目の前に現れた巨体は、ゆっくりと首を動かした。
砂色の岩でできた身体は鈍く光を反射し、その一歩ごとに地面が重々しく揺れる。人間なら見上げなければならないほどの巨体。それだけで十分な威圧感だった。
幸いなのは、まだこちらへ気付いていないことだ。僕は石柱の陰へ身を寄せ、できるだけ息を殺した。
「……
『……』
喉が渇く。ソーラさんはすぐに返事をするかと思ったが、一拍遅れてようやく口を開いた。返事が来るまでのその一瞬が、やけに長く感じられた。
『レベル1の宝物殿ですよ!?』
その声には、さっきまでの余裕が欠片もなかった。いつもならもっと軽い調子で茶化してくるくせに、今は完全にそれどころじゃない、という焦りだけが伝わってくる。
『幻影はマナ・マテリアルの濃い場所ほど強くなります。この【アレイン円柱遺跡群】は帝都でも最低クラスの宝物殿です。幻影そのものが滅多に現れない場所なんですよ!?』
ソーラさんは珍しく早口になっていた。言葉と言葉の間に、いつもの余裕がまるでない。
『ましてやゴーレムなんて……そんなものが出現するわけありません!』
ここまで取り乱すソーラさんを見るのは初めてだった。だからこそ、逆に少しだけ冷静になれた。パニックになっている人間が二人いたら終わりだ。誰かが冷静でいなければ、この状況を切り抜けることすらできない。僕は巨体から目を離さないまま、小さく呟く。
「だったら……やっぱり《アカシャの塔》が残していたゴーレムとかじゃないんですか?」
原作では、『アカシャの塔』は《
だが、ソーラさんは間を置かず答えた。
『それはありません』
「どうしてですか?」
『……あれは幻影だからです。間違いありません』
きっぱりと言い切る。迷いのないその声には、さっきまでの取り乱しようが嘘のような芯の強さがあった。そこまで断言されると、それ以上反論する材料もない。幻影なら、この宝物殿で生まれた存在ということになる。つまり、研究所とは別の原因があるということだ。
少しの沈黙が流れる。石柱の隙間から吹き込む風の音だけが、やけにはっきりと耳に届いた。その沈黙の後、ソーラさんが静かに言った。
『少し、この作品について話してもいいですか?』
「この作品って……原作じゃなく?」
『はい。この二次創作についてです』
その声音は、いつもの雑談とは違っていた。軽口を叩く時特有の緩さがどこにもない。何か重要なことを話そうとしている、そう感じ取るには十分だった。僕は石柱の陰からゴーレムの様子を窺いながら、小さく頷いた。
———
ソーラさんから聞かされた話を整理すると、原因は《アカシャの塔》ではなく、《
ソル・バートンは、《アカシャの塔》ゼブルディア支部長ノト・コクレアが完成させた“マナ・マテリアル撹拌装置”を利用し、レベル3だった【白狼の巣】を一気にレベル8まで引き上げたという。
僕は思わず言葉を失った。
頭の中で数字だけがぐるぐると回る。宝物殿のレベルがどれほど重要なのかは、原作を読んだからこそ分かる。レベルが一つ違うだけでも出現する幻影や宝具は大きく変わる。それを、一気に五つも上げるなんて、普通の理屈で考えられる話じゃなかった。
『その時に協力していたのが、《創星界》副クランマスターのルーナ・ネロナと、《小さな惑星》所属の錬金術師、ハウメア・ゲイルです』
「……知らない名前ですね」
ソル・バートンはソーラさんからさっきも聞かされた名前だ。けれど、その二人については初耳だ。ルーナ・ネロナは帝都最強の女帝とまで呼ばれる人物らしい。それなら一度くらい耳にしていてもよさそうなものだが、少なくとも僕の記憶には残っていなかった。ハウメアはまあ、知らなくても仕方ない。
聞けば聞くほど疑問は増えるばかりだった。
「それが、このゴーレムと何の関係があるんです?」
『……まだ分かりませんか?』
ソーラさんは少しだけ呆れたように言う。焦っていたはずなのに、こういう時だけは妙に落ち着いていて、その温度差が逆に不気味だった。
『【白狼の巣】のレベルを五も上げられるなら、他の宝物殿にも同じことができる可能性があります』
僕は少し真面目に考えた。
マナ・マテリアル撹拌装置は原作にも出ていた。その時は【白狼の巣】のレベルを上昇させ、《黒金十字》やガーク支部長を追い詰めていた。ただ、原作だとあの装置は1つしかなかったはずだ。2つも3つももあるはずがない。もしあるなら、とっくに使っているはずだ。多分。
「……あ」
そこでようやく繋がった。頭の中でばらばらだった情報が、一本の線になって繋がっていく感覚だった。つまりこういうことだろう。
「【アレイン円柱遺跡群】にも、その装置を使ったってことですか?」
『その可能性が高いです』
ああ、なるほど。だから今回の原因はソル・バートンなのか。原作を読む限り、1つしかなかった装置を複製なんてノトにもシトリーにもできないだろう。できる人物がいるとしたら、それはこの世界のオリジナルのキャラクターだろう。ソルって人が何者なのかは分からないが、結構やばい人だって事は分かった。
ソーラさんは真剣な声で続ける。普段のからかうような口調とは全く違う、静かで低い声だった。
『この宝物殿は本来、ゴーレムなんて出現する場所ではありません。ですが、マナ・マテリアルの濃度だけが異常に高められていたとしたら……』
「幻影の強さまで変わる」
『その通りです』
嫌な予感しかしない。目の前に立つあの巨体は、偶然現れたわけじゃない。この宝物殿そのものが、本来とは別物になってしまっている。誰かの意図で、初心者向けの場所が牙を剥く場所に変えられていた。そう考えるだけで、背筋が冷たくなった。
僕は恐る恐るゴーレムへ視線を向けた。岩の巨体は周囲を見回すようにゆっくりと首を動かしている。まだこちらには気付いていない。でも、それも時間の問題だろう。
「で……どうやって倒すんですか?」
『倒しません』
僕の問いに、ソーラさんは間を置かず即答した。まるでその質問を待っていたかのような速さだった。
「……え?」
『逃げるんです!』
信じられない単語がソーラさんから出てきて、僕は思わず耳を疑った。
(逃げる? 今この人は逃げると言ったのか!? さっきまで「こんながっかり宝物殿じゃなく、もっと上の宝物殿へ行きましょう」なんて言ってきたアバズレ女神が?)
『聞こえてます!! 冗談言ってる場合じゃないでしょう!? あれは今のあなたに勝てる相手じゃありません! 見たら分かるでしょう!?』
「いや、それはそうですけど……」
『レベル1どころの話じゃありません! あのゴーレムと戦ったら終わりです!』
これほど焦っているソーラさんを見て、その必死さが言葉の一つ一つから伝わってくる。その姿を見て、ようやく理解する。これは脅しでも大げさな話でもない。本当に命の危険が迫っている。
僕は静かに唾を飲み込んだ。喉の奥が、いやに乾いていた。
「……さて」
石柱の陰からそっとゴーレムの様子を窺う。幸い、まだこちらには気付いていない。心臓の音が、自分でも分かるくらい大きく響いていた。
逃げるなら、今しかない。
そう思った、その瞬間だった。
———
ゴォォォォォッ――!!
耳をつんざく轟音とともに、ゴーレムの両目が眩く輝いた。
「え……?」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。しかし次の瞬間、その両目から放たれた眩い光が一直線に大地を貫く。
「うぉっ!?」
反射的に身体を横へ投げ出す。ほんの一瞬前まで僕が立っていた場所を灼熱の閃光が薙ぎ払い、地面を抉りながら一直線に駆け抜けた。耳をつんざく爆発音が遅れて響き、吹き上がった土砂と熱風が全身へ叩きつけられる。
地面を何度も転がりながら受け身を取り、慌てて立ち上がる。頬には砂が張り付き、口の中まで土臭さが広がった。手のひらに感じる痛みで、ようやく自分が生きていることを実感する。今のが直撃していたら、今頃どうなっていたのか。想像しただけで、指先の感覚が一瞬遠のいた。
「な、何あれ!? レーザー!?」
『止まらないでください! 走ってください!!』
ソーラさんの悲鳴にも似た声が頭の中へ響く。その声に弾かれるように僕は地面を蹴った。
考えている暇なんてない。ただ走る。後ろを振り返る余裕なんて一切ない。いや、振り返ってしまえば最後だ。そんなことをした瞬間、あの光が僕を飲み込む気がしてならなかった。
必死に荒野を駆ける。乾いた土が靴底を滑らせ、何度も足を取られる。息はすぐに上がり、肺が焼けるように痛い。心臓は壊れそうなくらい暴れ回り、喉はひゅうひゅうと情けない音を立てていた。それでも足だけは止められない。止まった瞬間、自分は死ぬ。その確信だけが、震える身体を無理やり前へ動かしていた。
頭の片隅で、ずっと薬草採取ばかりしていた自分を思い出す。あんな生活の中では、こんな瞬発力なんて一度も必要にならなかった。今さらになって、体力作りをサボっていた自分を呪いたくなる。
ゴォォォォッ!!
再び背後で轟音が響く。
「また来たぁぁぁ!!」
半ば悲鳴を上げながら全力で駆ける。閃光は容赦なく地面を抉り、爆発を繰り返しながら僕を追い掛けてくる。そのたびに熱風が背中を掠め、皮膚が焼けるような感覚に思わず肩をすくめた。
『もっと全力で走ってください! 追いつかれます!!』
「これが全力ですって!!」
情けないことに、僕は昔から足が速い方じゃなかった。高校時代の五十メートル走だって八秒二くらい。平均より一秒近く遅かったはずだ。運動会ではいつも真ん中より少し後ろ。体育祭で活躍した記憶なんてほとんどない。だから今さら「もっと速く走れ」と言われても無理なものは無理である。
いや、こんなところで学生時代の運動能力を思い出している場合じゃない。
必死に身体を左右へ振りながら走る。転ばないように、少しでも狙いを逸らせるように、とにかくがむしゃらだった。
しかし、次の瞬間、嫌な違和感を覚えた。
背後の轟音が止んだのだ。
静かになった――いや、違う。この静けさは、安全の証じゃない。むしろその逆だ。息を切らしながらも、本能だけが警鐘を鳴らしていた。
ゴーレムはゆっくりと右腕を持ち上げ、その掌へ眩い光を集め始めていた。今までの攻撃とは比べ物にならないほど濃密な光が渦を巻き、空気そのものが震えている。嫌な予感しかしなかった。
「ソーラさん……」
『……まずいです』
その一言だけだった。さっきまで「何も起きません」「大丈夫です」と根拠もなく言い切っていたソーラさんが言葉を失い、焦りを隠せない声を漏らした。いつも軽口ばかりのこの人が、たった一言しか返してこない。その事実だけで、十分すぎるほど伝わってくるものがあった。
……終わった。
背筋を冷たいものが駆け抜ける。必死に逃げるが、それでも分かる。足はまだ動いている。でも、体感の速さと、迫ってくる圧のようなものの差が、絶望的なくらい開いていた。
……もう間に合わない。
ゴーレムの掌から、巨大な閃光が放たれた。一直線に、まるで僕という存在だけを消し去るために。
「……っ!」
『ウラノッ!!』
避けられない。そう悟った瞬間だった。
———世界から音が消えた。
さっきまで耳を埋め尽くしていた爆発音も、自分の荒い呼吸も、狂ったように鳴っていた心臓の鼓動さえ、すべて遠くへ溶けていく。
代わりに頭へ浮かんできたのは、この世界ではなく、日本で過ごした何気ない日常だった。
大学へ向かう朝。眠気を堪えながら受けた講義。友人と何気なく交わした会話。コンビニで昼飯を選ぶ時間。アルバイト帰りの夜道。あの頃は退屈だと思っていた毎日が、今になってどうしようもなく眩しく思える。
どうして、あの頃はあんなに何もかもがつまらなく見えていたんだろう。今なら分かる。何もない日々こそが、一番贅沢だったのかもしれない。
そして最後に浮かんだのは、あの日の出来事だった。
友人との、たった一度の口論。売り言葉に買い言葉。あの時は、自分が間違っていないと思っていた。けれど今なら分かる。少しだけ冷静になれていたら。どちらか一人でも素直になれていたら。あの日の結末は違っていたのかもしれない。
だけど、もう遅い。一度目の人生は、あの日終わった。
だからこそ僕は、この世界でもう一度やり直そうと決めたはずだった。まだ何も成し遂げていない。レベル3にもなれていない。クリュスにももう一度会えていない。ソーラさんとの約束だって、何一つ果たせていない。
第二の人生は、ようやく始まったばかりだったのに。
こんな場所で、また何も残せないまま終わるのか。今度こそちゃんと生きるって、決めたはずなのに。
……………………………ここで終わるのか。
『ウラノォォーーー!!!!』
視界いっぱいに白い閃光が広がる。
僕は反射的に目を閉じた。
———
……また死んでしまった。
最後に見えたのは、あの眩しい閃光だった。痛みはなかった。ただ目の前が白く染まり、そのまま意識が静かな暗闇へ沈んでいく。音も景色も何もかも消え去り、身体の感覚すら曖昧になっていく。
ああ、これが死ぬってことなんだな、と妙に冷静な自分がいた。
……やっぱり無理か。
レベル1にも満たないような僕が、あんな化け物から逃げ切れるはずなんてなかった。あれだけ慎重に行動してきた。危険そうな場所は避け、何度も確認し、ソーラさんの話だって疑って掛かった。それでも届かなかった。
どれだけ臆病になっても、どうにもならない壁というものは存在するらしい。
……二回も死んだのは、僕くらいだろうね。
一度目は、自分で終わらせた人生。二度目は、もう一度やり直そうとして終わった人生。
普通なら一度経験するだけでも十分な「死」を、僕はもう二度も味わってしまった。そう考えると、少しだけ笑えてくる。
結局、日本でも異世界でも、僕は僕のままだった。
……後悔は……していない。
元々、全部が嫌になって死んだんだ。
ソーラさんが僕を生き返らせた理由だって、多分僕のためじゃない。物語が面白くなれば誰でも良かったんだと思う。
でも、それでもよかった。ほんの数日だった。本当に短い時間だった。
……もう一生、体験できない……特別な数日間だったよ。
あの世界で過ごした時間は、日本で何年も生きてきた時間より、ずっと「生きている」と感じられた。クリュスと出会って、ソーラさんと馬鹿みたいな言い合いをして、一歩だけ前へ進もうとした。
……凄く、楽しかった。
まあ、ほとんど何もしてないけど。レベルは全然上がらなかったし、何一つ成し遂げられていない。
それでも、もう一度生きたいと思えた。
そして今、僕は自身の死を悟りながらも、全く恐怖を感じていない。まあ、それはそうである。
……だって僕にとって、"死は希望"だから。
死は苦しみから解放される唯一の方法だったから。生きるより、ずっと楽だから。だからきっと、これでよかったんだ。
そう思いながら、僕の意識は完全に途切れた。