宰相閣下の「運命の対」を探せと仰せですが、鑑定の水盤に映ったのは私でした ~共鳴した鑑定官は引退の掟なので、全力で隠します~ 作:kuratn
名前というものは、重い。
「お……王命だ」
いわく。独身のまま三十を迎えた宰相カシミール閣下の「
ここは王宮星見局、対鑑定室。私はグレーテ・ラングハイム、二十二歳。この国に十二人しかいない対鑑定官の、末席である。
対――生まれつき結ばれた縁のこと。数千に一組の稀事で、確かめる手立ては星見の水盤しかない。二人の名錘を沈め、水が底から光れば、運命の対。光らなければ「不一致」。ほとんどの検分は沈黙で終わる。沈黙を正確に告げるのが、私の仕事である。
その大役の主任に、私が指名された。理由は二つ、と局長は白い指を折る。検分の成績が局でいちばん正確なこと。家格が低くて、派閥の色がないこと。没落男爵家の娘なら、名簿のどの令嬢が光っても文句が出ない。
人選の理屈が透けて見えるのは、考えものだと思う。透けて見えるくらい真っ当なのが、いっそう性質が悪い。
午後、下命の謁見に呼ばれた。宰相閣下を、私は生まれて初めて視界に入れることになる。
大広間の石の床は、春でも底が冷える。香の煙がまっすぐ立ちのぼり、陛下の声がその煙ごと揺らして落ちてきた。
「見つけよ。星見の水盤に、宰相の対を問う」
御意、と頭を下げる。玉座の脇に、黒に近い髪の人が静かに立っていた。あれが宰相閣下。こちらを見もしない。整った目鼻立ちであるが、手帳を見つめる淡い瞳には鋭い知性が光り、なるほど、遠目にも切れそうな人である。
礼の姿勢のまま、その一瞬――耳の奥で、りん、と細い音が鳴った気がした。卓の水差しが、ちり、と澄んだ音を返す。
緊張である。そういうことにして、頭は下げたままにしておいた。
夕。水盤の間に、独り。
王命・貴人案件の定めで、着任の検分は二段になる。手順一、
「名錘、よし。水温、よし。作法、よし」
声に出して点呼をして、二つの名錘を静かな水底へ落とす。
――――水盤が、光る。
祝祭のように、光った。いや、正確に検分しよう。光は水の底から立ちのぼり、波紋のかたちのまま天井の
私は水盤の縁を両手でつかんだまま、しばらく動けなかった。膝の裏が冷たい。耳の奥で、昼間のあの細い音が、いまさら意味を持って鳴り直している。水面に映る自分の顔が、金色の光の中で、世にも間の抜けた表情をしていた。
共鳴済みの鑑定官は、判明したその日に引退――百年の掟である。
落ち着け。検分をしよう。三日前、前の案件の着任検分で、水は沈黙していた。未共鳴、資格に支障なし。そこからこの三日、私が新しく視界に入れた殿方といえば――謁見の間の、あのお方ただ一人である。星見局は離宮の奥の閑職で、私に陪席の経験はなく、閣下は就任から三年、一度も局へみえたことがない。つまり、間違いの入り込む隙が、ない。
俸給は月に銀貨四十枚。弟の学費に十二枚、実家の母と妹に八枚、残りが下宿と私。頭の中で、弟の月謝の帳面がめくれる。妹の癖字の手紙が浮かぶ。この職は、私の勘定のすべてを支える柱なのである。
それから――星の吉兆とやらに領地を賭けて、何もかも失くした父の背中も浮かんだ。星の巡りがよい年だと言われて、畑ごと賭けたのが父である。翌年、畑は人のものになり、その次の年、父は星になった。葬儀の朝の空は腹立たしいほど晴れていて、私は
徴が、また、うちを壊しに来た。
指先が冷えていく。水盤の水は、春だというのに、真冬の泉の匂いがする。
手順二、単独検分。作法なので、やる。私の名錘だけを、沈める。
光る。
「…………ですよね」
誰もいない水盤の間に、私の声だけが落ちた。
――カタ、と。
回廊の扉が、微かに軋む。振り向いても、誰もいない。古い建物である。
私は水盤に向き直った。深呼吸を、三つ。それから、宣言する。
「…………見なかったことにします」
記録の資格欄。ペン先がインクを吸う音が、やけに大きい。この帳面に、私は五年間、正確なことしか書いてこなかった。沈黙は沈黙と、光は光と、あるがままに。それだけが、徴も星も信じない私の、たったひとつの拠り所だった――のに。
――支障なし。
署名、グレーテ・ラングハイム。
私の帳面に、生まれて初めての嘘が、一行。インクの乾く匂いが、いつもより長く鼻に残った。
その夜、局長から言伝が届く。
明日、閣下がご視察にみえる。