神里綾華にとって、彼は幼い頃からずっと、すぐ隣にいる存在だった。
物心ついた時には、既に彼はそこにいた。
「綾華様。構えが甘いです」
「……もう一度お願いします!」
「はい。では、今度は足元を意識してください」
木剣を握った幼い綾華の前で、同じ年頃の少年が静かに構える。
──
神里家に仕える一族の子として生まれ、幼い頃から神里綾華の傍付きとして育てられた少年。
そして綾華にとって、初めての剣術の師だった。
「はっ!」
「ふっ」
綾華のしなやかな剣技を、最小限の動きだけで捌く。
そして自身に向けて振りかぶられた木剣を弾き飛ばし、立ち尽くす綾華に木剣を向ける。
「また私の勝ち、ですね」
「っ…蓮、もう一度だけ!」
「駄目です。今日はもう十分でしょう」
「まだできます!」
「その台詞を言う時の綾華様は、だいたい限界です」
「……蓮のくせに、生意気です」
「綾華様にだけは言われたくありませんね」
「なっ……!」
むっと頬を膨らませる綾華に、蓮は小さく笑った。
その笑顔を見て、綾華もまた、つられるように笑う。
それが、二人にとっては当たり前の日常だった。
綾華が神里家の令嬢であることも。
蓮がその傍付きであることも。
剣を教える者と、教えられる者であることも。
幼い二人にとっては、さして重要なことではなかった。
ただ、蓮はいつも綾華の隣にいて。
綾華もまた、いつも蓮の隣にいた。
だから──その日も、二人はいつも通りだった。
稽古を終えた二人が、神里家の敷地から少し離れた場所を散歩していた時のことである。
「蓮。……少し、遠回りして帰りませんか?」
綾華が突然、そんな提案をする。
「遠回り、ですか?」
「はい。今日は天気も良いですし……それに、もう少しだけ蓮と話していたくて」
「そうですか」
蓮は特に疑問を抱くことなく頷いた。
「では、そのように致しましょう。たまには気分転換も重要です」
「……!はいっ!」
綾華は嬉しそうに微笑む。
その表情を見て、蓮は満足そうに頷いた。
「やっぱり蓮は強いですね。今日も一本も取れませんでした」
「それは綾華様よりもずっと前から剣を習っていますから。これで負けては剣士の恥というものです」
「ではやはり、私はまだ弱いということでしょうか…?」
綾華は不安そうな表情をしながらそう言葉を零す。
それを見て、蓮は綾華に対して優しく微笑みかけた。
「そんなことはありません。綾華様の剣技は目を見張る速度で上達しています。最初のころに比べれば、見違えるほどに強くなりました。」
「…私はもっと…蓮のように強くなれますか?」
「ええ、もちろんです。私が保証します」
「!そうですか…」
蓮の言葉に、綾華は安堵したような表情を浮かべた。
──その直後だった。
「動くな!大人しくしてもらうぜ」
突然、道の脇から数人の男たちが飛び出してきた。
「っ!」
綾華が息を呑む。
「へっ、神里家のご令嬢が護衛一人でお散歩とはな」
「しかもその護衛はガキ一人ときた。おかげで楽に捕まえられるってもんだ」
綾華を狙った、賊。
それを理解した蓮は、即座に彼女の前へ出た。
「…綾華様。私の後ろへ」
「蓮……?」
「大丈夫です」
蓮は腰に差した剣を抜いた。
いつも鍛錬に使う木刀ではなく、もしもの時のために主を守るための…真剣。
相手は複数。対してこちらは二人。
しかも、自分たちはまだ子供だ。
勝てるかどうかなど、考えるまでもない。
それでも、蓮は一歩も退かなかった。
「蓮、逃げてください!」
「できません」
「彼らの狙いは私です!蓮だけでも逃げれば助かります!」
「私は、綾華様を置いていくことはできません」
蓮はさらに一歩、前へ出る。
まるで男たちを迎え撃つ覚悟を固めるように。
「私は綾華様の傍付きです。主のことも守れないで、どうしてそれが名乗れましょう?」
「蓮…」
そんな蓮を見て、男たちは笑った。
「何だ、ガキが一人前の護衛気取りか?」
「ガキが。格好つけてんじゃねえぞ!」
次の瞬間、男が蓮へ向かって走り出した。
蓮は剣を構える。
──怖い。
剣を握る手が、足が、震える。
それでも、背後にいる綾華の気配だけは、はっきりと感じられた。
…守らなければ。
そう決意を固めた、その瞬間。
黄色くまばゆい光を纏った何かが宙から舞い降り、蓮の手元へと収まっていく。
「これは……」
蓮自身にも、それが何なのかははっきりと分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
自分は、綾華を守りたい。
誰に命じられたからでもなく、神里家に仕える者としての使命だからでもない。
ただ、自分自身の意思で、幼い頃より共にいた大切な存在を。
「……綾華様は、私がお守りします」
蓮は岩を纏った剣を握り直した。
そして、初めて授かった神の目を輝かせながら、敵へ向かって踏み込んだ。
──それから、十年。
「…蓮」
「はい」
「どうですか、此度の装いは…似合っていますか?」
「ええ。いつも以上に美しいですよ、綾華様」
「…それは、いつも美しいと思っている、という風にも聞こえますが…」
「?その通りですが…」
「っ///そ、そうですか」
神里家の一室。
美しく成長した神里綾華は、きょとんとした表情の蓮から顔を背け、顔を赤らめる。
天鷺蓮。
幼い頃から自分の隣にいて。
剣を教えてくれて。
自分を守るために、神の目を授かって。
そして今もなお──。
「綾華様?大丈夫ですか?」
「……何でもありません」
「そうですか?」
「はい。何でもありません」
綾華は微笑む。
その笑顔の裏にある感情を、蓮は知らない。
「では、そろそろ出発いたしましょう。先方の方がお待ちです」
「ええ、参りましょう」
神里綾華と、その傍付き剣士。
これは二人の、少しばかりすれ違った日常の物語。