その状況を一言で言い表すなら、正しく「混沌」だった。
暴言を吐き、殴り合いを行う客。
本来であれば丁寧に接客を行う筈の店員も暴言をぶちまけ、あまつさえ客に対して暴力をふるっている。
他の店では信じられない光景だ。
そこらへんの客が無断で撮影した挙句、勝手にネットに投稿してしまいこの店はあっという間に大炎上してしまう事だろう。
だが、そうはならない。
こんな状況で無断で撮影など行おうものなら、勝手に自分が撮られている! と勘違いしてそいつの顔面に一発良いのをお見舞いする事だろう。
というか、実際に何度かそのような事が起こった。
店内は、怒声交じりの喧騒に包まれているだけではなく、食器や料理なども宙を舞う。
昔は食器をガラスや陶器製にしていたが、あまりにも簡単に壊れてしまう為、プラスチックに変更した。
変更した当初は、果たしてこれで良いのだろうか? と思ったが、今にして思えば英断だった。
ガラスや陶器製を使い続けていれば、きっと何度も新しい食器に替えていた事だろう。
「……はぁ」
「混沌」から逃れる事ができる唯一の聖域ーーとはいったものの、気を抜いたら流れ弾がやって来る。ーーで先ほど洗った食器を拭く店長。
ふいに何かが飛んできた。
無駄に大きく動くのも億劫なので、首をわずかに傾けて回避。
「テメェ! 何投げてんだ!? あぁ!?」
「勝手に避けてんじゃねぇ! 誰の許しを得てる!」
「クソ客共がァ! おとなしくしろ! テメェらのせいで、注文した品が運べねぇじゃねぇか!」
「……はぁ」
また、溜息が出てしまう。
溜息を吐くと幸せが逃げてしまう、なんて迷信がある。この居酒屋を開いてから、軽く100回はため息を吐いている気がする。
そろそろ幸せメーターも底をつくと思うのだが、訪れる不幸はこの居酒屋が潰れてしまうとかが良い。
居酒屋「地獄」。
それがこの店の名前だ。
今にして思えば、気が狂っているとしか思えない。
居酒屋を始めたきっかけは、長年勤めていた会社から、突如としてリストラを言い渡されてしまい無職になってしまったから。
無職になった後、一体何を思えば「そうだ、居酒屋をやろう」なんて考えに思い至るのか? 現在の自分も、過去の自分も、どちらも自分である事に変わりないのだが全くもって理解できない。
恐らくは、突如リストラを言い渡されてしまい、頭がおかしくなっていたのだろう。
話はとんとん拍子に進んでいき、居酒屋「地獄」は開店した。
最初は普通の居酒屋だった。
客の喜んだ顔が見たい。仕事の鬱憤を晴らして欲しい。飲んだくれ共の、憩いの場として利用して欲しい。
そんな思いから、値段は可能な限り安く。
薄利多売でやっていた。
一体いつからだろうか? 柄の悪い客しか来なくなったのは。
一体いつからだろうか? 殴り合いや罵りあい。酷い時は店内で殺し合いにまで発展するようになってしまったのは。
一体いつからだろうか? 人手が足りずに雇ったバイトがこの店に適応するようになったのは。
(やっぱり名前? 「地獄」って名前が駄目だった? でも、一度「極楽」って名前に変えようとしたら、何故か店員と客が手を組んで全力で反対しからなぁ)
商売は繁盛している。
しかし、店長が思い描いていた理想ではない。
だが、希望はある。
誰も彼もが、怒りや憎悪に表情を歪ませている中、一人だけ心の底から満面の笑みを浮かべている少女がいた。
普段は銀色のツインテールだが、動きやすさを重視してかポニーテールに結んでいる。
身にまとう衣服は、居酒屋「地獄」の従業員服。
見慣れたデザインだが、彼女が身に着けるだけで新鮮に映ってしまう。
息を呑む程美しい容姿。加えて満面の笑みまで浮かべているのだから、その美しさははかり知れない。
実際に、喧嘩をそっちのけで見とれてしまう客もいるくらいだ。
あ、その隙に殴られた。
飛んでくる食器や料理をヒラリヒラリと躱し、客同士の喧嘩も巻き添えを食らわないように華麗に回避。
迅速に。されど、最短ルートで注文の品を持ってくる彼女。
まるで踊っているかのように鮮やかだった。
彼女を一言で言い表すなら、戦場に咲く一輪の花。
殺伐とした世界の中で、見ているだけで心が癒されていく存在だ。
(ああ、本当に雇ってよかった)
彼女の名は甘露 メア。
僅か数日しか働いていない新人アルバイトでありながら、既に店の主戦力として重宝されている期待の新人だ。
※
彼女がバイトに応募したのは、数日前。
居酒屋「地獄」は、万年人手不足だ。
新しくバイトに入ってくる事はあるが、大抵は3日も経たずに止めてしまう。
当然といえば当然だ。
なにせ居酒屋「地獄」は、常に闘争が勃発している状態だ。
些細な喧嘩がどんどん大きくなっていき、やがては店全体を巻き込んだ、大きな争いへと発展してしまう。
これが居酒屋「地獄」の日常風景。
店に慣れていない新人バイトが、バイト初日に客の流れ弾であったり、とばっちりを受けてその日に止める事も珍しくはない。
ガッツがあって、根性がある子でも3日もすれば「お願いします! バイトを辞めさせてください!」とお願いする始末。
つまり、ここでバイトをするつもりならガッツや根性だけではやっていけない。
もっと別の何か。
やられたらやり返してやるぜ! と思えるくらいの心構えがなければ、やっていく事はできない。
幸か不幸か、長い間バイトを続けている所謂「適応者」は数名いる。だが、居酒屋「地獄」は何故か知らないが、常に満員御礼。
「適応者」を総動員したとしても、人手不足は否めない。その上「適応者」も常にシフトに入る事ができる、という訳ではないので人手不足は目下の悩みだった。
故に、新たなバイトの募集を行った。
しかし、良くも悪くも名が知れている居酒屋だ。
どれだけ時給を上げて、バイトの募集を行ったとしても、誰も来てくれない。このまま「適応者」達と共に、人手不足にあえぐしか無いのか?
そんな中、現れた救世主こそが、甘露 メアだった。
最初は面を食らった。
果たして、こんな可愛らしい少女を、あんな場所で働かせて良いのだろうか? と大いに悩んだ。
しかし、店長として非情な選択を取らなければいけなかった。
何かあった時は、全力で私が守ろう。
そんな決意と共に、彼女を採用した。
だが、そんな決意は不要だった。
バイト初日。
良くも悪くも--尚、悪い意味の方が大多数を占めている。--店が活気に包まれる時間帯。そこは正しく「混沌」とよんでも差支えない状況だった。
「初めてだと、勝手とかわからないでしょ? だから、最初は経験者に付き添って貰った方が……」
高確率で、初日で辞めてしまうバイトは多いが、指導をしない理由にはならない。
なるべく怖がらせないように、優しい口調でメアに話しかける。
返答が無い。
彼女の様子を見て、思わずギョッとしてしまった。
メアは笑っていたのだ。
まるで、初めて遊園地に訪れた子供のように。これからどのアトラクションに乗ろうかな? なんて考えて、ドキドキワクワクしている子供のように。
「大丈夫です。店長さん。基本的な業務内容は、全て覚えています。ただ、接客業は初めてなので、失敗してしまった際は宜しくお願いします」
「え? ……あ、うん」
店長は勘違いしていた。
メアがここのバイトに応募したのは、高い時給に釣られてきたからだと思っていた。だが、彼女の顔を見れば、そうじゃ無い事は一目瞭然だ。
「なるほど。後天的ではなく、先天的な「適応者」。……とうとう現れてしまった、という事かぁ」
今までのアルバイト達は、仕事を通して「適応者」へと進化していった。だが、彼女は違う。この店と出会う前から「適応者」としてのポテンシャルを秘めていた。
もしかすると、もうウチの店にはこんなキワモノしか来ないのかも知れない。そう思うと、かつて自分が目指した理想との差に泣きそうになってしまう。
だが、悪くは無い。
何故なら新しく入ってきたバイトは、「混沌」とした職場であるにも関わらずとても楽しそうに仕事を行っているのだ。
客の暴言を笑顔で流し、飛んできた暴力や食器は軽業師のように避ける。商品の運搬や回収もお手の物。
迅速に行い、時には異能を行使して掌から出した黒い糸を使って時短を行う。
「……って、あの子、異能力者だったんだ。……そういえば、通ってる学校が第一異能学園だったっけ? 駄目だな。しっかり履歴書は読まないと」
まるで目が覚めた気分だ。
「さて。私も頑張らないと」
目指していた理想では無い。
店内は最悪に近い。
それでも自分の店。自分の城だ。
だったら、最後まで責任を持って働かなければいけない。
新人バイトの働く姿に元気を貰いつつ、店長も自分の仕事をするのだった。
(お、迷惑客へのアッパー、綺麗に決まったな)
身軽なだけでは無く、身体能力もかなり高いという事実に舌を巻きながら。
※
バイトを始めて良かった。
改めて、そう思う。
「今日もお疲れ」
「あ、店長さん。お疲れ様です」
従業員の更衣室。
男女共用ではあるものの、流石に男性の前で着替える訳にもいかないので、女子が着替え終えた後に男子が着替えるのが普段の流れだった。
部活とは異なり、バイトは沢山の「悪意」で満ち満ちている。
理由もなく暴力をふるいたい。罵倒する事で優越感を得たい。誰でも良いから、兎に角迷惑をかけたい。
人の「悪意」を好むメアにとって、居酒屋「地獄」の接客業は毎日遊園地を訪れているようなものだ。
自分に向けられているもの。他者に向けられているものを問わず、多数の「悪意」を堪能する事ができる。
決して快活とした雰囲気の「部活」では得る事のできない、仄暗い充足感だ。
「……改めて見ると、店長さんって鍛えているんですね」
店長の年齢は、恐らく30代。
その肉体は鍛え抜かれている。少なくとも、メアの知り合いに腹筋が割れている人物などいない。
尤もメアには友人が皆無なため、知り合いに該当する人物は家族くらいしかいない。父親は、お腹は引っ込んでいるものの腹筋は割れていない。
「余り、そうやってジロジロ見られると恥ずかしいな。……別に、接客業をする上では余り必要じゃない……わけでも無いか。普通に、客が暴力を振ってくるし」
「殴った相手がダメージを受ける、っていうのは中々に面白い光景でした」
思い出すと笑いそうになる。
突然、店長の腹を殴ったかと思えば、腕を抑えて悶絶したのだから。
「まあ鍛えておいて損は無いんだけど……もしかすると、昔の仕事に対して未練があるのかもしれないな。……うん。多分、そうだ」
店長の表情は昔を懐かしむようでいて、何処か悲しそうで、深くは聞かなかった。
うかつに他人の過去に触れてはいけない、なんて事はメアにも理解できたから。
尚、バイトを行った理由は当然のごとく友達を作る為だった。居酒屋「地獄」で働いて数日が経つが、友達ができる目途が経っていない。
というか、あんな状況で友達を作るという事が不可能なのかもしれない。
『……お前、今気づいたのか?』
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