わたくし、あの方の「七人目」だそうです ~歴代婚約者の会にようこそ。本日の議題は「八人目を出さない」~ 作:ramunade
婚約破棄というものは、本人からは来ないらしい。
仲人の口から、来る。
「ヴェンデル様のお言葉を、そのまま申し上げます。――『君では家格が釣り合わなかった』と」
春の午後である。応接間には婚礼支度の絹が山と積まれ、窓の光が真珠の
今朝まで、この家は浮かれていた――厨房には砂糖を煮る甘い湯気、廊下には弾む女中の足音。その音という音が、いま、扉の外でいっせいに止んでいる。
披露の宴まで、あと三日。その手前の卓に、仲人のヴィルマー氏がひとりで座っている。
母が、音もなく白くなった。父は口を開きかけ――「お、一昨日納めたばかりの、宴の費えは」まで言って、飲む。
私はといえば、頭の中で勝手に棚の開く音を聞いていた。
私、マレーネ・ヴィンターフェルトの頭は、聞いた言葉を捨てられない。日付ごと、声の調子ごと、そっくり残る。子守唄も、お説教も、一度聞けば二度と出ていかない。便利でしょうと言われるけれど、この棚には困った癖があって――忘れたいと願ったものから順に、いっそう深く彫り込まれていくのだ。
――去年の四月十日。
『君となら、退屈をしないで済みそうだ』
十月三日、観劇の帰りの馬車で『君は聞き上手だな』。今年の二月十四日、『春になったら、うちの庭を見せよう』。
全部ある。日付の札つきで、全部。
その棚のいちばん新しい段に、いま、『家格が釣り合わなかった』が仕舞われていく。こめかみの奥で、小さな引き出しの鳴る音がする。指先が冷えた。積まれた絹の山が、急に他人の顔をする。
「……理由を、伺っても?」
母の声がかすれた。ヴィルマー氏は淀みなく繰り返す。
「家格が、釣り合わなかったそうで」
「釣り合いでしたら、結い日の前に散々お検めになったはずですけれど?」
と、これは私である。我ながら、声が平らだった。この頭は、怒ると声が平らになる。氏は目を合わせず、帽子を胸に当てて一礼した。
「ご縁が、なかったものと」
――ご縁がなかったものと。
この国の縁組は、披露と登記で初めて公のものになる。それまでは仲人の口を介した仮の約束で、書面は一枚もない。破談になっても、どこにも何も残らない。破談の恥を家史に残さないための、貴族の知恵だという。
知恵というものは、使いようであるらしい。
ちなみに当のヴェンデル様は、この日も、その後も、一度もお見えにならなかった。一年かけて優しい言葉をくださった方が、終わりの一言だけは人の口を借りる。……そういうものなのだろうか。そういうものだとしたら、あの優しい言葉のほうは、いったい誰の言葉だったのだろう。
仲人の馬車が門を出ていく音を、私は窓辺で聞いた。車輪の音が消えても、応接間の絹はまだ山のままで、真珠は行儀よく光り続けている。物というのは、事情を知らないから困る。
翌日の昼、母のお茶会仲間から見舞いの文が届いた。
『妙な噂を伺いましたの。マレーネ様のこと、「作法に難があり、給仕の順を三度誤った」ですって。お気の毒に』
……はて。
私はまだ社交界に出ていない。デビューは披露の宴と一緒に、という段取りだったからだ。つまり王都の皆さまは、私の顔をご存じない。出てもいない夜会の粗相が、顔より先に王都を歩いている。
しかも「三度」と、妙に細かい。作り話というものは、細かいほどよく回るらしい。文を持つ母の手が、小さく震えていた。
父が切り出したのは、夕食の席である。
「……なかったことに、する」
「お父様」
「騒げば『金惜しさに縁談を騒ぎ立てる家』の名がつく。ロッテの縁談も潰れる。……すまん。飲んでくれ」
向かいの席で、妹のロッテが
喉の奥に、小石のようなものがせり上がっていた。悪評の出所も、三日前の意味も、問い詰めたいことは山ほどある。私はそれを、まとめて飲み下した。胃の底が、すんと冷える。
頷いて、肉を切った。行儀よく、音を立てずに。給仕の順は、間違えなかった。
――――。
それから一か月、私は声を飲んで暮らした。
昼間は平気である。刺繍をして、母の薔薇の世話をする。手を動かしていれば、棚は静かにしている。困るのは夜で、灯りを消すと頭の棚が勝手に開く。四月十日。『君となら、退屈をしないで済みそうだ』。声の高さまで、そっくりそのまま。シーツの冷たさの中で目だけが冴えて、優しかった言葉ほど、夜には切れ味がよくなる。
忘れられないというのは、つまり、こういう病だ。薬はないし、医者は笑うだけである。
一か月目の朝、差出人のない招待状が届いた。
『同じ傷をお持ちの方へ――お茶会のご案内』
場所は王都の東、
同じ傷。
その文字を、私は指でなぞった。少し引っかかる安い紙なのに、焼き菓子の絵だけが妙に楽しげで――この一か月で初めて、誰かが私の傷を「ある」と言ってくれたのである。目の奥が一瞬熱くなって、慌てて窓の外の朝を見た。
罠なら罠で、結構。失うものなら、先にあらかた失っている。
「お母様。明日、お茶会に行ってまいりますわ」
嘘は、言っていない。
――菩提樹の屋敷は、思ったより小さく、思ったより明るかった。門から玄関までの短い道に初夏のような光が落ちて、庭のどこかから、焼き菓子の焼ける匂いがする。バターと杏の、生きている家の匂いである。
その匂いに、肩から力が抜けていく。
呼び鈴を鳴らすと、扉が内側から開いた。
顔、顔、顔。
六人いる。年恰好はばらばらで、いちばん若い方は私と同じくらい、いちばん
なのに全員が、私を見て「ああ」という顔をした。
値踏みでも、憐れみでもない。鏡を覗いたときの顔である。
いちばん年嵩の貴婦人が、扇を畳んで、にっこり笑った。
「ようこそ、七人目さん」