わたくし、あの方の「七人目」だそうです ~歴代婚約者の会にようこそ。本日の議題は「八人目を出さない」~ 作:ramunade
菩提樹の庭に、長い茶卓がひとつ。木漏れ日の下に椅子が七脚あり、真ん中で杏のタルトが艶々と鎮座している。頭上で若葉が擦れて、光の粒が卓布の上をゆっくり泳ぐ。風は蜂蜜と紅茶の匂いを運んでくる。ここが六回、傷の集まった庭だなんて、誰が信じるだろう。
七脚。六人と、私。最初から、私の椅子が数に入っているのだ。
そのことに気づいたとき、胸の浅いところが、きゅうと音を立てた。招かれたのではない。待たれていたのである。
「まずは名乗りませんとね。わたくし、アガーテ。十二年前、ファルケンラート家のヴェンデル様と結い日まで進んで、披露の三日前に破談されましたの」
「ヴェレーナです。十年前。披露の三日前でした」
「コルドゥラですわ。八年前。……ええ、三日前」
「フリーデ。……六年前。三日前」
「オッティリエと申します! 四年前です。やっぱり三日前でした!」
声の調子はてんでばらばらなのに、日付だけがぴたりと揃っている。輪唱を聞いているようだった。最後のひとり、私と年の近い、とげとげした目の令嬢が締めくくる。
「ヨハンナ。二年前。以下同文ですわ」
つまり、この庭にいる全員が、あの方の元婚約者である。
私で、七人目。
背中がすうと冷えて、それから、妙な熱が来た。怖いのではない。一か月のあいだ「なかったこと」だった出来事が、この庭では六回も「あったこと」なのだ。
「あの……皆さま、どうやってわたくしを?」
「噂ですわ」ヨハンナ様が湯気の向こうから言う。「あなたに流された噂。『作法に難があり、給仕の順を三度誤った』でしょう?」
「……一字一句」
「わたくしのも、一字一句それでしたの。二年前の自分の悪評が、名前だけ替えて王都を歩いているのを聞いて、腰が抜けるより先に腹が立ちましてよ。それで噂の型を頼りに、一か月かけて五人まで
「わたくしたちを見つけたのは、この方の執念と」アガーテ様が茶を注ぎ足す。「あちらの倹約ですわねえ。悪評の文面を使い回すだなんて」
それから一巡り、六人分の身の上を聞いた。結び金の額、宴の費えの額、結い日の日取り、口説きの文句、破談の口上。茶が二度冷めるほどの長話である。誰かが言葉に詰まると、別の誰かが焼き菓子を切り分けて皿を回す。この庭の、作法らしい。
聞いたものは――残る。
「七人目さん、覚えきれなくてよ。帳面をお貸ししましょうか?」
オッティリエ様が親切に言ってくれた。私は首を振り、少し迷って、口を開く。
この棚を人前で開けるのは、初めてである。気味が悪いと言われるのは慣れている。慣れているだけで、平気だったことは一度もない。子どもの頃、一年前の口喧嘩を日付ごと言い当てて、乳母を本気で怯えさせたことがある。以来、棚の戸は閉めておくのが、私の行儀というものだった。膝の上で、手のひらがじっとり湿っていく。それでも――ここは、同じ傷の庭なのだ。
「アガーテ様、十二年前。結び金六十、宴の費えも六十。結い日は花祭りの翌日で、口説き文句は『君となら、退屈をしないで済みそうだ』。ヴェレーナ様、十年前。結び金六十、宴の費え八十、口説きは同文。コルドゥラ様、八年前。結び金八十、宴の費え百――」
六人分を、日付から金貨の枚数まで、聞いた順に全部並べた。
庭が、しんとする。木漏れ日の揺れる音まで聞こえそうな静けさである。
「――以上ですわ。それから皆さま、悪評は全員『三度』ですのね。わたくしも三度でした」
アガーテ様が扇を取り落としかけ、拾い、しみじみと言う。
「……記録役が、来ましたわね」
拍手が起きた。
六人分の、ばらばらで、あたたかい拍手である。生まれて初めて、この頭が人前で拍手をもらった。呪いだとばかり思っていた棚に、椅子が与えられた瞬間である。頬が熱い。目の縁も熱い。泣く場面ではないのに、拍手というものは、存外きくのだ。
「その頭、十二年前に欲しかったですわねえ」とコルドゥラ様がしみじみ言う。気味が悪い、とは誰も言わなかった。誰ひとり、言わなかったのである。
「会の掟は二つですの」アガーテ様が指を二本立てる。「八人目を出さない。泣き寝入りの顔は、今日で終い」
「会費も依頼もございませんのよ。あるのは焼き菓子だけ」
「議事録はわたくしが」オッティリエ様が帳面を開いた。「第一項、本日の焼き菓子は杏のタルト。第二項、七人目さんの加入。……議事は以上ですわ」
覗き込むと、帳面には本当に、焼き菓子の名前が議題より先に書いてある。しかも歴代の頁、全部そうである。
「第一項が菓子ですの?」
「議題より大事ですもの」
わたくしたちの合言葉は〈巻き直し〉ですのよ、とアガーテ様は言う。止まった時計は、恨んでも動かない。巻けば、動く。
◇
帰りの馬車で、窓の外の夕焼けを見ているうちに、目から勝手に水が出た。
泣くつもりは、なかったのである。ただ、一か月ぶん飲み込んだ声を、今日はじめて全部、外の空気に触れさせた。喉の奥に居座っていた小石が、溶けて流れただけのことだ。夕日が滲んで、街並みが飴細工みたいに揺れる。車輪の音に紛れて、少しだけ、声も出た。誰も聞いていない馬車の中というのは、きっとこのためにあるのだ。
屋敷に着くころには、乾かした。
乾かして、正解である。
玄関の前に、官服の男が立っていたのである。
背が高く、砂色の髪で、釦をいちばん上まで留めている。夜気の中、玄関灯の光が官服の肩で四角く固まっていた。廊下の奥では両親が蒼白になっている。
「夜分に失礼いたします。貴族院縁組監察局、縁組監察官のエーベルハルトと申します。――ファルケンラート家とのご縁組の件で、伺いたいことが」
縁組の、監察。
喉の奥で、今日話したばかりの何もかもが、出口を求めて渦を巻いた。この人に全部話せば――と思う。思って、飲む。ここで喋れば、実家も、妹の縁談も、あの菩提樹の庭も、全部まとめて表に出るのだ。今日もらったばかりの椅子を、官憲の帳面の上には載せられない。
小石の味は、朝と同じ。重さだけが、少し違う。今日からこれは、七人分である。
「何も、ございませんでしたわ」
我ながら、この一か月でいちばん上等な微笑ができた。
官服の男は、驚かない。怒りもしない。手帳を開きもせず一礼して、扉口で――振り向かずに、言う。
「……あなたで、七人目です」
何が、とは言わずに、夜へ消えた。