──気がつくと、知らない場所にいた。
私はどこにでもいる普通の女子中学生だった。家族は優しくて、友達といると楽しくて、勉強はそこそこ、運動は嫌い、そんな平凡な日々。だけどあの日、耳に響くけたたましいクラクションと眩しい光、突っ込んでくる鉄の塊を見た記憶を最後に私の意識は暗闇に放り出された。
目を覚ますと私はどこかの街の真ん中に立っていた。周囲を見渡すと、まるでアニメやゲームの世界のような洋風な建物が建ち並んでいる。行き交う人々の服も、まるで現代のそれとはかけ離れている。むしろセーラー服を着ている私が異常に見られるのだろう、すれ違う人達は私にチラリと視線を向けてくる。居心地が悪くなって、私は逃げるように薄暗い裏路地に駆け込んだ。
それがいけなかった、私は背後から男に口を押さえられそのまま捕まってしまった。今思えば、奇妙な格好をしたうら若い女など彼等からしたら格好の獲物だろう。
『5000万ベリーで買うえ〜〜!!』
人攫いに売り飛ばされた私は首輪をつけられ大勢の人の前に晒された。私を買ったのは、この世で最も偉く、気高く、そして醜い一族の男だった。私はやっと理解した、ここがどこで自分がどういう目にあっているのかを。
そこからは地獄の日々だった。背中に奴隷の烙印を押され、いたぶられ、辱められ、いたぶられ、その連続だった。ただの女子中学生だった私に耐えられるはずもなく、私は表情を失った。何をされても、どんなに痛みや屈辱を受けても私の表情筋は機能しなくなってしまった。
──もうどうでもいい……全てが。
何をしても反応しなくなった私に飼い主の天竜人様はいたく不機嫌だった。だからか、彼はあの果実を持ってきた。世にも奇妙な悪魔の実、彼はニヤリと笑うとそれを私の口の中にねじ込んだ。吐き気を催すくらいの不味みに私は嗚咽する。久しぶりの私の反応に満足したのか、彼は私の口を無理やり塞ぎ飲み込むことを強制してきた。
気づけば、私の姿は変わっていた。薄暗い牢屋では薄紫色がかって見えるピンク色のロングヘアに、同じ色の瞳と睫毛。そして私の周りにプカプカと浮かぶ奇妙なお面。
ヒトヒトの実幻獣種モデル“面霊気”とでも言うのだろうか? とにかく、それを食べた私はその日生まれ変わったのだ。
「気味が悪いえ!! その仮面はなんだえ!!」
だけどそれで何かが変わる訳ではなかった。自分で食べさせたくせに、飼い主様は私の変化を気味悪がった。殴られ、刺され、犯され、苦痛を受ける度に面は表情の動かない私の感情を代弁する。
──そんな日々が2年くらい続いた。
ある日、飼い主様はひどく酔っ払って、私の牢屋の錠をかけ忘れた。そして目の前には落としていった首輪の鍵。都合が良すぎて罠かと思うくらいの奇跡的な状況、逃げられる。その言葉が私の頭をよぎった。だけど、ここから逃げてどうなる? 逃げたところで、身よりもない、行く宛てもない、非力な私がどうやって生きていく?
私はもう、生きるのを諦めていた。
だけど、生物としての生存本能がそれを許さなかった。私は気づくと檻から抜け出して、無我夢中で走っていた。しかし何の策もない脱出劇が上手くいくはずもなく、廊下で飼い主様に見つかってしまった。
「ん〜? お前、どうしてそこにいるえ!? 早く戻るえ!」
飼い主様は酔っ払ってフラフラな状態で酒瓶を振りかざしてくる。私はその時、自らの生存を脅かす目の前の男をどうにかしてやろうと思った。すると、飼い主様は自分のことを酷く罵りだし、終いには酒瓶で自らの頭を思いっきり叩き割った。血を流し、倒れ動かなくなる。私は悟った、私が私の意思で飼い主様を操り殺したことを。
人を殺めたというのに、罪悪感は微塵もなかった。むしろ私の中にはまるで難しいゲームをクリアした時のような達成感が溢れている。その時は、それ以上考えなかった。私は外の世界に向けてひたすら走り出した。
──今考えれば天竜人を殺害したというのに、それ以上追っ手は来なくて警備もいなかった。その理由を私が知るのは、少し先の話だった。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
ある年の
──男の名は、ロックス・D・ジーベック。後に伝説の海賊団、ロックス海賊団を設立する大海賊である。
彼の聖地での大立ち回りはとある少女の目に入っていた。天竜人を殺害し、逃げ出した奴隷の少女。その圧倒的な暴力で暴れるロックスに少女の視線は釘付けになった。たとえ地獄から逃げ出せてもなんの希望も見いだせなかった少女は、その極悪人に希望を見た気がした。その時抱いた感情の名前はわからない。しかし少女の身体は勝手に動き、気づけばロックスが奪った軍艦に密航していた。
「ヴォハハハハ!! これが聖地を守る衛兵かよ! 生温ィ連中だ!」
ロックスは軍艦の兵士を全滅させると、
楽園の海に降りてしばらく、ロックスは船底の方から小さな気配を感じた。殺し損ねた兵士がいるのか? ロックスは船底の倉庫を覗いた。積み重ねられた木箱の奥から、何やら音が聞こえる。そこにいたのは、木箱からパンと水出して貪っている少女だった。
「あ? なんだテメェ……」
「……」
ロックスが少女を睨むが、彼女は表情を動かさずひたすらパンを口に運んでいる。小汚い服装の割には整った顔の少女だが、目を引くのは彼女の周囲に浮かんでいる面だ。ロックスを見ると、その面は驚いたような表情に変化した。
「ヴォハハ! 能力者、それに天竜人の奴隷か。もしかして逃亡中だったか? だったら悪ィな、この軍艦はおれがもらった」
ロックスは極悪人だが、子供を理由もなく殺すことはしなかった。特に今は機嫌がいい、一度くらいチャンスをやろうと考えたのだ。
「一度だけチャンスをやる、今すぐここから消えろ。小舟と食料を持ってくくれェなら見逃してやるよ」
「……」
しかし少女は動かなかった。表情一つ動かさず、じっとロックスを見ている。度胸があるのか、それとも感情が壊れているのか。なんにせよ、全く自分に怯えない少女にロックスは剣を向けた。
「二度はねェぞガキ。死にたくなけりゃ今すぐこの船から降りろ」
少女の面が悲しむ老婆の面に変わった。それを見て、ロックスは彼女の能力の一部を理解した。彼女が表情に出さずとも、ロックスに否定的な感情を向けているのは読み取ることができた。
「おれの言い分を横暴だと思うか? だがな、この世は力こそが全てだ! 強ェ奴が弱ェ奴を支配する! この場じゃおれが強くてお前は弱い! お前が天竜人の豚共に何をされたかは大体想像できる! それも全てお前が弱者だったからだ! 親切なくれェ簡単な話だろ!?」
ロックスの言葉に少女の瞳がうっすら揺らいだ。ロックスが彼女の喉元に突き立てる剣の切っ先が触れ、僅かに血が流れ出る。しかし少女はそんな事気にもせずロックスを見つめている。
「わかったらとっとと──」
「……いく」
「……あ?」
「ついて行く、あなたに」
少女が初めて口を開いた。その言葉にロックスは眉を顰め、凶暴な獣のような顔つきで少女を睨んだ。
「ガキが……おれについてきたら死ぬぜ?」
それは脅しではなく、純然たる事実だった。この先彼を待っているのは凶悪な海賊、そして世界政府との抗争、血で血を洗う修羅の道だ。しかし喉元に剣を突き立てられても、少女の顔には焦燥一つない。フラフラと浮かぶ面が静止し、彼女はただ一言淡々と告げた。
「……別にいい。弱い私はどうせいつか死ぬ」
一瞬の静寂。波の音と、木板の軋む音だけが船底に響く。やがてロックスは剣を鞘に納めると、甲板まで響き渡るような豪快な声で笑い出した。
「ヴォハハハハ!! 確かに違いねェ!! 失うもんがねェ奴が一番強い意志を宿してやがる!! いいだろう、気に入った!! おれの船に乗れ!! お前の名は?」
名前……現実世界で名乗っていた名前が一瞬頭をよぎった。しかしそれはすぐに霞んで消えた。普通の少女はマリージョアの牢屋の中で死んだのだ。今の少女は、表情が消えただの面霊気。
「……秦こころ」
「こころ!! おれァロックス・D・ジーベック!! おれについてくるからには地獄を見る覚悟をしろ!! だが生き残った暁には、お前にも世界の頂点の景色を見せてやる!!」
ロックスが背を向け、倉庫から甲板へと上がっていく。こころもゆっくり立ち上がり、その巨大な背中を追いかける。彼女の無機質な表情の横で、『喜』の感情の面がその僅かな希望を代弁するようにクルクルと回るのだった。