この道は古くから使われてきた街道だから、常に障害物は取り除かれている。
だからリースたち一行は、それ以上危険なモンスターに遭遇することはなかった。
そしてついに、三日目の朝、馬車の隊列はアッシェンブルクの街へと到着した。
ハンザムとリースは馬車乗り場から冒険者のギルドに向かって歩いていく。
ところが大ホールに入ってみると、意外にも人はまばらだった。
「ここでお別れですね」
リースは旅の間にすっかり打ち解けたハンザム一行に向かって、丁寧に頭を下げた。
「いや、まだだよ。荷物の積み下ろしが終わるまではここにいるからさ」
スレスがいつもの調子で気楽に答え、にやっと人をからかうような笑みを浮かべる。
それを見たハンザムが軽くスレスの肩を掴んで引き寄せ、位置を入れ替わると、今度は自分がリースの前に立った。
「いい冒険者だったぞ、リース。これからの道も幸運を祈る」
そう言ってハンザムはリースの肩に手を置き、軽くポンと叩いてから、仲間たちを連れて受付カウンターの方へと歩いて行った。
「じゃあ、お別れか」
今度は落ち着いた平坦な声が、反対側から響いた。
リースが振り返ると、そこには見慣れた顔があった。
「はい、マーラさん」
受付嬢の長であるマーラは、眼鏡をクイッと押し上げながら、いつもの几帳面な視線をリースに向けた。
(二年ぶりなのに、マーラさんちっとも変わってないな……)
心の中でそう思いながら、リースは丁寧にお辞儀をする。
けれどマーラは特に表情を変えず、もう一度眼鏡を押し上げると、定規で線を引くようにきっちりとした声で言った。
「レオ様がお待ちです」
「はい」
リースが返事をすると、マーラは黙って階段を上がり、二階へと案内した。
古びた木の扉がゆっくりと開く。
軋む音がまるで、入る者を威嚇するかのように響いた。
部屋の中で一番大きな机に座っていた人物が、ゆっくりと椅子を回転させてこちらを向いた。
ギルドマスターレオ、ワーガスのパーティ仲間だった男だ。
厳格な老人で、髭も髭も剃り上げ、鼻梁には片眼鏡を右目にかけている。
口元は自然とわずかに上がっているように見えるが、その顔には慈悲の欠片もない。
「ワーガスが手紙を預けてきたんだな」
「はい」
リースはそう答えて、背負っていた荷物から手紙の箱を取り出し、静かにレオの机の上に置いた。
レオは箱を開け、巻物の一つを取り出して封蝋を確かめる。
だがその途中で一つの巻物に目が留まり、それを先に開いて読み始めた。
片眼鏡をクイッと押し上げながら手紙を読み、時折リースの顔を見上げる。
「酷いな、ワーガス……」
レオは喉の奥から低く唸るように呟き、苛立ちを込めて大きく息を吐いた。
それからその手紙を巻き戻し、再びリースに向き直る。
冷え切った視線がリースを貫き、まるで凍りつかせたかのように動けなくさせた。
「本当に冒険者を辞めるつもりなのか?」
「……はい」
「なぜ辞めたいんだ?」
沈黙がリースの体を一瞬、駆け抜けた。
顔を伏せ、やがて大きく息を吐き出してから、彼は口を開いた。
「僕……どんなに頑張っても、どうしても上手くいかないんです。
パーティから荷物扱いで追い出されて……だから、もう辞めたいんです」
リースの声には、一切の迷いがなかった。
まるで、もうとっくに決心がついているかのように。
それを聞いたギルドマスターレオは、鼻で小さく笑い、息を吐きながら首を振った。
慈悲のない笑みを浮かべた顔が、ゆっくりと左右に揺れる。
「悪いな、今は辞めさせてやれない」
「え?」
「まずはこれらの書類を見てみろ」
ギルドマスター・レオの手のひらが、目の前の山積みの書類をバンッと叩いた。
その高さが恐ろしいほどだ。
「前線の状況が悪い。魔獣も新種の魔物も異常発生してる。
王国中のギルドが上級冒険者を総動員してるんだ。
はっきり言えば……今、俺たちは――人手――が――致命的に――足りて――ない」
レオは最後の言葉を、一語一語、噛み締めるように強調した。
その声の重さに、部屋の中が一瞬にして静まり返った。
リースの口に詰まったのは、言葉ではなく、様々な複雑な感情だった。
レオの言うことは、ある程度理解できたけれど……
(でもこれって、結局『働けよ、この奴隷』って言ってるのと同じじゃないですか……?)
そう言いたい気持ちは山々だったが、目の前にいるのは冒険者ギルドの偉い人だ。
下手なことを言ったら、強制的に危険な仕事に放り込まれるかもしれない。
たとえば、毒蛇の檻掃除みたいな。
「……頑張ります」
リースが木偶の坊のような声で答えると、レオは小さく鼻で笑い、敵意に満ちた笑みを広げた。
「いい返事だ。
これから下に行って、マーラから新しい規則を聞いてこい。
今すぐ仕事を受けるか、明日から始めるかは、お前に任せる」
そう言い終えると、レオはゆっくりと笑い、顔を再び書類の山に埋めた。
リースは丁寧に頭を下げ、踵を返して部屋を出ようとする。
ところが、扉の軋む音が響いた瞬間、ギルドマスターレオが大きな声で呼び止めた。
「リース。ワーガスと俺もな……お前と同じくらいの歳の頃、パーティから追い出されたんだ」
リースは振り返り、顔を伏せたまま作業を続けている老人を見つめた。
「ありがとうございます」
その最後の言葉に、リースの胸に少しだけ力が戻ってきた。
感謝の言葉を口にし、彼は静かに部屋を後にした。
階段を下りて一階に戻ると、受付カウンターのそばでマーラが待っていた。
彼女は眼鏡をクイッと押し上げ、口元を一直線に保ったまま言った。
「ついてきなさい」
「はい」
マーラに導かれ、リースは受付の裏手にある小さな部屋へ入る。
そこには綺麗で整然とした字で書かれた黒板があり、規則がびっしりと記されていた。
まるで教室のように、小さな机と椅子が六セット並んでいる。
マーラは一番前の小さな机を指差し、リースに座るよう促した。
それから鋭い視線を向け、わずかに口角を上げて言った。
「二年ぶりなのに、ひどい顔してるわね」
「長い話なんです……」
リースが魂が抜けそうな声で答えると、マーラは小さく笑った。
「あなたたち、十二歳でランタナに行っちゃったのよね。あの時、私、止めたはずだけど?」
「はい。マーラさんが頭から湯気出して反対してましたよね」
「そこで二年過ごして、無事に帰ってこれただけでも上出来よ」
マーラはそう言いながら、手元の書類をパラパラとめくり、目的のページを見つけると会話を止めた。
そして、紙をバンッとリースの前に叩きつけ、指で文字を指し示した。
「本題に入るわね。
冒険者の総動員で、こっちの人手が足りなくなっちゃったのよ。
だから、アッシェンブルク冒険者ギルドでは、新たに三つの規則を設けたわ」
マーラはそう言うと、指をリースの顔に向けた。
「一つ、錫ランクの冒険者は許可なく街を移ってはいけない。
二つ、錫ランクの冒険者はギルドが割り当てた依頼しか受けられない。
そして三つ、錫ランクの冒険者は、モンスターと戦う依頼を受けてはいけない」
説明を終えると、マーラは再び指をリースの顔に突きつけた。
「で、あなたの場合……戻ってきたばかりでまだ錫ランクのままだから、勤務期間はゼロからカウントし直しよ。分かった?」
「……」
リースの返事は、ただの沈黙だった。
それを見たマーラは小さく微笑んで頷き、最初より少し柔らかい視線を向けた。
「いい返事ね。
じゃあ、次はここのギルド特有の細かい規則に入るわよ」
それからリースは、マーラの説明を黙って聞き続けた。
ランタナにいた頃には知らなかったり、知っていても守っていなかった規則ばかりだった。
その日のオリエンテーションが終わった頃には、空はもうすっかり夕焼け色に変わっていた。
冒険者ギルドから出てきたリースは、枯れ枝のような足取りで歩き、ある一軒の宿屋に辿り着いた。
古びた看板は、リースが生まれる前から旅人たちに微笑みかけてきたものだ。
ここは馴染み深い場所だった。
幼い頃、孤児院が彼とアンジェリカをここに奉公に出していた。
リースはゆっくりと扉を押し開けた。
古い絨毯は二年前と同じように足を受け止めてくれる。
受付カウンターに座っていた女性――幼い頃から親しかったお姉さん――は、彼を見た途端に立ち上がり、駆け寄ってきた。
「リース!!」
「ニシャ」
ニシャの手がリースの両手をしっかりと握りしめていた。
その視線は、どんな歓迎の言葉よりも優しく、温かかった。
「本当に久しぶりだね……」
リースは視線を合わせながらそう呟き、寂しげな笑みを浮かべ、目を細めて長く息を吐いた。
「うん、二年ぶりだよ。今回、帰ってきたの? それとも、顔を見せに来ただけ?」
「僕……ここに、ずっと住むつもりなんです」
声は緩んだ弦のようにだらりと落ち、最後の言葉は寂しげに省略された。
それを聞いたニシャは、柔らかな声で言った。
「今日は空室があるよ。案内するね。夕飯も食べる?」
「今……お金がほとんどなくて……部屋代一泊分しか持ってないんです。明日から仕事始めるので……」
「いいよ、後払いにしとけば」
ニシャは変わらず優しい笑みを浮かべ、リースを一番奥の階段から遠い部屋へと案内した。
扉が開くと、小さな部屋が現れた。
シングルベッド、テーブル、洗面台、小さな棚だけ。
狭いけれど、荷物が少なければ十分に過ごせる空間だ。
「ここ、リースの部屋ね。ゆっくり休んで」
「ありがとうございます」
扉が閉まると、リースは硬くて粗いベッドに体を投げ出した。
視線は天井に向かい、何も捉えられないまま漂う。
(辞めるつもりだったのに……アッシェンブルクが僕を引き止めた……)
頭の中でぐるぐる回る思いに、目を閉じることができない。
(僕……パーティから追い出されて……辞めたいって思ったのに……レオ様は辞めさせてくれなかった……)
胸がまた締め付けられ、かすかな声が口から漏れた。
(僕……いや、違う。もう少し、必死に足掻き続けるしかないんだ)
リースはそう信じていた。