『逆襲のシャア』の総帥に憑依した元商社マン、アクシズを落とさず地球圏を支配する 〜静かに暮らしたいだけなのに、アナハイムと狂信者に神輿を担がれて逃げられない件〜 作:なやむ
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首相就任直後。
私は自ら車を手配し、ある議員会館の執室へと赴いていた。行き先は、連邦政府内の重鎮――ゴップ前議長の元である。
先日のキャスバル・ショックという大嵐でその思考を全世界に暴かれようとも、彼の脳内にあったのは「国家システムをどう維持し、機能させるか」という考えのみだった。利権の誘導も予算の強奪も、すべては合法という枠内。私利私欲の汚職などという不正とは無縁の男であり、法的に彼を失脚させることは不可能だったのだ。
かくして政界の大掃除を生き残り、再選を果たした彼こそが、現在の連邦議会において最も警戒すべき、そして最も頼るべき実務派の重鎮であった。
(自ら出向くなんてと、秘書には散々渋られたが……。こういう話は、呼びつけるんじゃなくて、頭を下げに行かないと駄目な類のものだ。格上の相手に無茶を頼む時は、こっちから足を運ぶのが鉄則だからな)
「……首相みずから出向かれるとは、恐れ入る。議長職を退いた私のような老兵に、一体何の御用かな?」
執務室で対面したゴップは、油断のない、だがこちらの本質を見極めようとする鋭い目で私を見つめた。私は迷わず単刀直入に切り出す。
「ゴップ殿。前置きは抜きにしよう。あなたを我が内閣の国防大臣へ迎え入れたい。私は、全人類を宇宙へ移住させるつもりだ。大枠のプランはすでに完成している。だが、これを法案と具体的な兵站として落とし込み、破綻させず動かせられるのは地球圏で貴殿しかいない」
ゴップの眉が、ぴくりと動いた。彼は手元にあった私の過去の議会発言録のコピーに目を落とすと、低く、地を這うような声で切り込んできた。
「……ダイクン首相、初登院の折、あなたの公約としては、あくまで宇宙への移住は圧倒的多数が自発的に選ぶという控えめな説明だったはずだ。だが、今のあなたのニュアンスでは明らかな方針転換……全人類を対象とした完全移住への格上げに聞こえる。以前の発言と話が違うのではないかね?」
ゴップの指摘は正確だった。有権者への背信行為と突っ込まれる最大の急所だ。流石の鋭さに私は内心で冷や汗を流しながらも、彼に返答した。
「ゴップ殿。一議員の立場と、行政府の長としての立場では、見えている景色の広さも、背負う責任の重みも違ったのだ」
「ほう?」
「私が首相の椅子に就いて最初に行ったのは、それまで一介の議員には決して開示されることのなかった、地球環境に関する連邦政府の最高機密統計データの査閲だ」
「……」
「大気圏の熱汚染、および海洋の酸性化のスピードは、これまで公表されていた数値の実に三倍以上の速度で進行している。それだけではない。日本区のような豊かな地域は、地球全体のほんの一握りに過ぎなかったのだ。アフリカ等の貧困地域は、環境難民の増大によってすでに法治国家の体を成していない。自発的な意思を待つ猶予は、もはやこの星には残されていなかったのだよ。だからこそ、私は方針を変えた」
ゴップは皮肉げに、しかしどこか満足そうに笑うと、背もたれに体を預けた。
「なるほど。綺麗事だけでは人類は救えん、ということですか。……して、その今の地球人口およそ十億人を宇宙に上げる具体的なタイムスケジュールは?」
「三十年をかけ、五年単位で段階的な移住支援金と就労枠を用意し、生活基盤を軟着陸させながら進める。史跡や信仰の地、貴重な動植物が生息する地は『人類遺産保護区』として管理要員のみを残し、最終的には宇宙圏への完全移住を見据えている」
私は一呼吸置き、老将の目を真っ直ぐに見据えた。
「最初の五年間で、地球上の難民とスラム層を受け入れるインフラと法制度をサイド8に確立する。並行して地上軍をインフラ建設団へ再編し、移住拠点の拡充を急がせる。まずは最も治安リスクの高い最底辺の救い上げから着手する」
「……待たれよ」
ゴップは細められた目の奥で、その物量を計算していた。
「そもそも宇宙での生き方も知らん人間を大量に放り込めば、サイド8の治安が瞬時に崩壊するぞ」
「だからこそ、軍とアナハイムの力が必要なのだ」
私はあらかじめ用意していた計画書を指先で叩いた。
「移住前にアナハイム社が提供するシミュレーターと教材を用いた宇宙適応・技術訓練プログラムを義務付ける。幸い、私が開発を推進している建築専用MSは操縦の自動化が進んでいる。軍がその組織力で受講枠の管理と統制を担い、民間が技術教育を担う。数ヶ月の訓練を経て、彼らはコロニー増築の貴重な労働力に変貌する仕組みだ」
しばしの沈黙が流れた。
ゴップは細めた目の奥で、宇宙完全移民によって地上の拠点をすべて失うことになる軍への、「代替利権という名の飴」になるこの構造を瞬時に見抜いたに違いない。老獪な唇の端が、わずかに吊り上がった。
「……気の長く、壮大な話だ。三十年もかかるとは」
ゴップは、資料の数字を睨みながら、独り言のように呟いた。
「思えば、宇宙世紀の黎明期、サイド1から6までの建設と移民は、わずか数十年足らずで八十億人規模を運び上げた。あの頃と比べれば、三十年で十億人を、という貴殿の計画は随分と気長で、手厚い部類に入るのだろうな。急ぎすぎて反発を招くよりは、軟着陸を選ぶ、ということか」
「そうだ。そしてだからこそ、貴殿の力が要る」
私は真っ直ぐに老将を見つめ、傍のカバンから分厚いファイルを取り出して机に滑らせた。
「移住には当然、地上層や労働組合の反発が伴う。そして――旧ジオン系の除隊兵たちの再配置も、並行して進めねばならない」
ゴップの表情が、初めて僅かに険しくなった。
「世間で言うところの『ジオン残党』まで、この枠組みに組み込むと」
「ああ。分け隔てなく、だ。彼らを同じ枠組みの上に立たせ、武装解除と再配置を指揮するトップ――その重責を担う席は、貴殿以外には考えられない」
ゴップは皮肉げに口元を歪めた。
「……首相直々に、最大の泥船の特等席を用意してくださったわけか。私に、何の見返りがある」
「貴殿に約束できるのは、ただ一つだ。――遠い未来、私も貴殿もとうにこの世を去った後も、血を流さずに機能している地球連邦だ。見返りは、死後の歴史書の片隅の一行に過ぎない」
「正直、貧乏くじにも程があるな」
「その通りだ」
私は、誤魔化さずに頷いた。
「あまりにも不誠実な取引だと自分でも思う。だからこそ、せめてこれだけは誓おう。あなた一人にだけ貧乏くじを引かせて、自分だけ先に楽になるような真似はしない。一日でも長く生き延びて、この地球連邦を支え続けるつもりだ」
ゴップは長く目を閉じ、やがて静かに頭を下げた。
「……承知した。この老骨、あなたの理念に殉じるためではなく、無用な血が流れるのを止めるために、その任を受けよう。国防大臣として、連邦軍とジオン残党を巨大なゆりかごへ押し込めるための、最も頑丈な重しになろう」
「――光栄です」
私は安堵の息を胸の内に隠し、新首相としての丁重な一礼を捧げて、彼の執務室を後にした。
――――――
コツコツ、とキャスバル首相の足音が廊下の向こうへ消えていく。
自分以外誰もいなくなった執務室で、ゴップは机の上の冷め切ったコーヒーを一口啜り、残されたファイルのページをめくった。そこに並ぶ緻密な財政試算と、アナハイム社を巻き込んだシステムの数々を見つめ、誰もいない空間に向けて自嘲気味に笑った。
「……フッ、狸め。貧乏くじを引かされたのは、お互い様というわけか」
一年戦争時、後方のジャブローで連邦のサイフを握り続けてきた時から、この老将は誰よりも冷徹に未来の連邦を見据えていた。
(このまま進めば待っているのは破産だ。それを避けるために歳出を絞れば、今度は地球圏全体が衰退し、仮に各サイドが独立を図ろうとも地球からは止められない泥沼の二択。――この世界を救うには、もはやあの男が提示したサイド8計画以外に存在しない。……地球圏の再建計画か)
ゴップは窓の外の晴れ晴れとした空を見上げ、煙草に火をつけた。
「よかろう、キャスバル・レム・ダイクン。君と私が歴史にどう書かれようが知ったことではないが、せいぜい私を使い倒してみせるがいい」
――――――
それから数年後。
サイド8の初期コロニー群が竣工し、段階的な宇宙移住が本格化し始めた頃。
ロンド・ベル隊の長であるブライト・ノアとは、すでに組織のトップ同士として実務的な会談を終え、定期的なパイプも築いていた。だが、この定期視察の場で私の前に現れたこの男こそが、最も警戒すべき相手だった。
ロンド・ベル隊の中核を担う立場に上り詰めていたアムロ・レイと、視察という名目の場で、私は思いがけず鉢合わせすることになった。
「閣下。こちらは、機体開発の指揮を執っておられる、アムロ・レイ少佐です」
秘書からその名を告げられた瞬間、私の背筋を、これまでの人生で一番の悪寒が駆け抜けた。
(は? は? 冗談だろ!? 連邦の英雄、人類最強のパイロット、あのアムロ・レイ……!? なんでよりによってこんな現場で遭遇するんだよ!)
内心の絶叫とは裏腹に、キャスバルの体は、勝手に優雅な大人の一礼を繰り出していた。
実は、これまで二人が接触する機会は皆無だった。療養中に極秘裏に進めようとした面会は連邦の監視によって潰され、首相就任後は殺人的な激務がそれを阻んだ。
そして何より、「総帥がアムロに暗殺されるのではないか」と本気で恐れた狂信的な側近たちが、今日に至るまで鉄壁の情報遮断とブロッキングを敷き続けていたからである。
そんな防衛網を突破し、秘書が「今の首相なら、アムロ・レイすら政治的パフォーマンスの道具として完璧にいなせるはず」と信頼の元でセッティングしたのが、この地獄のサプライズでの対面だった。
恐る恐る顔を上げると、目の前に立っていたのは、思っていたよりずっと穏やかな目をした、壮年に差し掛かった一人の男だった。
「……初めまして、と言うべきなのでしょうね、キャスバル閣下。正直に言えば、あなたには聞きたいことが山ほどあった。だが、こうして直接お会いすると、不思議と喧嘩腰にはなれませんね」
「そ、そうか。それは何よりだ」
(あれ……?初めまして?シャアの記憶だと会ったことあるはずだよな。まぁ、なんか、思ってたより普通の、感じのいい人じゃないか? いきなり修正拳で殴りかかってくる雰囲気はないぞ。よし、ビジネススマイルを維持しろ私)
拍子抜けする私をよそに、アムロ少佐は静かに続けた。
「私は、あなたの掲げる理想には半分賛成で、半分どうしても納得がいかない。地球を人類全員から取り上げるようなやり方は、正直、乱暴だと思っています。
それでも……あなたがすべてを駆使して出来る限り平和裏に動かそうとしていることだけは、認めざるを得ない」
「……光栄だ」
ふと、アムロの目が僅かに細められた。
「妙なことを言うようですが、あなたと話していると、以前感じたものと何かが違う。もっと鋭利で、冷たい光を放つ男だったはずなんですが……」
アムロは小さく息を吐いた。
「あなたを前にして、ふとそれを思い出しました。詮索するつもりはありません。ただ、腑に落ちただけです」
(……待て。「腑に落ちた」って、まさか……あの思念波逆流のとき、俺の前世サラリーマン精神の本音までアムロに受信されてたのか!?)
背筋を冷たい汗が伝う。相手はあのニュータイプのアムロ・レイだ。
アムロから見れば、あの議会を包んだ緑の光は、世界を動かすためにシャアが満を持して引き起こした恐るべき劇場型思考テロに他ならなかった。
この決定的な瞬間のために、あいつはこれまで牙を隠して大人しく政治活動に身をやつしていたのかと、その執念深さに身構えながら精神の奥底を覗き込んだはずが――そこにいたのは人類の革新を気取る独裁者などではなく、「なんで実家が全世界に流出してんだよ!」「この光どうやったら止まるの!?」と想定外の事故に慌てているおっさんが居ただけだったのだ。
アムロが、苦笑いでこちらを見ている理由が、ようやく理解できた。とっくに、何もかもが筒抜けだったのだ。
だから「初めまして」だったのか!
これ以上、全てを見抜いた男を前に薄っぺらい演技など通用しない。私は羞恥心で胃をきりきりと痛ませながらも、隠しても仕方がないと、嘘偽りのない本心を言葉に乗せることにした。
「たしかに今の私は、かつての私を知る人からは違って見えるかもしれない。だが……もう二度と、戦火で人が死ぬのを見たくないという気持ちだけは本物だ。
それを信じてほしい。アムロ少佐、あなたに会えて光栄だ」
私が右手を差し出すと、アムロはそれ以上追及することなく、しっかりと手を握り返してきた。そして思い出したように口を開いた。
「……あなたの起こしたあの一件以来、療養中のカミーユ・ビダンの容体も、随分と安定してきたそうです。あの光が何か影響したのか、それとも単なる偶然か……専門家にも分かりませんがね」
「それは、何よりだ」
私は静かにそう返しながら、内心では冷や汗をかいていた。
(本物のシャアが戦場へ引っ張り出し、心を引き裂いてしまった繊細な少年か。これまで激務で思い出す余裕すらなかったが、まさかあの緑の光の事故が、彼の精神を治療する奇跡に化けたというのか?
あの暴走で誰をどこまで巻き込んだのか正直今でも把握しきれていないが……結果的に彼の救いになったのなら、良しとしよう)
そしてアムロは穏やかな笑みを浮かべてさらに続けた。
「そういえば、ハサウェイ、ブライト・ノアの息子があなたが推進している『人類遺産保護区』の管理員になりたいと言って、今、必死になって在来植物の勉強をしているんですよ」
「……ほう。あのブライトの息子が、かね」
私は驚きに少しだけ目を見張った後、嬉しさを隠さずに深く頷いた。
「それは実に頼もしいな。地球の未来を、次の世代がそんな風に真っ直ぐに受け止め、背負おうとしてくれているとは。これほど喜ばしいことはないよ」
「ええ。あの子の地球を守りたいという漠然とした理想が、保護区管理員という具体的な形に結びついたのが、よほど嬉しかったんでしょう。後々、正式な申請書があなたの元に届くかもしれません」
アムロはまっすぐに私を見つめ、静かに、だが確かな熱を込めて続けた。
「閣下。私はあなたの理想を、今でも乱暴だと思っています。ですが……あなたが何気なく撒いた種が、次の世代の希望を育てているのも事実だ。
今のあなたになら、あの子たちの未来を預けられる。どうか、そのままの政治を続けて、次の世代の若者たちが生きる世界を守り抜いてください」
「……ああ。この身が擦り切れるまで、その責任を全うすると約束しよう」
私は深く頷いた。私たちはそれ以上深く語り合うことなく、視察の流れの中で静かに別れた。
立ち去るアムロの背中を見送りながら、私はどっと噴き出した冷や汗をハンカチで拭った。
命を狙われなかった安堵よりも、しがないサラリーマン根性のすべてをアムロに完全に把握されていたという恥ずかしさで、私の内心は過去最高にのたうち回っていた
――――――
その夜、地球圏のとある片隅の小さな酒場で、アムロは一人、グラスを傾けていた。
「人身御供、か」
誰に語りかけるでもなく、アムロは静かに呟いた。グリプス戦役の頃、二人きりで交わした、ある短いやり取り。
『……ああ。地球に居残った人々を宇宙にあげようというのだ。こんな大仕事に、一人や二人の人身御供はいるよ』
『私は人身御供か?』
そう言いながら自嘲するように笑ったシャアの目が、あの時どこまでも昏かったことを、アムロは今でも鮮明に覚えていた。
「本当にそうなってしまったな」
残り僅かとなったグラスを、静かに目の高さまで掲げる。
「世界にとっちゃ、今のキャスバルが進める未来の方がずっと幸せなんだろうさ。ただ真っ当に人類を導いている。
だけどな、シャア。俺はお前のあの、どうしようもなく不器用で、理想と現実に引き裂かれながら苦悩していた姿を、誰よりも見てきたんだ。
世界を救う大役はあいつに譲って、お前は……もう、その重荷を降ろしていい。ゆっくり眠れ、シャア」
それだけ言うと、アムロはウイスキーをぐっと呷り、静かに席を立った。
彼なりの、たった一人だけの静かな弔いだった。
――――――
さらにその後、旧ジオン系除隊兵の正式な社会統合を祝う式典の控室で、私は一人の女性と二人きりになる時間があった。
これまで彼女は、政治的な思惑に巻き込まれることを避けてか、意図して公の場に姿を見せずにいたはずだった。それが今日、こうして自ら控室を訪れたということ自体が、すでに何か様子が違うのかもしれない。
「セイラ・マスと申します」
私の心臓が、非常警戒アラートを鳴らし始めた。本物のキャスバルの実の妹だ。
(……待て。「セイラ・マスと申します」? 実の妹が、兄に向かって名乗る言葉遣いか、これは。まるで初対面の相手にするような他人行儀さだ。もう気づかれて……いや、探りを入れられているのか?)
「久しぶり、だな」
私は脳内の「キャスバルの記憶フォルダ」を必死に検索し、一番ボロが出なそうな「冷徹な兄」の演技を起動して、なんとか当たり障りのない相槌を打つ。
だが、セイラはしばらくの間、じっと私の顔を見つめたまま、何も言わなかった。
「……あなた、兄さんの喋り方の癖が、少し抜けているのね」
「え?」
「昔の兄さんは、こんなふうに笑わなかった。もっと、陰のある笑い方をする人だった。それに、あの光が私達の意識を繋いだ瞬間、見えてしまったのよ。でも――皮肉よね。今のあなたが掲げた理想の方が、結果としてこの世界を誰よりも救おうとしているなんて」
(やっぱりバレた。というか元々バレてたのか。ニュータイプ凄すぎるだろ……!)
背筋を冷や汗が伝う。だが、彼女は私の正体を暴く代わりに、思いもよらない質問を投げかけてきた。
「……いいえ、詮索はしないわ。ただ、一つだけ聞かせて。あなたは今、幸せなの?」
幸せか、と聞かれて、私は言葉に詰まった。毎日暗殺の恐怖に怯え、狂信的な部下たちに神輿として担がれ、24時間首相の激務に追われている。幸せではないが、しかし——。
だが、その時。控室の窓の外を一陣の風が吹き抜けた気がした。それは気のせいにしては、どこか焦げくさい硝煙のようでいて、それでいて妙に優しい気配だった。
(……今の、何だ? 誰かに、後ろからそっと肩を叩かれたような……)
私は、嘘をつくのをやめた。
「……幸せか、と聞かれると即答はできない。恐ろしいと感じる夜の方が、正直まだ多いくらいだ」
セイラは黙って、続きを待っていた。
「だが、時々――ある。震えていた子供が、銃を置いて代わりに笑うようになった顔を見た時。あるいは、ついさっきまで、恐れていた相手と、思いのほか穏やかに言葉を交わせた時。そして、こうして誰かに、素直な言葉で話しかけられる、今みたいな瞬間には。悪くない、と思うことがある。それが幸せと呼べるものなのかは、私にもまだよく分からないが」
セイラは、その私の返答に、今日初めて見る本当に柔らかい笑顔を浮かべた。
「……悪くない、か。十分よ、それで。――兄さんの分まで、どうかそのまま」
それだけを言い残し、彼女は静かに控室を後にした。
私はしばらくの間、一人その場に立ち尽くしていた。
(……おい待て。よく考えたら本物のあいつ、厄介事のすべてを私に押し付けたまま綺麗に去っていきやがったな? よくもまあ、これほど重い看板を一人で背負わせてくれたものだ。……まぁ、いいか。それにしてもアムロといいセイラといい、ニュータイプは勘が鋭すぎて心臓に悪いな)
――――――
それから数日後、首相府に戻った私の元に、ある報告書が届いた。
「人類遺産保護区」の正式な管理員選考の結果報告書である。数多い応募者の中から選ばれた新規採用者の名簿に、見覚えのある名前があった。
ハサウェイ・ノア。アムロからブライトの息子であるハサウェイが将来、管理員を志していると聞いてから、もう数年が経っていた。
(そういえば、あの時話していたブライトの子どもか……。まさか本当に応募して採用されるとはな)
選考は、私の与り知らぬところで、現場の専門委員会が学術的な実績と面接だけで進めたものだった。
私自身、この名前を選考の場で目にしたことすら一度もない。だからこそ、添付されていた本人の志望動機書に、こんな一文を見つけた時は、思わず声が漏れた。
「議会演説で首相閣下が仰った『地球を聖域として静かに休ませる』というお言葉に深く共鳴いたしました。地球の在来植物種の保存研究のため、保護区管理員を志望いたします」
(私の議会での言葉を律儀に覚えていて、ちゃんと結果まで出して形にしてくるとは。頭脳も行動力も、なかなかどうして侮れない青年じゃないか。さすがだ!)
それがどんなに泥縄の嘘から始まったものであろうと、目の前にあるハサウェイの真っ直ぐな決意の文章は本物だった。
私が撒いた方便の種が、回り回って本物の希望を育てていく。机の上の報告書を見つめながら、政治家としての奇妙な気恥ずかしさと、一人の人間としての確かな手応えを胸に抱くのだった。