情報を集めたり、考えを整理したり、そういう用途ならいくらでも使える。
けれど、危険な状況で使った場合は話が変わる。
例えば、目の前に魔物がいる状態で日本へ逃げたとしても、戻ってきた瞬間にその状況は何も変わっていない。時間が止まっているだけで、問題そのものが消えるわけではないのだ。
つまり、この力は万能な逃げ道ではない。使い方を間違えれば、戻ってきた瞬間に命を落とす可能性だってある。
過信しすぎてはならない。だからこそ、少しでも危険があるなら、事前に確認しておくべきだ。
「あの、ソーラさん。【アレイン円柱遺跡群】の周りって、砂兎以外に魔物はいるんですか?」
『え? いえ……砂兎くらい、だったような……あの辺りは巣穴が多いので、砂兎はいっぱいいます』
ソーラさんが目を瞬かせて答えた。
砂兎とは、名前の通り砂色の毛並みを持つ兎型の魔物らしい。体格も力も普通の兎と大差なく、帝都周辺では食物連鎖の最下層。
そこまで聞けば安心してもよさそうなものだが、むしろ僕は少しだけ警戒を強めた。
「弱い」と何度も念を押される相手ほど、どこかに落とし穴がある。ゲームでも漫画でも、そういう油断をした主人公は大抵ひどい目に遭う。
恐る恐る辺りを確認しながら歩く僕に、ソーラさんが茶化すように言う。
『砂兎に負けたら恥ずかしいですよ?』
「ちなみに、どれくらい弱いんですか?」
『一対一なら、あなたでも多分勝てます』
「その”多分”をやめてもらっていいですか?」
安心させたいのか、不安にさせたいのか、本当に分からない。
そんなやり取りを交わしていると、不意に前方の草むらがかすかに揺れた。
反射的に足を止め、息を潜める。
「……………ソーラさん、あれですか?」
視線の先には、砂色の毛並みをした兎が数匹。
ぴょん、と軽やかに跳ね、何事もないように草を食んでいる。丸みを帯びた小さな身体。長い耳。ふわふわした尻尾。どう見ても普通の兎だった。
「……あれが砂兎?」
『はい』
「普通の兎じゃなくて?」
『魔物です』
「えぇ……」
拍子抜けするほど愛らしい。近所の公園にいたと言われても信じるくらいには、可愛かった。
……本当に、あれと戦うのか。
そんな疑問より先に、「できれば撫でてみたい」という感情が湧いてしまった自分に、僕は小さく頭を抱えた。
……今考えること、それじゃないだろ。
———
道中で出会った魔物は、砂兎だけだった。ソーラさんの言っていた通り、この辺りには砂色の毛並みをした兎があちこちに生息している。
歩いている最中も、地面のそこかしこに口を開けた巣穴から、小さな顔がひょこっと覗いていた。こちらへ気付くと慌てて穴へ飛び込み、また少しすると恐る恐る顔を出す。その様子を見ていると、本当に警戒心だけで生き延びてきた生き物なんだなと思う。
襲ってくる気配はまったくないので、そのまま通り過ぎる。
素早く身を隠す姿と、食物連鎖の最下層という立ち位置は少し悲しいけれど……どこか他人事とは思えなかった。油断すると妙な親近感を抱いてしまいそうである。
やがて視界が開け、【アレイン円柱遺跡群】にたどり着く。そこには、十七本の石柱が円を描くように並んでいた。
「これが【アレイン円柱遺跡群】……」
名前だけ聞けば、もっと神秘的な場所を想像していた。
何百年も人を寄せ付けない遺跡とか、霧に包まれた神殿とか、そんな雰囲気を勝手に期待していたのだ。
でも実際は、見晴らしのいい荒野に石柱が並んでいるだけだった。周囲を見渡しても特別な建物はなく、魔物の気配もない。拍子抜けするくらい静けさに思わず本音が漏れる。
「……地味」
『それでも行くって、あなたが言ったんですよ?』
「いや、だってもっとこう……ワクワクする場所かと思ってました」
『初心者向けですから』
「初心者向けって、夢まで初心者向けになるんですか?」
『贅沢言わないでください』
まあでも、確かに安全そうではある。
それは初心者の僕にとって何よりありがたいことなんだけど、もう少しだけ冒険している雰囲気が欲しかった。
そんなことを考えながら石柱の間を歩いていると、不意に足が止まった。
中央付近。円形に並ぶ石柱の真ん中あたりに、大人が数人並んで入れそうな穴がぽっかりと口を開けている。
自然にできた穴には見えない。誰かが意図して掘ったような、真下へ続く縦穴だった。
僕はいつでも逃げられるよう周囲を確認しながら、慎重に穴へ近付いていく。
縁へ手を掛け、ゆっくりと中を覗き込んだ。薄暗くて奥までは見えない。ただ、人が通れそうな空間が下へ続いていることだけは分かった。
『中には何もなさそうですが……確認しに行きますか?』
「うーん……」
返事をしながらも視線は穴から離せない。こういう場所って、大抵嫌な予感しかしないんだよな。
『何か出てくるかもしれませんよ?』
「……何かって…………魔物、とかですか?」
嫌な想像が頭をよぎる。
実は砂兎には親玉みたいな存在がいて、いきなり飛び出してくるとか。そういう展開だけは勘弁してほしい。
だが、ソーラさんはあっさり否定した。
『いえ、宝具です』
「……あ」
その一言で、僕の頭の中から魔物のことが吹き飛んだ。
……そうだった。ハンターたちが宝物殿へ潜る理由は、マナ・マテリアルだけじゃない。
宝具。宝物殿の中で生成される、マナ・マテリアルから生み出された特殊な道具。
原作によると、その正体は世界のどこかに記録された「かつて存在した道具」の再現品らしい。
魔力を流し込むことで力を発揮し、蓄えられた魔力が尽きるまで使い続けられる。
炎を纏う『
読んでいる時は、「こんなの使ってみたいな」と素直に思った。
……まあ、そんな都合よく見つかるわけがないんだけど。
宝具は、レベルの低い宝物殿ほど出現率が極端に低い。レベル1の宝物殿である【アレイン円柱遺跡群】で期待するのは、正直ほぼ無理だ。
「でも、よく考えたら【アレイン円柱遺跡群】で宝具なんて出ませんよね?」
『ティノ・シェイドは見つけていますよ』
「あれはクライの適当な思いつきが、たまたま本当になっただけじゃないですか」
原作3巻のゼブルディアオークション編。アーノルドさんに負けたティノが、名誉挽回のために宝具を探しに行く話だ。
安全そうだからという、クライの適当な理由で選ばれた宝物殿だったのに、本当に宝具が見つかってしまう。あれは完全にクライだから成立した奇跡である。
「しかも、あれってこの宝物殿が生み出した宝具じゃなくて、外から持ち込まれた物でしたよね?」
『そうです! そうです! よく読んでるじゃないですか!』
うわ、すごく嬉しそう。姿は見えないけれど、絶対に満面の笑みになっている。
……その気持ちは分かる。自分の好きな作品を誰かが読んでくれて、「あのシーン良かったよね」と話せるだけで嬉しいものだから。
僕は思わず苦笑しながら、もう一度穴の中へ視線を落とした。
「……とりあえず、入ってみますか」
完全に無駄足になりそうな空気は漂っている。それでも、まだ何も始まっていないのに諦めるのは違うしな。
僕は慎重に足場を確かめながら、ゆっくりと穴の中へ降りていった。
———
慎重に穴の中へ降りると、そこには石造りの通路が広がっていた。
湿った空気が肌へまとわりつく。壁にはところどころ見たことのない文字が刻まれ、長い年月を経たせいか、床には砂埃が薄く積もっていた。
思っていたより広い。宝物殿というより、誰かが暮らしていた地下施設のようにも見える。どこか研究所のような雰囲気だった。
原作を読んだばかりだからだろうか。地下研究所と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、秘密結社《アカシャの塔》だった。
ノト・コクレアとソフィア(シトリーちゃん)が暗躍していた、あの施設。もっとも、あれは【白狼の巣】での出来事だ。場所も違うし、同じとは限らない。
「ソーラさん。これって、《アカシャの塔》の施設だったりします?」
『おそらくそうだと思います』
予想外にあっさり肯定された。もっと「違いますよ」と笑われると思っていただけに、思わず言葉を失う。
嫌な予感が、じわりと胸の奥へ広がっていった。
『原作には登場しませんが、Web版では触れられています。ここはノト・コクレアが使っていた研究施設の一つですね』
「…………」
やっぱり嫌な予感しかしない。そんな気持ちを押し殺しながら、僕はゆっくりとソーラさんへ問い返した。
「何もないって言ってませんでした?」
『…………い、言ってませんでし——』
「言ってませんよね!? いちいち誤魔化さなくていいですから!」
もー、本当にこの女神は。説明不足なのか、忘れているのか、それとも天然なのか。最近ではもう、その全部なんじゃないかと思い始めている。
『で、でも今回は本当に大丈夫ですよ?』
「どうしてそう言い切れるんですか?」
『ノト・コクレアはもう死んでいますから。シトリーの方は何故か出てないので分かりませんが……』
「……死んでる?」
『はい。『
「……ソル・バートン?」
『原作には出てこない、この世界だけのキャラクターです』
…………そうだった。この世界は原作ではなく、二次創作の世界。
それなら原作と違う歴史を歩んでいてもおかしくはない。だから、この研究所が残っていたとしても、肝心の本人はもう存在しない。
「じゃあ、誰もいないってことですか?」
『そうです! 絶対に何も起きません! 命を懸けます!』
「命は懸けなくていいです」
そんな事で命懸けんな。それに、その台詞を聞くと逆に不安になる。今までの経験上、この女神がそこまで言い切る時ほど、大体ろくなことが起きない。
だが結局、それ以上何も起きることはなかった。
———
施設の中を一通り見て回る。
壁際には朽ちた本棚や机が並び、床には砕けたガラス片のようなものが散らばっていた。棚の上には紙切れのようなものも残っていたが、長い年月を経て風化しており、指で触れた瞬間に砂となって崩れてしまう。「何か残ってないかな」と期待して辺りを見渡したものの、役に立ちそうなものは何一つ見つからなかった。
人の気配も魔物の気配もない。ただ、かつて誰かがここで何かを研究していた――そんな痕跡だけが静かに残されていた。
僕は少しだけ肩の力を抜きながら、来た道を戻る。両手を地面につき、よいしょ、と体を持ち上げる。外へ出ると、乾いた風が頬を撫でた。
『ね? 何も起きなかったでしょう?』
「一回当たったくらいで得意げにならないでください」
僕は呆れ半分で苦笑する。別に言葉足らずなところに不満があるわけではない。ただ、「言いましたよね?」と本当に言った感じで言われるのが嫌なだけだ。もう何回そのやり取りをしたことか。
そのあとも石柱の周囲を歩いてみたが、完全に無駄足になってしまった。宝具が転がっている様子もない。本当に、初心者向けの宝物殿なんだな。
『やっぱり、がっかり宝物殿でしたね』
「まあ、仕方ないですね」
少し期待していただけに残念ではある。でも、最初から大きな成果を期待していたわけじゃない。今日は無事に帰れれば、それで十分だ。
すると、ソーラさんが少しだけ声の調子を変えて言う。
『でも、あなたにハンターの素質があるかもしれないって分かっただけでも、大きな収穫ですよ』
「……僕に素質?」
一体、何を根拠にそんなことを言うんだろう。首を傾げる僕へ、ソーラさんは少し嬉しそうに続けた。
『気付きませんか? あなた、少しだけマナ・マテリアルを吸収していますよ』
「え?」
思わず自分の体を見る。腕も足も、さっきと何も変わらない。強くなった実感なんて、一ミリもなかった。
『最初はそんなものです。そのうち実感できますよ』
その言葉を聞き、僕の胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。
僕が一番不安だったのは、「僕には才能がないかもしれない」ということだった。
もしマナ・マテリアルをほとんど吸収できない体質だったら、どれだけ努力しても強くなれない。だけど、少しでも吸収できているというなら話は別だ。
まだ本当に少しだけなんだろう。それでも、ちゃんと前へ進めている。
『この調子でどんどん強くなって、《創星界》を止めて、この作品を完結させるんです!!』
……テンション高いなこの女神。
でも、その能天気さには少しだけ救われている自分もいた。この世界で一人だったら、たぶん僕はとっくに心が折れていただろう。
そんなことを考えた、その時だった。
ゴゴゴゴゴ……。
地面が、小さく震えた。
最初は気のせいかと思ったけど、振動は止まるどころか、少しずつ強くなっていく。足元の砂が細かく跳ね始めたのを見て、僕はようやく異変を確信した。
『!?』
「……え?」
足の裏から伝わる鈍い振動。乾いた砂がぱらぱらと跳ね、十七本の石柱がわずかに軋む。振動は、僕がさっきまでいた穴の方から聞こえてきていた。
嫌な汗が背中を伝う。やはり、さっきのソーラさんの発言はフラグだったのか。
「ソーラさん……」
『…………』
さっきまで「大丈夫です」「何も起きません」と騒いでいたソーラさんが、不自然なくらい黙り込む。いつもなら何かしら言い返してくる人だ。そのソーラさんが言葉を失っている。それだけで、嫌な予感が何倍にも膨れ上がった。
ゆっくりと穴の方へ視線を向ける。
次の瞬間、砂煙を巻き上げながら、一体の巨体が姿を現した。砂色の光沢を帯びた岩の身体。二メートルを優に超える巨体。重々しい足音を響かせながら、ゆっくりと立ち上がる。
僕は喉を鳴らした。足が、勝手に一歩後ろへ下がる。頭の片隅で「日本へ戻れば」という考えが一瞬よぎった。でも、すぐに打ち消す。戻った瞬間、目の前にあいつが待っているかもしれない賭けなんて、できるはずがない。
「…………ソーラさん……あれ、何ですか?」
震える声で尋ねる。しばらく沈黙したあと、ソーラさんも珍しく自信なさそうに答えた。
『…………分かりません』
分からない。その一言の方が、今まで聞いたどんな「大丈夫です」よりも、何倍も恐ろしかった。
『アカシャゴーレム……? いえ、違いますね……』