市役所の落とし物係ですが、持ち主が全員死んでいます ~呪物は捨てずに「未練の宛先」へ届ければ、保管室の怪異が一つ減るそうです~ 作:ramunade
辞令というのは、紙一枚で人を地下へ沈める。
「
読み上げてから、人事課の柏木係長は初めて顔を上げた。眼鏡の奥の目は、気の毒がるでもなく、笑うでもない。書類の目である。
「一つ、内規があります。あの部屋の台帳の未済がゼロになった年度末、あなたは希望の窓口部署へ異動できます」
「……口約束、ですか?」
「文書です。人事は、口約束をしません」
台帳の未済がゼロになれば、窓口へ。終わりの数字がある仕事は、怖くない――そのときの私は、素直にそう思った。何も知らないというのは、そういうことである。
窓口、という言葉は、胸の奥で鈍く鳴る。
◇
六月のあの日――――。
私は市民課の窓口に立っていた。書類の不備を伝えた相手が、机を叩いて怒鳴り始める。声が大きくなるほど視界は狭くなり、私はいつもの癖で数を数えた。十まで数えれば、たいていのことは過ぎていく。あの日は、七で床が近づいてきた。気がつけば救護室の白い天井の下にいて、次の週には「静かな部署へ」という話が決まっている。
窓口に立てない職員。誰もそう口にしないぶん、その札は重かった。人事課を出るとき、廊下ですれ違う誰の目も見られなかったのは、札のせいで、荷物のせいではない。
地下への階段は十三段で、それが二度ある。降りるほどに蝉の声が薄れ、二度目の踊り場で、夏がぷつりと途切れた。数えたのは怖かったからで、それ以外の理由はない。十まで数えれば明かりはつく――そう教えてくれたのは、私を育てた祖母である。小学二年の、停電の夜の話だ。二十二になった今も、私は暗い場所で数を数える。
突き当たりのすりガラスに、手書きの紙が貼ってある。『第二保管室』。その下に少し小さく、『御用の方は、ノックを』。
ノックの手を上げる前に、鉄の扉が内側から開く。
「久世さんですね。――お待ちしていました」
糊の効いた白いカッターシャツに、銀縁の眼鏡。年齢の読めない、静かな顔。声も静かで、けれど廊下の一番奥まで届く声だった。係長の
案内は、棚の一列目から始まる。赤い子供の運動靴が、片方。日付の古い定期券。それから、画面の暗いスマートフォン。電源は入らないのに、画面の隅の電池の印だけが、満ちている。
「落とし物、ですか?」
「ええ。引き取り手のない、長期保管の品です」
「持ち主の方は、どちらに?」
「――全員、亡くなっています」
冗談の気配を探して、私は汐見さんの顔を見た。事務連絡の温度のまま、何も混ざっていない。それが一番、こわい。
「ですから、ここの仕事は返すことです。……ご遺族に、ではありません。品物が抱えた未練の、宛先に、です」
「捨てては、いけないんですか?」
「捨てると、戻ります。戻るたびに――悪く、なります」
私は思わず宙を仰いだ。一体何なんだ? オカルトか? オカルトなのか?
しかし、これはれっきとした公務なのだ。税金を使って行われる公の行為。何らかの合理性はあるのだろう。
ただ――『悪くなる』の中身を訊く勇気は、初日の私にはまだない。
汐見さんは、指を三本立てた。
「一つ。品の前で、持ち主のお名前を呼ばないでください。二つ。この部屋では、嘘をつかないでください。三つ。帰るときは、棚へ――また明日、と」
「……理由を、伺っても?」
「呼べば、起きます。嘘は、覚えられます。三つ目は」
少しだけ、間が空く。
「言い忘れると、置いていかれたと思うそうです」
「そ、そんな……」
手帳を持つ手が、勝手に丁寧になる。理屈は一つも分からないのに、一字も落としてはいけない気だけがした。
◇
指示された目録の整理をやっていたら定時になっていた。
「本日はこれまでに致しましょう」
汐見さんは帳面を閉じ、七列の棚へ近づくと軽く頭を下げる。
「また明日」
私も慌てて汐見さんを真似た。
「また明日」
こんな儀式が効くとはにわかに信じがたいが、棚の奥で、何かが小さく身じろぎした――ように聞こえたのは、気のせいだと思うことにする。
階段を上がるにつれて夏が戻り、地上の熱気が、その日はやけにありがたかった。
◇
「あ……」
庁舎を出て、バス停の手前で思い出す。机の脇に弁当箱の袋をかけたまま忘れている。明日でいい荷物ではある。ただ、弁当箱を洗わないままにしておくことは嫌なのだ。
「くっ……」
戻った地下二階の廊下は、昼より暗い。蛍光灯が一本、思い出したように瞬いて、私の影を伸ばしたり縮めたりする。自分の呼吸の音が、数えられるほど近い。
その時だった――――。
とっ、とっ、とっ。
音がする。小さく、軽く、規則正しい。革靴ではない。もっとやわらかい――たとえば、子供の運動靴のような。
数える。一、二、三。音は保管室の、扉の内側から聞こえる。四、五。近づいてくる。六。
止まった。
扉の下、すりガラスの明かりの際。爪先をこちらへ向けて、赤い靴が、片方――――。
「ひっ……」
七まで数える前に、私は廊下を引き返していた。階段を二度、駆け上がるあいだ、心臓の音のほうがよほどうるさい。弁当箱のことは、忘れることにする。
翌朝。保管室の私の机の上に、弁当箱が――きちんと、置かれていた。