坂田平八郎は、事務室の椅子にふんぞり返りながら座っていた。そして苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
御年六十になる彼の顔には、何時も以上に皺が出来ている。怒りを含む目で見下ろすのは、その手にある一枚の書類。
お役所言葉で長々と、丁寧ではあるが回りくどく、様々な『約束事』について記されている。破った時のペナルティやその場合の解決方法など、細かな内容もきっちり書かれていた。
一から十まで全部書いてある。契約書としては、誠意あるものと言えるだろう。
だからこそ平八郎にとって忌々しい。
この契約書には、ラヴァーズからの物資提供について書かれているのだから。
「どうしましたか? 不明点、或いは事前協議と異なる点がありましたら、遠慮なく指摘してください」
平八郎の前には、美しい美女がいる。
視界に入るだけで釘付けになりそうなぐらい、美しい女だ。歳は三十ぐらいだろう。
胸も尻も大きく、肉付きの良い身体をしている。日本人離れした色気であり、『保守派』を自称する彼にとって認め難いが、不快感よりも魅力が遥かに上回るのも事実。
この女を傍に置きたい。何も知らなければ、きっと頭を空っぽにして、年甲斐もなくバーにでも誘っただろう。
だがこの女はラヴァーズだ。
反ラヴァーズコミュニティの一員である平八郎にとって、ラヴァーズは侵略者にしか思えない。好意を持つなどあり得ないし、あってはならない事ですらある。
むしろラヴァーズに激しい敵意があるのに、いざ対面すればそこまで憎めなくなってしまう……ラヴァーズの『魅力』がそれほど強烈であると言うべきか。
「(お陰で、交渉の判断が難しい。絆されている気もするが、人間側に有利なのも間違いない)」
今、この事務室で交わされているのは、反ラヴァーズコミュニティの今後……否、存亡すらも左右する契約の締結だ。
具体的には、コミュニティに対する物資援助契約である。
――――反ラヴァーズコミュニティ。
積極的な婚姻と出生により、来訪からたった百年で世界人口の五割をラヴァーズが占めるようになった。ラヴァーズは一見温和で、武力も行使しないが、ここまで積極的な混血は人間という種を滅ぼす侵略行為に他ならない。人間という種を守るため、ラヴァーズとの接触がない隔離されたコミュニティを作る……
それを目的として成立したのが、反ラヴァーズコミュニティである。世界各地でコミュニティは作られ、ついに日本にも誕生する事となった。コミュニティの人口は約二十万人。大都市並みの人数が集まり、社会生活を営む予定である。
予定であるが、しかし事はそう簡単なものではない。
現代人の生活は、世界中と繋がっている事が前提だ。鉱業にしろ、農業にしろ、産業にしろ、それぞれ適した土地で行う。鉱物が埋まっていない場所では採掘なんて出来ないし、採掘による汚染が生じている場所で農業などすべきではない。
このため狭いコミュニティの中だけで、現代的な生活を送るのはほぼ不可能。しかし反ラヴァーズコミュニティは小さなものであり、世界の大部分がラヴァーズに支配されつつある現状を鑑みれば、コミュニティ同士でやり取りをするのも難しい。
故に、外を支配するラヴァーズ側の支援が必要だ。
反ラヴァーズコミュニティなのに、ラヴァーズに頼らなければ存続も出来ない……あまりにも情けない体たらくだが、現実がそうなのだから仕方ない。現実を認められない超過激派コミュニティも幾つかあるが、近代どころか中世レベルの生活で、病気なども蔓延しているという話を聞けば到底受け入れられない状況である。誇りだなんだと言っても、今の生活を捨てられる者など殆どいない。
幸いな事に、ラヴァーズ側は人間側の考えに理解を示した。
人間という『種』の存続を求める考えがある事、自分達には分からないが人間(厳密には反ラヴァーズコミュニティの人員)にはそれが重要である事、性的接触や繁殖だけが交友ではない事……その全てにラヴァーズは理解を示した。「コミュニティ離脱の意思がある者の自由を保証する」など、幾つかの条件は付いたが、物資や資金面での支援を受け入れてくれた。
全てを受け入れはせずとも、距離を置いて共存する。それどころか保証し、時には支援までする。全ての人間にこの考えがあれば、恐らく世界から紛争と差別の何割かはなくなっているだろう。ラヴァーズはそれが出来る種族だった。
「……………ふんっ」
だからこそ平八郎には忌々しい。
それではまるで異星人のラヴァーズが、人間以上の存在であるかのようではないか。
……疑いなくそう思うように、彼は『人間中心主義』の考えを持っていた。万物は人間が利用するためにあるという思考であり、その考えからすれば人間以上の存在など認められない。
だが現に人間という種は衰退し、ラヴァーズは栄えた。そしてラヴァーズの保護なしでは存続すら難しい。
敗北は認めねばならない。苛立ちこそ感じるが、平八郎はそれが出来る人間であり、だからこそこの交渉の場を任された。
「どうされましたか? 何か、契約書に不明点があればお答えしますが」
その堪える感情を、眼前のラヴァーズは機敏に読み取る。
平八郎はため息を吐く。気持ちを切り替えるための行動は一定の効果があり、理性的な反応を取り繕う。
「……いいや、今のところはない」
「そうですか。契約内容に不満などありましたら、都度打ち合わせをして改善していきましょう」
平八郎の答えに、ラヴァーズはにこりと微笑む。一切悪意のない表情から、悪意は何一つ感じられない。
契約書に何一つ問題がない事を確認した後、平八郎はサインを行う。ラヴァーズもサインを行い、双方が合意したと書面によって残された。
これで、いよいよ人間達のコミュニティが成立する。
「確かに、サインを頂きました。契約書通り第一回の物資搬入は来週月曜日になります」
「ああ。よろしく頼む」
「あなた方の発展を心からお祈りします。では」
ラヴァーズは握手を求めてくる。
平八郎も握手を行う。
硬く握り締めた手を、ほぼ同時に手放す。ラヴァーズは最後まで自然な笑みを絶やさず、丁寧に部屋から出ていく。
……一人になった部屋で、ため息を吐く。
しかし平八郎に休む暇はなく、扉を開けて誰かがやってきた。椅子にもたれ掛かっていた平八郎は身体を起こし、来訪者の姿を確認する。
部屋を訪れたのは若い男女。二十代後半ぐらいの、働き盛りの若者だ。
彼等は反ラヴァーズコミュニティに属する住民達。職業は公務員で、今回この契約締結のため平八郎に同行してきた者達である。彼等は隣室で待機し、ラヴァーズ達が帰ってからこちらに戻ってきた。
部屋の外で待機していたのは、ラヴァーズを視認させないため。無論これは意地悪なんかではない。若く、性衝動が旺盛な二十代がラヴァーズの魅力に抗うのは困難だからだ。これは冗談でもなんでもなく、ある程度衝動が収まった老人以外がラヴァーズと接しないのは、反ラヴァーズコミュニティでは常識である。
それぐらいの対策が必要だからこそ、ラヴァーズは瞬く間に人間を『侵食』しているのだ。
「坂田さん、大丈夫でしたか?」
「それはラヴァーズに骨抜きにされてないか、という意味か?」
「あっ!? いえ、そうでは……」
失言だったと思ったのか、若者二人は慌て出す。
しかし当然の懸念だろう。ラヴァーズは人間を魅了する。平八郎も人間である以上、ラヴァーズの魅力にやられてしまう可能性はゼロではない。
実際、『美女』を前にして平八郎はかなり心を揺さぶられている。毅然としたつもりであるが、思考の大部分が容姿に向いていたのは否めない。
事前に決めた内容にそのままサインするというやり方でなければ、どうなっていた事か。
「でも、流石坂田さんですね! ラヴァーズの奴等との交渉を、ちゃんと纏めるなんて」
「ちゃんと、か。あんなのはラヴァーズ側が譲歩してくれたから、どうにかなってるだけだ」
「またまたぁ。謙遜しないでください。みんな、坂田さんがラヴァーズ相手に引かなかったから、この契約を結べたと言ってますよ」
新人達は本心からそう思っているのか。平八郎の事をベタ褒めしてくる。
正直、嬉しくない。むしろ苛立つ。
平八郎の発言は、決して謙遜でもなんでもない。ラヴァーズ側が本気で拒めば、こんな契約は成り立つ要素が何一つないのだ。どれだけ強がったところで、反ラヴァーズコミュニティに出来るのはテロ行為が限度。本気でラヴァーズがコミュニティを潰そうとすれば、どうとでもなる。
「(きっと、ラヴァーズには本当に敵意なんてないのだろう)」
今でも、反ラヴァーズコミュニティの中には「ラヴァーズは侵略宇宙人」といつ言説が根強い。人間を滅ぼそうとしているのだ、という意見もよく聞く。
だがここまでの交渉を通じて、何度もラヴァーズと接した平八郎は理解した。ラヴァーズには敵意など全くない。人間の事を心から愛している。
だからといって盲目的な献身でもない。人間からの要望を聞きつつ、過度な要求はちゃんと断る。自分達と接しないコミュニティを作りたいと言えば、その実現に必要なものに真摯に向き合う。
適度な距離感も維持する。人間を飼い慣らすつもりはなく、あくまで一種族として接する。
種族としては、本当に尊敬出来る精神性の持ち主だ。皮肉ではなく、平八郎はそう思う。
……しかしいくら尊敬出来ても、それで人間が滅びるなら共存は出来ない。
「(むしろ、ここまで相手を尊重出来るのに、何故種の存続に無頓着なんだ?)」
反ラヴァーズコミュニティによる『独立国家』案を出すまで、ラヴァーズ側は人間の保護を全く気にしていなかった。
提案してからは「そういう考えもあるのか」と言った様子で取り組んだので、なんらかの理由で無視していた訳ではなさそうだが……恒星間航行が可能なほど優れた技術を持っているラヴァーズに、種の保全などの概念がないとは考え難い。相手の事を思いやれるのに、独立を脅かす事が頭にない。
どうにもチグハグな印象を受ける。何か、根本的な価値観の違いが、或いは生態的な違いがあるような……
「坂田さん?」
名前を呼ばれ、我に返る。
ラヴァーズの価値観など、どうでも良い。契約は無事に結ばれ、人間の血筋を保護する事は出来た。ラヴァーズの考えがなんであれ、接触を断てば人間の独立を脅かす事はない。
警戒は今後も必要だろう。陰謀論的思考を持つコミュニティ参加者を納得させるためにも、ポーズは欠かせない。それに相手の考えが分からない以上、備えを怠るのは愚策である。
それでも、これで人間の存続は達成したと平八郎は思う。
「いや、なんでもない。帰るとしよう」
無事に役割を果たした事に安堵して、平八郎は緊張感のない笑みを浮かべた。