日課の受験勉強を終え、さて一息つこうと伸びをしたところで、机の隅の携帯電話が鳴った。
「阿良々木くん、ちょっと付き合いなさい」
時計に目をやると現在時刻は22時過ぎ。高校生が床に就くにしてはやや早い時間だが、比較的規則正しい生活を送っている戦場ヶ原から連絡が来るのは、なかなかにまれなことだった。
すわ事件でもあったのかと一瞬身構えたが、口振りからするにそうではないのだろう。
「別に構わないけれど、むしろ喜んでといったところだけれど……どうしたんだ?」
「神原から珈琲を貰ったのだけれどね、飲み過ぎてしまって眠れないのよ」
「珍しいな」
「それは私のような下賎な女には珈琲なんて高尚な飲み物は似合わないと言っているのかしら?泥水を啜っている方がよっぽどお似合いだとでも言いたいのかしら、阿良々木くん」
「被害妄想が過ぎる!」
のっけからテスタロッサもかくやのフルスロットルだ。エンジンには優しくないが、僕の精神にも優しくない。
恋人への第一声にしては火力が高すぎるだろ。
「それとも、私がお子ちゃまだから、珈琲なんて100年早いとでも?」
「それも違う!健康に気を使ってる大人なお前が体調管理を怠ったのが珍しいって言ったんだ!」
なんでこうも卑屈なのか。プライドが高いのか低いのかわからんやつだ。
自虐を謙遜ではなく人を詰るのに使うのは戦場ヶ原くらいだろう。
「最初からそう言えばいいのよ、報連相がなってないわね。社会に出たら恥をかくわよ」
「この程度で恥をかいてたまるか。むしろお前のハリネズミみたいな性格の方が心配だよ」
ハリネズミのジレンマ──触れるもの皆傷つける、な。もっとも、こいつは普段は猫を被っているが。
この刺も僕にだけ向けられるものと思えば、まぁ可愛らしいと言えなくもないか……?
「流石は阿良々木くん、この程度の恥は日常茶飯事だから、数のうちにも入らないのね。尊敬しちゃうわ」
「前言撤回、可愛らしくもなんともない!絶対いつか痛い目を見るぞ!」
牙こそ抜けてきたが、言葉の棘は健在のようだな。
いっそのことヤスリでピカピカに磨いてやろうか。
……ヤスリの方が負けそうな尖り具合だが。
「あら、綺麗な薔薇には刺があるって言うじゃない。私の魅力を理解できないなんて、よっぽど節穴なのかしら」
「打てば響くように暴言を返すな」
「反応がいいからつい叩いちゃうのよ。罪な男ね」
『ああ言えばこう言う』のお手本のようなやつだ。
辞書の項目に『戦場ヶ原ひたぎ』という実例でも載せておいて欲しい。
「Only For You よ。ありがたく受け取りなさい」
「…………」
薔薇というかハリネズミというか、もはや棘の方が本体だった。
「それで、報連相が得意な戦場ヶ原さんは、僕に電話してきた納得できるだけの理由を教えてくれるんだろうな」
「阿良々木くんは頭が悪ければ耳も悪いのかしら。最初に言ったでしょう、珈琲を飲んで眠れないって」
「だから眠くなるまで話し相手になって欲しいのよ」
「本当にそれだけだったのかよ!」
「それだけって、十分じゃない。私が眠れないなんて世紀の大事件よ」
……もういいや。とりあえず話題を戻そう。
閑話休題。
「それにしても、眠れなくなるまで飲むなんて、お前にしては珍しいよな」
普段は規則正しいお前が、と念のために付け加えておく。
「まあね。その貰った珈琲っていうのが、想像以上に美味しかったのよ」
「そんなになのか。僕に言わせればコーヒーなんてどれも同じだけどな。どんなコーヒーなんだ?」
「ちょっと待って、阿良々木くんにも理解できる言い方を考えるから」
「その前にお前は阿良々木くんを不快にさせない言い方を考えろ」
「エチオピア・イルガチェフェっていう銘柄なんだけどね」
「エチオピア・イルガチェフェ?」
ファンタジー系のRPGにでも登場しそうな響きである。
それにしても、イルガチェフェか……全くもって聞いたことがない銘柄だ。まあ、大抵は聞いたことがないのだが。
僕がわかるのはせいぜいがアメリカンかどうかくらいだ。
「アメリカンは薄めの味わいを指す表現よ。少なくとも銘柄じゃないわ」
違ったらしい。恥の上塗りをしてしまったようだ。
「浅学非才も甚だしいわね」
「浅学かもしれないが非才かどうかは関係ないだろ!」
「なら浅学な阿良々木くんが理解できるように、噛み砕いて説明してあげるわ。エチオピア・イルガチェフェっていうのは、スペシャルティコーヒーの代表格の銘柄よ」
細かい話をするなら産地名らしいが、その辺は今はどうでもいい。
「スペシャルティコーヒーってのはなんなんだ?」
また知らない単語が出てきたが、もう普通に聞いた方が傷が浅く済みそうだ。
……それにしてもこいつも大概博識だよなぁ。流石に羽川には劣るだろうが、自分の無知さが身に染みる。
「無知の無知はいいことよ、阿良々木くん」
「それを言うなら無知の知だろう」
「あなたならムチムチの方が好きかしら」
「やかましい」
お前はそこまでムチムチってわけでもないだろう。
僕がムチムチの方がいいって言ったらどうするんだ。気まずい雰囲気になるだろうが。
「あら、私はプロポーションには自信があるわよ」
「そこを掘りに行くのか」
それにどちらかと言えばメリハリの話だろう。
「私の肉体美については、今度みっちり講義してあげるから覚悟してなさい。……それで、スペシャルティコーヒーだったかしら」
「スペシャルティコーヒーっていうのは、一言で言えば高品質な豆のことよ」
「高級ってことか?」
「少し違うわね。もちろん、普通の珈琲より高価ではあるけれど、品質相応よ」
「高級ではなく、高品質──国ではなくて、畑でワインを選ぶようなものね。スペシャルティコーヒーを名乗るのにもちゃんとした基準があるのよ」
「生産者の顔が見えるってやつか」
道の駅とかでよくある、顔写真と一緒に「私が作りました」って書いてあるあれをイメージすればよいだろうか。
戦場ヶ原だと逆効果だよなぁ。無表情で「なに見てるのかしら」とか言ってそうだ。
「ちょっと、失礼なこと考えてない?」
「そんなことはございませんとも」
怖っ。エスパーかよ。
「ま、いいわ。概ねその理解で大丈夫よ」
「つまりは、エチオピアのイルガチェフェってところで採れたコーヒーってことか」
「その通り。そしてイルガチェフェはとても特徴的でね、『コーヒーっぽくないコーヒー』と言われているわ」
コーヒーっぽくないコーヒー?哲学的な話だろうか。
太陽の下を闊歩し、銀の銃弾でも死なない吸血鬼みたいな……いや、それは実在したんだが。
「何を勘違いしてるのか知らないけれどね、そんなに難しい話じゃないわよ。比喩よ、比喩」
「『まるで紅茶のよう』と言えば伝わるかしら。花や柑橘みたいな香りがするの。苦いだけの珈琲を想像しているなら、きっと驚くわよ」
「紅茶のような華やかさに、珈琲のコクが加わって……それは素晴らしいマリアージュだったわ」
「へぇ……お前がそこまで言うなら、相当なものなんだろうな」
普段から滅多に褒めることのない戦場ヶ原だ。
彼女をこうも唸らせるとなると、俄然興味が湧いてくるのだった。
「飲んでみたくなった?」
「そりゃあ、飲んでみたくもなるぜ。お前がべた褒めするなんて、なかなか無いことじゃないか」
「そうだったかしら」
記憶にあるのは、神原と、あの星空と……それくらいだ。
自分の肉体がどうだとかほざいていたが、冗談だしノーカンでいいだろう。
「前に褒めたのは、そうね。小学生のころ、隣の席の子がピーナッツキャッチを成功させたときかしらね」
「めちゃくちゃ前だし、しかも理由がしょうもな過ぎる!」
「嘘よ」
「まあ、嘘だろうな……」
少なくとも、大切な後輩と、あの日の夜くらいは覚えていてくれ。
「それなら、今度飲みに行きましょう。良い珈琲を出すお店、知っているのよ」
「願ってもない話だな」
戦場ヶ原からのお誘い──思えば、随分と時間がかかったものだ。
あの下手をすればトラウマになりかねなかった初デートから始まり、その後もぎこちない口調が続いていたが、ついにこうして肩肘を張らずに約束できたのだ。
子供が初めて歩いたときの親はこういう気分なのだろう……感無量である。
──まさか、デートだと思っていないのか?浮かれているのは僕だけなのか?
「阿良々木くん」
「なんでしょう」
「これは『デート』よ。心しておいてよね」
電話越しなのが惜しい。今の戦場ヶ原は、きっと、少しだけ照れているだろう。
「──ああ。心得た」
……だが。今さら「デート」という単語だけで小躍りしてしまうあたり、僕もまだまだ初心なのだった。
知らず知らずのうちに緊張していた身体を解し、椅子に深くもたれかかる。
戦場ヶ原の眠気はもう少し先らしい。せっかく向こうから掛けてきてくれた電話だ、もう少しくらい付き合ってもらおう。
机の上のコップに手を伸ばし、一口だけ喉を潤してから再び口を開いた。
「──それにしても、神原もよくこんなオシャレな銘柄を知ってるよな」
僕にはどうにも、あの体育会系の後輩と、コーヒーというのが結びつかなかった。
戦場ヶ原が語るような洒落た一杯とはどうにも距離がある気がしたのだ。
「そうかしら。神原の部屋を掃除してるあなたならわかるのではなくて?あの子は結構多趣味なのよ」
だが、戦場ヶ原はさも当然と言わんばかりだった。
いや、まぁわかるけどさぁ。結構というか、節操がないといった方が正しい気もするが。
この間なんて七輪が出てきたし。いかにも本格的な将棋盤とか、金属探知機とか……
いや、金属探知機はいつどこでどうやって使うんだよ。5W1Hが全滅だろうが。想像する気にもならん。
それこそ洒落た物なんて、天体望遠鏡くらいで──
──そうか。
「神原が天体観測が好きなのは、お前の影響だったよな。ひょっとしてコーヒーも?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるわね」
「含みがあるような言い方だな」
「いや、別にそういう訳じゃないわ。中学生のころ、いっとき喫茶店めぐりをしていた時期があってね、神原を誘ったことがあるのよ」
「微笑ましいエピソードだな」
「けど、ほら。私って熱しやすくて冷めやすいじゃない?だからすぐにブームは終わっちゃったのよね」
「だから、きっかけは私かもしれないけど、今も続いてるのはあの子の趣味ってこと」
なるほどなぁ、ヴァルハラコンビ時代の話だろうな。人に歴史ありってことか……
天体観測といい、コーヒーといい、戦場ヶ原の影響を多大に受けているようだが、本の趣味もそうなのだろうか。
「お前も神原もかなりの濫読だけど、それも?」
「いや、それは違うわね。出会った頃から既にあんな調子だったわ」
「そうなのか」
これは意外だな。あいつの部屋には、戦場ヶ原が好みそうな本が山積みになっていた記憶があるが……
「お前なら読んでそうなものばかりあったけどな」
「趣味は合うけれどね。むしろあの子の方が詳しかったりもするわよ」
「それは驚きだな」
戦場ヶ原だって相当な読書家だ。更に上回る神原──あいつの本棚には底なんてものは存在しないらしい。
もっとも、既に本棚と部屋に区別がつかない程の惨状だが。
「A・A・ミルンは知っているかしら」
「確か『くまのプーさん』の作者だろう」
「流石にわかるわよね。じゃあ、ミルンが長編、それも推理小説を執筆していたことは?」
「それは──知らないな」
というか、童話以外を書いていたのが初耳だ。
「そうよね。私も神原から聞くまでは、童話作家だと思っていたわ」
『赤い舘の秘密』っていう作品なのだけれど、と戦場ヶ原は続けた。
「私は濫読といっても、流行りものや有名な作品から手を伸ばすから、所謂隠れた名作は未読がちなのよね」
「だけど神原はそういった作品も一通り押さえてるのよ」
「いったい何処からそんな知識を仕入れてくるんだ」
「さあ?それは知らないわ」
ううむ、あのブラックホールの如き部屋、その秘密の一端が解き明かされると思ったんだが……そう上手くはいかないらしい。
「あれ、でもお前もそういった、なんというか古典のような本はよく読んでなかったか?」
戦場ヶ原以上に詳しくない自信があるが、それでも明らかに古く、有名とは思えない本を開いていた気がするのだが。
「あなたも知っての通り、高校生になってからの読書は目的というより手段だったから、何でもよかったのよ。図書室の蔵書も半分ほど既読だった以上、そういったものを手に取るしかなかったのよね」
「入学時点で半分既読って、すげえ新入生だな……」
うちの高校の図書室、かなりの蔵書量じゃなかったか?下手な本屋よりはよっぽど種類があると思うが。
「その程度で驚いちゃ駄目よ。神原は7割は既読だったらしいわよ」
7割……もう図書委員より図書室に詳しいんじゃないだろうか。
「そして羽川さんなんだけどね、全部既読だったそうよ」
「…………」
『すげえ新入生』というか、その域までいくと『やな新入生』だろ。
羽川、恐るべし。
「コーヒーから始まった雑談だが、全然関係ないところまで来ちまったな」
「……そうね。ふぁ……いい感じに眠くなってきたわ」
電話越しに、小さな欠伸が聞こえる。僕もそろそろお役御免ということらしい。
「まだまだ付き合えるぞ」
「お気遣いありがとう。でも大丈夫よ、これ以上は明日に響くわ」
気づけば、時計の針がそろそろ0時を指そうとしていた。
話し始めたのは、確か22時を少し回った頃だったか。
他愛もない雑談だけで二時間近くとは……
恋人というのは案外、おしゃべりな生き物だったようだ。
戦場ヶ原の言う通りここいらが潮時だろう。
「そうか、じゃあお開きだな」
「──ときに阿良々木くん、今日の私の話、ひとつだけ嘘をついたのだけれど、わかったかしら?」
「なんだって?」
……え、どれだ?どの話だ?
神原が蔵書の7割既読だったとか、正直すげえ嘘っぽいけどそんなにわかりやすくないだろう。
ピーナッツキャッチの件は……嘘だと明言してたし、これは除外でいいはずだ。
え、ひょっとしてコーヒーとかミルンの雑学じゃないよな?素直に感心してたから、嘘だったら結構ショックなんだが。
デートの件だったら──三日三晩、枕を濡らすぞ。立ち直れないかもしれない。
そんな鬼畜なことはしないと思うが──
二の句をつげないでいると、電話の向こうから、小さく笑うような気配がした。
「心配しなくてもデートの約束は本当よ。神原や羽川さんのアレコレも、珈琲の雑学も」
珈琲を貰ったのも、それを飲んだのも、ね。でも──
「──でもね、眠れなかったのだけは嘘よ」
「眠かったけれど、あなたの声が聞きたかったから、ちょっと我慢してみたの」
「────」
「それじゃあ、おやすみ」
しばらく呆けたあと、僕がようやく絞り出した言葉は──
「なんだよそれ、すっげえ萌えるじゃん……」
今度は僕の方が、眠れそうになかった。