アッシェンブルクの冒険者ギルドは、ランタナほど混雑してはいなかったが、墓場のように静まり返っているわけでもなかった。
この街にはダンジョンがないし、魔力の噴出点も少ない。
だから恐ろしいモンスターが大量に生まれることもほとんどない。
主な産業は農業で、モンスターの素材を売る商売に比べると稼ぎは少ない。
それでも下位ランクの冒険者たちがなんとかこの街を支えていて、少なくとも街の経済が完全に止まらない程度には回っている。
軽い足音が木の床を叩く音さえ、受付カウンターまで届いた。
マーラはすぐに顔を上げ、音の主を見やる。
そこに立っていたのは、リースだった。
リースはゆっくりとギルドの受付カウンターに向かって歩いてくる。
目の下にはくっきりとしたクマができ、体はふらふらと揺れている。
「おはよう、リース」
「おはようございます、マーラさん」
リースは丁寧に軽く頭を下げる。
マーラは、まだ眠そうな彼の瞳を見て、軽く咳払いをした。
そして一枚の紙を差し出しながら、事務的に言う。
「今日の依頼書よ。ちゃんと確認してね」
「ありがとうございます」
冒険者は全部で八段階に分かれている。
錫ランク → 銅ランク → 鉄ランク → ブロンズランク → シルバーランク → ゴールドランク → ドラゴドラムランク → テカディウムランク
リースは今でも錫ランクだ。
二年も働いているのに一度も昇格できず、ギルドが用意した仕事しか受けられない身の上だった。
リースは笑顔でそれを受け取ったが、内容を読み終えた瞬間、瞳に苦々しい光が宿り、大きくため息をついた。
「あ……下水管の清掃ですか」
彼の目は自然と細くなり、かつて二年前、ランタナの危険な場所に行きたがっていたあの生意気な少年の目ではなくなっていた。
(一体何があったの……? あんなに変わっちゃって)
マーラはリースの顔を見つめながら、そんな思いが胸に浮かぶ。
彼の目は、もう「面倒くさい仕事だな」というより、完全に諦めきったような色をしていた。
リースが物思いに沈み始めたのを見て、マーラは慌てて現実に戻す。
「リース」
大きな声で呼ぶと、びくっと肩を震わせた彼が慌てて顔を上げる。
マーラは優しく微笑み、言葉を続けた。
「大変な仕事だけど、心配しないで。遅刻組が来たら、後から手伝いに行くように言っておくから」
「ありがとうございます、マーラさん」
リースは深々と頭を下げ、そのまま踵を返した。
しかしマーラの視線は、彼の背中にしっかりと突き刺さっていた。
あまりにも丁寧すぎる態度が、昨日の夕方に話していた時の彼とはまるで別人みたいで…。
(ランタナで一体何があったの……?)
彼女にとって冒険者の世界は遠い存在だったはずなのに、なぜかリースのことばかり気になって仕方なかった。
「……ランタナでの経歴、ちょっと調べてみようかな」
マーラは小さく呟き、空の紙にペンを走らせ始めた。
────────────
リースが今日最初に受けた仕事は、下水管の清掃だった。
アッシェンブルクの下水管は大きな地下管ではなく、ただの蓋付きの水路なので、彼にとっては簡単な仕事だ。
「おお、リースじゃねえか! いつ戻ってきたんだ?」
「昨日です」
街の食堂の主人が声をかけてくる。
リースは丁寧に答えた。
「今日は何しに来たんだ? まだ店開けてねえぞ」
「下水管の清掃の依頼を受けてきたんです」
それを聞いて主人は満足げに笑い、建物の裏側へと案内した。
「水が溢れ始めたのはこの辺りだ」
指差された場所では、傾斜した水路から水が溢れ、道に流れ出していた。
不快な臭いが辺りに漂い、人々は避けるように歩いている。店も商売にならない。
「じゃ、頼んだぞ」
リースは鉄の棒で一つずつ蓋をこじ開け、スコップで汚物を掻き出して脇に積み上げていく。
臭いは酷かったが、ランタナの水路に比べればまだマシだ。
あちらは小さな排水溝でさえ底が見えないほど濁っていたから。
黙々と作業を続けていると、ふと後ろから声がした。
「おいおい……おお、リースかよ!」
振り返ると、見覚えのある明るい顔があった。
昔、一緒に冒険者試験を受けた同期だ。
髪はボサボサで、いつも本物の笑顔を浮かべている少年――ハンス。
首から銅ランクのプレートが覗いている。
革のベストはあちこち補修の跡だらけで、二年間の苦労が刻まれているようだった。
「やあ、ハンス。久しぶりですね」
リースはスコップを地面に立てかけ、汗まみれの顔で笑って挨拶を返す。
ハンスはリースより二つ年上。あの試験では一位だった。
リースとアンジェリカが最下位グループで、帰還が一番遅かったことも影響しているだろう。
「ランタナから戻ってきたって聞いたけど、もう仕事かよ?」
「はい。お金がほとんど残ってなくて、急いで稼がないと……」
「で、今どれくらい進んだんだ?」
リースは振り返る。
すでに二つ前の通りから蓋が開けられ、汚物の山がずらりと並んでいる。
「さあ……数えてないです」
あと二区画ほどで街の壁際までだ。
「ここから手伝ったら、報酬半分こでいいか?」
「いいですよ。どうせ後ろも掃除しないといけないですし」
「ははっ、確かに!」
ハンスは袖をまくり、蓋をこじ開けていく。リースが汚物を掻き出す。
「でもさ、沈殿物は少ないのにどうしてこんな溢れるんだ? どこまで開けるんだこれ……」
「詰まってる場所を見つけるまで、全部開けないとダメですね」
やがて壁際に近づくと、蓋が鉄製のものに変わっていった。
ハンスが大きく息を吐き、眉を寄せる。
「ここからが本当の重労働だな……」
リースは乾いた笑いを漏らし、泥を掻き出す。
ハンスが次の蓋をこじ開けた瞬間――
巨大な犬くらいの大きさのネズミが飛び出してきた。
「うわっ!?」
驚いたハンスが叫ぶ。
すぐそばにいたリースはスコップで叩き落とし、地面に叩きつける。
ネズミは体を起こし、紫色の目をギラつかせ、恐ろしい鳴き声を上げた。
「なんだあれ!?」
「ただの赤牙鼠ですよ」
赤牙鼠は鉄分を含む硬い牙で木を齧るモンスター。
普段は臆病で戦闘能力はほぼない、ごくありふれた存在だ。
だがこの個体は違う。
緑であるはずの目が紫に染まり、かすかに光を放っている。
再び唸り声を上げ、まるで狼になったつもりで突進してくる。
だが所詮はネズミ。
リースのスコップが頭に直撃し、宙を舞った体は地面に叩きつけられる。
迷わず何度も叩きつけ、首と頭が胴体から離れるまで叩き潰した。
「……でもまだ水が流れていない」
つまり、まだ何かある。
「どうする?」
ハンスは顔を赤らめ、必死に誤魔化すような仕草をしながら尋ねた。
(大声で叫んじゃったもんな……)
リースはそんな様子を見て、心の中でそう思いながら、乾いた笑いを漏らした。
通りすがりの人々の視線を感じつつ。
「開けましょう」
リースはスコップを置き、短剣と盾を構える。
ハンスも苦笑しながら次の蓋に鉄棒を差し込んだ。
そして開けた瞬間――
腐臭が一気に広がった。
ネズミ、鶏、ヤギの足らしきもの、猿らしき腕……
だがどれも胴体も内臓もなく、ただ切り落とされた部位だけが詰まっていた。
「うわっ……これはギルドに報告しないと」
二人は顔を見合わせて、悲鳴のような声を同時に上げた。
────────────
ギルドに報告すると、すぐに人が駆けつけた。
だがアッシェンブルクは人手不足。他の街からも応援を呼ばざるを得なかった。
そしてやってきたのが、ハンサムパーティの面々だった。
「わざわざありがとうございます」
リースが深々と頭を下げる。
ハンサムとスレスはにこやかに応じた。
「いいってことよ。お前も前に俺たちを助けてくれたしな。礼くらいさせてくれ」
ハンサムの笑顔は大人の優しさに満ちていて、リースは心の中で思う。
(この人なら、きっとパーティを立派に率いていける)
報酬を分け合い、全員が解散した。
「リース、ちょっと待って」
冷たい声が響く。
振り返ると、体が凍りついた。
眼鏡をクイッと上げる独特の仕草――受付嬢のトップにして事務局長でもあるマーラの視線だ。
その瞬間、リースは思い出した。アッシェンブルクに新しくできた三つのルールの一つを。
【銅ランク未満の冒険者は、モンスターとの戦闘が発生する可能性のある依頼を禁止する】
震える手で錫ランクのプレートに触れる。
まだ新しい仕事を始めたばかりなのに、もうお別れなのか……。
「……はい、マーラさん」
声が震える。
目を逸らそうとするが、マーラはただ静かに息を吐いただけだった。
「今日のモンスターは不可抗力だから、責めない。でも……なぜ戦闘系の依頼を禁止してるのか、分かってるわよね?」
「はい。あの鼠、明らかに異常でした」
マーラは頷き、「うん」と小さく呟く。
冷たかった視線が少し和らいだ。
「最近、この辺りの野生動物やモンスターが消えてるって報告が続いてるの。
でも魔獣の群れが移動してきた形跡はないし、危険な個体も確認できてない。
ただ……一部の小型の生き物が異常に攻撃的になってるのよね。今日の赤牙鼠みたいに」
リースはあの光景を思い出す。
あんな行動、あんな目は……絶対に普通の赤牙鼠じゃない。
「だから改めて言うわね、リース。必要のない戦いは絶対にしないで」
「……はい」
力強く答えると、マーラはようやく満足げに微笑んだ。
彼女はカウンターの男性職員を呼び、銀貨大が五枚乗ったトレイを持ってこさせた。
「これは昨日、ヴァガス様への手紙の料金ね。赤牙鼠の分は後で受け取りに来て」
「ありがとうございます」
リースは丁寧にお辞儀をし、銀貨を受け取ってギルドを後にした。
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夜。
ホテルの扉が開く。
食堂の客はもういなくなり、宿泊客もほとんど部屋に戻っていた。
「いらっしゃいませ~」
ニシャは退屈そうにカウンターに座り、帳簿を眺めている。
誰が来たかも見ずに、喉の奥でうなり声を上げていた。
「ただいまです」
リースの声に、ようやく顔を上げる。
目の前の少年を見て、彼女の瞳に光が戻った。
リースはカウンターまで歩み、袋から銀貨大を取り出して置く。
「前払いでお願いします」
「うわっ! 五枚! これで宿代とご飯代、四〇日分じゃん!!」
ニシャは銀貨を高く掲げ、くるくる回りながら歌うように喜ぶ。
まるで女神の祝福を受けたみたいに。
「よかったら……夕飯、まだもらえますか?」
「もちろんー!!」
元気よく答えると、彼女はお金を鍵付きの箱にしまい、キッチンへ駆け込んでいった。
リースは食堂のテーブルに座り、ほっと息をつく。
(これでしばらくは大丈夫かな……)
そう思いながら、昨日「もう冒険者をやめよう」と決意したことをすっかり忘れていた。
現在、僕は多大なる励ましを必要としています。
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